エレクトロニクス産業史
ー 競争と発展 ー
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一章 真空管エレクトロニクス
真空管の誕生
19世紀末のエレクトロニクスをリードしたのは電灯と通信*1である。真空管によりこの2つが合流する。電球の長寿命化のため真空度を高める研究が続けられるが、結局は不成功に終わることになる。この過程でエジソンは後にエジソン効果*2と云われることになる仕組みを使った一種の電球を開発し発電機の制御装置を開発している。この電球に検波作用があることを1904年にイギリスのJohn Fleming*3が発見する。Fleming valve(二極管)の誕生である。その2年後の1906年に米国のLee DeForestがaudion(三極管) *4を発明し真空管エレクトロニクス時代の幕が開かれる。
真空管の生産は発明から10年経った頃でも米国では年2万本程度に過ぎなかった。これが米国の一次大戦参戦とともに急速に拡大し1918年には100万本に達する。US Army Signal Corps(米陸軍通信隊)の野戦用通信機に採用されたことにより真空管は規格化・互換化が進み標準化された信頼性の高い部品となる。真空管はGeneral Electric(GE) *5、DeForest Radio Telephone&Telegraph、Westinghouse(WH)により製造されている。いずれの真空管メーカーも東海岸のマサチューセッツからペンシルバニアに立地する企業である。そして一次大戦から30年頃までに、Hygrade Incandescent Lamp(マサチューセッツ)、Novelty Incandescent Lamp*6 (ペンシルバニア)、Raytheon(マサチューセッツ)、Philco(ペンシルバニア)、DuMont(ニュージャージー)なども真空管事業に参入する。
*1 19世紀は有線通信を中心に通信は大きな発展を遂げる。1832年ドイツで電信機が発明され、1866年には電信用の大西洋横断ケーブルが敷設されている。日本ではデンマークのGreat Northern Telegraphにより1871年に上海-長崎間に海底ケーブルが敷設され日本は世界と電信によって結ばれた。尚、米国での電信サービス開始は1844年、電話サービスの開始が1878年。
*2 1883年にエジソンの発見した電球に金属棒等を追加しそれに電圧をかけるとフィラメントから電子が飛び出す現象。1910年にOwen Richardsonによって原理が解明されエジソン効果(リチャードソン効果とも云われる)と名づけっれた。
尚、電球が発明される以前には放電を利用したアーク灯が使われていたが、眩しすぎることや放電音の煩さ、炭素電極の消耗のため、電極間隔の調整を必要とし普及は限定的であり、且つ屋内証明には不向きだった。また、電球を発明したのはエジソンではなく、イギリスの Joseph Swanが1875年に発明している。エジソンは79年に竹を炭化・結晶化(黒鉛)させたフィラメントを使って電球の長寿命化に成功する。1879年当時、Swanの電球寿命が45時間程度であり且つ発光効率(1.4ルーメン/w)も悪かったのに対し、エジソンの電球は81年時点で寿命600時間、2.25ルーメン/wと一般家庭にも普及できるレベルに達する。尚、現在の一般に普及しているLED電球は発行効率110ルーメン/w、寿命5万時間(明るさが当初の70%まで落ちるまでの時間)である。尚、フィラメント用竹の探索をしていたエジソンの助手に京都の竹を勧めたのは伊藤博文だと云われている。
*3 フレミングの法則で有名なFlemingは英国のEdison系企業Edison&Swan United Electric Light Companyの技術者として一時期勤務、退社し大学に戻った後も技術顧問として在籍。産学協同の走り。
*4 DeForestのaudionは無線機のdetector(検知器)用に開発された。増副作用が発見されるのは12年頃のこと。GEのIrving Langmuirによって三極管が完成をみる。尚、オーストリアのRobert LiebenもDeForestとほぼ同時期に三極管を発明している。
*5 Edison General Electric CompanyとThomson-Houstonが1892年に合併して誕生。送電の直流方式を推進したEdisonは交流方式を推進したWestinghouseに敗れ技術的・経営的に問題を抱え合併を余儀なくされ、実質的オーナーであるJPモルガンに見切りを付けられ社長の座を追われ社名からも名前を消される。
*6 HygradeとNoveltyは1900年代初期に切れた電球の修理再販業として出発し、その後電球製造を経てRCAからライセンスを得て真空管に参入している。この2社は31年に合併しSylvaniaとなる。
国策会社RCAの設立
1901年にGuglielmo Marconi(イタリア人)はカナダのニューファンランド島と米マサチューセッツのCape Codに無線基地を建設し、この年に大陸間の無線通信実験に成功*1する。これに先立ちニューヨークに事務所が置かれるが、これが発展しAmerican Marconiが設立される。同じくカナダにはCanadian Maruconiを設立。1903年頃には通信品質は不安定なものの国際通信事業を開始できる技術レベルに達する*2。
American Marconiは10年に米国最大の無線通信会社United Wireless Telegraph(UWT)を特許侵害で訴え勝訴し、12年にはこれを吸収することによって事業基盤を拡張させた*3。UWTは6年にAmerican Wireless Telephone&TelegraphとAmerican DeForest Wireless Telegraphが合併して誕生した会社である。この時、Lee DeForestはスピンオフ(Fessendenとの特許紛争に負け責任を取って退社)してDeForest Radio Telephone&Telegraphを設立している。
第一次大戦後、無線通信事業の外資系企業による支配は安全保障上から好ましくないとして、1919年10月にAmerican Marconi(イギリス系)の資産を継承してRadio Corporation of America(RCA)が誕生する。これには当時の海軍次官補であったFranklin Roosevertが大きな役割を演じている。更に特許紛争による混乱が産業の発展を損なっていたとの認識により、無線通信関係の特許は国家管理すべきとして、GEやWH、AT&A、United Fruits*4の持つ特許権をRCAが引き継ぐことになる。GEは開発や購入により多くの特許を保有していたものの、audion(1906年)の特許はDeForestから購入したAT&Tが保有し、heterodyne receiver(1906年)関連特許はUnited FruitsとWHの共有であったり、またsuper-heterodyne(1918年)はEdwin Armstrong氏*5の保有であったりと特許関係は複雑であった。主要特許の多くがRCAに集約され、RCAがラジオや真空管メーカーにライセンスを供与することになる。
*1 モールス信号で「S」の文字を繰り返し送信。グレートブリテン島最南西CornwallのPoldhuから発信した信号を対岸のアイルランドのロスレア、アイルランド北西岸のクリフデンで中継しニューファンドランド島のSt.John’sのSignal Hillで受信することに成功。
*2 1903年1月18日、無線によりセオドア・ルーズベルト大統領からイギリス国王エドワード7世へ”In taking advantage of the wonderful triumph of scientific research and ingenuity”と、科学技術の進歩を称賛する言葉で始まる50単語ほどのメッセージを送信。
*3 この時、American MaroconiはUWTから70個所の地上局及び500隻の船舶に装備された無線局などの運営業務を引き継いでいる。
*4 United Fruitsは中米でバナナやコーヒーのプランテーションを経営するとともに通信・運輸関係も支配しており通信とも関係が深かった。RCAのGE(30.1%)、Westinghouse(20.6%)、AT&T(10.3%)に次ぐ株主(4.1%)となった。
*5 特許紛争は収まったわけではなく、その後も激しい紛争が続く。例えば、ArmstrongはRCAへの特許売却で富豪になったものの、長年に渡る数々の特許紛争で財産も使い果たし、RCAとのFMに関する特許紛争中の1954年1月に自殺。裁判は勝訴となる。
ラジオ放送の開始
20年11月2日にWHがPittsburghにKDKAを設立しで放送を開始したのがラジオの本格的な放送の始まりだと言われる*1。この最初の放送は大統領選挙の開票速報でハーディングの勝利を伝えた。WHはラジオ受信機の販売も併せて行い、受信機を一般家庭に販売した最初の企業となっている。WHは翌年9月にWBZをSpringfield(マサチューセッツ州)、10月にWJZをNewark(ニュージャージー州)、11月にKYWをChicagoに設立し放送を開始している。GEもSchenectady(New York州)の工場にWGYを設立し22年2月に放送を開始する。22年末には全米で569局が設立された。運営費は放送局を設立したデパートメント・ストアーなどのスポンサーに依存していた*2。
ラジオは20年には数千台(無線通信機は除く)の普及に過ぎなかったが、24年には普及率は10%(約300万台)を超え、29年の大恐慌直前には40%、30年代末には80%に達し市場はほぼ飽和状態になる。尚、乗用車の販売は20年代半ばには年350万台*3(登録台数17,481千台、1000人当たり150.9台)に達し、29年には400万台を超え、60%近い普及率(登録台数23,121千台、1000人当たり189.9台)に達していた。T型Fordの価格は当時300ドルほどだったのに対し、ラジオの価格は30ドル程度であり、現代の感覚からみるとラジオは相対的に高かった。放送局の送信出力の低さや3球程度のラジオの感度では聴取可能地域は限られていたこともあり、ラジオの普及はそれほどスムーズではなかった。
ラジオの本格放送が開始されると、RCAはGEとWH製のラジオ受信機の販売を行う。そして26年にはNational Broadcasting Company(NBC)*5をGE、WHと合併で設立する。GE、WHはそれぞれ独自に放送業に進出していたがNBCに事業が集約され、これらをベースにして全米48局がネットワーク化されナショナルネットワークが誕生する。
*1 1906年12月に米国のReginald Fessenden(カナダ人)がマサチューセッツ州のBrant Rockで無線による音声放送(実験)を行う。これが娯楽および音楽を一般向けに流した世界初のラジオ放送と言われる。但し、一般家庭には受信機は無かったのでほとんど聴取はされなかったかも。1909年1月にはSan JoseにCharles Herrold(Stanford大学でのフーバー大統領のクラスメイト)等が自作の15Wのspark transmitterを使って毎週水曜日午後9時より30分間のラジオの定期放送を開始。20kmほど離れた所でも聴取できたという。改良が重ねられ4年ほど後には5,000km離れたU.S. Navy wireless stationでも聴取できたと言われる。一次大戦中に民間のラジオ放送局に放送禁止命令が出され、18年7月31日に放送停止。
*2 WHはラジオを売った収益でラジオ放送局を運営した。局名にToolが付くものも有り有料放送もあった。コマーシャルに関しては22年8月にAT&T Toll Broadcastingが10分50ドルで不動産会社であるQueensboro Corporationの the Hawthorne Court Apartments in Jackson Heights(22年に建てられた14棟のビルからなるアパートメント群で現存している)販売のためのコマーシャルを流したのが最初と言われる。本格的にコマーシャルに依存するようになるのは20年代末期になってからであった。
*3 米国の25年の乗用車生産(工場出荷)台数は3,735千台。約20万台は輸出され国内販売台数は約350万台。29年の生産は4,455千台。
*4 20年代を通して低価格ラジオのリーダーだったCrosley(21年Ohio州Cincinnatiで創業)の場合、$7の低価格の鉱石ラジオを発売、24年発売の二極管式真空管ラジオ(再生検波1管+増幅1管)は$18.5、25年発売の一極管式(再生検波のみ)は$9.75だった。三極管式(第一段に再生検波1管、二段に増幅2管)が標準的で、1球、2球タイプは廉価版。
*5 NBCへの出資比率はRCA50%、GE30%、WH20%。
(独禁政策)
そして29年にRCAはGEとWHのラジオや真空管の開発部門を吸収、同時にVictorを154百万ドルで買収しエレクトロニクスのリーディングカンパニーとしてのRCAが誕生する。大株主であるGE、WHと密接な関係を続けてきたが、独禁法問題が生じ32年にGEとWHはRCAから手を引くことになる。RCAは設立当初は無線通信の国策会社としてのスタートだったが、ラジオの誕生により事業内容は大きく変化していった。
29年の大恐慌の発生原因として独占化や寡占化があったとして、独禁政策が積極的に進められていった。特許権は独占的な権利であり、市場独占の目的で行使することは悪用(Patent misuse)と見做され、独禁法訴訟に敗れると特許を無償で公開させられたりした。この時代に米国はプロパテントからアンチパテントへと大きく切り替わっていく。そして約50年後に登場するレーガン政権が国際競争力復活などの観点より知的財産権を保護強化する政策に転換するまでアンチパテント政策は続くことになる。
(ラジオ受信機メーカーの濫立)
19世紀末期には既に有線の電信を使ったアマチュア通信が行われていたと言われる。そして、1905年頃にはアマチュア向けの無線システムが通信販売などで販売され普及が進む。12年の電波法の施行で使用電波の制約や免許制によりアマチュア無線は激減し、更に一次大戦中に無線通信は国防上の理由から国家の統制下にあり無線機の民間保有は禁止されるが、大戦後の19年10月に解禁され、また帰還兵により無線機が持ち帰られたことなどもあり、無線機は大戦直後には20万台近くが民間にも普及していたようである。ラジオの登場に先立ち無線通信技術はマニアを中心に一時中断があったものの一般人にもそれなりに取得されていたようである
大戦で無線機に接した帰還兵の中にZenithを創業するRalph MathewsとKarl Hasselがいた。Mathewsの自宅のキッチンテーブルで無線機器の組み立てを始める。Chicagoに振興のラジオメーカーが集積する先駆けとなる。Closleyやpackard Bell(Los Angeles)などの新興企業や真空管メーカーのGE、WH、Sylvania、更には重電のEmerson(St.Louis)なども一斉に参入する。そしてラジオ放送の開始とともに数百のラジオメーカーが濫立する。その後も、Raytheon(Massachusetts州)、Motorola(Chicago)などの参入は続く。ラジオ製造は手工業的な色彩が強く、キャビネットは木製で量産性が低く、部品取り付けや配線はほとんど人手頼りであり、キーパーツの真空管はGE/RCA、SylvaniaやRaytheonのものであり、ラジオメーカーが差別化する余地は限られ、またスケールメリットもそれほどはなく新規参入は容易であった。しかし新興企業の生き残りは難しく、多くは競争激化、特許紛争、大恐慌を経て淘汰されていく。
Zenithの場合は24年にポータブル化、26年には家庭用交流電源駆動の商品化に先鞭をつける。Zenithの生産台数は29年の大恐慌前には週2,000台超のレベルだったものが、大恐慌後には週300台にまで低下した。幸い受注生産(BTO)を行っており完成品在庫を持たなかったため、いち早く低価格ラジオの生産に切り替え販売を回復させていく。後のパソコンメーカーと比べると、Zenithの設立の経緯はAppleであり、巨大なRCA/GE/WH連合に対して積極的に新技術を取り込む姿はIBMに挑むCompaqであり、BTOによる需要変化や価格下落に迅速に対応する姿はDellといったところである。新規参入は容易であったとはいえ生き残り発展するためにはいつの時代であれ経営力・技術力を要する。
Raytheonの場合は22年にMIT出身(且つタフツ大学時代のルームメイト)のLaurence MarshallとVannevar Bushによって家庭用電気冷蔵庫*1の製造開発を設立されたがうまく行かず、24年にS-tube*2の開発者のCharles Smith を加えラジオ用真空管に事業変更*3する。そして25年に家庭用交流電源で駆動する真空管を発売し、バッテリー駆動だったラジオの家庭用電源化をはかりラジオ用真空管ではRCAを凌ぐほどまでになる。米国の一般家庭の電化は20年代に急速に進み、21年の16%から29年には70%へと高まっていた。
Motorolaの場合、設立は28年と後発だが旧式のラジオを家庭用電源と繋ぐためのアダプターで参入し、その後30年代に入りカーラジオで成功を収める。その後、30年代に入りカーラジオで成功を修める。30年に発売されたカーラジオの価格は120ドルとかなり高かった。キャデラックなどの高級車(3,000~10,000ドル)はともかくとして、シボレー等の大衆車(500~700ドル)に普及させるには価格的に高過ぎた。
*1 家庭用電気冷蔵庫の開発はGeneral Motors及び傘下のFrigidaire、Electrolux(スウェーデン)やGEが主導し20年代に大きく進化する。23年Frigidaireが世界初の一体型を発売。25年Electroluxが静音の吸収式冷蔵庫(冷媒にアンモニアと水)、27年 GEがベストセラー機となったMonitor-Top Refrigeratorを発売 (発売当初$525、直に$200)。また28年にはGeneral MotorsのThomas Midgleyによってフロンガスが開発され30年代半ばまでにフロンを使った冷蔵庫がFrigidaireやその競合から800万台売られている。30年の電気冷蔵庫普及率は8%、40年には44%に達する。なお、Thomas Midgleyガソリンにテトラエチル鉛を添加することでエンジンの「ノッキング」の問題を解決したことでも知られる。フロンと有鉛ガソリンと言う環境破壊物質の発明は“20世紀で最も致命的な物質の2つを発明した男”として知られる。*2 S-tubeはヘリウムガスを充填した交流を直流に変換する半波整流器(Helium-filled half-wave rectifier)。
*3 真空管はRaytheonの商品名で販売された。American Appliance Companyとして設立されたが、25年に商品名であるRaytheonに社名を変更。
黎明期の日本のエレクトロニクス産業
1915年にGEの真空管の基本特許(14年に開発されたLangmuirの特許)が日本で成立しその行使権を東京電気(現東芝)が獲得する。東京電気はもっぱらGE、後にそれを引き継いだRCA社の真空管の国産化に努め、19年には送受信管の製造を始めた。日本無線なども早期(18年)に真空管製造に参入するものの特許の関係から送信管等の一部に限られたものだった。その他、東京電気からサブライセンスを受けたエレバムやベストなどの中小のメーカーもあった。20年代半ばには十数社が真空管製造を行っているが、戦前は日本の多くのラジオには東京電気(ブランド名マツダ)の真空管が使われラジオ用に関しては高いシェアを保持していた。
35年に特許切れと共に大手企業が参入する。日本電気はフランスのLaboratoire Central de Télécommunications(LCT)*2からの技術導入により33年から送信管の製造を開始し、GE特許の切れる35年から真空管製造を本格化する。日立、川西機械*3もこの時期に参入を果たしている。ラジオ用で圧倒的なシェアを持つ東京電気に続き、日本無線、日本電気、日立、川西機械が二番手グループを形成し、この5社が戦前には軍用の送信管五社委員会のメンバーとして真空管製造の中心的な役割を果たし、戦後は日電、日立、神戸工業が電電公社用業務管3社のメンバーとしていわゆる電電ファミリーの中核を形成した。そのほか戦前には松下、三菱なども参入を果たしている。これらはいずれも半導体企業として後に中心的な役割を担うことになる。
日本でのラジオ放送は25年3月1日の東京放送局による芝浦の東京高等工芸学校の一室からの試験放送(3月22日に仮施設からの正式放送としての仮放送)から始まる*5。そして25年7月12日の愛宕山からの本放送開始時点では契約台数は3,500台*4であった。受信料は月1円とけっして安くはなかった。26年8月には東京・大阪(25年6月1日仮放送開始)・名古屋(25年6月23日試験放送開始)の三放送局が合同し日本放送協会が設立され、28年には札幌(6月5日)、仙台(6月16日)、広島(7月6日)、熊本局(6月16日)が開局し全国に電波が行き渡り始める*6。28年11月5日には全国中継放送(札幌-仙台間は無線中継、仙台-東京-名古屋-大阪-広島-熊本間は中継線)が開始される。
ラジオ受信機では25年に東京電気からサイモホン、芝浦製作所からジェノラのブランドで真空管ラジオが発売されている*7。東京電気は弱電、芝浦製作所は重電である。ともに三井系でGEと資本・技術提携関係にあった。39年には両社は合併し東京芝浦電気となる。20年代末までラジオは直流電流式のバッテリー駆動であり、真空管ラジオは余り普及はしていなかった。交流式が普及し出すのは米国に2年ほど遅れて28年頃からとなる。東京電気から交流用の検波管や出力管が販売されるのは28年である。所得水準が低い(世帯収入は月30円)こともあり価格が高い真空管ラジオの普及は初期的には限られたものであった。
一方、方鉛鉱や黄鉄鉱を検波素子に使う鉱石ラジオは米国ではそれほど普及しなかったのに対し、日本では20年代末でも過半を占めていた。鉱石ラジオでは聴取可能地域は放送局に近いところに限られる。
*1 日本無線はコヒラ検波器を使った三六式無線通信機を開発(製造は安中電機製作所:現アンリツ)した元海軍技術者らにより15年に設立される。日露戦争で「敵艦見ゆ」の電信はこのコヒラ検波器が使われた。終戦後、日清紡の支援を受ける。尚、日本無線の半導体子会社はRaytheonとの合弁として設立された新日本無線(現:日清紡マイクロデバイス)。
*2 Laboratoire Central de Télécommunications(LCT)は1916年に設立された国立の通信中央研究所。本来は通信規格の策定などが業務の中心であったようだが、Ⅼaboratoire de Télégraphie Militaire(軍事通信研究所)なども吸収し通信用真空管などの研究も行っていたほか、LCTブランドで真空管の販売も行っていた。日本電気は32年に技術者1名(小林正次、61年専務、63年退社し70年まで慶応大学教授、58年には日本学術会議会員に選出されている)を1年間派遣し真空管の製造技術を習得させ翌33年より真空管製造を開始している。
*3 川西機械は1920年に飛行機メーカーとして川西財閥によって設立される。28年に飛行機部門は川西航空機(現:新明和工業)として独立。戦後、神戸工業と改称。68年に富士通の傘下に入り半導体部門は富士通本体が吸収、ラジオ部門などは独立し富士通テンとなる。
*4 1925年末のラジオ聴取契約者数は東京放送局131,373件、大阪47,942件、名古屋14,290件の合計193,605件。32年2月には聴取契約が100万件を突破し、35年4月には200万件、37年5月には300万件、39年1月には400万件、40年5月には500万件と着実に増加を続ける。尚、ラジオの生産台数(物品税課税ベース)は35年4月から40年3月の5年間で2,332,832台であり、輸入数は特には目立ったものではなく、ほぼこの間の契約者数の増加300万件は生産数233万台をかなり上回っている。物品税を逃れている自作機などが終戦直後と同様多かったのかも。
*5 試験的な放送としては、22年頃から既に始まっており、東京朝日新聞や東京日日新聞(現:毎日新聞)、報知新聞が担っていた。また新聞社による独自のラジオ放送も行われ、例えば24年には、大阪朝日新聞による皇太子裕仁親王(昭和天皇)御成婚奉祝式典(1月26日)や大阪毎日新聞による第15回衆議院議員総選挙(5月10日)開票の放送がなされている。言論統制の為か、1923年12月、逓信省は放送用私設無線電話規則を制定し公益法人のみに放送事業を許可する方針とし、新聞社等の民間は排除。
*6 当時の無電源の鉱石ラジオや単球式真空管ラジオでは、例えば熊本放送局の電波を福岡県で受信するには無理があった。30年12月6日には九州で2番目の放送局として福岡放送局が放送開始、31年12月21日には3番目として小倉放送局が放送開始する。福岡県の契約者数は28年に1,500件、31年には12,000件。放送局の設置は植民地も含め続き、熊本放送局(那覇から790km)管轄下の沖縄では距離的に近く31年開局の台北放送局(那覇から630m)からの放送も聴取されていた。42年3月19日に沖縄放送局が開局する。
*7 その他に放送開始前後に、真空管ラジオでは、安中電機製作所(単球式価格不明:形式認定取得日24/12/20)、大阪電気製作所(単球式価格60円:形式認定取得日24/12/20)、日本無線(単球式価格55円:形式認定取得日25/3/4)などが販売されている。東京電気のサイモホンは2球式で価格90円、形式認定取得日25/2/7。少なくとも1球式の場合は、ヘッドホン(両耳型レシーバー)ないしは、安価な国産品が普及するまでは海外製の高価なホーンスピーカーなどが必要であったし、電波の弱い地域での聴取のためには増幅用の拡張機(2球式、ほとんどラジオと同じ形状で並べて使う)も使われることも有った。
(鉱石ラジオから真空管ラジオへ)
早川金属鉱業研究所(現:シャープ)から25年2月に鉱石ラジオが3円50銭で販売され好評を得る*2。翌26年には中国を始めアジア各国に輸出もされている。これにより24年に3人の従業員で再出発*1したシャープは再建に成功する。シャープの起源は12年に9年間の丁稚奉公を終えた早川徳治が19歳で東京本所(墨田区)に金属加工工場を開いた時に始まる。15年にシャープペンシル(早川式繰出鉛筆)を発明(改良)する。当初は全く売れなかったものの、欧米で売れるようになり、海外での高い評価が伝わって国内でも注文が殺到するようになる。23年の関東大震災で工場が全焼、妻子も亡くし、債務返済のため大阪の債権者に焼け残った機械設備および特許の無償での使用権を引き渡しての無からの再出発であった*3。
シャープは28年には真空管式(交流)に参入している。シャープのラジオの価格は30年には65円、そして32年にはベストセラーとなった真空管4本使用の冨士豪33型を35円。以後、36年には27円、37年には24円。これらシャープ製の価格が売れ筋の価格だった。
真空管ラジオの価格低下は鉱石ラジオからの需要のシフトをもたらすが、シャープの32年の35円という価格は、機器の価格差は大きくとも、月1円と言う受信料を考慮するなら総費用差は鉱石ラジオに比べたいして大きくはなく、鉱石から真空管への需要を大きくシフトさせる転機となる価格水準であった。
松下が真空管ラジオに参入したのは31年、後発としては八欧(現:富士通ゼネラル)が38年、帝国電波(現:クラリオン)が40年に参入しているが、30年代前半を中心に180社ほどの真空管ラジオメーカーが誕生している。主要なメーカーとしては、関東の山中電気*4(ブランド名テレビアン)、七欧通信機*5(ナナオラ)、関西の松下電器(ナショナル)、早川金属工業(シャープ)があり、そのほか主だったところとして、財閥系の東芝、三菱、日立、日本電気、関東では安立電気(現:アンリツ)、日本無線、八欧、帝国電波、日本精器(50年頃倒産)、関西では戸根(50年頃倒産)、双葉(50年頃倒産)、大阪無線(ダイヘンの子会社、50年代に清算)などがあった*6。
真空管ラジオにより日本の電子部品も高度化していく。鉱石ラジオ関連部品は粗悪部品が多く、コンデンサーなどは性能・品質の劣った紙コンデンサー*7がもっぱら使われていたが、30年代に入りこれらの部品も真空管式への需要シフトに対応し、優れた外国製部品を真似ることにより高度化していく。それなりの技術力を備えた新興の部品メーカーが誕生するのはこの頃からであった。日本ケミコン(31年)やエルナー(34年)などはこの時代に電解コンデンサーの事業化のために設立されている。
*1 早川徳次郎が早川金属工業研究所を設立して間もなく、それを聞きつけた慶応大学教授の岡田満から歯科治療に使われるスペップリングチューブ(以前岡田に納入したことがあった)の発注をを受けるとともに、借用書無しで(借用書を受け取ろうとせず)設備費用として1,000円の融資を受ける。初年度の売上は金属文具とともにスペップリングチューブが大きな売上となり、事業が軌道に乗ることになる。
*2 シャープの他にもラジオ放送の開始とともに鉱石ラジオの製造に参入した企業がかなりあった。25年設立の池田無線(昭和無線→SMK)も鉱石ラジオのために創業され25年4月に販売を始める。昭和無線(29年1月社名改称)は32年頃に真空管ラジオに参入。
*3 シャープはラジオ事業が順調に立ち上がると、片付いたはずの債務問題がぶり返され、借金返済にしばらく追われることになる。
*4 山中電気(山中製作所)は21年創立。1925年「ダイヤモンド」ブランドで直流電源のラジオやスピーカ(ホーン型)を販売している。28年にはエリミネータラジオ(交流電源)を販売するほか東京電気のラジオ受信機サイモホンの下請けとして部品加工などを行う。電力会社などでラジオの販売をするとこも有ったが、そうしたところにOEM販売をおこなっている。ラジオ組み立てに必要な部品はほとんど内製しており内製率が高く、それを生かした経営を行っている。戦後の混乱期、ドッジラインによる不況を乗り切ったものの、TVで躓き1954年に発売するものの翌年には撤退,1956年に東芝の傘下に入った。
*5七欧通信機は24年にラジオ用のラッパ型などのスピーカー製造で創業。当時のラジオはまだスピーカー外付けが主流であった。ラジオ部品や蓄音機部品を手広く扱っていた。1931年にはマグネティックスピーカ内蔵の3球エリミネータ受信機ナナオラ100型を発売しラジオに進出。1950年代から始まったTV競争でも1953年TVを売り出し初期的には順調に立ち上がったもののシェアは3%程度で低迷してしまい苦境に陥り1957年に東芝傘下に入った。高価なTVは一般大衆への販売はローン販売が主となり,ラジオとは異なる販売網の確立が必要だった。
販売網の整備には莫大な資金を要し,それができるのは大資本の総合家電メーカーだけだった。三洋電機が53年に従来の半額の低価格の洗濯機(28,500円)の販売を始めるが、その拡販のために特約契約で販売店の囲い込みを図っていた。そうした動きの後、57年に松下電器が「ナショナルショップ」と「ナショナル店会」を発足させ系列店政策を開始する。松下は当時主流であった各メー カーの併売店を自社の専売店にするために自社メーカーの取り扱い比率に応じて与えるいわゆるリベートなどで囲い込みを進め傘下におさめた。それに続き日立は日立チェーンストール、東芝はマツダリンクストア、三菱はダイヤモンドショップ、早川がフレンドショップなどの名称で電気店の囲い込みが一斉に始まった。
*6 44年時点で、750万台のラジオが設置されていたが、終戦時には160 万台が戦災で破損、190万台が部品交換等の修理が必要な状態であり、100 万台が老朽化といった理由で使用不能で、使用可能数は300万台に過ぎなかったといわれる。
ドッジ(ライン)不況(恐慌と言うべき:49~50年)とラジオが戦前の水準まで普及が回復してきたこともあって、49年に200社あったラジオメーカー数は, 翌年には数分の1に激減し多くの準大手・中堅メーカーが破綻する。生産台数は48年の807,398台から50年には287,410台にまで減少する。
部品を買ってラジオを組立てると、ラジオにかかる高率の物品税を払わなくてすみ、直接的な材料費のみなら半額に近い値段で制作できるので、街でのラジオ組立(および物品税を逃れた闇業者)が盛んであり、50年にはセットメーカーの生産台数の約3倍のラジオが中古品の再生販売等も含め街で組立販売されたと、セットメーカーの生産台数や真空管の生産本数、聴取契約加入数などとの比較から推定されている。
一方、そうした自作などが多くなるのと、それとともに四畳半工場的な業者や修理業者などから部品業に参入し、本格的な部品業者へと成長していくものが現れてくる。トリオ、アルプス、菊水、ミツミ、ロームなど戦後派の部品メーカーにはその後の日本の電子工業の中で重要な地位を占める企業に成長したものも多い。一時的にせよ、戦後の混乱期に出現した非正規の市場の拡大が新規参入を促進したと言える。
52年(暦年)にはラジオの生産台数は939,307台に達し、戦前のピークである41年(年度)の917,011台を超え、税率が5%に下がった翌53年には1,407,112台に達する。
尚、ラジオの物品税(工場出荷時)は38年10%、41年20%、44年60%。1947年から49年までは30%、以降引き下げられていき53年には5%。
*7 紙コンデンサーは誘電体として紙(油紙)を使用。現在でも紙はスペーサとしては使われることが有る。
第二章 トランジスタの誕生
Bell研
1904年にFlemingにより二極管が発明されるが、同じ年にインドのJagadish Boseにより鉱石検波器も発明される。この鉱石検波器はやがて真空管にとって代わられていく。天然鉱石と接触した金属面の電導度に非オーム性があることは既に1835年に発見されている。しかし検波作用が起こることは分かるとしても作用が複雑なため理論的な解明は遅々として進まなかった。例えばイギリスのHarold Wilsonが1932年にトンネル理論を出すが、38年のSchottkyの半導体と金属間に形成される空乏層(Schottky barrier)の概念などにより否定されかけてしまいそうになったりする。そしてこのトンネル理論がある特殊な状態において成り立つことを57年に江崎玲於奈が立証することになる。紆余曲折を経ながらも、20年代半ば以降、原子の中の電子の状態を記述できる学問として完成をみた量子力学は、それ以降半導体などに応用され、現象の理論的解明を助けることになる。
真空管の陰に隠れ半導体の研究はあまり産業界からは注目されることは無かったが、30年代半ばにレーダーの開発が盛んになってくると真空管では高周波特性が悪く、再び鉱石検波器が見直されることになる。またリレー式電話交換機の接点不良にT&Tは悩まされていた。こうした中でBell研の研究部長Director of Research)であったMervin Kellyが半導体に着目することになる。Bell研は天然鉱石に頼る偶発性の高い手法を改め、特性を握る鍵は材料(結晶)にあるとして35年に材料研究チームを発足させる。William Shockleyが入所したのは36年9月であった。
47年12月にBell研のWalter Brattain*2とJohn Bardeen*3によって点接触型トランジスタが発明*4される。入所以来*5、個体増幅器の研究に賭けてきたShockleyは先を越されてしまう。Shockleyの真の貢献はこの発明直後から始まる。翌48年1月にShockleyは接合型トランジスタを考案する。点接触型に比べ更に進んだ構造であったが、その制作を可能とするゲルマニウム結晶製作技術は未だ完成されてなかった。また49年7月発行のBell System Technical Journalに掲載された論文でトランジスタの動作原理を解析するとともに更に革新的なトランジスタの実現を予見することになる。そして50年にGordon Tealによりチョクラルスキー法*6による高純度の単結晶製造技術が開発され、この技術を基に51年に二重ドーピング法による接合型(成長接合型)TRが開発され、Shockleyの予見通りの増副作用が確認される。接合型トランジスタは増副作用がGe結晶の内部でおこなわれるため製品の特性のバラツキが少なく信頼性も高く量産性に優れているため注目されることになる。この開発こそがShockleyをノーベル賞受賞へと導くことになった。
Bell研はその後も、選択拡散法やエピタキシャル成長法などを開発し、今日の半導体製造工程の原型となる手法である、拡散/酸化、露光/エッチング、膜成長の技術を確立させ草創期の半導体技術をリードしていく。
TRは広範な専門分野にわたる横断的な研究組織、充実した実験設備、明確な開発目標を与えたAT&Tなどのニーズ、そしてそれらの統合のなかで誕生する。
AT&T(Bell研はAT&Tの研究部門)は反トラスト法訴訟(49年より、Western Electronicsの分離を含む)を意識したのか、特許開放政策を採る。
また内製(製造はWestern Electronics)を原則とし積極的には外販は行わなかったため市場でのプレゼンスを得ることは少なかった*7。また研究者の社外への流失を制限しようとはしなかったためBell研出身の研究者たちが半導体産業の草創期に大きな役割を果たすことになる。
*1 鉱石ラジオの場合、探り式が主流であった。金属針(cat whisper)などで鉱石表面の感度の良いポイントを探る方式であった。受信周波数や鉱石の結晶(多結晶)状態等により同じ鉱石の表面でも受信特性にバラツキが多かったのに加え、結晶表面や金属表面が酸化などにより劣化するため、その酸化膜などを引っ掻いて擦り取る必要もあった。なお、シャープは固定式。
*2 Brattainの弟に赤外線吸収スペクトルの研究および応用により大きな業績をなしたRobert Brattainがいる。弟のRobertとBardeenはプリンストン大学時代の友人であり、弟を通し、BrattainとBardeenは旧知の仲でもあり二人は極めて仲が良かった。一方、二人とShockleyの関係はShockleyの性格のためもあって極めて嫌悪であった。
*3 Bardeenは45年末にBell研入所。51年にIllinois大学へ。56年にShockley、Brattainとともにトランジスタの発明によりノーベル物理学賞を受賞し、更に72年にも超電導の研究で2度目の受賞をする。ノーベル物理学賞を2度受賞した唯一の人物。
*4 Bell研のトランジスタ特許は48年6月17日に出願されるが、その1か月半後の48年8月13日にはWHのフランス子会社のHerbert MatareとHeinrich Welker(Ge単結晶製作)によって同様の特許が出願されている。これは大戦中、独Telefunken社のポーランドWrocławにある研究所(ベルリンから疎開)在勤中にHerbert Matareが発見した現象を基にしたものであった。作戦中・戦後の混乱により研究が中断(研究再開は2人とも47年初めにWHに入社後)したことにより、また論文等の発表の機会が無かったことによりTR開発の栄誉はBell研のBardeenらに帰すことになる。試作されたTRはミュンヘンのDeutsches Museumに展示されている。尚、日本でもNHK技術研究所の内田秀男によって同様の増副作用がBell研に先立って(ないしはほぼ同時期に)確認されている。
*5 Shockleyは二次大戦中の42年5月から終戦時までの3年間ほどBell研を離れ、海軍のレーダー開発など委託研究に従事。
*6 チョクラルスキー法はポーランド出身のJan CzochralskiがドイツAEG(ドイツエジソンとして創業、GEと関係が深い)在職中の1916年に開発した高純度単結晶製造法。
*7 Western Electronicsは48年に点接触型TRの製造(試作)を始め52年には二重ドーピング法により製造されたGe-TRを発売し技術的・製造的に業界をリードしていたが外販がほとんどなく市場でのプレゼンスは低い。
尚、48年にはRaytheonが点接触型TRのCK703を発売するが千個ほどしか売れていなかった。51年の改良版のCK716でも精々1万個程度。事業として立ち上がるのは52年に発売された合金型のCK718から。補聴器に採用され100万個ほど売られている。
ライセンス供与
Bell研は特許開放政策の一環として、また情報公開の要請が強かったこともありシンポジウムを開催*1している。51年9月には軍関係者を対象とし、続いて大学や一般企業を対象に、翌52年4月には25社*2のライセンス契約企業を含む40社を対象に開催された。
最初にトランジスタ(以下TR)に着目したのはU.S.Armynal Corpsであった。TRが真空管に比べ小型・軽量で低消費電力であることを高く評価し性能向上の研究のため52年10月にTransister Programを立案し、GE、Sylvania、Raytheonなど主要な真空管メーカーと契約を結ぶ。
*1 シンポジウムは51年9月17日から5日間の開催で、軍人や軍所属の研究者121人、大学関係41人、産業界139人の計301人が参加。深刻な東西冷戦時代であったこともあり、シンポジウムに先立ち軍のチェックを受け、重要部分は軍事機密に関わるとしてGordon Tealは講演者リストから外された。また参加者は軍の審査(military clearance)を受けている。
また当初、軍に比べると産業界はトランジスタに対してそれほど大きな期待は持ってはいなかったようである。
52年4月のライセンス契約企業に対する8日間にわたるシンポジウムでは具体的な製造技術の伝授が中心であった。国内26社、NATO加盟国の14社の計40社が参加。但し、“In crystal growing, for example, Gordon Teal wrote papers on crystal growing, but never disclosed a lot of the details of the process to get the crystals to grow.”と言われる程度の開示しかなされてはいなかった。
尚、ソニーが正式にライセンス契約を締結するのは54年であり、シンポジウムには参加していない。
*2 52年に34社が契約を結ぶことになる。内、22社が実際にTRの製造を行うが、60年代に残っているのは12社で、10社は撤退している。尚、今日まで残っているのはTIのみかも。分社化して独立している企業のSiemensのInfineonとPhilipsのNXP も加えると3社のoriginal licenseeが現在も半導体メーカーとして70年に渡り脈絡を保っている。
尚、ライセンス料は契約一時金$25,000に加え、ランニングロイヤリティが当初はTR売上の5%、但し53年に2%び引き下げられた。
真空管系半導体メーカーの衰退
TRが製品化されて10年ほどの間に大きな変化がある。技術的には点接触型*1から合金型やメサ型、選択拡散型(二重ドーピング)Si-TR*2、Planer型Si-TRへの革新がある。
点接触型TRはWEのAllentown(ペンシルバニア州)で50年代前半に年数万個生産されていた。これらは爆撃機搭載のコンピュータTRADIC(TRansistorized Airborne DIgital Computer)*3やWEの交換機に搭載された。またヨーロッパや日本、ソ連でも製造されていた。点接触型TRは50年代初期には周波数特性が合金型や接合型より優れていたが、信頼性、とりわけ衝撃には弱かったこともあり、直にRCAの開発した合金型が主流となり、50年代半ばには姿を消していく。点接触型TRは米国を中心に生涯で.1百万個(多くとも3百万個)ほど生産された程度である。
51年にRCAのJacques PankoveやGEのJohn Saby等によってほぼ同時期に合金(接続)型が開発される。RCAは積極的に合金型の技術を提携関係にあった真空管メーカーにライセンスする*4。RCAは53年5月より合金型TRの商業生産を開始し(この時、点接触型も同時に開始)、53年に100万個、55年には350万個、57年には2,900万個とピークに達したが、その後は合金型TRの最大のユースであったTRラジオが日本勢に席巻されたことにより市場を失い生産は急速に低下する。
合金型TRは需要面では当初は周波数特性(遮断周波数)1MHz程度が限度であり専ら小型軽量というメリットが注目され補聴器へ応用された。この時期にはRCAのほかRatheonやSylvaniaなども活躍している。50年代半ばには100MHzを超え、2バンドラジオのオールTR化を可能としTRラジオへ用途を広げ、60年頃には数百MHzに達し現在とそれほどの差異の無いレベルにまで到達している。かなり広範な真空管のユースを代替することが可能となる。
これに対しBell研は54年に拡散法を開発(拡散接合型TR)し、更に同年にはメサ型、57年には選択拡散法を開発する。また54年にはGeに比べ高周波特性に劣るものの温度特性に優れるSiTRがBell研のMorris Tanenbaumと既にBell研去りTIに移っていたGordon Tealにより開発されている。そして、Bell研のMohamed M. Atalla*4が表面パッシベーション技術や熱酸化技術を開発し、それを応用してFairchild社のJean Hoerni*5によって58年にPlanar型SiTRが開発されTRは完成に至り、更に同じくFarechildのRobert NoyceによりPlanar型SiTR技術をベースにして 59年のMonolithic Integrated Circuit(IC)へと発展していくことになる。
需要面では補聴器・ラジオという限られた民生用からSi-TRでは軍需に大きく依存するようになり、これは60年代のBIP-ICにも引き継がれていく。
*1 点接触型TRは日本でも作られており、56年に開発された日本最初のTR式コンピュータである電総研(電子技術総合研究所)のMarkⅢには点接触型TRのソニー製T1698が130個搭載された。価格は1個3,971円。および1800個の単価500円の点接触型Ge-DIを使用。点接触型は接合型に比し速度は早いものの信頼性が低く、そのためMarkⅢは故障が多かった。ソニーは当時は生産数も少なく安定した品質のものを製造できていなかったと思われる。
尚、MarkⅢはGe-Diで論理ゲートを構成しTRは増幅用に使うDiode-Transistor-Logicを採用。
*2 熱酸化によるシリコン酸化膜を用いた選択拡散型TRの製造にはマスク(乾板)を使って露光、エッチングするという現在の半導体製造の原型ができている。
*3 51年から開発が始まり54年1月に完成するBell研が開発した世界初のTRコンピュータである空軍向けのTRADIC Phase One Computerには684個のBell Labs開発の Type 1734 Type A cartridge transistorsと、10,358個の点接触型DIが搭載されていた。
*4 Atallaはエジプト出身。Atallaの開発したシリコン酸化膜を用いて57年には同じBell研のCarl FroschとLincoln Derickにより選択拡散型Si-TRが開発され、これがHoerniのPlaner型TR、更にはNoyceのMonolithic Integrated Circuitへと発展する。またAtallaは59年には韓国出身のDawon Kahng(不揮発性メモリーの基礎技術であるFloating gateの開発者でもある)とともにMOS-FETを開発しMOS型半導体への道も開くなど、AtallaはKahugとともに半導体の進歩にとって極めて重要な役割を果たす。
*5 Jean Hoerniはスイス生まれ。57年にShockleyの設立したShockley Semiconductor Laboratorに加わる。翌年、Noyceらと共にFarechild Semiconductorを設立。61年にAmelco(Teledyne)、64年にUnion Carbide Electronics、67年にはIntersilと4社の設立に参画する。
航空・宇宙関連市場
この目まぐるしい技術の進歩に多くの企業の興亡がある。米国では真空管時代からTRの初期の時代をリードした企業は60年代末までにほとんど姿を消して行く。真空管企業にとっては真空管事業との競合関係があり、TRは小型・軽量・低消費電力などのメリットを持つとしても、単に真空管の補完的な位置づけに過ぎなかった。そのためメリットを生かせる製品は携帯タイプという限られた応用分野に過ぎず、既存の産業用・民生用製品への応用には小型・軽量・低消費電力などは大して重要ではなく、コストや高周波特性面での劣位性の方が寧ろ大きかった。
しかし、小型・軽量・低消費電力と言う特性は航空・宇宙関係では極めて重要な特性であった。そのため航空・宇宙関連の高額な機器・システムではTRは高価格であったがシステム全体のコストに占める比率は少なく、真空管との競合において十分な優位性を発揮できた。補聴器やTRラジオなどの場合はTRの価格比率が高く、TRが高価格では製品コストを大きく引き上げることになり市場性を損なわせてしまうため、真空管との競合のためには低価格が必須となる。そのため用途によって価格には大きな格差があった。50年代末では軍需は民需に対して約4倍*1であった(軍需7.4ドル、民需1.9ドル)。
そして、急速な技術発展による低価格化と特性の向上は半導体の応用範囲を大きく広げ、単なる真空管の代用物を超えたキーパーツへと発展していくことになる。
*1 TRは特性のバラツキがあるが、たいていはTRとしての機能は十分に備えている。但し、ユーザーが望む特性範囲に収まるものは必ずしも高い割合で取得できるものではなく、その特性の範囲外のものはTRとして十分に機能はしても所要が無い限りは不良品として破棄されることになる。軍用の装置の場合、使用個数が多く特性的にバラツキが大きいとチューニング等に多大な手間を要し生産性が損なわれるため、バラツキを抑えるため選別され取得率が低くコスト高になると推定される。
尚、米TRメーカーは軍事用としては売れなかったものを、再度分類しなおしTRメーカーなどに安値で売っていたと思われる。更に売れ残ったバラツキの大きいものは日本の中小のラジオメーカー、特に輸出向けのTOYラジオ(玩具ラジオ、通常はTR6個に対し2個程度のTRラジオ)メーカーなどへ捨値で米国のバイヤー(TOYラジオの発注者)を通して売られていた、ないしは無償で支給されていたと思われる。59年にTOYラジオの生産台数2,125千台、金額1,248百万円,単価587円というデータあり。尚、従業員20人以上の企業は台数298,909台、金額272百万円、単価910円となっており、TOYラジオメーカーは零細企業が中心であった。6個使いのTRラジオに比べ価格は1桁近く安かった。60年代半ばには日本のTOYラジオメーカーは香港企業などとの競争で敗退して行く。
黎明期の半導体産業
RCAは51年に合金型Ge-TRを開発し初期のTR産業をリードする。日本企業では東芝、日立、神戸工業が52年にRCAから技術供与された。松下もPhilipsを通して間接的に合金法のライセンスを受けている。しかしながらRCAは合金型TR技術を深追いし過ぎ、特にSiへの流れに後れを取ってしまう。これはRCAのみではなくそのライセンスを受けた企業にも共通しており日本企業も例外ではない。大きな要因としては、SiではGeほど容易な合金接続形成法が無かったこと、また、当時はGe結晶製造が製造の大きな部分を占めており、TRメーカーが結晶も作ることが一般的であったが、融点(1,420℃)の高いSi結晶作りは高温を要したり、また爆発性の材料を扱ったり、更に材料の精製など技術的に多くの課題があり、TRメーカーの手におえるものではなかった*1。
RCAの他では、Texas Insturument(TI)とTransitron Electronic(マサチューセッツ州Wakefield)が50年代後半の市場をリードする。ベル研出身の技術者がTIやTransitronの中心的な役割を果たした。
Transitronは東部のラジオメーカーに少なからず依存しており、ドーピング法(拡散法)による接合型Ge-TRで急成長するものの、日本企業に市場を奪われた米TRラジオメーカーの衰退とともに50年代末には早くも勢いが失せるが、その後も軍用・コンピューター用を中心に高信頼性の個別半導体メーカーとして80代半ばまで存続している。SiTRへの転換も迅速だったものの、どうしてか60年代初期にMOS技術などの研究は進めていたもののICへは進出しておらず、ICとの競合により市場を奪われていくとともに、多くの技術者も他社へ去って行く*2。
*1 日本の場合、Geの結晶作りはTRメーカーの内製であったが、Siに関しては信越化学、小松電子(現:SUMCO)、大阪チタン(現:SUMCO)、日窒電子化学(現:SUMCO)、日本電子金属(現:SUMCO)などの中堅の化学メーカー(及びその新設した専業子会社)が担うことになる。
尚、現在Si-waferでは信越がトップでありSUMCOがそれに次ぎ、両社で世界シェアは6割超のシェアも持つ。
*2 東部のTRメーカーは衰退したり、ICへの進出に出遅れたり進出をしなかった企業が多く、多くの技術者がTIやシリコンバレーのICメーカーへ去っている。
55年にMITを卒業後Sylvania Semiconductorに入ったMorris Changは58年にはTIへ移る。84年にTIを去りGeneral Instrumentの社長を経て台湾に戻り、87年にTSMC(一時外れるが2018年までCEOを務める)、94年にはVanguardの設立に参画し、今日の台湾半導体産業の発展の立役者となる。尚、TSMCはPhilipsを筆頭株主(28%)とし、台湾政府(21%)などの出資によって設立されている。日系企業などとのクロスライセンス契約などではPhilipsの子会社としてPhilipsによってカバーされていた。
尚、Philipsの保有比率は2003年までに21.5%に減り、2008年までに全保有株を売却している。
尚、Wafer prosess(前工程)の国別シェア(200mmwafer換算の月産ベース)では2020年末において、台湾4,448千枚/月(シェ21.4%)、韓国4,253千枚/月(20.4%)、日本3,281千枚/月(15.8%)、中国3,184千枚/月(15.3%)、北米2,623千枚/月(12.6%)となっており、台湾がトップである。東アジア4か国で世界シェアの73%を占めている。
TIの成功
1930年に地震学を応用して油層を探索するサービス会社Geophysical ServiceがJhon KarcherとEugene McDermottによりテキサス州Dallasに設立される。39年にCoronado Corporation Inc.(GSI)と改称されるが、機器製造部門はGeophysical Serviceの名で子会社として存続する。そして41年にGSIはMcDermott、John Johnson、Cecil Green、Henry PeacockによりいわゆるManagement Buyoutによって買いとられる。第二次大戦中に油層探索の技術を潜水艦検知に応用することにより軍需と結びつく。51年にTexas Instrumentsと改称される。戦後も爆撃機のレーダーシステムの開発など軍との密接な関係が続く。50年には従業員1,128人、売上高7.6百万ドルとなっている。
Bell研(WE)からライセンスを受けた企業は真空管関連企業が中心であったのに対し、TIは異分野からの進出と言える。WEはTIがTRを作れるとは思っていなかったと云われる。Bell研からライセンスを初期に受けた日本の企業*1の内、ソニーを除けば全て主要な真空管メーカーである。ソニーの場合53年にWEと仮契約を結ぶが、その契約を認可する立場にある通産省がなかなか認可せず本契約を結ぶのは翌54年になる。貴重な外貨の無駄遣いだと考えられてしまったのかもしれない。ともあれ日米とも門外漢のような企業の方が成功していた。
*1 59年の時点で、WEより東芝(53年)、ソニー(53年仮、54年本))、神戸工業(54)、日立(54)、三菱(54)、富士電機(58)、三洋(59)がライセンスを受けている。また、RCAのライセンスは神戸工業(51)、東芝(52)、日立(52)、松下(52、Philipsより間接)、ソニー(57;ライセンス料率1%)、富士電機(58;1.5%)、三洋(59:1.5%)。ライセンス料率はWE2%、RCA3%がベース。
Gordon Tealの入社
TRは点接触型の発明に続きShockleyによって48年に接合型が考案されたが、この接合型TRが試作されたのは3年後の51年であった。これに関して大きな役割を果たしたのがGordon Tealであった。Ge単結晶がTR技術の革新に必須であると主張*2したものの認められず解雇覚悟で開発を行ったと言われる。
52年にTealが生まれ故郷のTexasに戻ろうと思っていた時に、たまたまNew York Times誌に載ったTIの求人広告を目にしたのが入社するきっかけだったといわれる。そしてTealがTIに入社*2したことを知りトップクラスの科学者や技術者がTIに集まってくる。
*1 点接触型TRにはGe多結晶が使われていた。
*2 Tealの入社は53年1月。Rsearch Directorとして、先ずDallasにCentral Research Laboratoryを創設する。
世界初のTRラジオ
TIは54年に高周波の成長接合型Ge‐TRの量産に成功する。TIはこれを使いTRラジオを試作する。当時主流の合金型Ge-TRは周波数特性が悪くラジオ用としては未だ無理があった。TIはTRラジオの製造販売会社を求めるがRCA、Sylvania、Philcoなどの大手ラジオメーカーは興味を示さず、結局はマイナーなIndianapolisのIDEA Corpが(開発*1)製造販売することになる。Brand名のREGENCYはIDEAがTV signal booster(TV電波が弱い地域が多かった)などで使っていたブランド名であり、TIの名前はでてこない。
53年に試作されたTRラジオは6TR型であったがTI(及びIDEA)は小売目標価格を50ドルと設定してコストダウンのため4TRに設計変更し、更にTRのコストは十数ドル掛かっていたが量産時における原価低減の目途を立て、これを1個2.5ドル(計10ドル)でIDEAに供給する。他の費用は17~18ドル程度であった。54年11月に本体小売価格49.95ドル(オプションの革製のカバー3.95ドル、イヤホン7.5ドルを含めると61.4ドル)で売り出される。
コンデンサー等の部品メーカーは小型部品の制作に消極的で調達できず、部品面では単に真空管をTRに置き換えたものであったが、それでも空間を余すところなく、且つ整然と部品が配置され、またほとんど配線が無いスッキリした設計となっており、いわゆるShirt-Pocket-Size(12.7㎝x7.62cmx3.2cmでシャツのポケットには納まらない))を実現した。REGENCY TR-1の誕生である。REGENCY TR-1は14万台(販売きかん年)が売られたが成長接合型Ge-TRの歩留まりが低かったこともあってか十分な生産ができなかった。
市場に受け入れられる価格設定を行い原価低減に努力するTI半導体ビジネスの原型が出来上がっている。TIは30年後にパソコンにおいてもこの手法を貫こうとしたが失敗してしまった。
TIに続き、翌年にはRaytheon、Zenith、Emerson、RCA、GE、Admiral、Arvinなどが一斉に参入する。これらはTI製より若干大き目のサイズでCoat-Pocket-Size*2とでも言うべきものであった。
TRラジオは米国でブームとなった。一つには当時は冷戦の只中で米政府は有事のための対策としてラジオに着目し、51年に有事放送局(Conelrad Stations)を開局し、53年(63年まで)からはその周波数である640kHzと1240kHzの2か所にCD(Civil Defence)マークをラジオに付けることを義務化している。政府のプロパガンダの類で、ソ連からの核攻撃*3を起こりうる現実の恐怖として認識させるためだった。そしてラジオがサバイバルのための必需品であることを盛んに宣伝するようになるが、携帯型のTRラジオはまさに打ってつけのの製品であった。有事は起こらなかったもののTRラジオは50年代半ばからのロックンロール世代の必需品となりヒット商品となっていく。そうした中でやや遅れて登場したのがソニーのTRラジオであった。57年に米国のTRラジオ生産金額は77.7百万ドル、58年82.3百万ドル、そして59年にはピークを迎え93.7百万ドルとなる。一方、この間、日本からの輸入が57年5.6百万ドル、58年16.0百万ドル、59年55.2百万ドルと急増していく。
*1 TIが試作したプロトタイプを基にIDEA Corpが再設計。量産の民生用機器としてはほとんど使われたことがないプリント基板が採用されている。TRなどピンタイプの部品を多く採用しプリント基板のホールに差し込み半田槽で一括して半田付けをしている。IDEAはTRラジオに関し特許申請(55年3月、成立は59年6月)を行っているが、少しTIと揉めたようで、結局それをTIが25,000ドルで買い取ることで決着。
*2 例えば、もっともポピュラーであった57年発売のZenith Royal 500(7TR、価格75ドル)のサイズは14.6cmx8.89cmx3.81cmで容積的にはREGENCY TR-1(310ⅽ㎥)に比べ6割(495ⅽ㎥)ほど大きい。尚、SonyのTR-63は112mm×71mm×32mmでTR‐1に比し容積では2割小さい。
*3 核攻撃に耐える通信網として61年から開発が進められたのがインターネットの前身となるARPA-NETである。64年にRand Corporation(Santa Monicaにある空軍と密接な非営利の研究機関で48年にDouglas Aircraftから分離)のPaul Baranが原型を考案した。69年にUCLAからStanford大学を経由してUtah大学へメッセージを送る実験に成功している。
Si‐TR
TIはGe-TRを深追いすることはなく、Si-TRに開発リソースを集中し他社を大きく引き離す。54年4月に開発に成功し、翌月には製造を開始する。Si‐TRは周波数特性においてGe-TRに劣るものの、耐熱性に優れ57年には米国初の人工(軌道)衛星Explorer1号*1に搭載されるなど軍需・航空宇宙関係のニーズに適っていた。他社に対して数年のリードとなる。
当時のTR製造はGeやSiの単結晶作りが製造、研究開発共にキーでありTealを擁するTIがリードする。研究と製造は地理的に離れているのが一般的だったのに対し、その後もTIの研究開発は製造と一体であり研究所は製造工場の位置されており連携が良かった。
*1 Explorer1号はソ連が57年10月4日のスプートニク1号を打ち上げた4か月ほど後の58年1月31日に打ち上げられた。スプートニク1号が92日間で落下したのに対し、Explorer1号は12年以上地球を回り続けた。尚、ソ連は46年10月に占領地域にいたドイツの科学者・技師・職工・その家族の計2万人をモスクワ近郊などの一種の強制収容所に収容し開発に協力させた。翌47年10月、米国に先駆けソ連はロケット(ほとんどドイツのV2ロケットと同等)打ち上げに成功する。
スプートニクは言うなればV2ロケットのエンジン5基を束にして推進力を得ていた(クラスターロケット)程度のもので、実質は米国にかなり遅れていた。尚、終戦時には既にドイツは大陸間弾道ミサイルを作る技術を持っていた。
ソ連は推進力を得るためエンジン基数を増やしていくが、増やすにつれエンジン同時制御が困難を極め、約30基のエンジンを要する有人月面着陸ロケット計画は断念に追い込まれることになる。
ICの発明
TIは50年代末にU.S.Army Signal Corpが推進したMicro-Moduleプログラムに参加していた。このプログラムではRCAが中心的な役割を果たしていた。Micro-Moduleはサイズが標準化されたモジュールにTRなでで回路を形成し、複数のモジュールを垂直に重ね合わせ小型軽量化と信頼性を実現しようとしたものであった。
58年9月にJack kilbyはMicro-Moduleの代案としてMiniaturized Electronic Circuitを開発した。これがICの原型となる。11mm×1.6mm角の細長いGeチップに1個のTRと抵抗など計5素子が電気的に絶縁されて形成、それらが細長い金線によって空中配線されていた*1。この製法では集積度的には精々10素子程度が限度であり量産性も極めて低いものである。59年2月に特許申請(5年後の64年6月に成立)され、翌月にIRE(Institute of Radio Engineers)ショーで公開された。
これに対してFarechildのRobert Noyce*2はPlaner型TRを応用して、Si-chip上にそれぞれ絶縁されたTR(1個)、DI(1個)、コンデンサー(2個)、抵抗(3個)を形成し、アルミ蒸着・エッチングで配線パターンを形成し配線したバイポーラ型集積回路*3を開発し59年7月に特許出願(61年4月成立)している。これは今日のIC構造の基礎となるもので、実用的な価値はKilby のMiniaturized Electronic Circuitに比べ遥かに高いものであった。TIはノイス特許の無効を求めて訴訟を起こし10年間に渡って争われることになる(Noyceが勝利)。
*1 KilbyのMiniaturized Electronic Circuitは一個の半導体チップ上に全ての素子を集積するというアイデアであった。58年9月12日にこのアイデアをベースにして作られた発信器をKilbyはTI社の幹部が見守る中で見事に作動させた。これを契機にTI社はマイクロモジュール方式に変えてキルビーが考案したモノリシック方式を本命として推進することになる。
*2 Noyceは1990年に他界していたため、2000年のノーベル物理学賞のテーマに半導体集積回路が選ばれた時点では候補者に上らなかった。
*3 厳密に言うと、NoyceのICは熱酸化により二酸化シリコン薄膜を形成し、それを絶縁膜としてその上にAl蒸着・エッチングにより配線パターンを形成、およびPN結合の逆方向には電流が流れない特性を利用して素子間を絶縁させた。また、抵抗はアルミ配線の長さ・幅を調整することによって作成(代用)した。
海外製造展開
TIは60年には売上2億33百万ドル、従業員17千人に発展する。
TIは海外への製造展開にもかなり積極的で、先ず56年のイギリスを皮切りに先進国での現地一貫生産を開始し、60年代末には東南アジアでの組立試験工場設立している*1。また57年設立のFarechildも61年に香港、64年に韓国(ソウル近郊の富川)、68年にシンガポールに進出している。その他、ほとんどの米国半導体企業は東南アジアを中心にして、メキシコ(米国境地帯、比較的小規模)など組立・試験は海外に依存していた。TRの組立試験工程は極めて労働集約的でありアジアの拠点の多くは人員規模としては1,000人~3,000人程度である。東南アジア・東アジア諸国が電子産業の製造拠点として発展していく契機となる。
労働集約的な後工程(組立試験)を低賃金の東南アジアに展開することで、TIは日系企業に対してもコスト優位性を維持した。ICの初期の代表的な製品であるBIP-ICの汎用TTL(Transiste-Transistor-Logic)の74シリーズなどでは圧倒的な価格競争力を持っていた。
TIは70年に自社製の16ビットミニコンHAL-9で制御した半自動機のIC組立用のwire bonder装置ABACUSを開発しTexasのSherman工場に13台設置したのを皮切りに72年には全自動のABACUS-Ⅱを開発し約1,000台を世界中の工場に設置するなど省力化にも積極的であった。それでも成長に伴いかなりの人員を必要とし東南アジアへの依存を高めて行く。
また、空輸*3により軽量・高価なチップは米国から運ばれたものの、パッケージは日本企業から調達されるようになり,半導体組立が東南アジアに集中するようになったことで日本の半導体パッケージメーカーが発展していく。逆に日本企業から部材を調達できたことがアジアでの半導体組立の立地としての優位性だった。
日本企業のICリードフレームへの参入は新光電気*4が68年、三井ハイテックは70年だった。三井ハイテックは72年にはシンガポール、73年には香港に生産拠点を設立するなど海外展開に積極的だった。また多ピンの高精度のリードフレームはエッチングにより製作されていたが、三井ハイテックは精密プレス加工により製作することに成功しコストを低減させた。セラミックパッケージ*5では、新光電気が66年、日本特殊陶業が63年、京セラが68年に参入し、日系企業がICパッケージでリードするようになる。
尚、TIの日本進出は資本自由化前だったため、日本の半導体産業の保護育成を図る通産省によりなかなか認可されなかった。これに対しTIがIC特許*6の公開を拒否したため、通産省はソニーとの合弁(TI:49%)での進出を認可し、68年5月にようやく日本TIが発足する。そして71年にはソニーは手を引きTIの100%子会社となる。
そして、TIは73年に大分の日出工場*7が操業を開始し、69年に設立された熊本の九州日電とともにシリコンアイランド九州を代表する工場となる。一方、FairchildはTDKとの合弁*8で72年に長崎県諫早に進出する。日系、米系とも70年前後に相次いで九州に進出*9することになるが、要因として当時は求人難で、特に半導体にとっては若年女子労働者の確保が切実な問題であった。そのため若年女子労労力確保のため九州や東北への工場展開を行っていた。
80年のTIの従業員数は9万人、売上41億ドル、Motorolaは7万人、売上31億ドル、National Semiconductorは4万人、売上10憶ドルに達した。
*1 表面劣化に強いPlaner Si-TRの開発によって海外への組立試験工程の展開が可能となった。Planar Si-TRは選択拡散のために形成された酸化シリコン層が表面を覆っており、それが保護膜の役割を果たしている。Planer TRを開発しいち早く量産化したFairechildが東南アジア展開の先陣を切っている。TIとモトローラは省力化・自動化に積極的に取り組んだのに対し、Farechildなど中堅メーカーの方が組立試験工程の海外生産展開では先行する。進歩が急速でであった柔軟性に乏しい自動機より得策だったのかも。
他社ではGeneral Instrumentの64年の台湾高雄、65年のMotorolaの韓国ソウルへの展開があるものの、本格化するのは60年代末からとなる。
*2 16ピン換算で、半自動機のABACUSは400個/シフト(8時間)。尚、手動機ならば熟練の作業員なら400~480個/シフトであり熟練作業員並の能力を持っていた。効率は良いとは言えないが、手動の場合、作業員のスキルの高低によるバラツキが多いが半自動機によりバラツキを抑えることができる。ABACUSは改良版を含め58台生産された。1台当たりの制作費は65,000ドルだった。
一方、BACUS-Ⅱ(制御はTI960Aミニコン)は初期モデルで2,000個/シフト、後期の改良版で5,000個/シフトの処理能力を持っていた。1台当たりの制作費は15,000ドルに低減している。また、ABACUS-Ⅱは自動化が進んでおり、1人の作業員が複数台を管理することができ、人的効率は飛躍的に向上したと思われる。
日本勢がwirebonderでTIをキャッチアップするのは16k‐Ðramが本格化する78年頃。
*3 航空輸送時代の幕開けとなるBoeing747(ジャンボ)の就航は69年。747は構造上、機体の下部は貨物室になっている。
*4 新光電気は戦後の混乱期に富士通信機製造(現富士通)の長野工場と同工場内にあった親会社の富士電機の研究部分所の閉鎖にともない失職した研究所の技術者たちを中心にして21年2月に合資会社長野家庭電器再生所が設立される。切れた電球の修理再販事業からのスタートだった。
*5 セラミックパーケージとして当時はメタルシール、フリットシール、サーディップなどのタイプがあった。リードフレームを使うプラスティックパッケージに比べ、高価であったが温度特性や防湿効果などが高かった。尚、防湿効果が高いため組立に使う線材はアルミで十分だった。プラスティックタイプは金線が使われた。
*6 TIと日本企業がライセンス契約を結んだのは68年であり、WE(53年東芝)、Farechild(63年日電)に比し,かなり遅れた。TIのライセンス料率は2%程度。尚、Fairchild(Planer特許)は日電が4.5%で専用実施権を得て、他企業に5%程度でサブライセンス。
*7 TIは日出工場を老朽化もあって2013年6に月閉鎖。鳩ケ谷工場は2000年にエプソンに売却(01年10月閉鎖)。
*8 72年8月にFairchildはTDKとの合弁でTDKフェアチャイルドを設立。オイルショック後に清算された。長崎県諫早の工場はソニーにより買収されソニー諫早工場となっている。諫早工場は2021~23にかけ7,000憶円を投じ能力増強中。CMOSイメージセンサーで約5割のシェアを持つソニーの半導体(売上約1兆円でフラッシュメモリーの東芝から分離し売却されたキオクシアに次ぐ)は日本で最も元気の良い様である。
*9 三菱電機の九州進出が最も早く67年に熊本市竜田町に半導体工場を建設、更に70年に第二工場を熊本県菊池郡西合志町に建設。
ソニーのTRラジオ
日本では戦時中に生産設備の軍需用への転用のためラジオや真空管の生産水準は著しく低下した。更に44年には民生用真空管生産は資材の割り当てが無くなり事実上生産はストップした。戦後、ラジオ用真空管の生産は再開されるが、大手が戦災により生産体制が整わない内に、家内工業的な多数の小企業から真空管が販売される。その数は100社に近かった。またRCAは東芝と戦前に東芝と結んでいた特許契約(東芝がサブライセンス実施権を持つ)を見直し各社と個別に契約を結んだため、東芝の寡占的体制は崩れ、日電、川西機械(神戸工業)、日本無線などが一斉にラジオ用真空管に参入する。
一方、東芝に加え、日立、三菱などの重電メーカーもラジオに参入してくる。ラジオメーカーの数は町工場のようなものも含めると200社以上になった。ラジオの生産は48年に80万台にまで回復してきたが、ドッジラインによる不況で50年には30万台を割る。これにより真空管・ラジオメーカーとも淘汰が一挙にすすむ。大手も大きな痛手を受ける。日立はこの時ラジオから撤退している。日電の場合は戦後ラジオ用真空管に参入し、他社に先駆けMT管(小型のミニチュア管)の量産体制を整えたものの、売上が急減しいくつかの工場を閉鎖しラジオ管は大津工場に集約するが、幸いにも朝鮮戦争の勃発とともに需要が急増し危機を逃れた。
TRラジオ
日本で最初のTRラジオは54年1月に神戸工業によって試作されているが、これは試作だけで終わっている*1。性能的・コスト的な課題があったかもしれないが、むしろ経営幹部が市場性に気付かなかったからだといわれる。しかし、TRラジオの市場性は当時の日本では低かったようだ。
結局、製品化はソニーが先行する*2。55年8月にTR-55を価格18,900円で発売されている。Super-heterodyne式*3の5TR型であった。9月にはTR-2(2TR型、5,700円)、10月にはTR-33(3TR型、12,600円)を発売する。尚、日本のTRラジオの生産金額(ソニーのみの数値と思われる)は55年142百万円、56年560百万円である。
ソニーはTRラジオが大きな市場に成長していた北米に目を向け、57年1月に進出を果たす。まずカナダのDistributerのGENDISブランドでTR-72(7TR型)を4万台出荷、そして6月にはSONYブランドで3万台超のTR-6(6TR型)が米国で販売された。そして、3月には最初のヒットとなるTR-63(6TR)が発売されている。縦型で小型(112mm×71mm×32mm)、従来品の半分以下と言う低消費電力で米国では39.95ドルで発売されている。全世界で50万台売れ、同タイプのモデルも含めると150万台を超え、スタンダードになった。
ソニーの成功もあって、57年には、三洋、東芝、松下、八欧、日電、翌58年には日立、日電、ビクター、立石など主要な企業だけでも20社ほどが続き、さらには家内工業的な企業までもが米国を中心に輸出を始める。輸出金額は57年の22億円から60年には427億円へと急増し、輸入規制問題*4が早くも生じる。尚、1960年の日本の総輸出額は1兆4,596億円で、TRラジオはその2.9%を占めている。
*1 神戸工業は54年1月に点接触型Ge-TRの発売(翌2月発売)に先立ち上野精養軒でお披露目会を開いているが、その際に、このTRラジオの試作品を紹介している。尚、神戸工業は52年春にBell研よりGe単結晶を入手し、他社に先駆けて点接触型Ge-TRの試作に成功。その開発グループに江崎玲於奈(47年神戸工業→56年ソニー→60年IBM)がいた。
一方、ソニーは54年10月に千代田区の東京会館でTRのお披露目している。更に10月末には日本橋三越本店でトランジスタとトランジスタ応用製品の展示会(およびTRとDIの即売会)を開いた。この時には、応用製品として試作第1号のゲルマニウムTRラジオに加え、ゲルマニウム時計、補聴器も展示している。
*2 GHQの民主化政策の一環として、45年11月にはラジオは増産指示。また、GHQの指導(47年10月)もあって混信等の通信妨害要因となる国民型や放送局型のラジオ(4球の並四式など)からsuper-heterodyne方式(5球スーパーラジオ)への転換が進む。51年9月1日に中部日本放送(名古屋)、新日本放送(大阪)を皮切りに年内に民放6局が開局したほか、民放の開局が相次ぐ。
*3さく良商事からTRラジオTGR-21(1TRタイプ、TRはソニー製T11を使用、4,300円)がソニーに先立つかないしはほぼ同時期に発売されていた。そのほか同種のラジオ(ユニオンPR-2、1,900円など)が、キットとして早い時期から価格は2千円から3千円台で発売されていた。ただ、これらはいわゆるTOYラジオの走りと言えそうである。3~4年後には濫立し主に輸出されている。
*4 61年7~12月のTRラジオの輸出割り当ては、189社に対して行われた。その他、354社が過小実績業者として一括割り当てを受け(先着順)、計543社が対象とされた。
小型電子部品
日本製のTRラジオが米国市場など世界市場を一挙に席巻するが、単に価格が安かったのみではなく、小型で性能・信頼性が高く、且つ余裕を持って小型軽量化が可能であったため設計の自由度が高くデザイン性にも優れていた。米国製が単に真空管をTRに置き換え無理やりに押し込んだものが多かったのに対し、日本製は他の電子部品も小型化されていた。例えば三美電気製作所(現:ミネベアミツミ)のPolyvaricon*1(三美の商標名)と言う小型の可変コンデンサーがソニーの最初のヒットとなったTR-63以降の機種に搭載されていたが、小型・軽量で衝撃に強く、且つ、高周波特性にも優れ耐熱性・耐湿性・耐久性にも優れていた。また個人のラジオ修理業から転じ54年創業の東洋電具製作所(現:ローム*2)から小型炭素膜抵抗器が55年に売り出されている。こうしたTRラジオの小型化に適した小型電子部品のぞんざいも日本の成功の大きな要因であった。極端な物資不足だった時代は過ぎていたが、小型化は作業効率が落ちるとしても材料費の節減となりコスト削減の有力な手段だったが、こうした製品が日本で開発されていたことがTRラジオにおいて大きな優位性をもたらすことになる。材料の節減は単なる粗悪品を生む場合も多いが電子部品に関しては時代のニーズにマッチしていた。そしてTRラジオによってこれら戦後派の電子部品企業が成功のきっかけをつかんでいる。東洋電具製作所はこの後、67年には半導体に参入し、69年にはICも手掛けることになる。
一方、米国の場合は小型電子部品製作の技術自体は日本より進んでいたというより次元が異なっていたと言うべきものだった。とりわけ50年代後半は航空宇宙関連を中心に電子部品の小型化のニーズが高まる。そのため超小型部品や高密度実装技術の開発が進められている。但し、それらは高コストの特殊品に過ぎずTRラジオなどの民生機器に応用されるものではなかった。例えば、KilbyのICのアイデアが生まれるきっかけとなったMicro-Moduleプログラムは、57年10月にRCAのSurface Communications Divisionがペン(万年室)サイズのTRラジオを試作し軍にデモンストレーションしたことと、時を同じくして起こったソ連のスプ―トニック打ち上げがRCA主導によるMicro-Moduleプログラムが始まるきっかけになったと言われる。それにより、1立方フィートの5万部品を搭載できるレベルの技術が開発されている。
また、今日のMolecular electronicsの起源を求めると57年からWHと空軍によって進められていた、当時Molectronicaと呼ばれていた技術を開発するプロジェクトに辿り着く。結晶中に多くの個体物理現象を組込み電子回路と等価な機能を形成することを目指にしたと言われる。
*1 55年3月に三美が発売した25mm×25mm×15mmのPolyvariconがSonyのTR-63や八欧の6G620など多くの機種に搭載されていたが、ラジオのサイズもほとんど同じで、使用部品もほとんど同じ様なものだった。尚、三美は59年には更に小型化(16mm×16mm ×10mm)している。三美は49年に個人創業(54年三美電気製作所創業)されたいわゆる4畳半工場であり、ラジオ用などの電子部品を作り神田や秋葉原の電気街を得意先にしていた。
また、こうした新興企業に加え、戦前・戦中の軍需関係の部品メーカーの民需へ転換・再興した企業も多いが、そうした企業からもTRラジオの普及により発展の機会を得たものも多い。例えば、44年に三菱電機の下請けとして電波兵器レーダー用チタンコンデンサの下請生産を行うが、終戦で「軍需工場」として一時は閉鎖されたが、電熱器等の製作で糊口を凌ぎ、戦後のラジオブーム時にチタンコンデンサ製造を再開しTRラジオにより発展の糸口を得ている。また太陽誘電の前身の軍需の佐藤航空無線器材製作所はIFT(可変コイルの一種)用の小型円筒コンデンサや小型フェライトコアにより同じくTRラジオにより発展の機会を得る。ソニーも井深大の起こした日本測定器株式会社の流れを汲むとも言え軍需企業からの転身とも言える。海軍技術中尉であった盛田昭夫とはケ号爆弾開発研究会(戦闘機搭載の赤外線誘導の対戦艦用爆弾)で知り合ったのが縁である
トンネル・ダイオード
この半導体産業の黎明期にに活躍した技術者でノーベル賞を受賞したのが73年の江崎玲於奈と2000年のJack Kilbyであった。Kilbyの授賞は発明から41年後であった。
江崎は47年に神戸工業へ入社、56年にソニーへ移り、そして60年にはBMのWatson研へ移った。57年8月に発明されたトンネル(江崎)・ダイオードの特許(57年9月出願、黒瀬百合子さんと共同出願)はソニーが基本特許こそ取得したものの、トンネルDiのスウィッチング速度の高速性が将来のコンピューター用論理素子の有力な選択肢として注目され、その応用に取り組んだIBMなどの外国勢にことごとく応用特許を取得されてしまった。アナログ主体の日本の当時の半導体産業にとって、デジタル系機器での応用に向いていたトンネルDIは余り注目されることは無かった。ソニーは応用特許を外国勢に抑えられてしまった反省から、その後は基本発明の後、応用研究・開発研究を経て一括して外国特許申請を済ませてから発明の発表を行う方式にしている*1。
トンネルDIは60年代初期には注目されたが、IC化及びECL回路など高速化技術の発展によってコンピュータ素子としては採用されることは無く影の薄い素子となってしまったが、トンネル現象は半導体のみならず超電導やその他様々な電子関連に共通する現象であり寧ろその応用は21世紀に期待されるとも言える*2。
*1 トンネルDIの発明のケースでは、発明の翌月に特許申請が行われ、その翌月には江崎と実習生だった東京理科大学学生の鈴木隆によって学会発表がなされていた。
*2 半導体関連としては、フラッシュメモリーの書き込みにおいてトンネル効果が利用されている。また、量子コンピュータなどにおいてもトンネル効果は重要な要素技術と言える。
Si-TRとICへの対応の遅れ
単純にTRの生産数だけで比較すると、59年には既に日本が米国を上回っている*1。ラジオを中心とする民需では日本が86.5百万個に対して、米国は民需71.5百万個、軍需12百万個の計83.5百万個と数量的には日本が上回ることになる。労働集約的なTR生産では低賃金の日本が優位であった。
しかし、Ge-TRでの成功は次のSi-TRやICの成功には結びつかなかった。Si Planer型TRの場合、現在のIC製造と同様にSiウエハー*2による製造工程が使われ、Ge合金型TRに比し前工程の生産性が高いことに加え、平面的な構造のため組立工程の生産性も高く省力化も行いやすかった。更にplaner型の場合はSiO2膜で表面が保護されており表面の劣化に強く、また空輸貨物輸送*3も普及し、米国企業による組立工程を低賃金の海外に移転する動きがすすみ日本の低賃金による優位性は失われて、TRラジオの輸出規制もあり再び日本企業がTR生産数でも米国企業に抜かれることになる。TRラジオの成功によりGe-TR偏重となり、GeからSiへの変化、更にはIC化に乗り遅れGe-TRで築き上げられた日本の地位は若干勢いを失いかけるものの、電卓・テレビ*4等民生用機器の急成長もあり、軍需・産業用*5に牽引された米国とは異なる発展の道を辿っていく。日本のSi-TRの生産がGe-TRを超えるのはようやく69年になってであった。ICにおいて米国企業をキャッチアップできるのは更に10年後の70年代末である。
IC化は先ずBIP(バイポーラ)デジタル回路から始まるが、60年代初期には極めてコストが高く、それに
見合う市場は日本には少なかった。価格に糸目をつけない軍需・航空宇宙や、大きく発展しつつあったコンピュータ産業に依存し得た米国半導体企業に対して、日本は余りにも市場規模が小さく大きく立ち遅れることになる。
*1 1959年の米国の半導体(TR及びDI)生産金額は396百万ドル。内、軍需が180百万ドルで45%を占めていた。非軍事用の産業用・民生用TRに限ると、日本の生産金額44百万ドル(86.5百万個)、単価51セントに対し、米国は134百万ドル(71.5百万湖)、単価1ドル87セントと単価は4倍近い。既にアメリカではIBMのオールトランジスタ型のコンピュータが50年代後半には登場しており、TR需要はコンピュータや交換機など産業用機器が金額的にはラジオ用を上回っていたと思われる。数量はともかくとして金額的には米国が日本を大きく上回っていた。
*2 1960年ごろには米国では直径20mmのSi-waferの入手が可能であった。
*31960年代初頭、ダグラスDC8F、ボーイングB707Fなど30トン積みの貨物専用機(ないしは貨物主体の貨客機)もあらわれ、航空貨物輸送は大きく増大する。例えば日本発着の航空貨物量は1960年の6,200トンから1965年には35,400トンと約6倍に増。
*4 日本企業はTRラジオに続きテレビ(TRテレビ、59年に東芝が世界に先駆けて発売)でも躍進を遂げる。テレビの場合、小型化によるメリットは少ないとは言え、消費電力は真空管式テレビの約1/3の30W程度と省エネ性能に優れ、真空管からの置き換えが進む。更にラジカセ(63年)やVTR(65年)、オーディオ製品など製品も多様化し家電業界は大きく発展することになる。1965年には家電製品の生産額7,137億円(輸出1,818億円)から75年には32,744憶円(輸出11,800億円)と成長し、半導体市場を牽引する。更に電卓やコンピュータなど事務用機器など半導体のユースは広がり、日本の半導体産業は成長していく。
尚、テレビはICの需要を牽引することが期待されたが、大きなブラウン管は他の部品に小型化の必要性を与えなかった。そのためテレビにおけるIC搭載は高性能なイメージを醸し出すための単なる宣伝に使われたに過ぎなかった。TRの歩留まりさえ低いのにICは更に低歩留まりでコストアップになると考えられていた。それに加えアナログ回路はIC化に適さない大容量のコンデンサや高抵抗値の抵抗の回路を含んでいたり、加えてアナログ用ICは同じ機能でもユーザーが要求する仕様は多様であり標準化・汎用化が難しく、単純なスィッチングTRで構成されるデジタル回路と異なりいIC化が進みにくかった。その一方でメリットとしてIC化により信頼性が高まりアフターサービスの手間が省ける効果があるが、これは寧ろC化してから気付かれたことであった。70年代後半に高機能化の為にテレビのデジタル化が進むまではIC化のニーズはそれほど無かったと言える。
半導体企業の盛衰
TRの草創期に活躍したRCAは真空管メーカーであり且つラジオメーカーでもあった。Siへの流れに乗り遅れ、おまけにGe‐TRでは日本製TRラジオの攻勢に敗退する米ラジオ産業の衰退により市場を喪失していく。RCAから技術導入した欧米の真空管メーカーはほぼ同じ道を辿る。
日本ではソニーと日本電気が非RCAの技術系統であり、特に日本電気はラジオで弱かったせいかGe‐TRでは後れをとってしまいSiに注力していく。Si はトランジスタの開発ではマイクロ波用への拘りから他社に出遅れたが、ICにおいては順調な立ち上がりとなり、以後40年に渡って日本の半導体産業をリードする。63年にIC製造には避けられないFairchildのPlaner特許の専用実施権を獲得し、他社は日電に再ライセンス料を支払うことになる。
売上高も1965年には5500万円程度のものが1970年には112億円(3,998万個)に成長し、米国以外の半導体メーカーとしてはトップとなる*1。
60年代末頃より、日本では家電系メーカーに代わり通信・コンピュータ系メーカーが半導体産業のリード役として登場する。アナログからデジタルへ、TR/Diの個別半導体からICへと市場のリード役は変わっていく。とりわけIBMがICを本格的に搭載するSystem370シリーズを出荷する70年頃からコンピュータ産業*2が半導体産業の牽引役として技術面とともに市場面でもリードしていく。
そのため、宇宙・軍需関係更にはコンピュータなど産業用機器を市場として持つTI、MotrolaやFairchildなど米国半導体メーカーに比べ日本の半導体メーカーにICへの対応の遅れは大きく、60年代から70年代前半にかけては日本のIC産業は保護されるべき脆弱な産業の一つに過ぎなかった。
日本でIC生産が立ち上がる60年代末期で、NAND、NORやFlip-Flopの基本的なゲートICが電卓やコンピュータに搭載される。アナログICのオペアンプなどもこの頃から製品化されている。日本のC生産額は
67年に25憶円(333万個)、68年に103憶円(1,988万個)、69年210億円、70年476億円と増加していく。
*1 日本電気(コンピュータはハネウェルから技術導入、およびハネウェル製のノックダウン生産)は65年にオールIC化された日電独自開発のコンピュータNEAC2200-500を発売している。14pinパッケージの高速不飽和型のCTL(Complementary Transistor Logic)型素子搭載し、個別半導体で作成した場合に比し数分の1のサイズで且つ信頼性を1桁以上向上させた。一方、独自技術の富士通は68年に飽和型のTTL(Transistor-Transistor-Logic)を使いFACOM230-60発売しているが、ハード的に見るとプリント版実装技術なども含めNEAC2200-500に比しかなり見劣りがするものだった。
*2 産業用半導体のユースとして、コンピュータが大きなウェートを占めるようになってきたのは、IBM360シリーズの登場から。尚、IBMは360の成功により、68年頃には米国シェア70%(市場規模213憶ドル)、欧州シェア58%(市場規模45億ドル)を占有した。IBMは360シリーズ用の半導体生産のために62年にニューヨーク州Fishkillに敷地面積182万㎥(83年に追加取得し247万㎥)の広大な土地を取得しFishkill工場を建設、本格生産を64年から行っている。ここで、SLT(Solid Logic Technology)と呼ばれたHybrid-ICを生産している。ICの品質は当時まだ大型コンピュータに本格採用するには十分ではなく、IBMはHybrid方式を採用している。生産数量は64年6百万個、65年56百万個、66年90百万個と拡大。IBMも半導体メーカーとして見るなら、桁外れに巨大半導体メーカーの誕生である。内製であるが金額換算すれば、TI、Motrola、Fairechildなどの大手企業に対し優に1桁以上上回る。 Fishkill工場はピーク時の84年末には31,300人の従業員を抱えた。
その後、長期に渡りIBMが影の半導体トップメーカとして半導体産業に君臨し、日本のコンピュータ・半導体メーカーはその陰に怯えることになる。端的な例は75年頃、IBMがFuture Systemに1M-DRAMを搭載するという噂が流れ、その対策として76年3月に通産省の補助金を得てコンピュータメーカ7社による超LSI技術研究組合が設立されている。当時はやっと4K-DRAMの量産化が本格化し、16k-RAMの開発が進んでいた頃である。IBMなら1M-DRAMの開発が可能であると本気で信じられていた。
尚、IBMの半導体製造拠点ととしては、バーモント州Burlington、海外ではドイツの Singdelfigen, フランスのEssones、日本では83年末にMOS-memoryの操業を開始した野洲などがある。
輸入自由化と行政指導
揺籃期のIC産業保護のために輸入制限や行政指導がなされていた。日本は64年4月にIMFの8条国に移行しOECD加盟、自由化を迫られることになる。
政府はコンピュータ産業の育成策を積極的に採っていたが、コンピュータ技術のキーとなるのがICであるという認識が政府・産業界に定着し、半導体産業育成のための女性が積極化していく。米国の場合は政府関係(軍需・宇宙)の助成・市場が半導体産業の成長に大きな役割を果たしたのは60年代末までであったのに対して、日本では70年代に政府により半導体産業に対し、直接・間接的に助成がなされる。
これらの助成もさることながら、電電公社とのDIPS*1やLSIの共同開発、および、電電公社による機器の調達*2が半導体産業の育成に大きな役割を果たし、とりわけ、電電ファミリーの日電・富士通・日立の3社が日本の半導体産業のリード役となっていく。
*1 Denden Information Processing Systemの略。70年代初のDIPS-1、70年代半ばのDIPS-11などがある。電電公社は57年にUSASHINO-1を開発するなどコンピュータ開発にも取り組んだことがあったが、その後はしばらく電子交換機の開発に専念しコンピュータ開発から離れていた。
DIPS-1は電電公社がアーキテクチャーを決め68年から71年にかけ富士通・日電・日立に対してそれぞれ独立に設計・製造を競わせた。Microprogram方式、また論理回路には高速のCML(ECL)のSSI/MSI採用など技術的に一挙に高度化し、ハード的にIBMをキャッチアップさせるのに大きく寄与したと言える。
DIPS-1開発においては、3社の中では唯一富士通のみがDesign Automation(DA)を既に使っていたこともあり最初に開発に成功するが、日電・日立はDAを使っておらず設計ミスに悩まされることになる。IBMは50年代末頃に7000シリーズの設計に論理シミュレーションなどDAを既に使っていたが(DAは60年代になってUCバークレーで開発され普及していく)、富士通がDAを導入するのは60年代末となるが、日系他社は更に遅れていた。DIPSシリーズは生涯に2,500台が出荷されている。電電公社はコンピュータの飛び抜けて大きなユーザーでもあった。
DIPS-11では、日立がモデル10(75年9月試作完)、日電がモデル20(75年11月試作完)、富士通がモデル30(76年6月試作完)を開発している。性能比は10を1として、20は1.4、30は3。CPUの論理素子には多品種少量に対応できるマスタースライス(Gate-array)方式が採用されている。これは同じパターンのチップを製作し、第一層配線までは共通で作り、第二層目の配線パターンのみで多様なICを作り上げる方式で、低コストでfull-LSI化を実現し、ハード面ではIBMを凌駕することになる。富士通の場合(素子名MB11kシリーズ:ECL100ゲート,1000素子)、DIPS-11/30に加え、ほぼ同時期に開発された自社のMシリーズ、OEM生産するAmdahl社の470/V6に採用し、1台当たり2,000個程度(共通なものも有るので数百種程度)が搭載されている。MB11kの基本設計はアムダール社が行っているが、問題は当時まだこれに耐える本格的な多層配線プロセスが確立していなかったことにあったが、富士通のケースをみると、平坦化技術(SOG:Spin Oǹ Glass)を世界に先駆けて開発したほか、配線間絶縁膜形成、エッチング技術等を高度化させICの高集積化を飛躍的に高めることができる要素技術をMB11kの開発において完成させている。尚、DIPS-11/30 、Mシリーズ、470/V6ともIBM互換機である。
*2 電電公社向け部品の採算性は極めて高かった。電電公社向けシステムに使う部品は認定品規格として高い信頼性を要求されていたが、それを斟酌しても1桁近く高い価格であり、特に日電・富士通の半導体事業部門を潤した。値下がりの激しいICにおいて、当初設定された価格で購入が続けられたことにもよる。
欧州企業の立ち遅れ
PhilipsはWEと提携関係にあり早くからTRに取り組んでいた。但しかなり消極的で、48年10月に出されたasessment paperでは“現状では”としながらもTRは真空管を代替しえるものではないと結論している。Bell研が試作したTRラジオに関しては雑音が多く、一段あたりの増幅率が小さすぎ、Hf性能(高周波特性)が悪い、出力が小さいなどと酷評していた。Philipsは50年にGe-DIを製品化し、51年には点接触型TRを試作、53年頃にはイギリスのMitcham*1、オランダのNijimegen、ドイツのHamburgで生産を開始ている。早くも52年には点接触型TRの生産しているが、その後は合金型への移行が進み、欧州ではPhilipsがOCシリーズと名付けられたTR群により圧倒的なシェアを占めたが、それでも真空管事業と比べると売上比率は58年23%63年65%68年95%(IC含む)であり、且つ真空管事業の衰退により比率が向上したとこも有って、初期的には成功を収めるものの順調とは言えない。60年代に入った頃には合金型の衰退とともにPhilipsは半導体事業の勢いを失うことになる。尚、Philipsは日本では松下電器と資本技術提携し52年12月に松下電子工業*2を設立している。
製品への応用とではPhilipsは54年に補聴器、57年にポータブル型7TRタイプのラジオを発売するが、TR需要を牽引するほどの勢いはなかった。また、IBMと提携し53年より真空管式コンピュータの開発を行うが、56年には撤退しておりほとんど外販は行われていなかった*3。
欧州は半導体応用機器のコンピュータではIBM等米国企業に、民生機器では日本企業に席巻され、半導体産業を牽引する産業が弱く後れをとることになる。欧州ではTRメーカーとしてPhilips(半導体部門は独立しNXP)の他、ドイツのSiemens(半導体部門は独立しInfinion)、Telefunken、イギリスのSTC(Standard Telephone&Cable)、GEC(General Electric Company)、フランス*4のThomson、CSF(Compagnie Générale de télégraphie Sans Fil) 、イタリアのOlivetti の子会社のSGS( Società Generale Semiconduttori)*5などがあるが、いずれも歴史を持つ大企業であり、且つ、SGS(Olivettiはタイプライターなどの事務機メーカー)以外は真空管の代表的メーカーであった。
*1 イギリスの真空管メーカーMullardの工場。Mullardは1920年にStanley Mullardによって設立される。Stanley Mullard はイギリスの真空管メーカーMackeyやEdison and Swan Electric Light Company、および一次大戦中には英国海軍の研究所で真空管の研究開発を行ったのち1920年にMullard electronics companyを設立する。27年には資本業務提携関係にあったPhilipsの完全子会社となっている。50年頃においてPhilipsは欧州6か国に13の真空管工場を持っていたが、その内の6工場はイギリスのMullardの工場でありMullardがPhilipsの真空管事業の中核であった。Mullardでは、Micham工場(ロンドン市内)で1952年に点接触型TRの生産を開始、53年には接合型TRの生産を開始、合金型も早くから取り掛かり、57年に新設した欧州最大のTR工場Southamptonの操業開始時には合金型が生産の主力となっている。
*2 松下電子工業は資本金6億6千万円と松下電器の資本金5億円よりも大きかった。52年12月に設立され出資比率は松下70%、Philips30%。54年には大阪府高槻に工場建設し、松下電器内の電球等関連事業を移管するとともに、Philipsの新鋭設備を導入し真空管・ブラウン管等を相次いで生産。1957年5月にはGe-DI、同年11月にはGe-TR(合金型と思われる)の製造を開始している。
尚、技術提携に関しPhilipsは当初7%(4.5%で決着)のライセンス料(+技術指導)を要求したといわれる。一方、松下も経営指導料名目で3%を得ることになる。
*3 Philipsは60年代末期にオフィスコンピュータやミニコンで再度参入し、それなりの成功を収める。また、70年代に入るとフランス政府主導でフランスのCII(International Company for Informática)を中心に欧州の主要コンピュータメーカーが連携しUNIDATAというコンソーシアム結成の動き出てくるが、73年にCII、Philips、Siemensの3社でコンソーシアムが結成されるが、スパコンなど大型機分野への進出をはかるが、75年にはCIIがHonewell Bullと合併(CII Honeywell Bull)したことにより脱会し事実上UNIDATAは破たんする。
尚、Siemenseはその後、TelefunkenやNixdolfを吸収し、富士通(Siemense本体向け)や日立(SiemenseとBAFSの合弁会社COMPAREX向け)からIBM互換機のOEM供給を受け事業の再構築を図っっている。、
*4 フランスには、Bell研とほぼ同時にTRを開発したF & S Westinghouse(50年代初期には早々と撤退)や、Bell研と最初にライセンス契約を結んだ34社の内の1社であるLCT(日電と真空管技術供与)などもあるが、いずれもほとんど目立たない。
*5フランスのThomson、CSF、イタリアのSGSの3社は合併して、STMicroelectronics(21年売上128億ドル)となっている。
第三章 シリコンバレー
Stanford大学
20世紀初頭のSan-Francisco Bay Areaは北部に工業が発達していた。Bay Areaの東北端にあるVallejoにはミシシッピ川以西では最大の工場といわれたMare Island Navy Yad*1(海軍工廠)があった。1854年に設立され第二次大戦中には5万人を超す従業員を抱えた。それに対してBay Area南部は果樹園の拡がる田園地帯だった。
シリコンバレー形成の源流を求めるなら、1887年に鉄道事業で財をなしたLeland StanfordによってPalo Alto*1にStanford大学が設立にまで遡るべきかもしれない。そして1906年4月にSan Franciscoを襲った地震によってかなりの数の企業がPalo Alto周辺に移転してきた。この地震と5日間続いた火事によって3,000人が死亡し5億ドルの被害を被った*2。この時、American DeForest Wirejess Telegraphの無線通信網により自身のニュースがSan Diego停泊中の戦艦Chicagoに電信され、それを受け救助に出動し火事に追われた2万人を救助したが、これが自然災害において無線機器が活躍した最初だと言われている。当然の事、Mare Islandからの海軍部隊なども救助に活躍している。
シリコンバレーらしさのある企業としては、1909年にStanford大の卒業生Cyril ElwellによってPalo Altoに設立されたarc transmitter製造(デンマークから技術導入)のためFederal Telephone&Company(32年にITTが吸収)があった。Federalの設立の際にStanford初代学長(President:1891-1913年)のDavid Starr Jordanが500ドル出資すると、近隣の事業化たちがそれに続いたといわれる。また三極管の発明者であるLee DeForestも彼の設立したDeForest Radio Telephone&Telegramを追われた後2年間(11~13年頃)ほど、このFederalに勤めていた。これは設立して間もないFederalの評判を高めたという。Titanic号沈没*3の翌13年に、全ての客船への無線機の装備が義務付けられたことや、第一次大戦の軍需によりFederalは発展していく。ITTに買収された際、Federalはニュージャージー州に移るが、その際に退社した者の中に、自宅を作業場としてコングロマリットのLitton Industry*4の前身であるLitton Engineering LaboratoriesをRedwood(Palo Altoの北西10km)創業するにCharles Litton(Stanford大学出身)がいる。またLittonのFederal時代の部下には後にTIの共同創業者となるCecil Greenがいた。Littonは第二次大戦の軍需(レーダー用真空管など)で大きく成長する。
*1 厳密に言うと、行政的にはPalo Alto市には属していない、というかどこの市町村にも属してはいない。Santa Clara郡(Palo Altoなど15の市を含む)の直接的な管轄下にある。尚、徴税などの業務はPalo Alt市に委託。
*2 戒厳令が出され怪しいものは躊躇わずに射殺せよとの命令だだされた。
*3 Titanicは12年4月12日に遭難したが、結果はともかくとして無線が大いに活躍した。Titanicは12日だけで近辺を航行中の船舶から6回にわたり氷山に関する情報を受けたり傍受していた。遭難信号は58マイル離れていた地点を航行していた客船Calpathiaに受信され、Carpathiaは直ちに向きを変え全速力で航行し受信から4時間後(沈没から2時間後)に現場に到着し2,224人の乗客乗員の約1/3ほどの705名の救助を行った。
*4 Litton Industryは54年にⅭharles Thorntonに買収され、2001年にはNorthrop Grumman に買収される。VarianやHewlett Packardなどと共にSilicon valleyの前身と言えるMicrowave Valleyを代表する企業の一つである。Silicon Valleyの起源をShockley Transistor Corporationに求めるとするなら、Microwave Valleyの起源はFederal Telephone&Companyに求めることができる。
Hewlett Packard
Stanford大学教授のFrederich Termanは産学協同の核として、優秀な卒業生を起業家として育て大学の周辺に置こうとした。この施策に載って38年にWilliam HewlettとDavid PackardはPalo Altoの貸ガレージでTermanから借りた538ドルTermanがアレンジしてくれた1,000ドルの銀行ローンを元手に事業を起こす。最初の製品としてDisneyが製作していたFantasiaの為のaudio oscillator HP-200Bを8台製作した。そして翌39年にHewlett-Packard(HP)を設立している。大戦中,Termanは軍のレーダー探知阻止装置*1の研究に従事することになり、HPにマイクロ波発信機を発注する。これを契機に軍需用の計測器の大量受注に成功し成長の足場をつくり、シリコンバレーを代表する企業に発展して行く。HPの与えた影響は単に事業的な成功にとどまらず、HP Wayと称される従業員を信頼し自主性を重んじ失敗をも容認する企業哲学や厚生福利の充実(catastropic health insuranceなど)、従業員持ち株制ストックオプション制や、いわば組織合成の誤謬の弊害を除くために考案された事業部業績評価制度など、シリコンバレーの企業のみではなく世界的にも大きな影響を与えることになる。フレックスタイム制度などもHPがいち早く(Varianと競うように)導入したことにより広まって行ったと言える。
これらは東部の企業に対してシリコンバレー企業を大きく特徴づけることになる。Fairchildはシリコンバレーの企業であったとしても、親会社のFairchild Camera&Instrumentは東部企業であり東部の流儀で経営されていたためNoyceやMooreまでもがスピンアウトする一因となった。
その後、TermanがStanfordの(副)学長*2(Provost)の時、学校経営に窮し*3大学の所有地209エーカー(84万㎡)をリースして51年に研究工業団地(Stanford Industrial Park→Stanford Research Park)をPaloAlto市と協力して創っている。当初進出したのが電子機器メーカーのVarian Associates*4(48年創業)やHPである。VarianはTermanが役員を兼務する会社で4エーカー(16,000㎥)の土地を年16,000ドル99年契約でリースした。55年にはHPは本社も入居している。現在は700エーカー(280万㎡)に拡張され、設立当初からのVarianやHPにくわえ、TeslaやSkypeなど150社が入居している。
*1 第二次世界大戦で、連合軍はドイツのレーダー技術によって多大な被害を受けている。ドイツは国内および占領地域にレーダー網巡らし、制空権を握っていた時期があった。ドイツのレーダー網に対する対策として米軍はMITのRadiation Ⅼaboratoryを母体にしてHarverd大学にRadio Research Laboratory (RRL)を設立したが、Tarmanがその責任者を務め850人ほどの研究者・スタッフを率いていた。“細かく切ったアルミフォイル”(chaff)を航空機からばら撒くことによって独レーダー網を錯乱することができるようになったが、このⅽhaffを開発したのがRRLである。当時、米国のアルミホイル生産量の過半は対独のレーダー対策に使われていたと言われている。当初は手で撒き、後には自動機で撒いている。大戦末期にはresnatron(高出力の真空管)を使った電波によるレーダー探知阻止装置を開発している。
Tarmanは戦後、Stanford大学に戻るとMicrowave Reaerch Laboratoryを設立し、RRLの研究者をStanfordに呼び寄せている。1950年代にはスタンフォード大学周辺には主に軍需産業に携わるマイクロ波関連企業の一大集積地”Microwave Valley”がsiliconに先立って形作されることになる。Litton、Varian、HPなどは、Microwave Valley企業の先駆けである。
*2 米英アイルランドなどの大学にはProvostと言う役職があるが、日本で言う副学長とはかなり意味合いが異なっている。また、大学により役割は異なる。理事長(President)に対する学長(Provost)という位置づけに近いのでは。尚、ライス元国務長官はスタンフォード大学の第10代Provostであった。
*3 米国の私立大学は潤沢な基金(University endowment)を持っているが、21年時点でStanfordは378億ドルとHarberd(519億ドル)、Yale(423憶ドル)に次ぐ第三位の資金量を誇っている。4位Princeton(377億ドル)、5位MIT275億ドルと続く。尚、学生1人あたりでは、Princeton4,478千ドル、Yale3,506千ドル、Harverd2,701千ドル、MIT2,307千ドル、Stanford2,192千ドル、これにPomona1,793千ドルが続く。Stanfordなどは大学院を持つ研究型の大規模大学であり、年間予算も大きいが、リベラルアーツ系の大学であるPomona大学(カリフォルニア州Claremont)は学生総数1,690人に対して基金3,030百万ドル、年間支出が245万ドルに過ぎず実質的には最も財政的に豊かな大学の様である。
*4 Varianはマイクロ波用真空管メーカーとして創業したが、真空技術などを生かしICの配線用のアルミなどの蒸着装置・スパッター装置メーカーとして半導体産業とともに発展する。
Varianはスパッター装置関連と分析装置関連を、HPを分割して誕生したAgilent Technologiesに、Ⅰon Ⅰmplantation(不純物注入)装置関連)をApplied Materialsに売却し、医療機器関連を残していたが、21年にSiemenseに売却している。
LLNLとIBM
1951年9月にLawrence Livermore National Laboratory(LLNL)がCalifornia大学Berkeley校の付属施設としてLivermore(Palo Altoの北東46km)に開所されロスアラモスと並ぶ核開発の中心となる。コンピュータにとってはLLNLに導入されることは最高性能の証であり極めて重要な意味を持つ。IBM、Sperry Rand*1、CDCなどはLLNLをターゲットユーザとして製品開発を行っていた。Super Computerの走りで或る。冷戦の最中、核開発に最も積極的な時期であった。LLNLの持つ意味は極めて大きく、例えば、Sperry Randは50年代末に接合型TR6万個を搭載したLARK*2を開発するが、これはLivermore Advance Research Computerの略であった。また、IBMはかなり背伸びした開発計画を立て、悉く失敗してしまうのもLLNLのニーズに応えようとした為だといわれる。
コンピュータ開発は戦時下に始まり、その産業としての発展も軍需に依存したものだった。軍需から得られる開発成果・利益で民需事業を推進する構造が50~60年代のハイテク産業であるコンピュータ、半導体産業の典型的なパターンであった。IBMがコンピュータで本格的に民需に参入するのは54年の小型機BM650からであり、その成功により60年頃には民需異存が5割を超すが、60年代になっても依然として政府関係の重要さは高かった。
IBMは52年San Jose(PaloAltoの南東25km、Livermoreの西南40km)にSan Jose Research Laboratory(86年にAlmaden Research Centerに改称)を設立する。ここでの開発成果としては55年に世界初のHDD装置であるRAMACがある。RAMACは用量5百万語(1語7its構成)、制御回路には真空管が使われ重さは1トンあった。翌56年9月にIBM350*3として出荷された。
IBMは55年より超高性能機の開発を開始する。そして61年4月に169千個のTRを搭載し、768kバイトのコアメモリーを持ったIBM7030*4(Sretchマシン、価格1,350万ドル)を出荷するが、プレアナウンスしていた性能に対して半分程度しか出せなかった。価格を778万ドルに引き下げたが8台(事前予約分のみ)しか売れず1年足らずで販売を中止する。ただ、SperryのLARCの販売阻止効果は十分にあった。
63年8月にCDC(Control Data Corporation)*5はCDC6600の発表(64年8月に出荷開始、1号機はLLNLへ)を行う。価格は700~1,000万ドルで35万個のTRを使っていた。CDCはSeymour Crayに率いられた僅か30人ほどのチームによって開発された。60bit機で74種の命令を持ちRISCのルーツとも言える。またパイプライン的な処理機構を持っており先進的な設計であった。約100台が販売され、更に69年には後継としてDC7600が開発される。
IBMはCDC6600との性能争いに負けると、迅速な対応をし大きな成果を上げる。CDC6600のは出荷が始まる64年8月にIBM360/92のプレアナウンスを行い、更に2ケ月後の10月末に開催されたAFIPS’64 Fall joint Computer ConferencesにおいてIBM360/92に関する技術面での発表を行いCDC6600の出鼻を挫こうとした。プレアナウンスから商談を開始し、出荷は1年程度後と言うのが一般的と言えるが、360/92の場合は、開発を始めるのは翌年になってからで、IBM7030の100倍の性能を目指すACS(Advanced Computing Systems)のプロジェクト・チームが編成されている。核となる技術者はWatson研(ニューヨーク州Yorktown Heights)やPoughkeepsie(ニューヨーク州にあるIBMの開発製造の主力拠点)、San Joseから10数人づつ集められ、Sunnyvale(San Joseの西方数km)に集結し、翌66年にこの部隊はMenlo Parkへ移転する。組織は拡大し末期には200人に達するが、開発方針の変更(88年5月に360シリーズとの互換性を持つよう変更する)などによる混乱もあり開発に失敗し69年にはACSプロジェクトは解散する。67年6月にCDC6600の後継のCDC7600の出荷が始まるが、それにACSは対抗する性能を出せなかったと思われる。開発には失敗したものの、CDC6600の販売を抑えることには成功したと言われる。尚、71年3月に4年遅れでIBM 360/195がCDC7600対抗機として出荷されるが、7600を機能的に上回るものではなかった。
68年12月にCDCは独禁法違反等(計37項目)で提訴しIBMは6億ドル*6を支払うことになる。司法省もCDCに続き69年1月に独禁法違反でIBMを提訴する。
*1 55年にSperryがRemington Randが買収して誕生。尚、Remington RandはIBMと同様PSC(パンチカードシステム)等の事務機器メーカーであるが、ENIACの開発者のEckertとMauchlyが46年に設立したEckert-Mauchly Computerを50年に買収してコンピュータ事業に進出している。
尚、ENIACは世界初のコンピュータであるとされているがかなり怪しいものである。ENIACには10進法が採用されていたり、またプログラムはパンチカードなどで読み込む方式ではあったとは言え、ハードの変更(パッチパネル盤を使ってスイッチや配線を変更)を必要とし、プログラムの変更のために1週間は要するしのものだった。
一方、ドイツでは41年に2進法(10進法に比べハードを単純化できる)を使い、プログラム変更がハードに依存しない方式のZuse Z3が既に実用化されていた。IBMは46年にKonrad Zuseから特許使用許諾を取得している。Zuse3が今日のコンピュータの源流といえそうである。
尚、ENIACに関する特許が成立していたが、Honeywellが特許を保有するSperryを67年に提訴。コンピュータの発明は42年にアイオワ州立大学で開発されたAtanasoff-Berry Computer(ABC)だとして、ENIACに関する特許は無効になっている。ABCは2進法を使った電子式計算器で、且つ演算と記憶する部分が分離していた。
*2 Super computerの走りで、60年6月にLLNLに納入された。翌61年4月にIBM7030が出荷されたため、2台(もう1台は海軍)しか売れなかった。当時Planer TRの性能が上がっており、それに対しLARKは1世代前の成長型TRを使っていた。尚、開発の中心となったのは中国出身でENIAC開発メンバーであったJeffrey Chu。
*3 IBMは周辺装置に優位性を持っていた。圧倒的なシェアを持つPCS(Panch Card SYSTEM)などもろもろの機器をコンピュータシステムに組み込み、更にはHDD装置などを開発した。他社はCPU装置では優れていたとしても、とりわけ事務用のシステムの性能では総合的には劣Nり、IBMの周辺機器に依存せざるを得なかった。IBMは寡占力を持つ周辺装置の収益でコンピュータ事業を優位に進めることができた。
尚、大型の汎用機(事務用)としてはRemington RandのUNIVAC 1の出荷は51年、IBM704は55年とIBMは出遅れていた。
*4 LARKに敗れたLLNLのプロジェクトを引き継ぎ、更に発展させたものでLos Alamos National Laboratory(LANL)のプロジェクトとして開発が進む。性能が出ず1号機は値引きしてLANLへ納入された。IBMとしては最初のスーパーコンピュータの試みであった。CDC6600が出荷される64年までの3年間は世界最高速のマシンであった。
*5 CDCはWilliam Norrisを中心とする戦時中海軍で暗号解読器を開発していたメンバーが、46年に航空機関連メーカーであるChase Aircraft Companyにチームごと引きとられ、Engineering Research Associates(ERA)がミネソタ州セントポールに設立される。52年にERAはRemington Randに売却され、57年9月にチームは集団退社しCDCを隣のミネアポリスに設立。約30人の技術者集団である。尚、Seymour Crayは50年にチームに加わっている。
*6 裁判は非公開であった。数千万ドルと推定されていた。約30年後、DECでVAX開発の指揮を執ったGordon BellがSeymour Crayの追悼公演の際に6憶ドルだったと言及していた。
Traitorous EightとDirty Dozen
54年にShockleyはBell研を去り、自らが発明した接合型TRの事業化の為の資金提供者を求め米国中を訪ねまわっている。そしてCalTech大での恩師で科学機器メーカーのBeckman Instruments (現Beckman Coulter)の創業者Arnold Bechmanの援助により56年*1にShockley Transistor Corporationを故郷であるMountain View(Palo Altoの南東8km)に設立する。 この時Stanford大のTermanが研究者の採用などで協力したといわれる。この会社は59年にはClevite Transistor社に売却され、更に65年にはITTに売却され、68年には閉鎖されることになる。ShockleyはCleviteへの売却後もコンサルタントとしてとどまるが、61年に交通事故で重傷となり退く。その後63年から72年までStanford大で教鞭をとっている。
*1会社発足時には25名であった。55年から採用活動を始め、先ずWilliam Happ(Raytheonから)、George Horsley(Bell研)、Leoppld Valdes(Bell研)、Richard Jones(UC Berkeley)の4人が採用されている。尚、最初に採用された4人の内、56年にValdes、57年にJones,58年にHappが去っている。去るものも多い一方、人材には事欠くことは無かった様で、例えば58年にはドイツからHans Queisserが入所し結晶関連の研究開発に従事し、61年にはShockley–Queisser limit として知られる太陽光の電気エネルギーへの変換効率が最大30%であることを解明したりしている。
尚、事業的には1958年までにBeckmanは100万ドル以上を注ぎ込むが、その時点でショックレーが執着したP-N-P-N型Diを日産数百個生産するが、特性にバラツキが大きく本格的に採用をするユーザーはなく事業的には依然として立ち上がらず、Beckman は58年にshockley semiconductor laboratoryと改称した上、Clevite Transistor社に売却する。尚、CleviteはTRの最初の発明者とも言えるドイツ人Herbert Mataré の設立した German Intermetall も55年に傘下に入れている。
Traitorous Eight
56年にShockley Transistor Corporationが設立されると、Shockleyの名声に引かれて、Philcoで表面障壁型TRの研究をしていたRobert Noyce、 John Hoppkins大からGordon Moore、Western ElectricからUgene KleinerとJulius Blank、Dow ChemicalからSheldon Roberts、CalTechからJean Hoerni、Stanford大からVictor Grinich、MITからJay Lastなど全米から研究者が集まってくる。
しかし設立早々、NoyceをリーダーとするグループとShockleyの間に対立が起きる。将来性の高いシリコン酸化膜を用いた選択拡散法*1によるTRの開発を主張するNoyce らに対し、Shockleyは自分のこれまでの研究の延長にあったP-N-P-N型のスウィッチング素子*2(サイリスタ)の研究を推進したことが対立の契機と云われる。
56年にShockleyはBell研の同僚であったBrattain、Bardeenとともにノーベル賞を受けるが、間もなくNoyceとMooreをリーダーとしてKleiner、Blank、Roberts、Hoerni、Grinich、Lastの8人が去ることになる。この8人は57年9月にFairchild Camera&Instrumentの創業者Sherman Fairchildの援助でFairchild Semiconductorを設立する*3。この8人の他にChih-Tang Sah*4(59年)やHarry Sello(59年2月)も後にFairchildに加わる。
Fairchildの立ち上がりは順調だった*5。Bell研で開発されたSiメサ型TRに集中し、58年には売上50万ドル、59年7百万ドル、60年24百万ドルへと増加する。IBMからからB-70爆撃機のコンピュータ用航空機メーカーのNorth American Aviation (NAA)からミニットマン・ミサイルの誘導システム用にSi NPN Mesa型の高速スウィッチングTR2N697/2N697を受注し飛躍の契機とする。価格は1個100ドル強だった。61年には世界に先駆け汎用ICのMicrologicシリーズを出荷する。軍用機製造のMartin Mariettaの汎用コンピュータMARTAC 420などに搭載された。価格は1個120ドルだった。
しかし、この8人もFairchildに長く留まることはことは無かった。まず、61年にKleiner、Roberts、Hoerni、Lastの4人がAmelcoを設立する。これは直にTeledyne社に買収される。Hoerniは64年にUnion Carbiteに移り半導体半導体部門を創設し、更に67年にはIntersil*6を設立する。
HoerniはPlaner技術の開発者として名高い。Planer技術は表面を酸化膜で覆う(選択拡散の際の遮蔽物として形成した酸化膜を除去せずに残すと言うべき)ことにより劣化問題を解決したのみではなく、IC化への道も切り開いた。KilbyとNoyceがICの発明者であるが、いわゆるNoyceの“Semiconductor device-and-lead structure”はPlaner技術を使ってKilbyの“Miniature semiconductor integrated circuit”の完成度を大きく高めたものである。
Kleinerは72年にThomas Parkinsと設立したベンチャーキャピタルのKleiner Parkinsの設立者としても有名である。Robertsもベンチャーキャピタリストになっている。
残る4人の内、GrinichはStanford大学へ、BLANKは60年代後半にコンサルタント会社を設立しており、残るのはリーダー格であったNoyceとMooreの2人だが、彼らも68年に去ってIntelを設立することになる。
シリコンバレーでのスピンアウトは60年代後半が特に激しい。この時期、東部の企業で撤退・事業売却する企業が相次ぐ。フロリダに59年に設立されたSolitronという今では忘れられてしまったような軍需中心(現在も売上12百万ドルの内の8割は軍需関連)の半導体メーカーがあるが、60年代後半には立て続けに買収を行っていた。Honeywell、Bendix、Sperry、Union Carbidとそうそうたる顔ぶれから半導体事業を買収している。そうした大企業の大企業の事業売却が60年代後半に集中するが、それに伴い人材も流動化する。シリコンバレーでもMOS-ICで先駆的な役割を果たしたPhilco-Ford Electronics(Fordが61年にPhilcoを買収)が68年に閉鎖される。Philco-Fordは63年にFairchildからスピンアウトしたJames Fergusonらにより設立されたGeneral Micro‐Electronics Inc.(GME:7番目のFairchildren)を買収していたが、GMEはトップを切ってMOS-ICの商品化をし、キーテクノロジーであるSi-Gate技術を開発した会社であり、MOS技術の将来性が高いこともありPhilco-Ford Electronicsの閉鎖は数多くのFairchildrenを生むきっかけとなる。Farechildに起源をもつ半導体メーカーは80年代半ばに数えたら126社にのぼったと言われる。
*1 熱酸化によってシリコン酸化膜形成しフォトプロセスを使ってパターニングし拡散の際の遮蔽物として用いた選択拡散法は57年にBell研のCarl FroschとLincoln Derickによって開発される。初期のIC製造の為の要素技術が出揃うことになる。
*2 50年にShockleyが考案、bell研などで研究が進み、56年にGEのFrank Gutzwillerによって開発され、58年初頭に量産化される。但し、Shockleyが目指したのはスィッチング素子でありGEの開発したものとは異なる。
*3 後にベンチャーキャピタリストとなるKleinerが投資銀行Hayden StoneとNoyce達を仲介する。Hayden StoneのArthur RockらがNoyceらにSherman Fairchildを仲介し、Sherman Fairchildは130万ドルを出資する。
*4 Sahは56年にShockley transistorに入社した初期のメンバー。中国出身。Stanford大で博士号取得後入社。63年にFrank Wanlassと共にCMOSを開発。尚、Sahは64年にIllinois大学へ、Wanlasも64年にGMEへ去っている。
*5 ほとんど市販されている半導体製造機器などは無かった時代であり、半導体メーカーは独自で試行錯誤しながら製造装置を開発していた。Si結晶製造装置、マスク製造装置(photorepeater)、拡散酸化炉、アルミ蒸着装置などなど。治具なども手作りで、例えばICチップのワイヤーボンディングに使用されるキャピラリーは細い管を通じてボンディングワイヤ(金線やアルミ線)がキャピラリーの先端から繰り出される構造となっているが、市販の温度計の水銀を抜きそれを加工して作っていた。
*6 Intersilは78年にNorthern Telecomの資本参加を受け、83年にはGEにより買収されGE Solid State Semiconductorと改称された後、85年にHarrisへ売却される。99年にHarrisの半導体部門がManagement Buyoutによって独立しIntersilの社名が復活するという変遷を辿った。ルネサス(日電・日立・三菱の半導体部門が統合)によって17年の3,000憶円で買収される。
Dirty dozen
シリコンバレー同じ頃にIBMのSan Jose研などからのスピンアウトが相次ぐ。またACS開発の失敗*1により人材の流出を招くことになる。
IBMのSan Jose研のVic Witt’s strage products groupから67年12月に12人(技術者が主、その他Financial analystなど)が集団でスピンアウトしInformation Storage System(ISS)を設立しIBM2314*2コンパチブルのDisk Storage Systemを開発する。IBMにとっては前代未聞の出来事だったようである。但し、この12人のスピンアウトは序の口に過ぎず、68年夏にはAlan ShugartがMemorexに転社すると、多くの技術者がShugartの積極的なリクルートによりその後に続き、その数は200人に近かったと言われる。Shugartはその後、Memorexを去り73年1月にFDDのShugart AssocistesをFinis Conner等9人ともに設立する。更にShugartとConnerは78年にHDDのSeagate technologyを設立し、そこらConnerはスピンアウトし85年にはやはり低価格の民生向け製品に特化したHDDのConner Peripheralsを設立し、このIBM San Joseからのスピンアウトは後にFDDやHDD関連のベンチャーをシリコンバレーに濫立させることになる*3。HDD市場は現在(22年)までに統合が進みSeagate(40%)とWestern Digital(40%)、および東芝(20%)の3社による寡占状態でであるが、嘗ては競争の激しい市場であった。そしてアジアの4社(富士通・サムソン・東芝・日立)を除けば、そのほとんどがIBMからスピンアウトした技術者たちによって設立されたものであったと言っても過言ではなさそうである。IBMのストレージ部門からのスピンアウトは80年代になっても続いていた。
一方、IBM Melon Parkでもスピンアウトの動きが始まる。69年にACSは開発中止が決定されるが、その直前にはRussell Robelen等3人がIBMを去りMascor(Multi Access System Ⅽorp)を設立している。これにFred BuelowやJohn Zasioなども加わり、総勢20人ほどがIBMを去っている。
そして、70年7月にEugene AmdahlがIBMを去り12月にIBMコンパチ・大型コンピュータ開発のAmdahl Corp*4を設立すると、ベンチャーキャピタル*5からの追加出資獲得に失敗し破綻したMascorからも15人ほどが合流しするほか、泡沫的に誕生し破綻したBerkeley ComputerやGemini Computerなどからの技術者もAmdahlに合流していく。その後、Amdahl社は急速に人員を増やし73年頃には600人を超えるが、その後、人員を半減させるなどのリストラを行い、それがまた人材の流動化を招くことになる。
これらIBM Menlo ParkやAmdahlから流出した技術者たちがFederico Fagginや嶋正敏らを継ぐ第三世代のMPU開発者としてシリコンバレーで活躍していくことになる。
*1 IBM Menlo ParkでのACSプロジェクトは失敗に終わるものの研究としては後のMPUに大きな影響を与えることになる。RISK MPUの原型と言うべきものがプロジェクトの一員であったJohn Cocke考案されている。CrayのCDC7600に始まるRISK architectureはCockeによって80年にIBM801 MPUとして完成を見ることになる。
*2 66年に発売され360シリーズおよび370シリーズに使われた。MemorexからもMemorex660としてコンパチ機が出されている。ISSの開発したコンパチ機はTelexから販売されている。尚、MemorexとTelexは88年に合併しMemorex‐Telexとなる。96年に倒産。
尚、69年には、Jesse Aweida, Juan Rodriguez, Thomas Kavanagh, Zoltan Hergerの4人がスピンアウトとして、IBMコンパチのHDD装置のStorage Technology Corporation.設立している。HDDでは或る程度の成功を収めたものの、IBMコンパチの大型コンピュータ開発に乗り出し失敗し84年に破綻する。
*3 2000年のHDD業界の主要企業を見ると、Connerを買収しtopに立ったSeagate(シェア21%)を筆頭に、Quantam(16%)、Maxtor(14%)、IBM(13%)、富士通(13%)、Western digital(10%、Tandon)、サムソン(5%)、東芝(4%)、日立(3%)の10社で99%のシェアを占めていたが、この内、Seagate、Conner、Quantam、Tandonの4社はIBM、Memorexを経た技術者たちによって設立され、MaxtorはIBMからの直接のスピンアウトである。
尚、SeagateはQuantam、Maxtor、サムソンを買収、Western digitalはIBMを買収した日立を買収、東芝は富士通を買収し、現在の3社体制となっている。
尚、HDDのキーパーツとして、ヘッド、モーター、メディア(アルミないしはガラスの基板)があるが、モーター、メディアに関しては日系企業が圧倒的なシェアを持っている。日本電産は83年から始まるSiegateとの取引(2000年にはSeagateのモーター部門買収)によって飛躍の機会を得たといえる。ヘッドに関しては集約化の進展に伴い内製化が進んでいるためTDKなど独立系のシェアは下降気味だが、非HDDメーカーとしては同じく日系企業が圧倒的なシェアを持っている。
尚、HDDからフラッシュメモリーを使ったSSD化が進んできているが、Western digital(傘下のSandisk)と東芝はSSDも手掛け、且つ両社は協力関係にある。
*4 Amdahlは設立早々資金に窮した。期待したベンチャーキャピタルからの出資が思う様には集まらなかった。71年にシカゴのベンチャーキャピタルHeizer Corporation より2百万ドルの出資を受けられた程度あった。同年富士通と提携し5百万ドルの出資を受け、翌72年には独Nixdolf社と提携し6百万ドルの出資を受け、これらに続き富士通の追加出資などで約20百万ドルを調達する。
事業資金は当初33~44百万ドルと想定されていたが、一時大きく膨らみかけたものの、富士通のIC技術や高密度実装技術との統一を図り(空冷を可能とした)、且つ富士通への生産委託により開発費用の削減、人員の大幅削減をするものの、結果的にはオイルショックによる物価上昇もあってか47.5百万ドルを要した。
470V/6の1号機を75年6月にNASAに納入している。翌76年には株式公開を果たしている。尚、富士通の類似機種DIPS-11/30やFACOM M-190に対して1年先行しての出荷である。
*5 70年代にはいるとベンチャーキャピタルの出資姿勢が厳しくなり、追加出資を受けられず破綻するベンチャー企業が多くなる。、
ベンチャーキャピタルは、1958年にSMALL BUSINESS INVESTMENT ACT(SBIC:中小企業投資法)」が制定されたのが契機となり濫立することになる。SBICは、政府からの低利の借り入れや債務保証で資金調達ができ、それを原資にベンチャー投資を行うことができた。60年初期には600社近いSBICが全米で誕生したとされる。60年代にはシティ・コープなどの大手の金融機関、EXXONなど大企業、年金基金、大学のEndowment(例えばHarvard大は2021年時点で532億ドルを持つ有数の機関投資家である)もベンチャー投資に参入し、ベンチャーキャピタル業界はブームを迎えていた。しかし、69年のキャピタルゲイン課税の強化(29%→49%)や不況による株式市場も低迷もありベンチャーキャピタルは不振に陥ることになる。不振からの脱却の喫機は74年のERISA法(従業員退職所得保障法)による年金基金に対する分散投資の奨励やキャピタルゲイン税率の78年の引き下げ(49%→28%、81年には20%)により再度ブームが訪れる。
スプ―トニックショックと産軍複合体
半導体産業の草創期は産軍複合体*1(Military-industrial complex)華やかなりし時代であった。冷戦を背景に軍事予算は増え続け50年代末期にはGDPの10%(2020年3.74%)を占めるに至っていた。企業と軍、更には議員の癒着が問題となっていた時期で、アイゼンハワー大統領は退任の際に警告したほどだった。ケネディー政権になりRobert McNamaraが国防長官(61~68年)となる。Harvard Business Schoolで助教(Assistant professor)を務めた後、二次大戦中は陸軍で統計学を使って戦略爆撃の立案などに従事し、戦後Ford Mortorsに移り,Ford社長から国防長官に転じた。McNamaraは軍の予算管理に経営学的手法を導入した。Planning Programming Budgeting System(PPBS)を導入し、その手法であるDevelopment Concept Paper(DCP)により、効果、スケジュール、費用積算、技術リスクなどをチェックし進行中のプロジェクトの見直しさえ行っている。これによりBoeingのB70爆撃機の開発を打ち切ったりした。また物資調達に競争原理を導入するためセカンドソースを求めさせるようになったのもこの時期である。それでも軍事予算はベルリン機器、キューバ危機、更に言はベトナム戦争の泥沼化により膨れ上がる一方だった。ABM(Antiballistic Missil)の配備計画に400憶ドルを申請されたりする。
ソ連の原水爆開発の成功に続き、ICBM(大陸間弾道ミサイル)の成功やスプートニク打ち上げ成功*2により危機感が煽られる。
半導体産業の立ち上がり期に、軍とNASAが提供した膨大な研究資金と調達によって半導体は技術・市場とも発展していく。50~60年代半ば頃までは軍やNASAの調達の場合、公開入札を行うことが原則とはなっていたが、競争原理が働くのはごく初期の段階に過ぎず以後は随意契約に近いものであった。軍は価格よりも性能を重視し企業が要して全ての費用と一定の利益を支払う方式を採った。半導体の場合、不良品も買い上げてくれるようなもので、歩留向上へのインセンティブが働かないどころか、悪ければ悪いほど売り上げも増え収益も上がることになるというとんでもない仕組みであった。70年代に入り軍拡競争から軍縮へと転換する。軍やNASAの予算が削減されるが、それに加え、McNamara時代にセカンドソースを求める調達方式に変えたことも大きく影響する。
*1 産軍+学の複合体と言うべきかも。大学も研究費において軍に対する依存が大きかった。
*2 この頃の米ソの軍拡・宇宙開発競争及び主な出来事を見ておくと;―
49年03月 ソ:原爆実験成功
52年11月 米:水爆実験に成功
53年08月 ソ:水爆保有宣言
54年01月 米:原子力潜水艦ノーチラス号進水
54年03月 米:ビキニ環礁水爆実験
57年08月 ソ:ICBM成功
57年10月 ソ:人工衛星スプートニク打ち上げ成功
58年01月 米:人工衛星エクスプローラー1号打ち上げ成功
59年01月 ソ:ルナ1号月の近傍6,000㎞を通過、9月ルナ3号月面に到着(激突)
61年04月 ソ:ボストーク1号による有人宇宙飛行(地球周回)成功
61年06月 米:マーキュリー・レッドストーン3号による有人弾道飛行成功
61年05月 米:ベトナム直接介入開始
62年02月 米:フレンドシップ7号による有人宇宙飛行(地球周回)成功
62年10月 米ソ:キューバ危機
62年07月 米:通信衛星テルスター1号による仏米間テレビ中継成功
63年11月 米:リレー衛星(62年12月打ち上げのリレー1号を使って)による日米間テレビ中継成功
64年07月 米:無人ロケット・レインジャー7号月面着陸(激突)
64年10月 中:核実験成功、67年6月水爆実験成功、核保有国となる
65年07月 米:マリーナ4号、火星を周回し撮影に成功
67年10月 ソ:べネラ4号金星に軟着陸
68年01月 米:米軍ベトナム派兵55万人に達する
69年01月 米ソ:第一次戦略兵器制限交渉(SALT1)の予備交渉開始
69年03月 ソ中:ダマンスキー島事件を契機に、中ソ国境線を挟みソ連軍658千人、中国軍814千人が対峙
69年07月 米:アポロ11号月面着陸、人類が初めて月面に降り立つ(これを受けソ連は技術的問題も有り月面着陸計画を断念)。
71年07月 米:ドル防衛策発表(ドル・ショック)
72年05月 米ソ:SALT1及び弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約調印、デタントの時代へ
73年01月 米:ベトナム戦争終結、69年以降米軍は撤退を続け、終結時には24,000人にまで減っていた
73年06月 米ソ:核戦争防止協定調印
73年10月 オイルショック
シリコンバレーと軍需産業
シリコンバレーの代表的な軍需企業*1としては、56年にSunnyvale(PaloAltoの南東14km)に進出したLockheedがある。ここで人工衛星や戦略ミサイルの制御システムなどの開発や、それらシステムのIC設計などが行われていた。80年代中頃まではLookheedのSunnyvaleがシリコンバレー最大の事業所だった。CADAMはここで開発されコンピュータ産業発展に多くな役割を担うことになる。
米国西海岸は航空・宇宙・軍事関係の集積の高い地域で特にLos Angels近郊には空軍の最大の拠点であるEdwarda空軍基地があり、その南のAntelope ValleyにはLookheedやNorthropの本拠がある。またantelope ValleyにはRockwellのSpace Divisionが置かれここを中心にGeneral Dunamics、Grumman、McDonnell Douglassなど約100社のサブコントラクターの協力により250万店の部品からなるスペースシャトルの開発・製造がおこなわれた。またJet Propulsion Laboratory(ジェット推進研究所)もLos Angels近郊のPasadenaにある。
55年に汎用計算機であるIBM701のLos Angels地区のユーザーを中心にしてSHARE(Society for Handling Avoid Repetitional Effort)が結成されている。当時のコンピュータ―はOSでさえ、必要ならばユーザーのプログラマー等が独自で作成していた。GMやNorth American Aviation (NAA:現Rockwell)のプログラマー等の手を経て改良されていったGM-NAA I/O*2というプログラムがあったが、SHAREではこれをベースにしてSOS(Share Operating System)を作成したり、Assembly言語のSAP(Share Assembly Program)などを開発したり、ユーザーグループ間のデータ交換のため磁気テープの記憶方式の統一をするなど先駆的な役割を果たしている。このSHAREの中心メンバーだったのが、これら西海岸のコンピュータの先進ユーザーである軍需関連企業であった。
Bay AreaはMare Island Naval Shipyard、San Francisco Naval Shipyardや小型護衛空母などを建造した民間のKaiser Shipyards(Richmond市)など軍艦建造の集積地であり、二次大戦中は建艦の半分はBay Areaでなされたと言われる。また二次大戦後は軍のR&D契約の3分の1をカリフォルニア州が占め、軍との結びつきが強かった。他州で創業した半導体メーカーも本拠をシリコンバレーに移す動き*3があったが、シリコンバレーの優位性は半導体装置メーカーなどサポーティングインダストリーの集積などもあり高かった。
ICの需要としては、60年代中頃までは軍需産業が大きな比率を占めていた。65年のICの企業別売上は、TI 26百万ドル、Fairchild 18百万ドル、WH 12百万ドル、Motrola 7百万ドルと主要4社で4分の3近くを占めていた。
*1 カリフォルニア州は航空宇宙を中心に、軍需産業の一大集積地であった。69年のデータでは、国防省の調達(Military Prime Contract)の総額35,249百万ドルの内、カリフォルニア州が6,824百万ドル(19.4%)を占め、二位のニューヨーク州の3,074百万ドル(8.7%)の2倍以上であった。特にミサイル・宇宙関連(missile and space system)においては全体5,474百万ドルの46.6%の2,550百万ドルを占めた。また、発注内容として、Hard goodsとRDT&Eの研究開発関連(Research, development, test and evaluation work)に分けられるが、RDT&Eにおいて全体で5,940百万ドル(70年)の内の36.3%の2,154百万ドルをカリフォルニア州が占めるなど圧倒的であった。こうした軍需との結びつきがシリコンバレー発展にとって極めて大きな役割を果たし、シリコンバレーは産軍複合の時代の申し子であると言えそうである。
*2 GM-NAA I/Oは、GMで作成されたInput/outputプログラムをベースにして、North American Aviation (NAA:元Rockwell)で機能追加され、更にまたGMで機能追加され作られていった。これが世界初のOSと言われている。例えば機能としては、コンピュータ処理では一つのプログラムを実行するのに、パンチカードを読み込ませたり、紙テープのデータを読み込ませたり、演算処理、ソートなど多くの処理から成っているが、GM-NAA I/Oプログラムを使うと、一つの処理が終わると自動的に次の処理を行うことができ効率化がはかれた。40社ほどで使われていたと言われている。
*3 例えば59年にコネチカット州で創業したNational Semiconductorは67年に本拠をSanta Clara市(Palo Altoの南東21㎞)に移している。Fairchildからスピンアウトして62年に設立されたⅯolectroを買収していたが、そこに本拠を移した形である。且つ、FairchildからCharles Sporckら5人の幹部を引き抜きSporckをトップ(社長兼CEO)に登用している。60年代後半頃には半導体製造装置や原材料など高度化が進み、また先進企業で経験・ノウハウを積んだ人材の獲得などシリコンバレーには半導体産業にとってのインフラ形成も進んできておりビシネス環境が整備されて来ていた。TIやMotorolaのような大企業はともかくとして、中堅・小規模企業にとって他地域はデメリットが目立つようになってきていた。
60年頃までは、半導体製造装置は自社開発せざるを得なかったが、60代半ば過ぎには日本でさえ、例えばアルミ蒸着装置ならばTemescal(53年Livermoreで創業、67年Aico-Temescal)が導入されていた。また、日電はバリアンとの合弁で日電バリアンを設立し、日電の真空機器部を分離・統合しその母体とし、蒸着装置(スパッタリング装置)やドライエッチング装置などを開発し販売している。
なお、日本のコンピュータ系の主要半導体メーカーの場合80年代初めまでは光学系機器を除くと自社開発装置(製作は外注)が多かった様である。先端技術開発のキーが装置開発でもあった。
R&Ðの軍需依存
FairchildのR&Dグループ人員は60年代半ばにはかなりの数に達し、既に500人近かったと言われる。軍事関係の場合、プログラムによっては、例えば当面は製品化に結び付きそうにないCCDなどの研究費用は軍が100%の費用負担を行っており研究費には事欠くことはなかった。また直接的な補助は少なくとも製品販売によって十分に研究費を回収できた。こうした半導体の研究費の多くは航空機メーカーやその関連機器メーカーを問うして半導体企業へ流れ込んでいた。Fairchildの研究部門を統括していたMooreは研究予算の管理に関しては研究員の数のみを管理しそれ以外は統制しなかったというが、それは丸抱え的な軍の研究費補助の仕組みに則したやり方だったのであろう。
70年には軍事宇宙関連予算の削減の影響が早くも表れだすが、この年、Fairchildは大幅な組織改革を行いR&Ð部門*1の人員を3週間ほどの間に500人から50人に減らすという大胆なものだった。解雇ではなく、Mauntain Viewの工場などより製品開発・製造に近い部門に研究員を再配置したものだが、72年の景気回復では再度増員されたりする。このリストラの時期は他の企業を危機的な状況に見舞われており転社もかなわず、また企業も困難な時期であったため、研究員の多くは止まらざるを得なかった。しばらくすると徐々にIntelなどへの転出が進んでいく。軍事予算に削減(研究費関連では3割程度の削減)や市場が産業用や民生用にシフトしていく中、且つ競争が本格化していく中、Fairchildは大きな方向転換を余儀なくされたようだ。
60年代末のHoneywellやSperryの半導体からの撤退に続き、この70年代初頭の不況の時期に真空管時代をリードしていた東部のGE、WH、Raytheon、Philco—FordなどがIC事業から撤退していく。Sylvaniaも工場閉鎖など事業を縮小している。
軍需が民需での優位に必ずしも結びつくとは限らないが、半導体においては初期的には極めて大きなものだった。TIは61年にICを製品化し、それらは空軍のコンピュータMinuteman Missileやアポロ宇宙船などに搭載された。Fairchildも同様にNASAとの関係が強かった。これらはBIPのゲートICで集積度が数個のICの価格が100ドルから場合によっては数百ドルしたが、70年代半ばには10セント程度で売られていたICに比べても見劣りするものだった。この価格ではほとんど産業用や民生用では応用できる製品が見つからず、ICの立ち上げ期での多陽はほとんどが軍事・中庸に限られており、そうしたニーズを持つ米国の半導体企業の独壇場だった。ニーズの乏しかった欧州や日本企業に対し米企業の事業化は先行する。しかし、70年代以降は軍事。宇宙の市場縮小に対し、産業用から民生用まで広く使われるMOS-ICが市場をリードしていく。この市場の変化により軍需依存の強いFairchildの低落が始まり、新たにIntelなどMOS系の企業が大きく成長していくことになる。
*1 シリコンバレーでのFairchildのICでの初期における最大のライバルは61年にÐavid AllisonなどFairchildからスピンアウトした4人によって設立されたSignetics(Rheem Semiconductor、Amelcoに次ぐ第3社目のFairchildren)であるが、研究所は持たずエンジニアリングパワーはもっぱら製造の生産性向上や顧客対応、特にカスタムICへの対応に重点的に配置するなど、二番手の戦略とでも言うべきものであったが、それなりの成果を出していた。装置メーカーや部材メーカーも育ってきており、それらを活用することで十分にやっていける時代になってきていた。一方、Fairchildは半導体業界のパイオニアとして業界を研究開発面でリードし、設備開発なども含め広範な分野の開発に取り組んでいた。それによって競争優位を形成できていた時代もあったものの、新興メーカーが濫立し競争が本格化してくると、それらは寧ろ重荷になってしまって来ていたようだ。競争のパラダイムがシフトしてきた時代であった。
第4章 MOS ICと電卓
Fairchild
60年にMOS型TRがBell研によって開発される。62年にはRCAによりMOS型TRは増副作用が真空管より優れていることや、IC化した際の回路構成がBIPより単純化できることが発表され将来の有望技術であると大きな期待が持たれることになる。しかし、実用化にはいくつかの大きな課題が残されていた。これに大きく貢献したのがFairchildのChin-Tang SahをリーダーとするEdward Snow、Andrew Grove、Bruce Dealのグループだった。63年に特性の不安定性における最大の要因がNaイオンにあることを突き止め、Planar-Ⅱと称されたプロセス技術を64年頃にはほぼ確立させMOS-ICの製品化に目途をつけた。開発部門のトップであるMooreが後に有名になる集積度が2年毎に2倍になるという法則を描いてみせたのは、このPlanar-Ⅱ技術開発の翌年であった。現実にはそれ以上のペースで今日まで衰えることなくMOS-ICの集積度向上は続いている。後にMooreは法則を1年半毎に2倍と修正している。
こうしてMOS-ICへの実用化への道がFairchildによって開かれるが、これを機にこのPlanar-Ⅱのプロセス確立に寄与したプロセス技術関係(Mountain Wiewにある製造サイド、SahらはPalo AltoのR&Ðサイド)のグループが64年にスピンアウトし設立したGMEによって商品化が先行される。GMEは20ビットのシフトレジスタを65年に15ドルで発売する。しかし市場の立ち上がりが悪く、GMEは66年にPhilco-Fordに買収されPhilco-Ford Electronicsとなるが、この買収の直後にPhilco-Ford ElectronicsからスピンオフしたAmerican Microsystems*1が60年代後半から70年代初めにかけMOS-IC市場をリードしていく。更には68年にPhilco-Ford Electronicsが閉鎖されると、この年から翌年にかけて半導体ベンチャー企業の設立ラッシュが起こる。こうしてGMEに流れを発する企業群が数の上ではFairchildrenの中心的存在になるが多くは泡沫的なもので終わってしまう。
また、Hughes Aircraft*2のRobert Bowerによって66年にSelf-aligned-gate技術が発明*3されるが、プロセス技術の確立ではSi-Gate技術としてFairchildによって完成されるなど、Fairchildによってリードされていく。然しながら、MOS-ICの集積度は高まるものの、動作速度の遅さ、静電破壊など信頼性の低さにより応用面での制約があり、また(当時は)3電源が必要であり、入出力も当時普及していBIP標準TTL ICとの互換性に欠けておりシステム設計がやりにくいなど一般機器への応用は進まなかった。そのため当初はシフトレジスタ(一種のStatic RAM)と言う信号をバケツリレーするようなMSIレベルの素子や時計用*3などへの応用にとどまっていた。FairchildはMOSには不熱心であったと言われるが、市場が未成熟であり、軍需や産業等が中心のFairchildにとってMOS-ICは将来技術であるとしても、当時は魅力あるものではなかった。
*1 American Microsystemsは2000年代初めにファンドに買収され、2008年には10憶ドルでOn Semiconductor(99年にMotorolaの半導体部門が分離して設立された)に買収されている。
*2 Hughes AircraftはBell研がTRの発明を公表(49年)直後よりTRの研究を開始する。また、早くからSiに着目しSiへの取り組みもTIに次ぎ早かった。50年代から70年代中頃までは大手(米国でトップ10)の一角を占めていた。半導体製造工場はロサンゼルス郊外(南東40km)のNewport Beachにあった。軍・航空宇宙用が中心だが、70年代にはデジタル時計用MOS-LSIのトップメーカーとなっている。尚、ディジタル時計用ICはヒューズが開発し時計メーカーに販売する形態の汎用品が主である。また、60年代からII(Ion Inplantation)装置の開発に着手するなど装置関連の開発にも積極的であり、II装置を最初に開発したメーカーである。またDie-bomderやWire-bonder装置も手掛けていた。95年にHughes AircraftはGMに半導体関連も含むHughes Electronicsを売却している。Bonder関係は同じく95年にファンドに売却され、更に2008にPalomar Technologiesに売却されている。
*3 Robert Bowerによって考案されたSelf-aligned-gate技術(どちらかと言うとAl-gateを前提としていた)はほとんど実用化できるものでは無かった。FairchildのThomas KleinによってAl-gateに対するSi-gateの優位性が解明され、Fagginによって製造プロセスが確立される。
半導体関連産業の発展とFairchild
初期の半導体企業は製造装置を自社開発する必要があった。と言っても多くは研究用設備を若干モディファイした程度のものに過ぎないものだが。設備開発をリードしたのもFairchildだった。そして、Fairchildとの結びつきによって多くの企業が生まれていく。Fairchildはそれらを後押ししたと言われる。
60年にFairchildからスピンアウトしたCecil LaschらによってSpecialty Products(64年 Electroglasと改称)が設立されるが、これは組立用のワイヤボンダ―に使われる治具capilary tubeの製造などを行っていた。60年代半ばには拡散炉やPP試験(wafer processを完了したチップの試験)用のprove cardなどにも事業領域を広げている。
67年11月にMichael McNeilly*1によってMountain Viewに設立された半導体設備メーカーのApplied Materials(AMAT)は個人資金を募って設立されているが、その出資者にはFairchildのMoore、Grove、Noyce、Sporckや既にFairchildを去っていたHoemi.などが名を連ねている。またVarianの様にシリコンバレーの在来企業の中にも半導体設備に参入していく企業が現れてくる。半導体設備産業もシリコンバレーを中心に発展していく。
日本企業においても、例えば63年に設立された東京放送(TBS)子会社の東京エレクトロンはFairchildと65年にIC Tester(Fairchild 4000*2は本格的に販売された世界初のIC Tester)や半導体製品の販売代理店契約を結んでいる。AMATとともに半導体設備産業を代表する企業へと発展していく。また半導体関連部材においてもFairchildとの結びつきにより飛躍のきっかけを掴む企業もあった。京セラ*3は68年にFairchildがセラミックパッケージの開発を京セラに持ち掛けたのを契機に飛躍の足掛かりを掴んでいる。それまでのパッケージ(Can type、プラスティックやセラミック系のCerdip)に比べメタルシールタイプやフリットシールタイプのセラミックパッケージは高コストではあるものの信頼性、精度、電気的特性に優れ、また多ピン化や小型化にも優れていた。
*1 McNeillyは東海岸のUnion CarbideでSi wafer製造用のトリクロロシランなどのガス関係の業務に携わったあと、65年にRichmond(サンフランシスコの対岸、北東10km)に半導体用の高純度ガスの製造販売のApogee chemical Inc.を設立。67年にApogeeを去りガスの施設内供給システム関連機器製造のApplied MaterialsをEast Palo Altoに設立。Fairchildの製造装置開発技術者を引き入れApplied Materials は70年にエピタキシャル成長用のCVD製造装置開発に乗り出し装置メーカーへと転じていく。
*2 日本企業においてIC生産が始まった頃は、Fairchild 4000MやTI553など米国半導体メーカー製のテスターに依存していた。DC試験をFC4000Mで行い、ファンクション試験をTI553で行っていたようだが、TI553は故障が多く、おまけに大きすぎて(長さ3.5ⅿ)工場に搬入するのに一苦労したようであり量産向きでは無かった様だ。IC一個を試験するたびに紙テープが一回転する方式のため紙テープの摩耗と読み取り機の故障も多かった。
Fairchild製はその後もFC5000、コンピュータ制御テスターのSNTRY-48など80年頃まで使い続けられている。
*3 京セラは59年に松風からスピンアウトした稲盛和夫によって設立される。当時、輸入に頼っていたブラウン管の電子銃を支える絶縁部品であるU字ケルシマの国産化で事業を立ち上げる。転機となるのは66年にIBM360シリーズに搭載されたHybrid IC用のアルミナ製基板の受託による。これがICセラミックパッケージへと繋がる。68年には鹿児島県川内市にセラミックパッケージ用工場を建設、71年にはSan Diegoに工場を建設している。低価格と高品質により、70-71年および74-75年の半導体不況を経て、米国の草創期の半導体パッケージメーカーを市場から退出させセラミックパッケージにおいて米国で80%のシェアを得る。
黎明期のMOS-IC市場
MOS-ICの特性として低速であるが集積度が高いことがあげられる。集積度の高さは一方では量の確保のための必須な条件である汎用性の欠如という問題を持つ。IC産業では量が必要であり、MOS-ICは高集積と量を兼ね備える応用を見いだせず、60年代後半に至っても主なものとしてはシフトレジスタや時計用くらいのものであった。こういう状況の中で、集積度が高くかなりの量が見込めるものとして電卓用LSIが登場してくる。
71年にはMOS-ICの米国採算学は約1億ドルに達するようになるが、その半分は電卓用であり、もっぱら日系企業が顧客となる。MOS-ICの主要企業として、AME、TI、Rockwell、GI*2(General Instrument)の4社がそれぞれ1千万ドルを超え、INTELも9百万ドルに達していたのに対し、Farechildは精々1~2百万ドルに過ぎなかったと推定される。日系の電卓メーカーを主要顧客としていた企業が上位を占める。リコーのAMI、キャノンのTI、シャープのRockwell、三洋のGI、その他、栄光ビジネスマシン(ユニトレックス)のCaltex Semiconductor*3などというのが典型的な組み合わせで、ある程度だが主要な委託先というのがあった。
*1 キャピラリーチューブはガラス製で金線表面の汚れ・荒さが原因でキャピラリーの内面に汚れ等が付着して金線が切れ頻繁に交換する必要があった。日本では60年代半ば過ぎには金線の伸線・焼鈍方式、洗浄方式の改善により、金線の精度を高めることによって解決している。
*2 GIは1923年に音波を使って水深などを測定する測深儀メーカーとしてニューヨークに設立されている。50年代より買収を重ね半導体やケーブルTV機器など広範な事業を展開している。半導体では61年にSunnyvaleのPyramid semiconductorを買収している。64ビットのシフトレジスタを製品化したAMEに続きGIは65年には256bitを製品化し、また60年末にはイタリアにMOS-ICの一貫工場を建設するなど早くからMOSに注力する。
尚、GIは主力事業を2000年にモトローラに170憶ドルで売却するなどによって解体されている。Pyramid semiconductorは21年に航空機部品メーカーの HEICO Corporationに買収されているがfabless半導体メーカーとして存続している。
*3 Caltex Semicondoctorは71年にSanta Claraに設立される。TIからスピンアウトした台湾人技術者およびそのオレゴン州立大学の台湾人留学生仲間を中心にして電卓用高性能1チップICの開発を目的に設立されたFabless半導体メーカーの先駆け的企業。70年当時、wafer processを持つ垂直統合型の企業がほとんどであったが、半導体不況の影響もあり生産を請け負う企業もありFabless企業が生まれているが、安定的な委託先がないこともあり発展には限界があった。Fabless半導体メーカーの隆盛は90年代に入ってから。尚、69年にニューヨーク市に設立されたLSI Computer Systemsが最初のFabless半導体メーカーだと言われている(電卓用chip setの開発のために設立されたMos Technologyの設立は68年と更に早いが)。但し、大抵のFabless半導体企業は自社ブランドで事業を行っていたものは少ないようで、一種の設計請負業に近かった。74年にIntelをスピンアウトしたFagginや嶋正敏によって設立さえたZilogが自社ブランドを確立して大きな成功をおさめた最初の例と言える。Zilogの成功により多くの企業が続くことになるが、Fagginや嶋正敏は単にマイクロプロセッサーの開発者として大きな貢献を成しただけではなく、今日の半導体産業の構造を作り上げたとも言え、極めて大きな役割を果たした。
尚、Caltexの設立資金は主に栄光ビジネスマシンが負担。栄光から派遣された4人の技術者がロジック設計をし、Caltex側はそれのチップへの落とし込みを担当。71年に電卓用1チップLSIを完成させた。尚、栄光ビジネスマシンは56年に設立されたアパレルの栄光商事の子会社として設立されている。
電卓戦争
それまで計算器と言えば、機械系企業の事業分野でありタイガー計算器*1(1923年設立)などが代表的であった。これら機械式手動計算器メーカー*2は電子化の進展とともに(ビジコンを除いてだが)淘汰されていく。電卓が登場した頃、当時の代表的なタイガーの機械式手動(手廻)計算機の価格は3万5千円(53年から生産終了の70年までこの価格を維持)と60年代後半までは30万円から50万円程度した電子卓上計算機に比べて安く、販売は60年代後半になっても順調に増加していたが、70年頃になると売上が急速に落ちていく。機械式の市場規模は60年代前半で年4万台、後半で年7万台程度だった。機械式計算器メーカーとしては、シェアで過半をしめるタイガー計算器のほかに太陽計算器(34年設立、販売は内田洋行) 、ビジコン*3(富士星計算器製作所42年設立→日本計算器→ビジコンと改称)、東芝、パイロット事務機などがある。戦前および戦後しばらくの間は、精密金属加工技術はかなり劣ったもので、部品のバラツキが大きく1台1台調整しながらの作業で、例えば2台の計算器を分解し、それらを混ぜ合わせて再度2台の計算器を組み立て直そうとすると微妙に部品が組みあわず上手くは組立てられなかった。そのため1台づつの手作りに近くスケールメリットが少なく、ある程度の技術的経験があれば参入可能であり小規模企業の生存余地もあった。参入障壁が低いというものの、機械式は摩耗もありアフターサービスが重要であり、全国に展開するタイガーの販売・サービス網は大きな優位性を持っていた。ビジコンなどは海外に販路を求め、機械式計算器やタイプライターなども輸出産業となっていた。
*1 タイガーは36年に電動式の高速自動計算器を販売しているがほとんど普及はしなかった。64年には最後となる電動計算器E64-21など電動式も販売している。戦後しばらくの間は日本には高速回転に耐えるような鋼材の入手が困難だったことも有り、電動式はMonroe(ニュージャージ州)、Merchant(Oakland)、Friden(San Leandro)などの米国製やイタリアのオリベッティなどが輸入品に席巻される。とはいえ、電動式は手動に比し効率がかなり高かったが、価格が高いこともありそれほどは普及しなかったようだが。電動式は数字キーが並んでいて、例えば掛け算の場合、掛け合わせる2つの数値を数字キーでセッ トし、掛け算の命令キーボタンを押すと歯車が自動的に回転し10秒から20秒程度で計算結果が求められる仕組みになっている。価格は50万円程度、重量は30㎏と言ったところで、騒音・振動および計算時間が長くかかることを除けば、初期のリレー式などの電卓に近いものだった。
尚、1946年11月12日に、東京宝塚劇場で機械式電動計算機を使う米陸軍兵士Thomas Woodと、ソロバンを使う日本逓信院職員松崎喜義が公開試合を行った。四則演算および複合問題の計5問で争われ、結果は4勝1敗でソロバンが勝利した。機械式計算器は電動式でさえ、それほど効率は良くは無かったようで、日本ではパソコンの表計算ソフトが一般化する頃まで、電卓に押されるものの、そろばんは使い続けられる。尚、79年にシャープからソロバン付き電卓ELSI MATE EL-8048ソロカルが発売されている。
*2 50年代から60年代半ばにかけて、機械式手動計算器メーカーとしてはタイガーなど5社の他に、主なメーカーとしてキーパー計算器、ニッポーなどがある。また、機械式電動加算器(コンプトメーター)の主なメーカーとしては、東芝、栄光マイクロマシン(ユニトレックス、61年参入)、リコー、Frontier、ブラザー、シチズン、カシオなどがある。
*3 ビジコン(富士星計算機製作所)は小島和三郎によって設立された。小島和三郎は18年に満州奉天に昌和洋行(小島コンツルン)を設立、満州を拠点に中国各地に事業を展開していたが終戦で在外資産の全てを失う。例えば、中国の三大自転車メーカーに天津の「飛鵠自転車」、上海の「永久自転車」、同じく上海の「鳳凰自転車」があるが、これらはいずれも昌和洋行が設立した会社である。日本の拠点は日本計算機の他に、オートバイ生産の昌和製作所がある。昌和製作所は軽自動車開発(昌和ミニカ)に乗り出すも経営悪化により60年にヤマハ発動機に吸収されている。尚、ビジコンにおいて次々に新機軸を打ち出したのは、小島和三郎の息子の義雄。
電卓の誕生
19世紀末に電動モータを使った電動式計算器が誕生している。これは歯車を回転する方式であった。この方式の最期をかざったものに、64年に発売された東芝テックの機械式電動加算器トステック・シリーズがあるが、これは日本で大ヒットし米国にもかなり輸出されている。
一方、57年6月にカシオ*1によりモータや歯車類を一切使わない、約340個のリレーを使った机と一体になったタイプのリレー式計算機カシオ14-Aが開発され発売される。価格は機械式電動計算器とほぼ同価格の485千円だった。この計算器ばリレーの開閉によるもので回路的には2進のデジタル回路であるが、開閉動作を伴う点では機械的である。現在の電卓と同じような配列のten-keyを持ち,表示部分も1つにしていた。機械式電動計算器はそれぞれの桁数に対応して10個づつのキーがあり、また入力表示2つと結果表示1つの計3つの表示部があるのに比べかなり簡素化され現在の電卓の原型といえそうである。
これに対し、61年10月にイギリスのSumlock Comptometer(Bell Punch Company*2の一部門)より小型真空管式(MT管)を使ったAnita Mark ⅦとMark Ⅷが公開され62年1月に発売されている。これが最初の電子式卓上計算機と云わる。Anita Mark Ⅶは消費電力も100kWと大きく重量は14㎏、価格は355英ポンドだった。
また、日本では大井電気*3から63年パラメトロン*3を使った卓上計算機アフレゼロ101を開発し(64年3月に開かれた第16回神奈川県発明展覧会で公開)、64年4月から販売している。ビジネス的には失敗だったようで、累計1,000台弱を売ったのみで電卓市場から撤退している。
*1 カシオは46年に機械加工業の樫尾製作所として樫尾4兄弟(忠雄、俊雄、和雄、幸雄)の長兄忠雄により東京都三鷹に設立された。次兄の俊雄は逓信省東京逓信局(現:NTT)に技術者として勤めていたが、退職し兄忠雄の設立した樫尾製作所に46年に加わる。指輪パイプのヒットで得た資金を基に50年頃より計算器の開発に着手し完成させる。
*2 Bell Punch Companyは1878年に設立された、鉄道やバス、劇場などのチケットをパンチする器具やタクシーメータなど、主に交通に関係した事業の会社。1940年頃より電動式のキー操作の加算器であるコンプトメータ事業に参入、コンプトメータのトレーニング学校なども運営。
電卓事業としては、66年に分社しSumlock Anita Electronicsを設立、71年ごろがピーク。72年にはポケットタイプを投入している。73年にRockwellに売却され76年には電卓事業から撤退している。
*3 大井電気は東洋通信機(旧東洋無線電信電話、住友系、通信部門は2005年に日電に吸収されている)を退職した石田實の世田谷の自宅6畳間で49年に同僚であった4人とともに創業されている。同年に五反田に事業所を設け搬送装置を製造し、警視庁に納入、翌50年大井電気を設立。大井電気は1957年3月に完成した日本初のパラメトロン計算機MUSASINO-1号の制作に協力している。パラメトロン製造(TDKが作成したフェライトコアを日本電子測器が選別、そのコアを使って)、およびプリント版への実装は大井電気が行っている。
通信機器メーカーは戦時中、軍事物資の生産がほとんどを占めており(例えば通信関連の専業だった富士通信機製造の場合、大戦末期には95%が軍需を占めていた)、戦後数年は、通信機メーカーは民需への転換が進まず人員削減、それに伴う労働争議に数年間を費やするが、その間に多くの従業員が去ることになる。大井電気の創業者たちもそうした中で退社して行った技術者であった。通信機メーカーが立ち直るのは52年8月に電電公社が設立され通信インフラ整備が始まる頃から。電話加入者数は回復し戦前のピーク時108万台を52年には140万台と超えるものの、回線は逼迫し、予約して特急(料金3倍、60年過ぎまで待ち時間によって市外電話料金の差があった)でも1~2時間待って電話できるという状況が続いていた。
*4 パラメトロンは東京大学教授であった後藤栄一が大学院生の時に開発。フェライトコアに2つにコイルを巻きコンデンサーを組み合わせた素子。富士通のだパラメトロン式コンプータを開発したメーカーはTDK製のフェライトコアをを使ってパラメトロン製作を内作していた。50年代後半から60年代初にかけ、富士通や日立、日電等が販売したコンピュータはパラメトロンが使われていたものが主流であった。当時はTRに比べ消費電力が大きいなどデメリットがあるものの価格が安く信頼性も高く且つ長寿命であった。TRの信頼性向上や価格低下によって60年代半ばにはパラメトロンは廃れていく。但し、近年量子コンピュータなどで見直気運がある。
TR/IC式電卓
カシオに続き、シャープは62年に伝票発行機能を持つリレー式計算機CTS‐1(オフィスコンピュータ)を発売している。これがシャープにとっての初のデジタル機器となるが、その開発に携わった浅田篤(後シャープ副社長→任天堂会長)など若手技術者20人のチームを編成し60年9月より計算機の開発がすすめられていた。このチームが電卓開発に携わることになる。
64年3月18日にシャープ(CS-10A:フルキ―タイプ、翌年テンキータイプのS-20A)とソニー(Sobax MD-5試作機)が電卓を同時発表する。これに続き、5月にはキャノン*1(Canola)が続く。シャープは6月に他社に先駆け販売を開始する。そして翌年にはカシオ、ビジコン*2、東京エレクトロン、シチズン、ゼネラルなど続々と参入していく*2。ただし、大して売れてはいなかった様で、65年の生産数量でも4千台に過ぎない。
シャープCS-10AはGe-TRを530個、Ge-Diを2,300個、その他部品を2,900個使い消費電力90W、大きさは42cm×44cm×25cm、重量25㎏、四則演算の12ケタ表示で価格は535千円と当時の自家用車並みの価格であった。シャープはCS-10Aを皮切りに電卓業界をリードしていく。
CS-10A に続き、66年にはBIP-IC電卓コンペット CS-31Aが発売され、それには三菱製*3の汎用TTL28個(およびTR533個、Di1,549個)が使用され価格は35万円だった。翌67年には日立・日電のSSI/MSIレベルの56個のMOS-ICを搭載しフルIC化したCS-16A(価格23万円)を売り出すと、他社も一斉に追随する。その後、MOS-ICの調達は日本企業より進んでいた米国企業に依存するようになる。67年頃に米半導体産業は最初の不況に見舞われたこともあり、日本の電卓メーカーのアプローチに積極的に応じている。次々に米国で開発される標準(汎用)Logic‐IC(SSI/MSI)をいち早く電卓に搭載することが競争に生き残るための必須の条件となり、更にはカスタムLSI化が始まるが、電卓メーカーは技術者を米国メーカーに常駐させることになる。こうした中でシャープは69年にはプログラム論理方式を採用したRockwell製の4個のカスタムMOS-LSIを搭載(他に2個の標準SSI/MSIを搭載)した8桁電卓マイクロコンペットQT-8Dを99,800円で発売する。そして他社も一斉に追随する。
真空管式電卓の誕生から、パラメトロン、TR、標準BIP-IC、標準MOS-IC、そしてカスタムMOS-LSIへと電卓は10年ほどの間に一挙に進化を遂げることになる。そして更にはIntelとビジコンによる汎用MOS-LSIと言うべきマイクロプロセッサーの開発へと繋がっていく。
電卓用はMOS-IC、コンピュータ関連はBIP-Digital-IC、テレビ・ラジオ用はBIP-Analog-ICが主な用途である。電卓用ICは米国からの輸入が中心だったが、72年頃より急速に国産品に替わっていく。またシャープはRockwellと技術提携し70年には奈良県天理市に75億円かけLSI量産工場と研究施設を建設する。
コンピュータ関連の標準BIP Digital ICはTIが低価格で日本市場を席捲しており、日系のコンピュータメーカーは内製を中心に不足分をTIなど米系企業からの調達で補っていた。テレビ・ラジオ関係もない製品の比率が高かったため、日本のCメーカーの外販においては、シャープが内製化したとはいえ電卓用MOS-LSIの比率が高かった。72年8月にカシオミニ*5(6桁)が12,800円で発売されたのを契機として電卓の価格競争は激しさを増すとともに、電卓は個人ユースが主力となっていく。70年に生産数1,423千台(内輸出730千台)だったものが75年には30,040千台(輸出25,727千台)と急拡大し、それに伴い電卓用MOS-LSI価格も下落が進む。
*1 キャノンは64年5月に東京晴海で開催された第28回ビジネスショーに出品している。尚、この時に大井電気、シャープ、ソニーの計4社が電卓を出品している。尚、このビジネスショーでカシオはリレー式計算機Casio 81を発表している(発売に至らず)。これによりカシオはTR採用に切り替え、1965年10月に最初のTR電卓 Casio 001発売に至る。
尚、IBMがSystem 360を発表したのが、64年4月である。世界は本格的なコンピュータ時代に入りかけていた。
*2 70年頃には電卓メーカーが数十社あったと言われる。主な企業を列記しておくと:―
家電系:シャープ、東芝、日立、三洋、ソニー、ゼネラル、松下、
光学系:キャノン、ミノルタ、チノン、ヤシカ、
計算機計:カシオ、ビジコン、タイガー、太陽ビジネスマシン、
金銭登録機系:日本金銭機械、キング工業、
音響系:日本コロンビア、ビクター、
時計系:服部セイコー、シチズン
事務機系:リコー、コクヨ、三和プレシーザ、信和デジタル、
通信系:大井電気、日本通信工業、
精密機械:オムロン、ブラザー、シルバー精工、
商社系:内田洋行、東京エレクトロン、東邦通商、不二商、
その他:栄光、シグマ、クラウンラジオ、東興化学工業、システック、無電テレビ工業、タマヤ計測システム、SATEK、日満電気、東京電子応用研究所、星電器製造、
外資系:横河ヒューレットパッカード、日本オリベッティ
*3 ビジコンは機械式手動計算器メーカーであり、またAnita MarkⅧの輸入を手がている。65年5月にビジコン160を発売したが、価格が55万円と高く不調に終わる。翌66年7月に磁気コアメモリを採用したビジコン161を発売。298,000円という当時の電卓としては低価格かつ高性能(桁数は16ケタと多く、磁気コア搭載によるメモリー機能、平方根計算機能などもあり当時としては最高性能、IME84とほぼ同仕様)を有し、また発表時には比較広告を日本経済新聞で展開、一気にメジャーの一角に食い込むが、部材調達難により伸び悩む。イタリアのMontecatini Edison(IMEの親会社)から技術導入し、64年(発表は3月のミラノでの見本市)に発売されたIME84(価格1,700ドル)をベースにして開発されたものと思われるが、IME84はコアメモリを搭載しているせいか、424個のTR、1,074個のDiと部品点数が同性能の他機種に比べ部品点数が4割ほど少ない。ビジコン161(詳細データ不明)は大幅なコスト削減できていたと思われる。尚、ビジコンはNCRやMontecatini EdisonなどにOEM供給するなど海外企業からの開発・生産受託が多かったが、そのためハード開発工数が膨れ上がり、その対策として、ハード依存性の無いマイクロコンピューター方式の採用を進めることになる。
尚、他社もOEM生産を手掛けており、北米を見ると、NCRのビジコンの他、Commodoreのリコー、Fridenの日立、Burroughsのシャープ、Monroeのキャノン、Remington Randのカシオ、SCMの東芝など。米電卓メーカーは日系企業やEMSの先駆けの米Bawmar社などへ委託していたものが多い。
尚、59年設立のIME( Industria Macchine Elettroniche) S.p.A. がIME84を開発した。尚、IMEは60年代前半に主力事業の電力を国有化され新規事業を模索していたMontecatini Edisonに買収されている。
*4 68年にTIと日本の半導体企業はライセンス契約を締結する68年までは、日本メーカー製のICを搭載した場合、輸出、特に対米輸出はTI特許の関係でできなかったものと思われる。
*5 カシオミニは大ヒットし、発売後10ヶ月で販売台数が100万台を突破、翌73年末には販売台数は200万台に達した。最終的にはシリーズ全体で1,000万台に達する。以後、カシオが電卓業界をリードし、2006年に電卓の累積売上が10億台を突破、17年には15億台を突破している。
カシオは機械系の機器のエレクトロニクス化による代替を進め、且つ普及価格にすることを開発のポイントにしており、電卓に始まり、デジタルウォッチ(74年)、金銭登録機(76年)、ファクシミリ(77年)、パソコン(78年)、電子楽器(80年)、電子辞書(81年)、液晶TV(83年)、液晶シャッター式ページプリンター(85年)、電子カメラ(87年)と次々に開発し、且つ激しい価格競争をリードする。
低価格Ge-TRと日本の優位性
カシオのリレー式計算機はコンピュータの代用物として大学などの研究機関や大企業など十分にに販売されている。コンピュータが導入される前は、米Monroe社*1などの機械式電動計算機やカシオの計算機がこうした機関に導入されていた。米国の大学や研究機関などは既に60年頃にはIBM1400シリーズなどの導入が進んでおり既にコンピュータ時代に入っており、また機械式電動計算機も普及していた。日本は未だソロバンを超えた計算需要を満たすためのこうした機械式電動計算機の普及さえ十分には進んでおらず、普及の余地が十分にあった。
電卓の製品化を推進したもう一つの要因として、TRラジオの成功による量産効果により原価低減を果たしたGe-TRやGe-Diを始め小型電子部品の存在があった。Ge-TRの価格は欧米に比し半額以下であり、コンパクトで安い電卓を可能にした。そして、電卓は価格低下と共に、また日本の高度経済成長とともに、研究部門などから一般企業へ、更には個人へと需要が拡大していき、同時に国際競争力をもった製品として、TRラジオに続き世界市場を席巻する。
*1 Monroeは1912年に設立。 Pinwheel式で且つ世界初のボタン操作の計算機を開発している。日本では丸善が18年より輸入を行っている。50年代末、日本製の手動式計算機が3万円台だったのに対し、Monroeの電動式計算機は40万円程度だった。71年まで機械式計算機の製造を続けた。
電卓と日本のMOS ICの立ち上がり
シャープは最初電卓のLSI化を日本メーカーに打診したが断られたと云われる。そのためRockwellと68年から共同開発を進めている。集積度の高さによる躊躇も有ったのだろうが、もう一つの問題としてTI特許の問題があった。日本で販売される場合には問題はないとしても、ICの対米輸出だけではなく日本製ICを組み込んだ機器の輸出もできないという状況にあった。ましてICのかたまりの様な電卓をそれもアメリカに輸出することはトラブルが生じ、これも日本のICメーカーが躊躇する要因だったのだろう。68年にはTIの日本への直接進出をソニーとの合弁の形で認め、TIが特許を公開しこの問題は解決する。
日本のICの市場規模(国内需要)は70年代初期には2億ドルに達する。当時の米国市場規模がIBMやWE等内製分を除いて10憶ドル程度と言われている。日本の市場規模は実質米国の6分の1から7分の1程度に達することになる。しかも、将来性を期待されるMOS-ICのみならば、電卓市場に牽引された日本市場(需要200億円)は米国(生産は1億ドルあったが日本への輸出割合が高かった)とほぼ同じ規模かないしは日本がまさっていた。
MOS-LSIは日本の電卓メーカーが最大ユーザーであり、米国企業のMOSプロセスの立ち上がりに大きく寄与することになる*1。但し70年代に入ると、日系半導体メーカーも力を付けて来ており、71年の不況の頃から積極的にそれもかなりの低価格で応じるようになってくる。また71年頃に米国製の電卓用MOS-LSIの不良が続出する。MOS-LSIの集積度の向上により静電気に弱くなっていたのが原因だが、そうしたこともあり日系メーカー製に切り替わっていくとともに、輸出に牽引され電卓生産は急増する。70年に73万台だった輸出は76年には3,519万台と約50倍に増える。電卓用MOS-LSIは量が膨大であるがそれ以上に価格は極めて厳しかった。電卓の価格競争も激しかったが、それ以上に電卓用MOOS-LSIの競争は激しかった。この過程で日系の半導体企業は強力なコスト競争力やMOS-LSIの量産技術を確立していく。
この電卓用MOS-LSIにより培われた競争力はその応用製品にも競争力をもたらすことになる。デジタル時計用、オーディオ用、多種の通信機器関係*2、TV関連やVTRなど、ほんの数年前には応用製品が見いだせなかったものが、集積度の向上に伴う実質級数的な価格低減により、様々な製品への応用が日本主導で進んでいき、それら応用製品とともの日本のIC産業も高い競争力を確立していく。
70年末なるとVTR等でも日本メーカーが世界を席巻するが、電卓用と同様にVTR用ICは半導体企業にとって量に関しては大きな魅力があるものの、大手家電メーカーはICメーカーでもあり、外部発注の際には厳しい価格要求や仕様であった。VTRではソニーのベータとビクターのVHSの競争が良くしられているが、如何に機能を折り込み且つ軽量化させ、価格も引き下げるかがポイントであり、それらを同時に実現する手段がLSI化であった。そのためAV製品のデジタル化の進展に伴い松下電子、東京三洋、シャープなどの家電系メーカーも内製主体だがデジタル系のLSIメーカーとして登場してくる。松下電子は松下が60年代半ばにはコンピュータから撤退したものの世界のトップを切って16bit MPUを製品化するなどMOSデジタルLSIにも積極的に取り組んでいたし、DRAMの準大手でもあった。
*1 日本はMOSではかなり遅れていたいたものと思われるが、キャッチアップするのは早かった様である。Intelが70年10月にSi-Gateの3TR型のPMOS-1kbit-DRAM i8103を発表(HPが開発したRAM技術を使いHPの協力で開発された。それに先立ち70年2月のInternational Solid-State Circuits onferenceでi1102を発表している)すると、日本のコンピュータ系半導体メーカーはサンプルを入手しリヴァースエンジニアリングで開発を進めるが、富士通の場合、72年初には完了する(MB8103)。Intelは東京エレクトロン経由で富士通のMB8103を入手し評価しているが、完成度はかなり高かった様でIntelがさんざん苦労を重ねて解決した問題点がクリアされておりIntelの最終版と比べ遜色はなかった。Intelは歩留まりが上がらず5回のマスク改版を経て量産というレベルに達するのは71年の秋頃であるから、大した遅れではないかも知れない。但し、富士通は大型コンピュータ―の要求仕様を満たす為に更にMB8103の改良を重ねることになり、結局はより性能に優れるNチャネル型の開発に進み、当時世界最高速を達成したMB8201を完成させAmdahl470/V6などに搭載されることになる。
また、東京エレクトロンは72年に同一のSi-gate P型MOS-LSI(12桁プリンター出力付き電卓用カスタムLSI)をIntelと富士通の2社へ発注しているが、ほぼ同時期に完成しており、ほとんど甲乙を付けられないレベルであった。
富士通は電電公社のDIPS-11/30、Amdahl470/V6、自社のMシリーズのプロジェクトが進行しており、ハード性能でIBMを超えることを目標とし、そのためのLSI開発に全力で取り組む。75年のAmdahl470/V6の成功、および信頼度の高さにより富士通のLSI技術の高さが実証され、世界の多くのコンピュータメーカーなどからMOS Memoryの引き合いを受けることになる。これに日電・日立等も続く。本格的な輸出が始まるのは16k-DRAMの量産が始まる77年春ごろからである。そして早くも77年末には日本の半導体輸出攻勢に対する米半導体業界との摩擦が生じる。そして、79年5月にはDRAMのパイオニアであるIntelはDRAMからの撤退に追い込まれる。
*2 例えば、無線機器などに使われるPLLシンセサイザーなど原理的には古くからあったものの、TRなどで構成すると回路規模が大きくなり過ぎて高性能であっても、多数の水晶を使うクリスタル・シンセサイザーの相手となるものでは無く実用化されなかったものが、MOS-LSIにより実現することになる。ユニデンやアイコムなどがPLL搭載のトランシーバーなどの対米輸出により成長の足掛かりを得ている。
*3 ソニーのベータは技術的には優れていたものであったのだろうが、そのため部品点数は多く重量も重かった。
ソニーは75年4月(発売5月)にSL-6300(1時間録画、重量18.5kg、価格229,800円)、SL-7800(1時間録画、重量20.5kg、価格298,000円)を出す。一方、1年4か月遅れでビクターが76年9月(発売10月)にHR-3300(2時間録画、重量13.5kg、価格256,000円)を出が:―
録画時間の長さ(βのテープ長150m、VHS248m)は単に長時間録画ができるというのみではなく、当時数千円と高価だったカセットテープの費用を考慮するならランニングコストに大きな優位性を持つものだった。また、重量が13.5㎏というのは購入者が持ち帰り可能な重量であり、小売店の配送・設置の負担を軽減するものであり、部品点数の少なさは修理などアフターサービスの負担を軽減するものでもあり、また製造的にも心臓部と言うべきヘッドブロック製作は厄介としても他は製造的に容易な構造であった。いわゆる消費者、販売店、そして世間ならぬメーカーの三方良しの製品であった。
加えて、ビクターは製品の開発は完了しても発表は急がずファミリー作りに注力し、松下・シャープ・日立・三菱などを陣営に加えることに成功する。また発売後は、77年12月のドイツのSABAを皮切りに、翌78年にはフランスのThomson、イギリスのThorn ENI、ドイツのTelefunkenなどにOEM供給の契約を結ぶなど欧州を取り込んでしまうなど迅速な対応をおこない、米国でも少しマイナーだがMagnavox(カラーTVでRCA、、Zenithに次ぐ3位)Sylvania(8位)などとOEM契約を結び、VHSの優位性を決定づけている。
振り返ってみると、ソニーのSL-6300やビクターのHR-3300の発売はエポックメーキングとも言えそうだが、実のところ当初は特には注目されるほどの事でも無かったかもしれない。1975年のソニーのベータの生産は2万台であり、ソニーは米国市場重視で展開してきており、輸出も多かったようで、国内では1万台にも満たなかった様である。ソニーは65年に世界初と言える家庭用VTRであるオープンリール方式のCV‐2000(198,000円)を発売している、そして71年にはカセット方式のVP-1100を主に米国市場をターゲットに発売しているが、単にその延長に過ぎなかったのこも知れない。東芝(67年GV101C)や松下(68年NV-2300)、ビクター(70年KV-340)も後を追って家庭用VTRに参入しているが、ほとんどが不発に終わっている。
それらとの違いと言えば、カラーであること、Video cameraがオプションとしてありVTR(録画に使う)に繋いで撮影ができたこと、記録密度の向上もありVideo tapeの価格が半額以下になったこと、LSIの採用により録画予約、裏番組録画などコマーシャルカットなど高機能化が一挙に進んだことが挙げられる。加えて、アメリカでは既に77年末からレンタルビデオ店が開業しているが、日本でも82年頃から映像ソフトの販売も本格化し(映像ソフト売上数:81年476千巻、82年1,010千巻、83年1,948千巻、84年3,089千巻)、83年ごろからは既に2,000店ほどに成長していたレンタルレコード店などがビデオも扱いはじめ、映像ソフトの流通もVTRの普及を促進するようになる。
輸出が急増するが、対米摩擦は生じなかった。米国には既にVTRに参入するほどの余力を持つ企業は無かった。長年に渡って米家電業界をリードしてきたRCAは86年にGEに吸収され、翌年には家電部門は仏Thomsonに売却される。カラーTVの主力工場であるインディアナ州のBloomingtonは縮小しながらもカラーTVの生産を続けたものの98年には生産を打ち切っている。
一方、欧州ではPhilipsなどがVTRの新規格を作り参入し、貿易摩擦が生じるが、ほとんどシェアを採るに至らず撤退する。日本メーカーは完成品の関税が高いこともあって現地に直接進出する。
欧米の電卓メーカー
電卓の開発は欧州で進んでいた、61年のイギリスのSumlockのAnitaに続き、Philipsが翌62年に3機種でラインアップされたTR式計算機(コアメモリー搭載)の試作機を雑誌“Der Büromaschinen Mechaniker(Office machine mechanic)”の62年3月号において掲載しているが、それは発売を予告するものではなく、且つ発売されることはなかった。機械式計算機はコンピュータ化の進展により既に衰退が始まっており、それを高価格の電子式で代替するというのは事業性が乏しいと判断されたようである。続いて63年にはイタリアのIMEがTR式でコアメモリ内蔵のIME84を開発(販売は64年末)している。IME84は40数か国に輸出されており、黎明期の電卓市場をリードしている。尚、OlivettiはProgramma101を64年のニューヨーク万博に出品し翌65年から販売しているが(60年にFagginが試作機を作成)、これは科学技術計算用電卓とも言え、この系統は68年のHPのHP9100A*1に引き継がれる。
米国では、タイプライターや機械式計算機メーカーであるFriden(65年にSingerに買収される)がIMEやシャープとほぼ同じ時期に電卓を開発し、64年末にEC-130(価格2,200ドル)の販売を始めている。欧米でも、多くの企業が電卓に参入するが、TR電卓でも参入は少なく、若干遅れて60年代末のMOS-LSI化してから参入が本格化している。且つ自社生産ではなく日系企業や米Bowmar(51年設立の航空宇宙用などの精密歯車製造の会社)などEMS企業への委託生産が多かった。Bowmarは主に米国での生産だが、MOS-LSI化によって部品点数が激減したことや71年8月のドルショック以降のドル安もあって米国での製造のコスト的デメリットが軽減したようで70年代初期に製造請負で急成長している。電卓は当たり外れが大きく、また製品モデルのサイクルが短かったこともあり自社生産する会社は少なくBowmarなどへ委託生産*2する会社がほとんどだった。米国では電卓メーカーとして初期的には機械式計算機やタイプライターなどのメーカーが目立ったが、日系メーカーに押されそれらは撤退していくが、替わってTI*3、Rockwell、National Semiconductorなどの半導体メーカーやハイエンドの科学技術計算用電卓のHPが米国市場で目立つようになる。ベンチャー企業も多く有ったのだろうがあまりプレゼンスは無かった。
Intelは71年7月にデジタルウォッチのMicroma社*4を買収し、また72年末には電卓も試作しているが発売には至らなかった。デジタルウォッチもセイコー*5(73年10月LCD表示のクオーツLC V.F.A、135,000 .円)、シチズン(74年4月LCD表示クオーツリキッドクリスタル、98,000円)、カシオ(74年11月LCD表示カシオトロン、58,000円*6)等の日本勢の参入で価格低下が激しく小売価格ベースでは70年代初期には150ドルだったのが末期には30ドル程度(安値では10ドル)に低下し、Intelは78年にはMicroma社を売却し撤退する。同様にNSも73年には電卓やデジタルウォッチに参入し、75年にはゲーム機器、更に78年には日立からOEM供給を受けIBM370互換機も手掛けている。IntelやNSなどの半導体メーカーは70年代には多角化に積極的であった。それが成長のため、生き残りのために必須であると考えられていた。後にパソコンメーカーとして活躍する企業のなかには、電卓と関りを持っていた企業も多い。世界最初のパソコンと云われるAltairのMITS社は電卓の組立キットを手掛けていた。また、初期の代表的なパソコンメーカー*7であるCommodreは大手の電卓メーカーであったし、Tandy(Radio Shack)も70年代初期よりEC-250など電卓を手掛けている。AppleのSteve Wozniak*8はHPで電卓開発に従事していたし、TI*9、HP、NSなどもパソコンに参入するが、電卓の延長上にパソコンがあったと言えそうである。*1 HPのHP9100AはOlivettiのProgramma101との類似性があまりにも高く、Olivetti からクレームがついたのかHPはOlivettiに対し90万ドルをライセンス料として支払うことになる。
*2 日本企業の場合も所要変動により同様の問題を抱えていたが、下請けへの委託が大きな割合を占めており需給変動を下請けへの発注量の増減によって調整していた。電卓の組み立てはほとんど手作業であり、下請けで柔軟に対応できた。尚、自動化が進むのは2010年代に入ってから。
尚、海外工場展開は、カシオの場合、78年台湾、79年香港、87年韓国、88年米・メキシコ、90年マレーシア、95年中国と続く。各社の海外進出により、国内生産は85年の86,032千台をピークに減少に転じ、95年には5,565千台、2002年には683千台にまで減少。一方、(逆)輸入は、86年には11,698千台と10百万台を超え、94年には国内生産20,171千台に対し輸入30,143千台と生産を超える。
*3 TIは67年にKilbyが携帯型電卓(Electronic hand-held calculator)を開発し特許を取得している。キャノンに技術供与しキャノンから70年10月に世界初のMOS型の3個のLSIからなる電卓用チップセットを搭載した充電池内蔵の携帯型電卓ポケトロニクが発売される。当初、TIは電卓用LSIの販売には熱心に取り組んでいたが電卓の販売には消極的だったが、72年の中頃にTI 2500 Datamathを発売し参入する(メインの機能は1チップ化されている)。一時は米国でトップシェアを取るまでになる。現在もハイエンドからローエンドまで広範な電卓を販売している。
尚、TIは76年にはデジタルウォッチにも参入している。価格は20ドルだった。
*4 Micromaは74年にCMOSのインテルi5810を使って1チップのデジタルウォッチを開発している。
*5 セイコーがクオーツ時計で世界をリードする。
1927年に最初のクオーツ時計がベル研究所のWarren Marrisonらによって作成されたが真空管を使用していたためタンス並のサイズだった。セイコーはTR化や温度補正技術の開発により、公式時計担当となった東京オリンピックでは壁掛けサイズまでの小型化に成功する。そして、69年にはIC化し腕時計アストロン(45万円)を発売。70年代には特許を公開し、これによってクオーツとる化が進み、且つ急激な価格低下により米国の機械式時計メーカーのほとんどが破綻したと云われ、スイスの時計業界も大きな打撃を受ける。
尚、クオーツLC V.F.A、に搭載されたICはIntersillに委託され、その共同創業者である John HallとJean Hoerniによって低消費電力のCMOS技術を使って開発されたと云われる。
尚、電子式(電機駆動式)の方式としては、1957年、米Hamilton(1892年ペンシルバニアで創業)による「テンプ駆動式電池腕時計Ventura」、1960年に米BULOVA(1875年ニューヨーク市で創業)が開発した音叉時計「ACCUTRON」などもあり、60年代後半には電子式の置き時計や電子式時計付きTRラジオなどが普及している。例えば、ソニーは69年に電子式時計付のTRラジオ Digimatic 8FC-59Wを発売している(尚、ソニーはセイコー製の機械式時計付きのTRラジオは60年に発売)。また、Hamiltonは72年(発表は70年)にLED表示の電子腕時計Pulsar(2,100ドル、販売数400個)を販売している。
*6 カシオトロンの価格は翌75年には29,000円、78年には10,000円を割り、80年には3,900円。販売数は75年には150万個、80年には1,500万個に達し電卓と共にデジタルウォッチでもトップシェアを獲得する。
*7 75年のAltairに続き、多くの企業がPC(microcomputer/home computer)に参入する。76年頃におけるシェアをみるとMITISのシェアが25%程度、MSAIが15~20 %(IMSAI 8080、i8080ベース), Processor Technologyが10% 弱 (SOL-20, i8080ベース、$1,495)、SWTPCも10%弱(SWTPⅭ 6800、MC6800ベース、$395)の4社が6割程度のシェアを占めていたようだ。ただ、形態も価格も様々であり同じ製品とは言えるのかは別にしてだが。その他に目立つ企業としては、Cromemco,(Cromemco Z-2、Z80ベース、$1,299)、NASCOM (NASCOM-1、キット、Z80ベース,$300)、そしてAppleもApple Ⅰ(MCS6502ベース、$666.66)を175台販売している。恐らく数十社がMITISに続いたようである。
そして、翌77年になると、6月にAppleⅡ(MCS6502ベース、$1,298)、8月にTandyのTRS-80(Z80ベース、$600)、10月にCommodoreのPET2001(MCS6502ベース、$795)が発売され一挙に市場が開花することになる。特にTandyは子会社のRadio Shack 3,000店で販売し、ホビースト向けだったパソコン(Home computer)を一挙に大衆向けの製品に変貌させることに成功する。モニター、データレコーダー付きで600ドルの安さに加え、直にフロッピーデスクやHDDなども販売され、またゲームソフトからビジネス用の表計算ソフトなどアプリケーションが充実されて行き、家庭からビジネス用途にまで市場を広げていく。
*8 HPは72年にハンディタイプの科学計算用電卓HP-35を発売、また同年分散処理型のミニコンHP-3000を発売しともにプレゼンスを確立する。そうしたHPに対して、Wozniakは75年頃にパソコンの事業化提案をするが、5回提案して5回拒絶されてしまう。Apple Ⅰの設計図はその際に提出されていたと云われる。そのため、WozniakはSteve Jobsの誘いに乗りAppleが設立されることになる。WozniakはHP製の電卓を手放し、Jobsは車を手放しての起業であった。
HPは80年代にも電卓事業を積極的に進めていく。80年にはHP-80シリーズを発売する。そのシリーズの上位機種HP-85の価格は3,250ドルとパソコン以上の価格であり、モニター、プリンター、磁気テープ式記憶装置、キーボードが一体化したもので、アセンブリーやBASICでプログラミングできる科学技術計算用の高機能電卓であった。HPがパソコンに参入するのは83年になってからである。
*9 TIは79年6月にパソコンに参入し83年9月に撤退している。この時もTI哲学を実践し、低価格こそが勝ち残るための最も有効な手段とし積極策に出たものの、結局はパソコン売上4億ドルに対し、5億ドル以上の損失を被ったと云われる。TIと入れ替わるように、TIからスピンアウトしたJoseph Canion、James Harris、William Murtoの3人によってCompaqが設立され、83年3月にIBM PC互換機Compaq Portableが発売される。
液晶・太陽電池と電卓
液晶は1888年にオーストリアの植物学者Freidrich ReinitzerとドイツのOtto Lehmannの協力によって発見される(物性としての液晶が知られることになる。液晶自体はそれ以前に発見されていた)。そして、1962年にRCAのRichard Williamsが液晶の電気光学特性を発見し、68年にはRCAのGeorge Heilmeierらが表示装置の試作に成功する。これはテレビのブラウン管の代替を狙ったものだった。しかし当時の技術ではテレビ用の大画面を作るには歩留まりが低すぎてコスト的に見合わず、また輝度や表示速度、更には視野角、寿命などの面でもテレビ用としては耐えられるものではなかった。RCAは70年代初めには開発を打ち切る。
71年にスイスの化学・製薬メーカーのF.Hoffmann-La Rocheが液晶で時計用の表示パネルを開発に成功する。70年代にはスイス企業が初期の液晶産業をリードする。液晶の歩留まりは画面サイズ比例し大きく低下するが時計用はサイズが小さく十分な歩留まりを達成でき、コントラスト比などの面でも当時の水準で特には問題が無かった。
世界で最初の液晶電卓はBusicom LC-120 で1971年1月のビジネス・ショウに出品され、価格は9万円前後で8月発売予定だったが、液晶の安定性が十分でなかったことから販売されなかった*1。73年6月にシャープは液晶表示のポケット電卓EL-805*2を発売する。シャープは69年より液晶の自社開発に取り組みRCA社の開発したDSM液晶をベースに液晶剤の改良などにより長寿命化や表示性能の向上に成功すろ。
シャープは液晶の薄型・軽量・低消費電力に着目し、RCAに電卓表示部への適用を打診したが技術的に困難だとして断られている。やむなくシャープは69年より液晶の研究開発を行う。この時以来シャープが世界の液晶産業をリードすることになる。液晶が日本企業を中心に発展*3してきた原点は電卓用や時計用液晶にあり、また液晶需要が日本に集中していたことにある。
また、76年12月にシャープは太陽電池式(充電池内蔵)電卓EL-8026を発売する。価格は24,800円(電池式の約3倍)と高かったこともあり普及は進まなかった。当時、省電力化が進み1,000時間を超えるものも販売されており、電池交換不要と言うのはそれほどの優位性は無かったのかも。80年頃には価格も電池式と比べ大きな差もなくなり80年8月に売り出されたシャープのEL-826の価格は4,500円と普及価格帯となっている。尚、80年9月には三洋がアモルファスシリコン製太陽電池搭載の電卓発売し、アモルファスシリコン太陽電池の実用化に成功する。太陽電池*4、また小型電池においても電卓の果たした役割は大きかった。
液晶産業は90年代半ばよりパソコン用の大型TFT--LCDパネルの急成長により2000年には約230憶ドルに達する産業に成長する。シャープが90年代半ばには30%程度のシェアを持っていたほか、ほぼ日系企業の独壇場となるが、韓国、台湾企業の相次ぐ参入により日系企業のシェアは低下し続ける。
半導体に関しては、日本の敗退の分析が多くなされているが、的外れのようである。液晶、太陽光等、多くの製品が半導体の後を追うように敗退して行く。原因は基本的に同じと言っても過言では無いのかもしれない。共通する要因を分析すべき様である。
液晶は液晶TV時代の入り口に差し掛かり市場が飛躍的に伸びる時期に日本勢の設備投資が急速に落ち込む。韓国・台湾企業による大型TVに対応できる第五世代工場の建設ラッシュが始まった時、日本勢の第五世代建設は皆無であった。その後、シャープが一人気を吐き6世代、8世代、10世代と積極投資を行うが、結局は経営危機に陥ってしまう。
*1 ビジコンは71年に表示部にLEDを搭載した12ケタのポケット電卓LE-120Aを発売している。モステック製の1チップLSIが搭載されていた。10時間電池がもった。LEDに比べLCDは表示性能が大きく劣っていた。
*2 シャープのEL-805の消費電力は更にビジコンのポケット電卓LE-120A に比し更に電力消費が1桁少ない0.02W/Hだった。EL-805はCMOS LSIを使い更に1枚の強化ガラス板上に、CMOS LSI、液晶、キー接点など全てを一体化したCOS(Calculator -on-Substrate)技術を使うなど、徹底した省電力化・軽量化を図っていた。サイズは78mm×118mm×20mmとほぼ同じだが、重さ210gを実現した。単三乾電池一本で100時間動いた。。
尚、カシオは74年11月にデジタルウォッチ・Casiotron 04-501に液晶を搭載するが、使われた液晶はスイスBrown Boveri製。カシオは74年から液晶の研究開発に着手、自社製液晶を最初に搭載したのは78年9月発売のデジタルウォッチ Casiotron 31-CS10Bより。
*3 東芝も液晶への取り組みは早く、開発・製品化においてもほぼシャープと足並みを揃えていた。
*4 太陽電池においては米国が独走していた。太陽電池の歴史は1839年にまで遡ることができるが、実用化に耐えることがなるのは、1954年にBell研によって変換効率4%の太陽電池が開発されたときから始まる。56年にはGEが太陽電池駆動のTRラジオを試作している。翌57年にはニュージャージ州のAcopian technology(現Acopian Power Supply)が太陽電池駆動のTRラジオを発売しているがTR1個/Di1個/可変抵抗器1個、その他に抵抗等などで構成され7.5cm×5cm×1.7cmという超小型で且つ$12.95という安さであったが性能的に劣り普及は限定的であったようだ。無電源する駆動の鉱石ラジオの鉱石をTR/Diと太陽電池によって置き換えたものである。TRも太陽電池も軍用等の派生品を低価格で入手したものと思われる。キットとして主に売られたものと思われる。
58年には米海軍が人工衛星ヴァンガード1に太陽電池は搭載されているが、太陽電池は衛星搭載用を主に初期的には開発が進められる。
太陽光発電としては、Alcoが1982年には早くもカリフォルニア州のHisperiazoに1MWの太陽光発電所(メガソーラ)を完成させ、84年には同じくカリフォルニア州のCarrizo Plainに5.2MWの完成させている。日本でメガソーラが建設されるのは、それらに遅れ30年後の2014年に双日が北海道斜里郡小清水町に建設した9.1MWの小清水太陽光発電所が最初である。
米国は太陽光発電にとって優位な日照時間の長い砂漠地帯など立地に恵まれてはいたものの、電力料金が安く、且つ、太陽熱利用の発電(例えば、カリフォルニアのモハべ砂漠に84年から稼働したSEGS-Ⅰの14MWを皮切りに90年のSEGS-Ⅸまでの合計発電量は394MW)との競合もあり普及はあまり進まなかった。
一方、日本はシャープが81年に22.2KWの太陽光発電をシャープの天理社宅に設置し実証実験を行っているのが最初のようである(実験以外では83年に奈良県高市郡高取町の壷阪寺にシャープ製の35Wモジュール40枚から成る1.4KWのシステムが設置されている。これは40年近く経過した現在も稼働を続けており、且つ、当初の性能を維持している)。
日本は電力料金の高さにより太陽光にとっての劣位性が相対的に緩和され、家庭用を主に融資制度・補助金制度に後押しされ普及が進み、1993年より住宅用の販売(同年24MW設置)が始まり、2000年頃までには累積設置容量330MWに達している。99年には生産量で米国を抜きトップに立ち2005年頃までは、日本は太陽電池生産・新規設置ともに世界の約5割を占めリードする。2006 年までシャープが世界第一位の生産量(発電容量ベース)を誇り、一時はシャープの他、京セラ、松下、三菱電機を含めて、上位 5 社のうち 4 社を日本勢が占める等、日本は非常に高いシェアを有していたが、以後、太陽光発電が世界的に本格普及するとともにコスト競争力を持つ中国・台湾勢が大きくシェアを伸ばし、2009 年になるとトップ10に入る企業は2社となり日本企業のシェアは 10%、2012年には日本企業はトップ10から姿を消しシェアも6%に低下する。現在(21年)では日本の生産シェアは1%にも満たない。
欧州企業の半導体
70年代半ばには欧州における現地生産も含めた米国系メーカーの市場占有率は約7割に達していたが、MOS ICでは更に欧州企業は立ち遅れていた。MOS ICに対しては電卓やコンピュータ関連(特にDRA等)など需要面で牽引するものが少なかった。日本と同様に、エレクトロにクス関連企業の一部門であることが多い、且つ日本もそうだが真空管時代からの企業が生き残っていることも特徴と言えそうである。
欧州で代表的な半導体メーカーと言えば、Philipsであるが、今振り返ってみるなら、ある意味では世界で最も成功*1した半導体メーカーと言っても過言ではないが、70年代には売上こそトップクラス(80年にはTI、Motorolaに次ぐ3位)であったが、先端のMOS-Memory*2などにおいてはほとんどプレゼンスが無かった。寧ろ合弁の松下はDRAMにおいても準大手*3でありMOSのウェートも高かったが、MOSは松下の自主開発でありPhilipsからの技術導入ではなかった。ただ、Philipsの技術水準が低かった訳ではなさそうで、日本企業の場合、70年代末にはWEやFairchild*4への特許支払から解放されるが、それに対しPhilipsへは多額の特許料を支払わされることになる*5。Philipsは縮小露光装置(ステッパー)の開発・販売*6を行ったり、LOCOSなど微細加工技術の開発も早くから進めていたが、MOSメモリーなど先端分野においてほとんどプレゼンスはなかった。MOS-LSIでは通信関連やデジタル家電用に注力していた。
Philipsは90年代半ばにIBM*7との合弁でドイツのBoblingen(Stuttgart近郊)にSubmicron Semiconductor Technology GMBHを設立し16M-DRAMに参入するが98年には提携を解消するとともに、工場もロジックに転換してDRAMからは撤退している。
Siemensは70年代よりDRAMに参入*8しているが、ほとんどプレゼンスは無かった。目立ち出すのは93年に、当時DRAM技術をリードしていたIBMと東芝との256M-DRAMの共同開発プロジェクトに参加してからであるが、Siemensも技術的な蓄積は十分にあったと思われる。IBMとの合弁でフランスのCorbeil-Essonnes (パリ近郊)にALTIS Semiconductorを設立する。 2000年にはDRAM売上で日本勢を押さえ、Micron、Samsung、Hynixに次ぎ4位(東芝6位、IBM16位)となっている。Siemensもヨーロッパの半導体企業に多いのだが、アナログ系やパワー半導体関係で通信や重電、その他産業機器関係用途に強みを持っており、現在(2021年)においてパワー半導体においてはSiemens (Infineon)が世界トップであり、2位はST Microelectronics(SGSとThomsonが統合)であり欧州勢が健闘している。パワー半導体関連においては欧州が最大の市場である。
TRから参入した企業としては、イタリアのOlivettiが目立つ程度の様である。OlivettiはAziende Tecniche Elettroniche (ATES)を57年に設立している。またOlivettiは60年代にはFairchildとの合弁でSGS Fairchildを設立し、72年に両社は統合し、SGS-ATES Componenti Elettronici (85年にSGS- Microelettronicaと改称)となるが、ヨーロッパではPhilipsに次ぐ大手となる。66年頃にはMOSのプロセス技術はかなり確立されており、67年には製品化されていた。Federico Faggin はFairchildに派遣される前に、ここでMOSプロセスの開発や製品設計を経験しており、後のFairchildでのSi-Gate技術の開発もそれらの経験が有ったからこそであろう。Olibettiの他ではBoschやSemikronなどもTRからの参入であるが、主に産業機器や自動車関連のパワー半導体などが主である。
*1 半導体でもっとも成功と言えばIntelと一般には云われそうだが、株式の時価総額と言う観点から見るなら:―
時価総額(22/04/01)
TSMC 5,344億ドル・・・Philipsが筆頭株主として設立
ASML 2,704億ドル・・・Philipsから分社して誕生
Intel 1,967億ドル
Philipsが合弁として設立した2社の時価総額の合計はIntelの4倍にのぼる。尚、ASMLの成長はTSMCによるところが大きい。ASMLは世界の半導体投資の3割近くを占めるTSMCをキャプティブ市場として持ち、更にIntelとの取引の多い4位のSVG(ParkinÈlmerなどが統合して設立)を買収し、2000年頃にはニコンを抜きトップに立つ。TSMC、Intel、それにMicronも以前より抑えており、ニコン、キャノンなどに対し優位に立ち、且つニコンの開発した液浸方式のスキャナー(基本特許はニコン)をいち早く製品化しほとんど独占に近いシェア(95%程度)を得るに至っている。ニコンは2006年(ASMLは2005年)より販売しているが現在でも数%のシェアしか確保できていない。更には次世代のASLMが18年より出荷しているEUV(極端紫外線、装置価格は約2億ドル/台)ではニコンが開発を打ち切ったこともあり独占が確定している。
隅谷・長島理論に則すなら、半導体産業を支配するのに何も半導体を作る必要はなく、些細なものであろうが、何か一つでも、参入障壁が高く、且つ、避けることができない様な何かを独占できるならそれで十分に支配ができると言う理論のASMLはその実践者である。
尚、半導体関連企業の時価総額では、セガや任天堂、更にはソニーに育てられたNVIDIAが最大である。
NVIDIA 6,904憶ドル
*2 DRAMの競争は設備投資競争でもあった。設備の陳腐化が早く常に最新の設備を導入し且つ大量生産により累積生産を増大する必要が有った。例えば4k-DRAMから64k‐RAMにかけて、Waferの口径は3インチ、4インチ、5インチと拡大し、アライナーは密着露光から投影露光、更にはステッパーとなり、エッチングはケミカルのウェットエッチからフィジカルのドライエッチへ、拡散も拡散炉による熱拡散からイオン・インプランテーションへ、配線も真空蒸着からスパッターへ、クリーンルームのクリーン度も急速に向上し、空調等のコントロールも格段に向上する。歩留まりは20%台から量産化に入り、累積生産効果、およびプロセス改善により1年程度で60%台まで向上する。設備の自社開発力も問われた。このDRAMの競争に対応できたのは、日系企業及び日本にDRAM生産の拠点を持つTIくらいであった。こうした中、MOS MEMORYのパイオニアであるIntelは80年代半ばにはRAMから撤退、4k-DRAMで圧倒的シェアを獲得したMOSTECHは破綻する。一方、マクドナルド向けジャガイモ販売で成功を収めたアイダホのジャガイモ業者のJohn SimplotがMicronを買収し82年よりDRAMに参入しDRAM業界をリードすることになる。
*3 松下は91年4月のPalo Altoで開かれたISSCCで東芝、富士通、三菱と並んで64M-bit DRAMの発表をおこなっている。開発面ではDRAMの大手企業にひけをとらなかったようだ。尚、東芝に比べるとかなり劣っていたが、富士通・三菱とは同レベルであった。
*4 Fairchild特許は日電からサブライセンスを受ける形だったが、当初4..5%であった。その後、4.1%、3.8%と下がり、73年には日電の再実施権はなくなりFairchildとの直接契約となるが3.2%程度に下がっている。メインはplaner特許であるが、これは「製造過程で出来た酸化膜を保護膜として使用する」と言うのが特徴であるが、直に日本企業は”製造過程でできた酸化膜を一旦除去してしまい、新しく酸化膜を付け直す”ことによってPlaner特許から逃げて特許料を大幅に削減することに成功する。また、MOS-ICは製法が異なりPlaner特許の対象外である。
*5 Philipsの特許で最も有効だったのが66年のLOCOS(Local Oxidation Of Silicon)特許。16K-DRAMの頃から必須の技術になる。この時、日立は上手くクロスに持ち込むことに成功し、無償または低い額でLOCOS特許の使用権を取得したと云われる。この時の日立の特許は64年のMOSの低電圧化を可能にし集積化を促進した結晶関係の技術であった。尚、日立はSi waferの開発製造を99年に信越半導体に営業譲渡するまで続けていた。他の日系半導体メーカーは70年頃までにはSi Waferの開発・製造から手を引いていた。尚、ロームは一部であるが現在も結晶関連の開発・製造を行っている。
尚、TSMCはPhilipsの特許によってカバーされ守られていた。
*6 85年当時、10数社がステッパー(縮小投影露光装置)を手掛けていた。パイオニアのGCA(米)に加え、ニコン、キヤノン、日立、ParkinElmer(米)、Philips、TRE(米)、Ultratech(米)、Optimetrix(米)などがあった。一時はニコン、キヤノンで圧倒的なシェアを占めた。90年代末には、ニコン、ASML(Philips)、キヤノン、SVG(parkinelmer)、Ultratechの5 社に減る。
*7 IBMは、東芝、Siemens、Philipsと合弁で、それぞれとDRAM/Flash Memoryの製造会社を設立している。東芝とは96年2月にバージニア州Manassas(ワシントンD.C.郊外)にDominion semiconductorを設立、翌97年操業開始、2000年12月提携解消。翌年末、Dominioの工場はMicronに売却される。
*8 欧州でDRAMに参入していたのは、Siemensの他に、米Ⅿotorola、SGS、Thomsonの4社が有り、これら4社が87年7月に日本製DRAM/EPROM(TIを含む)に対してダンピング提訴するが、EC委員会により調査は行うものの特には具体的な罰則等は無く調査のみで終わっている。輸入制限等を行っても、それを代替することがヨーロッパメーカーにとってはほとんど不可能であったことが要因のようである。但し、これに対し日系企業は自主規制を行い、価格の適正化を行っている。Samsungなどは、これに乗じ、日系メーカーより若干安い価格によってシェアを伸ばしていく。
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一章 真空管エレクトロニクス
真空管の誕生
19世紀末のエレクトロニクスをリードしたのは電灯と通信*1である。真空管によりこの2つが合流する。電球の長寿命化のため真空度を高める研究が続けられるが、結局は不成功に終わることになる。この過程でエジソンは後にエジソン効果*2と云われることになる仕組みを使った一種の電球を開発し発電機の制御装置を開発している。この電球に検波作用があることを1904年にイギリスのJohn Fleming*3が発見する。Fleming valve(二極管)の誕生である。その2年後の1906年に米国のLee DeForestがaudion(三極管) *4を発明し真空管エレクトロニクス時代の幕が開かれる。
真空管の生産は発明から10年経った頃でも米国では年2万本程度に過ぎなかった。これが米国の一次大戦参戦とともに急速に拡大し1918年には100万本に達する。US Army Signal Corps(米陸軍通信隊)の野戦用通信機に採用されたことにより真空管は規格化・互換化が進み標準化された信頼性の高い部品となる。真空管はGeneral Electric(GE) *5、DeForest Radio Telephone&Telegraph、Westinghouse(WH)により製造されている。いずれの真空管メーカーも東海岸のマサチューセッツからペンシルバニアに立地する企業である。そして一次大戦から30年頃までに、Hygrade Incandescent Lamp(マサチューセッツ)、Novelty Incandescent Lamp*6 (ペンシルバニア)、Raytheon(マサチューセッツ)、Philco(ペンシルバニア)、DuMont(ニュージャージー)なども真空管事業に参入する。
*1 19世紀は有線通信を中心に通信は大きな発展を遂げる。1832年ドイツで電信機が発明され、1866年には電信用の大西洋横断ケーブルが敷設されている。日本ではデンマークのGreat Northern Telegraphにより1871年に上海-長崎間に海底ケーブルが敷設され日本は世界と電信によって結ばれた。尚、米国での電信サービス開始は1844年、電話サービスの開始が1878年。
*2 1883年にエジソンの発見した電球に金属棒等を追加しそれに電圧をかけるとフィラメントから電子が飛び出す現象。1910年にOwen Richardsonによって原理が解明されエジソン効果(リチャードソン効果とも云われる)と名づけっれた。
尚、電球が発明される以前には放電を利用したアーク灯が使われていたが、眩しすぎることや放電音の煩さ、炭素電極の消耗のため、電極間隔の調整を必要とし普及は限定的であり、且つ屋内証明には不向きだった。また、電球を発明したのはエジソンではなく、イギリスの Joseph Swanが1875年に発明している。エジソンは79年に竹を炭化・結晶化(黒鉛)させたフィラメントを使って電球の長寿命化に成功する。1879年当時、Swanの電球寿命が45時間程度であり且つ発光効率(1.4ルーメン/w)も悪かったのに対し、エジソンの電球は81年時点で寿命600時間、2.25ルーメン/wと一般家庭にも普及できるレベルに達する。尚、現在の一般に普及しているLED電球は発行効率110ルーメン/w、寿命5万時間(明るさが当初の70%まで落ちるまでの時間)である。尚、フィラメント用竹の探索をしていたエジソンの助手に京都の竹を勧めたのは伊藤博文だと云われている。
*3 フレミングの法則で有名なFlemingは英国のEdison系企業Edison&Swan United Electric Light Companyの技術者として一時期勤務、退社し大学に戻った後も技術顧問として在籍。産学協同の走り。
*4 DeForestのaudionは無線機のdetector(検知器)用に開発された。増副作用が発見されるのは12年頃のこと。GEのIrving Langmuirによって三極管が完成をみる。尚、オーストリアのRobert LiebenもDeForestとほぼ同時期に三極管を発明している。
*5 Edison General Electric CompanyとThomson-Houstonが1892年に合併して誕生。送電の直流方式を推進したEdisonは交流方式を推進したWestinghouseに敗れ技術的・経営的に問題を抱え合併を余儀なくされ、実質的オーナーであるJPモルガンに見切りを付けられ社長の座を追われ社名からも名前を消される。
*6 HygradeとNoveltyは1900年代初期に切れた電球の修理再販業として出発し、その後電球製造を経てRCAからライセンスを得て真空管に参入している。この2社は31年に合併しSylvaniaとなる。
国策会社RCAの設立
1901年にGuglielmo Marconi(イタリア人)はカナダのニューファンランド島と米マサチューセッツのCape Codに無線基地を建設し、この年に大陸間の無線通信実験に成功*1する。これに先立ちニューヨークに事務所が置かれるが、これが発展しAmerican Marconiが設立される。同じくカナダにはCanadian Maruconiを設立。1903年頃には通信品質は不安定なものの国際通信事業を開始できる技術レベルに達する*2。
American Marconiは10年に米国最大の無線通信会社United Wireless Telegraph(UWT)を特許侵害で訴え勝訴し、12年にはこれを吸収することによって事業基盤を拡張させた*3。UWTは6年にAmerican Wireless Telephone&TelegraphとAmerican DeForest Wireless Telegraphが合併して誕生した会社である。この時、Lee DeForestはスピンオフ(Fessendenとの特許紛争に負け責任を取って退社)してDeForest Radio Telephone&Telegraphを設立している。
第一次大戦後、無線通信事業の外資系企業による支配は安全保障上から好ましくないとして、1919年10月にAmerican Marconi(イギリス系)の資産を継承してRadio Corporation of America(RCA)が誕生する。これには当時の海軍次官補であったFranklin Roosevertが大きな役割を演じている。更に特許紛争による混乱が産業の発展を損なっていたとの認識により、無線通信関係の特許は国家管理すべきとして、GEやWH、AT&A、United Fruits*4の持つ特許権をRCAが引き継ぐことになる。GEは開発や購入により多くの特許を保有していたものの、audion(1906年)の特許はDeForestから購入したAT&Tが保有し、heterodyne receiver(1906年)関連特許はUnited FruitsとWHの共有であったり、またsuper-heterodyne(1918年)はEdwin Armstrong氏*5の保有であったりと特許関係は複雑であった。主要特許の多くがRCAに集約され、RCAがラジオや真空管メーカーにライセンスを供与することになる。
*1 モールス信号で「S」の文字を繰り返し送信。グレートブリテン島最南西CornwallのPoldhuから発信した信号を対岸のアイルランドのロスレア、アイルランド北西岸のクリフデンで中継しニューファンドランド島のSt.John’sのSignal Hillで受信することに成功。
*2 1903年1月18日、無線によりセオドア・ルーズベルト大統領からイギリス国王エドワード7世へ”In taking advantage of the wonderful triumph of scientific research and ingenuity”と、科学技術の進歩を称賛する言葉で始まる50単語ほどのメッセージを送信。
*3 この時、American MaroconiはUWTから70個所の地上局及び500隻の船舶に装備された無線局などの運営業務を引き継いでいる。
*4 United Fruitsは中米でバナナやコーヒーのプランテーションを経営するとともに通信・運輸関係も支配しており通信とも関係が深かった。RCAのGE(30.1%)、Westinghouse(20.6%)、AT&T(10.3%)に次ぐ株主(4.1%)となった。
*5 特許紛争は収まったわけではなく、その後も激しい紛争が続く。例えば、ArmstrongはRCAへの特許売却で富豪になったものの、長年に渡る数々の特許紛争で財産も使い果たし、RCAとのFMに関する特許紛争中の1954年1月に自殺。裁判は勝訴となる。
ラジオ放送の開始
20年11月2日にWHがPittsburghにKDKAを設立しで放送を開始したのがラジオの本格的な放送の始まりだと言われる*1。この最初の放送は大統領選挙の開票速報でハーディングの勝利を伝えた。WHはラジオ受信機の販売も併せて行い、受信機を一般家庭に販売した最初の企業となっている。WHは翌年9月にWBZをSpringfield(マサチューセッツ州)、10月にWJZをNewark(ニュージャージー州)、11月にKYWをChicagoに設立し放送を開始している。GEもSchenectady(New York州)の工場にWGYを設立し22年2月に放送を開始する。22年末には全米で569局が設立された。運営費は放送局を設立したデパートメント・ストアーなどのスポンサーに依存していた*2。
ラジオは20年には数千台(無線通信機は除く)の普及に過ぎなかったが、24年には普及率は10%(約300万台)を超え、29年の大恐慌直前には40%、30年代末には80%に達し市場はほぼ飽和状態になる。尚、乗用車の販売は20年代半ばには年350万台*3(登録台数17,481千台、1000人当たり150.9台)に達し、29年には400万台を超え、60%近い普及率(登録台数23,121千台、1000人当たり189.9台)に達していた。T型Fordの価格は当時300ドルほどだったのに対し、ラジオの価格は30ドル程度であり、現代の感覚からみるとラジオは相対的に高かった。放送局の送信出力の低さや3球程度のラジオの感度では聴取可能地域は限られていたこともあり、ラジオの普及はそれほどスムーズではなかった。
ラジオの本格放送が開始されると、RCAはGEとWH製のラジオ受信機の販売を行う。そして26年にはNational Broadcasting Company(NBC)*5をGE、WHと合併で設立する。GE、WHはそれぞれ独自に放送業に進出していたがNBCに事業が集約され、これらをベースにして全米48局がネットワーク化されナショナルネットワークが誕生する。
*1 1906年12月に米国のReginald Fessenden(カナダ人)がマサチューセッツ州のBrant Rockで無線による音声放送(実験)を行う。これが娯楽および音楽を一般向けに流した世界初のラジオ放送と言われる。但し、一般家庭には受信機は無かったのでほとんど聴取はされなかったかも。1909年1月にはSan JoseにCharles Herrold(Stanford大学でのフーバー大統領のクラスメイト)等が自作の15Wのspark transmitterを使って毎週水曜日午後9時より30分間のラジオの定期放送を開始。20kmほど離れた所でも聴取できたという。改良が重ねられ4年ほど後には5,000km離れたU.S. Navy wireless stationでも聴取できたと言われる。一次大戦中に民間のラジオ放送局に放送禁止命令が出され、18年7月31日に放送停止。
*2 WHはラジオを売った収益でラジオ放送局を運営した。局名にToolが付くものも有り有料放送もあった。コマーシャルに関しては22年8月にAT&T Toll Broadcastingが10分50ドルで不動産会社であるQueensboro Corporationの the Hawthorne Court Apartments in Jackson Heights(22年に建てられた14棟のビルからなるアパートメント群で現存している)販売のためのコマーシャルを流したのが最初と言われる。本格的にコマーシャルに依存するようになるのは20年代末期になってからであった。
*3 米国の25年の乗用車生産(工場出荷)台数は3,735千台。約20万台は輸出され国内販売台数は約350万台。29年の生産は4,455千台。
*4 20年代を通して低価格ラジオのリーダーだったCrosley(21年Ohio州Cincinnatiで創業)の場合、$7の低価格の鉱石ラジオを発売、24年発売の二極管式真空管ラジオ(再生検波1管+増幅1管)は$18.5、25年発売の一極管式(再生検波のみ)は$9.75だった。三極管式(第一段に再生検波1管、二段に増幅2管)が標準的で、1球、2球タイプは廉価版。
*5 NBCへの出資比率はRCA50%、GE30%、WH20%。
(独禁政策)
そして29年にRCAはGEとWHのラジオや真空管の開発部門を吸収、同時にVictorを154百万ドルで買収しエレクトロニクスのリーディングカンパニーとしてのRCAが誕生する。大株主であるGE、WHと密接な関係を続けてきたが、独禁法問題が生じ32年にGEとWHはRCAから手を引くことになる。RCAは設立当初は無線通信の国策会社としてのスタートだったが、ラジオの誕生により事業内容は大きく変化していった。
29年の大恐慌の発生原因として独占化や寡占化があったとして、独禁政策が積極的に進められていった。特許権は独占的な権利であり、市場独占の目的で行使することは悪用(Patent misuse)と見做され、独禁法訴訟に敗れると特許を無償で公開させられたりした。この時代に米国はプロパテントからアンチパテントへと大きく切り替わっていく。そして約50年後に登場するレーガン政権が国際競争力復活などの観点より知的財産権を保護強化する政策に転換するまでアンチパテント政策は続くことになる。
(ラジオ受信機メーカーの濫立)
19世紀末期には既に有線の電信を使ったアマチュア通信が行われていたと言われる。そして、1905年頃にはアマチュア向けの無線システムが通信販売などで販売され普及が進む。12年の電波法の施行で使用電波の制約や免許制によりアマチュア無線は激減し、更に一次大戦中に無線通信は国防上の理由から国家の統制下にあり無線機の民間保有は禁止されるが、大戦後の19年10月に解禁され、また帰還兵により無線機が持ち帰られたことなどもあり、無線機は大戦直後には20万台近くが民間にも普及していたようである。ラジオの登場に先立ち無線通信技術はマニアを中心に一時中断があったものの一般人にもそれなりに取得されていたようである
大戦で無線機に接した帰還兵の中にZenithを創業するRalph MathewsとKarl Hasselがいた。Mathewsの自宅のキッチンテーブルで無線機器の組み立てを始める。Chicagoに振興のラジオメーカーが集積する先駆けとなる。Closleyやpackard Bell(Los Angeles)などの新興企業や真空管メーカーのGE、WH、Sylvania、更には重電のEmerson(St.Louis)なども一斉に参入する。そしてラジオ放送の開始とともに数百のラジオメーカーが濫立する。その後も、Raytheon(Massachusetts州)、Motorola(Chicago)などの参入は続く。ラジオ製造は手工業的な色彩が強く、キャビネットは木製で量産性が低く、部品取り付けや配線はほとんど人手頼りであり、キーパーツの真空管はGE/RCA、SylvaniaやRaytheonのものであり、ラジオメーカーが差別化する余地は限られ、またスケールメリットもそれほどはなく新規参入は容易であった。しかし新興企業の生き残りは難しく、多くは競争激化、特許紛争、大恐慌を経て淘汰されていく。
Zenithの場合は24年にポータブル化、26年には家庭用交流電源駆動の商品化に先鞭をつける。Zenithの生産台数は29年の大恐慌前には週2,000台超のレベルだったものが、大恐慌後には週300台にまで低下した。幸い受注生産(BTO)を行っており完成品在庫を持たなかったため、いち早く低価格ラジオの生産に切り替え販売を回復させていく。後のパソコンメーカーと比べると、Zenithの設立の経緯はAppleであり、巨大なRCA/GE/WH連合に対して積極的に新技術を取り込む姿はIBMに挑むCompaqであり、BTOによる需要変化や価格下落に迅速に対応する姿はDellといったところである。新規参入は容易であったとはいえ生き残り発展するためにはいつの時代であれ経営力・技術力を要する。
Raytheonの場合は22年にMIT出身(且つタフツ大学時代のルームメイト)のLaurence MarshallとVannevar Bushによって家庭用電気冷蔵庫*1の製造開発を設立されたがうまく行かず、24年にS-tube*2の開発者のCharles Smith を加えラジオ用真空管に事業変更*3する。そして25年に家庭用交流電源で駆動する真空管を発売し、バッテリー駆動だったラジオの家庭用電源化をはかりラジオ用真空管ではRCAを凌ぐほどまでになる。米国の一般家庭の電化は20年代に急速に進み、21年の16%から29年には70%へと高まっていた。
Motorolaの場合、設立は28年と後発だが旧式のラジオを家庭用電源と繋ぐためのアダプターで参入し、その後30年代に入りカーラジオで成功を収める。その後、30年代に入りカーラジオで成功を修める。30年に発売されたカーラジオの価格は120ドルとかなり高かった。キャデラックなどの高級車(3,000~10,000ドル)はともかくとして、シボレー等の大衆車(500~700ドル)に普及させるには価格的に高過ぎた。
*1 家庭用電気冷蔵庫の開発はGeneral Motors及び傘下のFrigidaire、Electrolux(スウェーデン)やGEが主導し20年代に大きく進化する。23年Frigidaireが世界初の一体型を発売。25年Electroluxが静音の吸収式冷蔵庫(冷媒にアンモニアと水)、27年 GEがベストセラー機となったMonitor-Top Refrigeratorを発売 (発売当初$525、直に$200)。また28年にはGeneral MotorsのThomas Midgleyによってフロンガスが開発され30年代半ばまでにフロンを使った冷蔵庫がFrigidaireやその競合から800万台売られている。30年の電気冷蔵庫普及率は8%、40年には44%に達する。なお、Thomas Midgleyガソリンにテトラエチル鉛を添加することでエンジンの「ノッキング」の問題を解決したことでも知られる。フロンと有鉛ガソリンと言う環境破壊物質の発明は“20世紀で最も致命的な物質の2つを発明した男”として知られる。*2 S-tubeはヘリウムガスを充填した交流を直流に変換する半波整流器(Helium-filled half-wave rectifier)。
*3 真空管はRaytheonの商品名で販売された。American Appliance Companyとして設立されたが、25年に商品名であるRaytheonに社名を変更。
黎明期の日本のエレクトロニクス産業
1915年にGEの真空管の基本特許(14年に開発されたLangmuirの特許)が日本で成立しその行使権を東京電気(現東芝)が獲得する。東京電気はもっぱらGE、後にそれを引き継いだRCA社の真空管の国産化に努め、19年には送受信管の製造を始めた。日本無線なども早期(18年)に真空管製造に参入するものの特許の関係から送信管等の一部に限られたものだった。その他、東京電気からサブライセンスを受けたエレバムやベストなどの中小のメーカーもあった。20年代半ばには十数社が真空管製造を行っているが、戦前は日本の多くのラジオには東京電気(ブランド名マツダ)の真空管が使われラジオ用に関しては高いシェアを保持していた。
35年に特許切れと共に大手企業が参入する。日本電気はフランスのLaboratoire Central de Télécommunications(LCT)*2からの技術導入により33年から送信管の製造を開始し、GE特許の切れる35年から真空管製造を本格化する。日立、川西機械*3もこの時期に参入を果たしている。ラジオ用で圧倒的なシェアを持つ東京電気に続き、日本無線、日本電気、日立、川西機械が二番手グループを形成し、この5社が戦前には軍用の送信管五社委員会のメンバーとして真空管製造の中心的な役割を果たし、戦後は日電、日立、神戸工業が電電公社用業務管3社のメンバーとしていわゆる電電ファミリーの中核を形成した。そのほか戦前には松下、三菱なども参入を果たしている。これらはいずれも半導体企業として後に中心的な役割を担うことになる。
日本でのラジオ放送は25年3月1日の東京放送局による芝浦の東京高等工芸学校の一室からの試験放送(3月22日に仮施設からの正式放送としての仮放送)から始まる*5。そして25年7月12日の愛宕山からの本放送開始時点では契約台数は3,500台*4であった。受信料は月1円とけっして安くはなかった。26年8月には東京・大阪(25年6月1日仮放送開始)・名古屋(25年6月23日試験放送開始)の三放送局が合同し日本放送協会が設立され、28年には札幌(6月5日)、仙台(6月16日)、広島(7月6日)、熊本局(6月16日)が開局し全国に電波が行き渡り始める*6。28年11月5日には全国中継放送(札幌-仙台間は無線中継、仙台-東京-名古屋-大阪-広島-熊本間は中継線)が開始される。
ラジオ受信機では25年に東京電気からサイモホン、芝浦製作所からジェノラのブランドで真空管ラジオが発売されている*7。東京電気は弱電、芝浦製作所は重電である。ともに三井系でGEと資本・技術提携関係にあった。39年には両社は合併し東京芝浦電気となる。20年代末までラジオは直流電流式のバッテリー駆動であり、真空管ラジオは余り普及はしていなかった。交流式が普及し出すのは米国に2年ほど遅れて28年頃からとなる。東京電気から交流用の検波管や出力管が販売されるのは28年である。所得水準が低い(世帯収入は月30円)こともあり価格が高い真空管ラジオの普及は初期的には限られたものであった。
一方、方鉛鉱や黄鉄鉱を検波素子に使う鉱石ラジオは米国ではそれほど普及しなかったのに対し、日本では20年代末でも過半を占めていた。鉱石ラジオでは聴取可能地域は放送局に近いところに限られる。
*1 日本無線はコヒラ検波器を使った三六式無線通信機を開発(製造は安中電機製作所:現アンリツ)した元海軍技術者らにより15年に設立される。日露戦争で「敵艦見ゆ」の電信はこのコヒラ検波器が使われた。終戦後、日清紡の支援を受ける。尚、日本無線の半導体子会社はRaytheonとの合弁として設立された新日本無線(現:日清紡マイクロデバイス)。
*2 Laboratoire Central de Télécommunications(LCT)は1916年に設立された国立の通信中央研究所。本来は通信規格の策定などが業務の中心であったようだが、Ⅼaboratoire de Télégraphie Militaire(軍事通信研究所)なども吸収し通信用真空管などの研究も行っていたほか、LCTブランドで真空管の販売も行っていた。日本電気は32年に技術者1名(小林正次、61年専務、63年退社し70年まで慶応大学教授、58年には日本学術会議会員に選出されている)を1年間派遣し真空管の製造技術を習得させ翌33年より真空管製造を開始している。
*3 川西機械は1920年に飛行機メーカーとして川西財閥によって設立される。28年に飛行機部門は川西航空機(現:新明和工業)として独立。戦後、神戸工業と改称。68年に富士通の傘下に入り半導体部門は富士通本体が吸収、ラジオ部門などは独立し富士通テンとなる。
*4 1925年末のラジオ聴取契約者数は東京放送局131,373件、大阪47,942件、名古屋14,290件の合計193,605件。32年2月には聴取契約が100万件を突破し、35年4月には200万件、37年5月には300万件、39年1月には400万件、40年5月には500万件と着実に増加を続ける。尚、ラジオの生産台数(物品税課税ベース)は35年4月から40年3月の5年間で2,332,832台であり、輸入数は特には目立ったものではなく、ほぼこの間の契約者数の増加300万件は生産数233万台をかなり上回っている。物品税を逃れている自作機などが終戦直後と同様多かったのかも。
*5 試験的な放送としては、22年頃から既に始まっており、東京朝日新聞や東京日日新聞(現:毎日新聞)、報知新聞が担っていた。また新聞社による独自のラジオ放送も行われ、例えば24年には、大阪朝日新聞による皇太子裕仁親王(昭和天皇)御成婚奉祝式典(1月26日)や大阪毎日新聞による第15回衆議院議員総選挙(5月10日)開票の放送がなされている。言論統制の為か、1923年12月、逓信省は放送用私設無線電話規則を制定し公益法人のみに放送事業を許可する方針とし、新聞社等の民間は排除。
*6 当時の無電源の鉱石ラジオや単球式真空管ラジオでは、例えば熊本放送局の電波を福岡県で受信するには無理があった。30年12月6日には九州で2番目の放送局として福岡放送局が放送開始、31年12月21日には3番目として小倉放送局が放送開始する。福岡県の契約者数は28年に1,500件、31年には12,000件。放送局の設置は植民地も含め続き、熊本放送局(那覇から790km)管轄下の沖縄では距離的に近く31年開局の台北放送局(那覇から630m)からの放送も聴取されていた。42年3月19日に沖縄放送局が開局する。
*7 その他に放送開始前後に、真空管ラジオでは、安中電機製作所(単球式価格不明:形式認定取得日24/12/20)、大阪電気製作所(単球式価格60円:形式認定取得日24/12/20)、日本無線(単球式価格55円:形式認定取得日25/3/4)などが販売されている。東京電気のサイモホンは2球式で価格90円、形式認定取得日25/2/7。少なくとも1球式の場合は、ヘッドホン(両耳型レシーバー)ないしは、安価な国産品が普及するまでは海外製の高価なホーンスピーカーなどが必要であったし、電波の弱い地域での聴取のためには増幅用の拡張機(2球式、ほとんどラジオと同じ形状で並べて使う)も使われることも有った。
(鉱石ラジオから真空管ラジオへ)
早川金属鉱業研究所(現:シャープ)から25年2月に鉱石ラジオが3円50銭で販売され好評を得る*2。翌26年には中国を始めアジア各国に輸出もされている。これにより24年に3人の従業員で再出発*1したシャープは再建に成功する。シャープの起源は12年に9年間の丁稚奉公を終えた早川徳治が19歳で東京本所(墨田区)に金属加工工場を開いた時に始まる。15年にシャープペンシル(早川式繰出鉛筆)を発明(改良)する。当初は全く売れなかったものの、欧米で売れるようになり、海外での高い評価が伝わって国内でも注文が殺到するようになる。23年の関東大震災で工場が全焼、妻子も亡くし、債務返済のため大阪の債権者に焼け残った機械設備および特許の無償での使用権を引き渡しての無からの再出発であった*3。
シャープは28年には真空管式(交流)に参入している。シャープのラジオの価格は30年には65円、そして32年にはベストセラーとなった真空管4本使用の冨士豪33型を35円。以後、36年には27円、37年には24円。これらシャープ製の価格が売れ筋の価格だった。
真空管ラジオの価格低下は鉱石ラジオからの需要のシフトをもたらすが、シャープの32年の35円という価格は、機器の価格差は大きくとも、月1円と言う受信料を考慮するなら総費用差は鉱石ラジオに比べたいして大きくはなく、鉱石から真空管への需要を大きくシフトさせる転機となる価格水準であった。
松下が真空管ラジオに参入したのは31年、後発としては八欧(現:富士通ゼネラル)が38年、帝国電波(現:クラリオン)が40年に参入しているが、30年代前半を中心に180社ほどの真空管ラジオメーカーが誕生している。主要なメーカーとしては、関東の山中電気*4(ブランド名テレビアン)、七欧通信機*5(ナナオラ)、関西の松下電器(ナショナル)、早川金属工業(シャープ)があり、そのほか主だったところとして、財閥系の東芝、三菱、日立、日本電気、関東では安立電気(現:アンリツ)、日本無線、八欧、帝国電波、日本精器(50年頃倒産)、関西では戸根(50年頃倒産)、双葉(50年頃倒産)、大阪無線(ダイヘンの子会社、50年代に清算)などがあった*6。
真空管ラジオにより日本の電子部品も高度化していく。鉱石ラジオ関連部品は粗悪部品が多く、コンデンサーなどは性能・品質の劣った紙コンデンサー*7がもっぱら使われていたが、30年代に入りこれらの部品も真空管式への需要シフトに対応し、優れた外国製部品を真似ることにより高度化していく。それなりの技術力を備えた新興の部品メーカーが誕生するのはこの頃からであった。日本ケミコン(31年)やエルナー(34年)などはこの時代に電解コンデンサーの事業化のために設立されている。
*1 早川徳次郎が早川金属工業研究所を設立して間もなく、それを聞きつけた慶応大学教授の岡田満から歯科治療に使われるスペップリングチューブ(以前岡田に納入したことがあった)の発注をを受けるとともに、借用書無しで(借用書を受け取ろうとせず)設備費用として1,000円の融資を受ける。初年度の売上は金属文具とともにスペップリングチューブが大きな売上となり、事業が軌道に乗ることになる。
*2 シャープの他にもラジオ放送の開始とともに鉱石ラジオの製造に参入した企業がかなりあった。25年設立の池田無線(昭和無線→SMK)も鉱石ラジオのために創業され25年4月に販売を始める。昭和無線(29年1月社名改称)は32年頃に真空管ラジオに参入。
*3 シャープはラジオ事業が順調に立ち上がると、片付いたはずの債務問題がぶり返され、借金返済にしばらく追われることになる。
*4 山中電気(山中製作所)は21年創立。1925年「ダイヤモンド」ブランドで直流電源のラジオやスピーカ(ホーン型)を販売している。28年にはエリミネータラジオ(交流電源)を販売するほか東京電気のラジオ受信機サイモホンの下請けとして部品加工などを行う。電力会社などでラジオの販売をするとこも有ったが、そうしたところにOEM販売をおこなっている。ラジオ組み立てに必要な部品はほとんど内製しており内製率が高く、それを生かした経営を行っている。戦後の混乱期、ドッジラインによる不況を乗り切ったものの、TVで躓き1954年に発売するものの翌年には撤退,1956年に東芝の傘下に入った。
*5七欧通信機は24年にラジオ用のラッパ型などのスピーカー製造で創業。当時のラジオはまだスピーカー外付けが主流であった。ラジオ部品や蓄音機部品を手広く扱っていた。1931年にはマグネティックスピーカ内蔵の3球エリミネータ受信機ナナオラ100型を発売しラジオに進出。1950年代から始まったTV競争でも1953年TVを売り出し初期的には順調に立ち上がったもののシェアは3%程度で低迷してしまい苦境に陥り1957年に東芝傘下に入った。高価なTVは一般大衆への販売はローン販売が主となり,ラジオとは異なる販売網の確立が必要だった。
販売網の整備には莫大な資金を要し,それができるのは大資本の総合家電メーカーだけだった。三洋電機が53年に従来の半額の低価格の洗濯機(28,500円)の販売を始めるが、その拡販のために特約契約で販売店の囲い込みを図っていた。そうした動きの後、57年に松下電器が「ナショナルショップ」と「ナショナル店会」を発足させ系列店政策を開始する。松下は当時主流であった各メー カーの併売店を自社の専売店にするために自社メーカーの取り扱い比率に応じて与えるいわゆるリベートなどで囲い込みを進め傘下におさめた。それに続き日立は日立チェーンストール、東芝はマツダリンクストア、三菱はダイヤモンドショップ、早川がフレンドショップなどの名称で電気店の囲い込みが一斉に始まった。
*6 44年時点で、750万台のラジオが設置されていたが、終戦時には160 万台が戦災で破損、190万台が部品交換等の修理が必要な状態であり、100 万台が老朽化といった理由で使用不能で、使用可能数は300万台に過ぎなかったといわれる。
ドッジ(ライン)不況(恐慌と言うべき:49~50年)とラジオが戦前の水準まで普及が回復してきたこともあって、49年に200社あったラジオメーカー数は, 翌年には数分の1に激減し多くの準大手・中堅メーカーが破綻する。生産台数は48年の807,398台から50年には287,410台にまで減少する。
部品を買ってラジオを組立てると、ラジオにかかる高率の物品税を払わなくてすみ、直接的な材料費のみなら半額に近い値段で制作できるので、街でのラジオ組立(および物品税を逃れた闇業者)が盛んであり、50年にはセットメーカーの生産台数の約3倍のラジオが中古品の再生販売等も含め街で組立販売されたと、セットメーカーの生産台数や真空管の生産本数、聴取契約加入数などとの比較から推定されている。
一方、そうした自作などが多くなるのと、それとともに四畳半工場的な業者や修理業者などから部品業に参入し、本格的な部品業者へと成長していくものが現れてくる。トリオ、アルプス、菊水、ミツミ、ロームなど戦後派の部品メーカーにはその後の日本の電子工業の中で重要な地位を占める企業に成長したものも多い。一時的にせよ、戦後の混乱期に出現した非正規の市場の拡大が新規参入を促進したと言える。
52年(暦年)にはラジオの生産台数は939,307台に達し、戦前のピークである41年(年度)の917,011台を超え、税率が5%に下がった翌53年には1,407,112台に達する。
尚、ラジオの物品税(工場出荷時)は38年10%、41年20%、44年60%。1947年から49年までは30%、以降引き下げられていき53年には5%。
*7 紙コンデンサーは誘電体として紙(油紙)を使用。現在でも紙はスペーサとしては使われることが有る。
第二章 トランジスタの誕生
Bell研
1904年にFlemingにより二極管が発明されるが、同じ年にインドのJagadish Boseにより鉱石検波器も発明される。この鉱石検波器はやがて真空管にとって代わられていく。天然鉱石と接触した金属面の電導度に非オーム性があることは既に1835年に発見されている。しかし検波作用が起こることは分かるとしても作用が複雑なため理論的な解明は遅々として進まなかった。例えばイギリスのHarold Wilsonが1932年にトンネル理論を出すが、38年のSchottkyの半導体と金属間に形成される空乏層(Schottky barrier)の概念などにより否定されかけてしまいそうになったりする。そしてこのトンネル理論がある特殊な状態において成り立つことを57年に江崎玲於奈が立証することになる。紆余曲折を経ながらも、20年代半ば以降、原子の中の電子の状態を記述できる学問として完成をみた量子力学は、それ以降半導体などに応用され、現象の理論的解明を助けることになる。
真空管の陰に隠れ半導体の研究はあまり産業界からは注目されることは無かったが、30年代半ばにレーダーの開発が盛んになってくると真空管では高周波特性が悪く、再び鉱石検波器が見直されることになる。またリレー式電話交換機の接点不良にT&Tは悩まされていた。こうした中でBell研の研究部長Director of Research)であったMervin Kellyが半導体に着目することになる。Bell研は天然鉱石に頼る偶発性の高い手法を改め、特性を握る鍵は材料(結晶)にあるとして35年に材料研究チームを発足させる。William Shockleyが入所したのは36年9月であった。
47年12月にBell研のWalter Brattain*2とJohn Bardeen*3によって点接触型トランジスタが発明*4される。入所以来*5、個体増幅器の研究に賭けてきたShockleyは先を越されてしまう。Shockleyの真の貢献はこの発明直後から始まる。翌48年1月にShockleyは接合型トランジスタを考案する。点接触型に比べ更に進んだ構造であったが、その制作を可能とするゲルマニウム結晶製作技術は未だ完成されてなかった。また49年7月発行のBell System Technical Journalに掲載された論文でトランジスタの動作原理を解析するとともに更に革新的なトランジスタの実現を予見することになる。そして50年にGordon Tealによりチョクラルスキー法*6による高純度の単結晶製造技術が開発され、この技術を基に51年に二重ドーピング法による接合型(成長接合型)TRが開発され、Shockleyの予見通りの増副作用が確認される。接合型トランジスタは増副作用がGe結晶の内部でおこなわれるため製品の特性のバラツキが少なく信頼性も高く量産性に優れているため注目されることになる。この開発こそがShockleyをノーベル賞受賞へと導くことになった。
Bell研はその後も、選択拡散法やエピタキシャル成長法などを開発し、今日の半導体製造工程の原型となる手法である、拡散/酸化、露光/エッチング、膜成長の技術を確立させ草創期の半導体技術をリードしていく。
TRは広範な専門分野にわたる横断的な研究組織、充実した実験設備、明確な開発目標を与えたAT&Tなどのニーズ、そしてそれらの統合のなかで誕生する。
AT&T(Bell研はAT&Tの研究部門)は反トラスト法訴訟(49年より、Western Electronicsの分離を含む)を意識したのか、特許開放政策を採る。
また内製(製造はWestern Electronics)を原則とし積極的には外販は行わなかったため市場でのプレゼンスを得ることは少なかった*7。また研究者の社外への流失を制限しようとはしなかったためBell研出身の研究者たちが半導体産業の草創期に大きな役割を果たすことになる。
*1 鉱石ラジオの場合、探り式が主流であった。金属針(cat whisper)などで鉱石表面の感度の良いポイントを探る方式であった。受信周波数や鉱石の結晶(多結晶)状態等により同じ鉱石の表面でも受信特性にバラツキが多かったのに加え、結晶表面や金属表面が酸化などにより劣化するため、その酸化膜などを引っ掻いて擦り取る必要もあった。なお、シャープは固定式。
*2 Brattainの弟に赤外線吸収スペクトルの研究および応用により大きな業績をなしたRobert Brattainがいる。弟のRobertとBardeenはプリンストン大学時代の友人であり、弟を通し、BrattainとBardeenは旧知の仲でもあり二人は極めて仲が良かった。一方、二人とShockleyの関係はShockleyの性格のためもあって極めて嫌悪であった。
*3 Bardeenは45年末にBell研入所。51年にIllinois大学へ。56年にShockley、Brattainとともにトランジスタの発明によりノーベル物理学賞を受賞し、更に72年にも超電導の研究で2度目の受賞をする。ノーベル物理学賞を2度受賞した唯一の人物。
*4 Bell研のトランジスタ特許は48年6月17日に出願されるが、その1か月半後の48年8月13日にはWHのフランス子会社のHerbert MatareとHeinrich Welker(Ge単結晶製作)によって同様の特許が出願されている。これは大戦中、独Telefunken社のポーランドWrocławにある研究所(ベルリンから疎開)在勤中にHerbert Matareが発見した現象を基にしたものであった。作戦中・戦後の混乱により研究が中断(研究再開は2人とも47年初めにWHに入社後)したことにより、また論文等の発表の機会が無かったことによりTR開発の栄誉はBell研のBardeenらに帰すことになる。試作されたTRはミュンヘンのDeutsches Museumに展示されている。尚、日本でもNHK技術研究所の内田秀男によって同様の増副作用がBell研に先立って(ないしはほぼ同時期に)確認されている。
*5 Shockleyは二次大戦中の42年5月から終戦時までの3年間ほどBell研を離れ、海軍のレーダー開発など委託研究に従事。
*6 チョクラルスキー法はポーランド出身のJan CzochralskiがドイツAEG(ドイツエジソンとして創業、GEと関係が深い)在職中の1916年に開発した高純度単結晶製造法。
*7 Western Electronicsは48年に点接触型TRの製造(試作)を始め52年には二重ドーピング法により製造されたGe-TRを発売し技術的・製造的に業界をリードしていたが外販がほとんどなく市場でのプレゼンスは低い。
尚、48年にはRaytheonが点接触型TRのCK703を発売するが千個ほどしか売れていなかった。51年の改良版のCK716でも精々1万個程度。事業として立ち上がるのは52年に発売された合金型のCK718から。補聴器に採用され100万個ほど売られている。
ライセンス供与
Bell研は特許開放政策の一環として、また情報公開の要請が強かったこともありシンポジウムを開催*1している。51年9月には軍関係者を対象とし、続いて大学や一般企業を対象に、翌52年4月には25社*2のライセンス契約企業を含む40社を対象に開催された。
最初にトランジスタ(以下TR)に着目したのはU.S.Armynal Corpsであった。TRが真空管に比べ小型・軽量で低消費電力であることを高く評価し性能向上の研究のため52年10月にTransister Programを立案し、GE、Sylvania、Raytheonなど主要な真空管メーカーと契約を結ぶ。
*1 シンポジウムは51年9月17日から5日間の開催で、軍人や軍所属の研究者121人、大学関係41人、産業界139人の計301人が参加。深刻な東西冷戦時代であったこともあり、シンポジウムに先立ち軍のチェックを受け、重要部分は軍事機密に関わるとしてGordon Tealは講演者リストから外された。また参加者は軍の審査(military clearance)を受けている。
また当初、軍に比べると産業界はトランジスタに対してそれほど大きな期待は持ってはいなかったようである。
52年4月のライセンス契約企業に対する8日間にわたるシンポジウムでは具体的な製造技術の伝授が中心であった。国内26社、NATO加盟国の14社の計40社が参加。但し、“In crystal growing, for example, Gordon Teal wrote papers on crystal growing, but never disclosed a lot of the details of the process to get the crystals to grow.”と言われる程度の開示しかなされてはいなかった。
尚、ソニーが正式にライセンス契約を締結するのは54年であり、シンポジウムには参加していない。
*2 52年に34社が契約を結ぶことになる。内、22社が実際にTRの製造を行うが、60年代に残っているのは12社で、10社は撤退している。尚、今日まで残っているのはTIのみかも。分社化して独立している企業のSiemensのInfineonとPhilipsのNXP も加えると3社のoriginal licenseeが現在も半導体メーカーとして70年に渡り脈絡を保っている。
尚、ライセンス料は契約一時金$25,000に加え、ランニングロイヤリティが当初はTR売上の5%、但し53年に2%び引き下げられた。
真空管系半導体メーカーの衰退
TRが製品化されて10年ほどの間に大きな変化がある。技術的には点接触型*1から合金型やメサ型、選択拡散型(二重ドーピング)Si-TR*2、Planer型Si-TRへの革新がある。
点接触型TRはWEのAllentown(ペンシルバニア州)で50年代前半に年数万個生産されていた。これらは爆撃機搭載のコンピュータTRADIC(TRansistorized Airborne DIgital Computer)*3やWEの交換機に搭載された。またヨーロッパや日本、ソ連でも製造されていた。点接触型TRは50年代初期には周波数特性が合金型や接合型より優れていたが、信頼性、とりわけ衝撃には弱かったこともあり、直にRCAの開発した合金型が主流となり、50年代半ばには姿を消していく。点接触型TRは米国を中心に生涯で.1百万個(多くとも3百万個)ほど生産された程度である。
51年にRCAのJacques PankoveやGEのJohn Saby等によってほぼ同時期に合金(接続)型が開発される。RCAは積極的に合金型の技術を提携関係にあった真空管メーカーにライセンスする*4。RCAは53年5月より合金型TRの商業生産を開始し(この時、点接触型も同時に開始)、53年に100万個、55年には350万個、57年には2,900万個とピークに達したが、その後は合金型TRの最大のユースであったTRラジオが日本勢に席巻されたことにより市場を失い生産は急速に低下する。
合金型TRは需要面では当初は周波数特性(遮断周波数)1MHz程度が限度であり専ら小型軽量というメリットが注目され補聴器へ応用された。この時期にはRCAのほかRatheonやSylvaniaなども活躍している。50年代半ばには100MHzを超え、2バンドラジオのオールTR化を可能としTRラジオへ用途を広げ、60年頃には数百MHzに達し現在とそれほどの差異の無いレベルにまで到達している。かなり広範な真空管のユースを代替することが可能となる。
これに対しBell研は54年に拡散法を開発(拡散接合型TR)し、更に同年にはメサ型、57年には選択拡散法を開発する。また54年にはGeに比べ高周波特性に劣るものの温度特性に優れるSiTRがBell研のMorris Tanenbaumと既にBell研去りTIに移っていたGordon Tealにより開発されている。そして、Bell研のMohamed M. Atalla*4が表面パッシベーション技術や熱酸化技術を開発し、それを応用してFairchild社のJean Hoerni*5によって58年にPlanar型SiTRが開発されTRは完成に至り、更に同じくFarechildのRobert NoyceによりPlanar型SiTR技術をベースにして 59年のMonolithic Integrated Circuit(IC)へと発展していくことになる。
需要面では補聴器・ラジオという限られた民生用からSi-TRでは軍需に大きく依存するようになり、これは60年代のBIP-ICにも引き継がれていく。
*1 点接触型TRは日本でも作られており、56年に開発された日本最初のTR式コンピュータである電総研(電子技術総合研究所)のMarkⅢには点接触型TRのソニー製T1698が130個搭載された。価格は1個3,971円。および1800個の単価500円の点接触型Ge-DIを使用。点接触型は接合型に比し速度は早いものの信頼性が低く、そのためMarkⅢは故障が多かった。ソニーは当時は生産数も少なく安定した品質のものを製造できていなかったと思われる。
尚、MarkⅢはGe-Diで論理ゲートを構成しTRは増幅用に使うDiode-Transistor-Logicを採用。
*2 熱酸化によるシリコン酸化膜を用いた選択拡散型TRの製造にはマスク(乾板)を使って露光、エッチングするという現在の半導体製造の原型ができている。
*3 51年から開発が始まり54年1月に完成するBell研が開発した世界初のTRコンピュータである空軍向けのTRADIC Phase One Computerには684個のBell Labs開発の Type 1734 Type A cartridge transistorsと、10,358個の点接触型DIが搭載されていた。
*4 Atallaはエジプト出身。Atallaの開発したシリコン酸化膜を用いて57年には同じBell研のCarl FroschとLincoln Derickにより選択拡散型Si-TRが開発され、これがHoerniのPlaner型TR、更にはNoyceのMonolithic Integrated Circuitへと発展する。またAtallaは59年には韓国出身のDawon Kahng(不揮発性メモリーの基礎技術であるFloating gateの開発者でもある)とともにMOS-FETを開発しMOS型半導体への道も開くなど、AtallaはKahugとともに半導体の進歩にとって極めて重要な役割を果たす。
*5 Jean Hoerniはスイス生まれ。57年にShockleyの設立したShockley Semiconductor Laboratorに加わる。翌年、Noyceらと共にFarechild Semiconductorを設立。61年にAmelco(Teledyne)、64年にUnion Carbide Electronics、67年にはIntersilと4社の設立に参画する。
航空・宇宙関連市場
この目まぐるしい技術の進歩に多くの企業の興亡がある。米国では真空管時代からTRの初期の時代をリードした企業は60年代末までにほとんど姿を消して行く。真空管企業にとっては真空管事業との競合関係があり、TRは小型・軽量・低消費電力などのメリットを持つとしても、単に真空管の補完的な位置づけに過ぎなかった。そのためメリットを生かせる製品は携帯タイプという限られた応用分野に過ぎず、既存の産業用・民生用製品への応用には小型・軽量・低消費電力などは大して重要ではなく、コストや高周波特性面での劣位性の方が寧ろ大きかった。
しかし、小型・軽量・低消費電力と言う特性は航空・宇宙関係では極めて重要な特性であった。そのため航空・宇宙関連の高額な機器・システムではTRは高価格であったがシステム全体のコストに占める比率は少なく、真空管との競合において十分な優位性を発揮できた。補聴器やTRラジオなどの場合はTRの価格比率が高く、TRが高価格では製品コストを大きく引き上げることになり市場性を損なわせてしまうため、真空管との競合のためには低価格が必須となる。そのため用途によって価格には大きな格差があった。50年代末では軍需は民需に対して約4倍*1であった(軍需7.4ドル、民需1.9ドル)。
そして、急速な技術発展による低価格化と特性の向上は半導体の応用範囲を大きく広げ、単なる真空管の代用物を超えたキーパーツへと発展していくことになる。
*1 TRは特性のバラツキがあるが、たいていはTRとしての機能は十分に備えている。但し、ユーザーが望む特性範囲に収まるものは必ずしも高い割合で取得できるものではなく、その特性の範囲外のものはTRとして十分に機能はしても所要が無い限りは不良品として破棄されることになる。軍用の装置の場合、使用個数が多く特性的にバラツキが大きいとチューニング等に多大な手間を要し生産性が損なわれるため、バラツキを抑えるため選別され取得率が低くコスト高になると推定される。
尚、米TRメーカーは軍事用としては売れなかったものを、再度分類しなおしTRメーカーなどに安値で売っていたと思われる。更に売れ残ったバラツキの大きいものは日本の中小のラジオメーカー、特に輸出向けのTOYラジオ(玩具ラジオ、通常はTR6個に対し2個程度のTRラジオ)メーカーなどへ捨値で米国のバイヤー(TOYラジオの発注者)を通して売られていた、ないしは無償で支給されていたと思われる。59年にTOYラジオの生産台数2,125千台、金額1,248百万円,単価587円というデータあり。尚、従業員20人以上の企業は台数298,909台、金額272百万円、単価910円となっており、TOYラジオメーカーは零細企業が中心であった。6個使いのTRラジオに比べ価格は1桁近く安かった。60年代半ばには日本のTOYラジオメーカーは香港企業などとの競争で敗退して行く。
黎明期の半導体産業
RCAは51年に合金型Ge-TRを開発し初期のTR産業をリードする。日本企業では東芝、日立、神戸工業が52年にRCAから技術供与された。松下もPhilipsを通して間接的に合金法のライセンスを受けている。しかしながらRCAは合金型TR技術を深追いし過ぎ、特にSiへの流れに後れを取ってしまう。これはRCAのみではなくそのライセンスを受けた企業にも共通しており日本企業も例外ではない。大きな要因としては、SiではGeほど容易な合金接続形成法が無かったこと、また、当時はGe結晶製造が製造の大きな部分を占めており、TRメーカーが結晶も作ることが一般的であったが、融点(1,420℃)の高いSi結晶作りは高温を要したり、また爆発性の材料を扱ったり、更に材料の精製など技術的に多くの課題があり、TRメーカーの手におえるものではなかった*1。
RCAの他では、Texas Insturument(TI)とTransitron Electronic(マサチューセッツ州Wakefield)が50年代後半の市場をリードする。ベル研出身の技術者がTIやTransitronの中心的な役割を果たした。
Transitronは東部のラジオメーカーに少なからず依存しており、ドーピング法(拡散法)による接合型Ge-TRで急成長するものの、日本企業に市場を奪われた米TRラジオメーカーの衰退とともに50年代末には早くも勢いが失せるが、その後も軍用・コンピューター用を中心に高信頼性の個別半導体メーカーとして80代半ばまで存続している。SiTRへの転換も迅速だったものの、どうしてか60年代初期にMOS技術などの研究は進めていたもののICへは進出しておらず、ICとの競合により市場を奪われていくとともに、多くの技術者も他社へ去って行く*2。
*1 日本の場合、Geの結晶作りはTRメーカーの内製であったが、Siに関しては信越化学、小松電子(現:SUMCO)、大阪チタン(現:SUMCO)、日窒電子化学(現:SUMCO)、日本電子金属(現:SUMCO)などの中堅の化学メーカー(及びその新設した専業子会社)が担うことになる。
尚、現在Si-waferでは信越がトップでありSUMCOがそれに次ぎ、両社で世界シェアは6割超のシェアも持つ。
*2 東部のTRメーカーは衰退したり、ICへの進出に出遅れたり進出をしなかった企業が多く、多くの技術者がTIやシリコンバレーのICメーカーへ去っている。
55年にMITを卒業後Sylvania Semiconductorに入ったMorris Changは58年にはTIへ移る。84年にTIを去りGeneral Instrumentの社長を経て台湾に戻り、87年にTSMC(一時外れるが2018年までCEOを務める)、94年にはVanguardの設立に参画し、今日の台湾半導体産業の発展の立役者となる。尚、TSMCはPhilipsを筆頭株主(28%)とし、台湾政府(21%)などの出資によって設立されている。日系企業などとのクロスライセンス契約などではPhilipsの子会社としてPhilipsによってカバーされていた。
尚、Philipsの保有比率は2003年までに21.5%に減り、2008年までに全保有株を売却している。
尚、Wafer prosess(前工程)の国別シェア(200mmwafer換算の月産ベース)では2020年末において、台湾4,448千枚/月(シェ21.4%)、韓国4,253千枚/月(20.4%)、日本3,281千枚/月(15.8%)、中国3,184千枚/月(15.3%)、北米2,623千枚/月(12.6%)となっており、台湾がトップである。東アジア4か国で世界シェアの73%を占めている。
TIの成功
1930年に地震学を応用して油層を探索するサービス会社Geophysical ServiceがJhon KarcherとEugene McDermottによりテキサス州Dallasに設立される。39年にCoronado Corporation Inc.(GSI)と改称されるが、機器製造部門はGeophysical Serviceの名で子会社として存続する。そして41年にGSIはMcDermott、John Johnson、Cecil Green、Henry PeacockによりいわゆるManagement Buyoutによって買いとられる。第二次大戦中に油層探索の技術を潜水艦検知に応用することにより軍需と結びつく。51年にTexas Instrumentsと改称される。戦後も爆撃機のレーダーシステムの開発など軍との密接な関係が続く。50年には従業員1,128人、売上高7.6百万ドルとなっている。
Bell研(WE)からライセンスを受けた企業は真空管関連企業が中心であったのに対し、TIは異分野からの進出と言える。WEはTIがTRを作れるとは思っていなかったと云われる。Bell研からライセンスを初期に受けた日本の企業*1の内、ソニーを除けば全て主要な真空管メーカーである。ソニーの場合53年にWEと仮契約を結ぶが、その契約を認可する立場にある通産省がなかなか認可せず本契約を結ぶのは翌54年になる。貴重な外貨の無駄遣いだと考えられてしまったのかもしれない。ともあれ日米とも門外漢のような企業の方が成功していた。
*1 59年の時点で、WEより東芝(53年)、ソニー(53年仮、54年本))、神戸工業(54)、日立(54)、三菱(54)、富士電機(58)、三洋(59)がライセンスを受けている。また、RCAのライセンスは神戸工業(51)、東芝(52)、日立(52)、松下(52、Philipsより間接)、ソニー(57;ライセンス料率1%)、富士電機(58;1.5%)、三洋(59:1.5%)。ライセンス料率はWE2%、RCA3%がベース。
Gordon Tealの入社
TRは点接触型の発明に続きShockleyによって48年に接合型が考案されたが、この接合型TRが試作されたのは3年後の51年であった。これに関して大きな役割を果たしたのがGordon Tealであった。Ge単結晶がTR技術の革新に必須であると主張*2したものの認められず解雇覚悟で開発を行ったと言われる。
52年にTealが生まれ故郷のTexasに戻ろうと思っていた時に、たまたまNew York Times誌に載ったTIの求人広告を目にしたのが入社するきっかけだったといわれる。そしてTealがTIに入社*2したことを知りトップクラスの科学者や技術者がTIに集まってくる。
*1 点接触型TRにはGe多結晶が使われていた。
*2 Tealの入社は53年1月。Rsearch Directorとして、先ずDallasにCentral Research Laboratoryを創設する。
世界初のTRラジオ
TIは54年に高周波の成長接合型Ge‐TRの量産に成功する。TIはこれを使いTRラジオを試作する。当時主流の合金型Ge-TRは周波数特性が悪くラジオ用としては未だ無理があった。TIはTRラジオの製造販売会社を求めるがRCA、Sylvania、Philcoなどの大手ラジオメーカーは興味を示さず、結局はマイナーなIndianapolisのIDEA Corpが(開発*1)製造販売することになる。Brand名のREGENCYはIDEAがTV signal booster(TV電波が弱い地域が多かった)などで使っていたブランド名であり、TIの名前はでてこない。
53年に試作されたTRラジオは6TR型であったがTI(及びIDEA)は小売目標価格を50ドルと設定してコストダウンのため4TRに設計変更し、更にTRのコストは十数ドル掛かっていたが量産時における原価低減の目途を立て、これを1個2.5ドル(計10ドル)でIDEAに供給する。他の費用は17~18ドル程度であった。54年11月に本体小売価格49.95ドル(オプションの革製のカバー3.95ドル、イヤホン7.5ドルを含めると61.4ドル)で売り出される。
コンデンサー等の部品メーカーは小型部品の制作に消極的で調達できず、部品面では単に真空管をTRに置き換えたものであったが、それでも空間を余すところなく、且つ整然と部品が配置され、またほとんど配線が無いスッキリした設計となっており、いわゆるShirt-Pocket-Size(12.7㎝x7.62cmx3.2cmでシャツのポケットには納まらない))を実現した。REGENCY TR-1の誕生である。REGENCY TR-1は14万台(販売きかん年)が売られたが成長接合型Ge-TRの歩留まりが低かったこともあってか十分な生産ができなかった。
市場に受け入れられる価格設定を行い原価低減に努力するTI半導体ビジネスの原型が出来上がっている。TIは30年後にパソコンにおいてもこの手法を貫こうとしたが失敗してしまった。
TIに続き、翌年にはRaytheon、Zenith、Emerson、RCA、GE、Admiral、Arvinなどが一斉に参入する。これらはTI製より若干大き目のサイズでCoat-Pocket-Size*2とでも言うべきものであった。
TRラジオは米国でブームとなった。一つには当時は冷戦の只中で米政府は有事のための対策としてラジオに着目し、51年に有事放送局(Conelrad Stations)を開局し、53年(63年まで)からはその周波数である640kHzと1240kHzの2か所にCD(Civil Defence)マークをラジオに付けることを義務化している。政府のプロパガンダの類で、ソ連からの核攻撃*3を起こりうる現実の恐怖として認識させるためだった。そしてラジオがサバイバルのための必需品であることを盛んに宣伝するようになるが、携帯型のTRラジオはまさに打ってつけのの製品であった。有事は起こらなかったもののTRラジオは50年代半ばからのロックンロール世代の必需品となりヒット商品となっていく。そうした中でやや遅れて登場したのがソニーのTRラジオであった。57年に米国のTRラジオ生産金額は77.7百万ドル、58年82.3百万ドル、そして59年にはピークを迎え93.7百万ドルとなる。一方、この間、日本からの輸入が57年5.6百万ドル、58年16.0百万ドル、59年55.2百万ドルと急増していく。
*1 TIが試作したプロトタイプを基にIDEA Corpが再設計。量産の民生用機器としてはほとんど使われたことがないプリント基板が採用されている。TRなどピンタイプの部品を多く採用しプリント基板のホールに差し込み半田槽で一括して半田付けをしている。IDEAはTRラジオに関し特許申請(55年3月、成立は59年6月)を行っているが、少しTIと揉めたようで、結局それをTIが25,000ドルで買い取ることで決着。
*2 例えば、もっともポピュラーであった57年発売のZenith Royal 500(7TR、価格75ドル)のサイズは14.6cmx8.89cmx3.81cmで容積的にはREGENCY TR-1(310ⅽ㎥)に比べ6割(495ⅽ㎥)ほど大きい。尚、SonyのTR-63は112mm×71mm×32mmでTR‐1に比し容積では2割小さい。
*3 核攻撃に耐える通信網として61年から開発が進められたのがインターネットの前身となるARPA-NETである。64年にRand Corporation(Santa Monicaにある空軍と密接な非営利の研究機関で48年にDouglas Aircraftから分離)のPaul Baranが原型を考案した。69年にUCLAからStanford大学を経由してUtah大学へメッセージを送る実験に成功している。
Si‐TR
TIはGe-TRを深追いすることはなく、Si-TRに開発リソースを集中し他社を大きく引き離す。54年4月に開発に成功し、翌月には製造を開始する。Si‐TRは周波数特性においてGe-TRに劣るものの、耐熱性に優れ57年には米国初の人工(軌道)衛星Explorer1号*1に搭載されるなど軍需・航空宇宙関係のニーズに適っていた。他社に対して数年のリードとなる。
当時のTR製造はGeやSiの単結晶作りが製造、研究開発共にキーでありTealを擁するTIがリードする。研究と製造は地理的に離れているのが一般的だったのに対し、その後もTIの研究開発は製造と一体であり研究所は製造工場の位置されており連携が良かった。
*1 Explorer1号はソ連が57年10月4日のスプートニク1号を打ち上げた4か月ほど後の58年1月31日に打ち上げられた。スプートニク1号が92日間で落下したのに対し、Explorer1号は12年以上地球を回り続けた。尚、ソ連は46年10月に占領地域にいたドイツの科学者・技師・職工・その家族の計2万人をモスクワ近郊などの一種の強制収容所に収容し開発に協力させた。翌47年10月、米国に先駆けソ連はロケット(ほとんどドイツのV2ロケットと同等)打ち上げに成功する。
スプートニクは言うなればV2ロケットのエンジン5基を束にして推進力を得ていた(クラスターロケット)程度のもので、実質は米国にかなり遅れていた。尚、終戦時には既にドイツは大陸間弾道ミサイルを作る技術を持っていた。
ソ連は推進力を得るためエンジン基数を増やしていくが、増やすにつれエンジン同時制御が困難を極め、約30基のエンジンを要する有人月面着陸ロケット計画は断念に追い込まれることになる。
ICの発明
TIは50年代末にU.S.Army Signal Corpが推進したMicro-Moduleプログラムに参加していた。このプログラムではRCAが中心的な役割を果たしていた。Micro-Moduleはサイズが標準化されたモジュールにTRなでで回路を形成し、複数のモジュールを垂直に重ね合わせ小型軽量化と信頼性を実現しようとしたものであった。
58年9月にJack kilbyはMicro-Moduleの代案としてMiniaturized Electronic Circuitを開発した。これがICの原型となる。11mm×1.6mm角の細長いGeチップに1個のTRと抵抗など計5素子が電気的に絶縁されて形成、それらが細長い金線によって空中配線されていた*1。この製法では集積度的には精々10素子程度が限度であり量産性も極めて低いものである。59年2月に特許申請(5年後の64年6月に成立)され、翌月にIRE(Institute of Radio Engineers)ショーで公開された。
これに対してFarechildのRobert Noyce*2はPlaner型TRを応用して、Si-chip上にそれぞれ絶縁されたTR(1個)、DI(1個)、コンデンサー(2個)、抵抗(3個)を形成し、アルミ蒸着・エッチングで配線パターンを形成し配線したバイポーラ型集積回路*3を開発し59年7月に特許出願(61年4月成立)している。これは今日のIC構造の基礎となるもので、実用的な価値はKilby のMiniaturized Electronic Circuitに比べ遥かに高いものであった。TIはノイス特許の無効を求めて訴訟を起こし10年間に渡って争われることになる(Noyceが勝利)。
*1 KilbyのMiniaturized Electronic Circuitは一個の半導体チップ上に全ての素子を集積するというアイデアであった。58年9月12日にこのアイデアをベースにして作られた発信器をKilbyはTI社の幹部が見守る中で見事に作動させた。これを契機にTI社はマイクロモジュール方式に変えてキルビーが考案したモノリシック方式を本命として推進することになる。
*2 Noyceは1990年に他界していたため、2000年のノーベル物理学賞のテーマに半導体集積回路が選ばれた時点では候補者に上らなかった。
*3 厳密に言うと、NoyceのICは熱酸化により二酸化シリコン薄膜を形成し、それを絶縁膜としてその上にAl蒸着・エッチングにより配線パターンを形成、およびPN結合の逆方向には電流が流れない特性を利用して素子間を絶縁させた。また、抵抗はアルミ配線の長さ・幅を調整することによって作成(代用)した。
海外製造展開
TIは60年には売上2億33百万ドル、従業員17千人に発展する。
TIは海外への製造展開にもかなり積極的で、先ず56年のイギリスを皮切りに先進国での現地一貫生産を開始し、60年代末には東南アジアでの組立試験工場設立している*1。また57年設立のFarechildも61年に香港、64年に韓国(ソウル近郊の富川)、68年にシンガポールに進出している。その他、ほとんどの米国半導体企業は東南アジアを中心にして、メキシコ(米国境地帯、比較的小規模)など組立・試験は海外に依存していた。TRの組立試験工程は極めて労働集約的でありアジアの拠点の多くは人員規模としては1,000人~3,000人程度である。東南アジア・東アジア諸国が電子産業の製造拠点として発展していく契機となる。
労働集約的な後工程(組立試験)を低賃金の東南アジアに展開することで、TIは日系企業に対してもコスト優位性を維持した。ICの初期の代表的な製品であるBIP-ICの汎用TTL(Transiste-Transistor-Logic)の74シリーズなどでは圧倒的な価格競争力を持っていた。
TIは70年に自社製の16ビットミニコンHAL-9で制御した半自動機のIC組立用のwire bonder装置ABACUSを開発しTexasのSherman工場に13台設置したのを皮切りに72年には全自動のABACUS-Ⅱを開発し約1,000台を世界中の工場に設置するなど省力化にも積極的であった。それでも成長に伴いかなりの人員を必要とし東南アジアへの依存を高めて行く。
また、空輸*3により軽量・高価なチップは米国から運ばれたものの、パッケージは日本企業から調達されるようになり,半導体組立が東南アジアに集中するようになったことで日本の半導体パッケージメーカーが発展していく。逆に日本企業から部材を調達できたことがアジアでの半導体組立の立地としての優位性だった。
日本企業のICリードフレームへの参入は新光電気*4が68年、三井ハイテックは70年だった。三井ハイテックは72年にはシンガポール、73年には香港に生産拠点を設立するなど海外展開に積極的だった。また多ピンの高精度のリードフレームはエッチングにより製作されていたが、三井ハイテックは精密プレス加工により製作することに成功しコストを低減させた。セラミックパッケージ*5では、新光電気が66年、日本特殊陶業が63年、京セラが68年に参入し、日系企業がICパッケージでリードするようになる。
尚、TIの日本進出は資本自由化前だったため、日本の半導体産業の保護育成を図る通産省によりなかなか認可されなかった。これに対しTIがIC特許*6の公開を拒否したため、通産省はソニーとの合弁(TI:49%)での進出を認可し、68年5月にようやく日本TIが発足する。そして71年にはソニーは手を引きTIの100%子会社となる。
そして、TIは73年に大分の日出工場*7が操業を開始し、69年に設立された熊本の九州日電とともにシリコンアイランド九州を代表する工場となる。一方、FairchildはTDKとの合弁*8で72年に長崎県諫早に進出する。日系、米系とも70年前後に相次いで九州に進出*9することになるが、要因として当時は求人難で、特に半導体にとっては若年女子労働者の確保が切実な問題であった。そのため若年女子労労力確保のため九州や東北への工場展開を行っていた。
80年のTIの従業員数は9万人、売上41億ドル、Motorolaは7万人、売上31億ドル、National Semiconductorは4万人、売上10憶ドルに達した。
*1 表面劣化に強いPlaner Si-TRの開発によって海外への組立試験工程の展開が可能となった。Planar Si-TRは選択拡散のために形成された酸化シリコン層が表面を覆っており、それが保護膜の役割を果たしている。Planer TRを開発しいち早く量産化したFairechildが東南アジア展開の先陣を切っている。TIとモトローラは省力化・自動化に積極的に取り組んだのに対し、Farechildなど中堅メーカーの方が組立試験工程の海外生産展開では先行する。進歩が急速でであった柔軟性に乏しい自動機より得策だったのかも。
他社ではGeneral Instrumentの64年の台湾高雄、65年のMotorolaの韓国ソウルへの展開があるものの、本格化するのは60年代末からとなる。
*2 16ピン換算で、半自動機のABACUSは400個/シフト(8時間)。尚、手動機ならば熟練の作業員なら400~480個/シフトであり熟練作業員並の能力を持っていた。効率は良いとは言えないが、手動の場合、作業員のスキルの高低によるバラツキが多いが半自動機によりバラツキを抑えることができる。ABACUSは改良版を含め58台生産された。1台当たりの制作費は65,000ドルだった。
一方、BACUS-Ⅱ(制御はTI960Aミニコン)は初期モデルで2,000個/シフト、後期の改良版で5,000個/シフトの処理能力を持っていた。1台当たりの制作費は15,000ドルに低減している。また、ABACUS-Ⅱは自動化が進んでおり、1人の作業員が複数台を管理することができ、人的効率は飛躍的に向上したと思われる。
日本勢がwirebonderでTIをキャッチアップするのは16k‐Ðramが本格化する78年頃。
*3 航空輸送時代の幕開けとなるBoeing747(ジャンボ)の就航は69年。747は構造上、機体の下部は貨物室になっている。
*4 新光電気は戦後の混乱期に富士通信機製造(現富士通)の長野工場と同工場内にあった親会社の富士電機の研究部分所の閉鎖にともない失職した研究所の技術者たちを中心にして21年2月に合資会社長野家庭電器再生所が設立される。切れた電球の修理再販事業からのスタートだった。
*5 セラミックパーケージとして当時はメタルシール、フリットシール、サーディップなどのタイプがあった。リードフレームを使うプラスティックパッケージに比べ、高価であったが温度特性や防湿効果などが高かった。尚、防湿効果が高いため組立に使う線材はアルミで十分だった。プラスティックタイプは金線が使われた。
*6 TIと日本企業がライセンス契約を結んだのは68年であり、WE(53年東芝)、Farechild(63年日電)に比し,かなり遅れた。TIのライセンス料率は2%程度。尚、Fairchild(Planer特許)は日電が4.5%で専用実施権を得て、他企業に5%程度でサブライセンス。
*7 TIは日出工場を老朽化もあって2013年6に月閉鎖。鳩ケ谷工場は2000年にエプソンに売却(01年10月閉鎖)。
*8 72年8月にFairchildはTDKとの合弁でTDKフェアチャイルドを設立。オイルショック後に清算された。長崎県諫早の工場はソニーにより買収されソニー諫早工場となっている。諫早工場は2021~23にかけ7,000憶円を投じ能力増強中。CMOSイメージセンサーで約5割のシェアを持つソニーの半導体(売上約1兆円でフラッシュメモリーの東芝から分離し売却されたキオクシアに次ぐ)は日本で最も元気の良い様である。
*9 三菱電機の九州進出が最も早く67年に熊本市竜田町に半導体工場を建設、更に70年に第二工場を熊本県菊池郡西合志町に建設。
ソニーのTRラジオ
日本では戦時中に生産設備の軍需用への転用のためラジオや真空管の生産水準は著しく低下した。更に44年には民生用真空管生産は資材の割り当てが無くなり事実上生産はストップした。戦後、ラジオ用真空管の生産は再開されるが、大手が戦災により生産体制が整わない内に、家内工業的な多数の小企業から真空管が販売される。その数は100社に近かった。またRCAは東芝と戦前に東芝と結んでいた特許契約(東芝がサブライセンス実施権を持つ)を見直し各社と個別に契約を結んだため、東芝の寡占的体制は崩れ、日電、川西機械(神戸工業)、日本無線などが一斉にラジオ用真空管に参入する。
一方、東芝に加え、日立、三菱などの重電メーカーもラジオに参入してくる。ラジオメーカーの数は町工場のようなものも含めると200社以上になった。ラジオの生産は48年に80万台にまで回復してきたが、ドッジラインによる不況で50年には30万台を割る。これにより真空管・ラジオメーカーとも淘汰が一挙にすすむ。大手も大きな痛手を受ける。日立はこの時ラジオから撤退している。日電の場合は戦後ラジオ用真空管に参入し、他社に先駆けMT管(小型のミニチュア管)の量産体制を整えたものの、売上が急減しいくつかの工場を閉鎖しラジオ管は大津工場に集約するが、幸いにも朝鮮戦争の勃発とともに需要が急増し危機を逃れた。
TRラジオ
日本で最初のTRラジオは54年1月に神戸工業によって試作されているが、これは試作だけで終わっている*1。性能的・コスト的な課題があったかもしれないが、むしろ経営幹部が市場性に気付かなかったからだといわれる。しかし、TRラジオの市場性は当時の日本では低かったようだ。
結局、製品化はソニーが先行する*2。55年8月にTR-55を価格18,900円で発売されている。Super-heterodyne式*3の5TR型であった。9月にはTR-2(2TR型、5,700円)、10月にはTR-33(3TR型、12,600円)を発売する。尚、日本のTRラジオの生産金額(ソニーのみの数値と思われる)は55年142百万円、56年560百万円である。
ソニーはTRラジオが大きな市場に成長していた北米に目を向け、57年1月に進出を果たす。まずカナダのDistributerのGENDISブランドでTR-72(7TR型)を4万台出荷、そして6月にはSONYブランドで3万台超のTR-6(6TR型)が米国で販売された。そして、3月には最初のヒットとなるTR-63(6TR)が発売されている。縦型で小型(112mm×71mm×32mm)、従来品の半分以下と言う低消費電力で米国では39.95ドルで発売されている。全世界で50万台売れ、同タイプのモデルも含めると150万台を超え、スタンダードになった。
ソニーの成功もあって、57年には、三洋、東芝、松下、八欧、日電、翌58年には日立、日電、ビクター、立石など主要な企業だけでも20社ほどが続き、さらには家内工業的な企業までもが米国を中心に輸出を始める。輸出金額は57年の22億円から60年には427億円へと急増し、輸入規制問題*4が早くも生じる。尚、1960年の日本の総輸出額は1兆4,596億円で、TRラジオはその2.9%を占めている。
*1 神戸工業は54年1月に点接触型Ge-TRの発売(翌2月発売)に先立ち上野精養軒でお披露目会を開いているが、その際に、このTRラジオの試作品を紹介している。尚、神戸工業は52年春にBell研よりGe単結晶を入手し、他社に先駆けて点接触型Ge-TRの試作に成功。その開発グループに江崎玲於奈(47年神戸工業→56年ソニー→60年IBM)がいた。
一方、ソニーは54年10月に千代田区の東京会館でTRのお披露目している。更に10月末には日本橋三越本店でトランジスタとトランジスタ応用製品の展示会(およびTRとDIの即売会)を開いた。この時には、応用製品として試作第1号のゲルマニウムTRラジオに加え、ゲルマニウム時計、補聴器も展示している。
*2 GHQの民主化政策の一環として、45年11月にはラジオは増産指示。また、GHQの指導(47年10月)もあって混信等の通信妨害要因となる国民型や放送局型のラジオ(4球の並四式など)からsuper-heterodyne方式(5球スーパーラジオ)への転換が進む。51年9月1日に中部日本放送(名古屋)、新日本放送(大阪)を皮切りに年内に民放6局が開局したほか、民放の開局が相次ぐ。
*3さく良商事からTRラジオTGR-21(1TRタイプ、TRはソニー製T11を使用、4,300円)がソニーに先立つかないしはほぼ同時期に発売されていた。そのほか同種のラジオ(ユニオンPR-2、1,900円など)が、キットとして早い時期から価格は2千円から3千円台で発売されていた。ただ、これらはいわゆるTOYラジオの走りと言えそうである。3~4年後には濫立し主に輸出されている。
*4 61年7~12月のTRラジオの輸出割り当ては、189社に対して行われた。その他、354社が過小実績業者として一括割り当てを受け(先着順)、計543社が対象とされた。
小型電子部品
日本製のTRラジオが米国市場など世界市場を一挙に席巻するが、単に価格が安かったのみではなく、小型で性能・信頼性が高く、且つ余裕を持って小型軽量化が可能であったため設計の自由度が高くデザイン性にも優れていた。米国製が単に真空管をTRに置き換え無理やりに押し込んだものが多かったのに対し、日本製は他の電子部品も小型化されていた。例えば三美電気製作所(現:ミネベアミツミ)のPolyvaricon*1(三美の商標名)と言う小型の可変コンデンサーがソニーの最初のヒットとなったTR-63以降の機種に搭載されていたが、小型・軽量で衝撃に強く、且つ、高周波特性にも優れ耐熱性・耐湿性・耐久性にも優れていた。また個人のラジオ修理業から転じ54年創業の東洋電具製作所(現:ローム*2)から小型炭素膜抵抗器が55年に売り出されている。こうしたTRラジオの小型化に適した小型電子部品のぞんざいも日本の成功の大きな要因であった。極端な物資不足だった時代は過ぎていたが、小型化は作業効率が落ちるとしても材料費の節減となりコスト削減の有力な手段だったが、こうした製品が日本で開発されていたことがTRラジオにおいて大きな優位性をもたらすことになる。材料の節減は単なる粗悪品を生む場合も多いが電子部品に関しては時代のニーズにマッチしていた。そしてTRラジオによってこれら戦後派の電子部品企業が成功のきっかけをつかんでいる。東洋電具製作所はこの後、67年には半導体に参入し、69年にはICも手掛けることになる。
一方、米国の場合は小型電子部品製作の技術自体は日本より進んでいたというより次元が異なっていたと言うべきものだった。とりわけ50年代後半は航空宇宙関連を中心に電子部品の小型化のニーズが高まる。そのため超小型部品や高密度実装技術の開発が進められている。但し、それらは高コストの特殊品に過ぎずTRラジオなどの民生機器に応用されるものではなかった。例えば、KilbyのICのアイデアが生まれるきっかけとなったMicro-Moduleプログラムは、57年10月にRCAのSurface Communications Divisionがペン(万年室)サイズのTRラジオを試作し軍にデモンストレーションしたことと、時を同じくして起こったソ連のスプ―トニック打ち上げがRCA主導によるMicro-Moduleプログラムが始まるきっかけになったと言われる。それにより、1立方フィートの5万部品を搭載できるレベルの技術が開発されている。
また、今日のMolecular electronicsの起源を求めると57年からWHと空軍によって進められていた、当時Molectronicaと呼ばれていた技術を開発するプロジェクトに辿り着く。結晶中に多くの個体物理現象を組込み電子回路と等価な機能を形成することを目指にしたと言われる。
*1 55年3月に三美が発売した25mm×25mm×15mmのPolyvariconがSonyのTR-63や八欧の6G620など多くの機種に搭載されていたが、ラジオのサイズもほとんど同じで、使用部品もほとんど同じ様なものだった。尚、三美は59年には更に小型化(16mm×16mm ×10mm)している。三美は49年に個人創業(54年三美電気製作所創業)されたいわゆる4畳半工場であり、ラジオ用などの電子部品を作り神田や秋葉原の電気街を得意先にしていた。
また、こうした新興企業に加え、戦前・戦中の軍需関係の部品メーカーの民需へ転換・再興した企業も多いが、そうした企業からもTRラジオの普及により発展の機会を得たものも多い。例えば、44年に三菱電機の下請けとして電波兵器レーダー用チタンコンデンサの下請生産を行うが、終戦で「軍需工場」として一時は閉鎖されたが、電熱器等の製作で糊口を凌ぎ、戦後のラジオブーム時にチタンコンデンサ製造を再開しTRラジオにより発展の糸口を得ている。また太陽誘電の前身の軍需の佐藤航空無線器材製作所はIFT(可変コイルの一種)用の小型円筒コンデンサや小型フェライトコアにより同じくTRラジオにより発展の機会を得る。ソニーも井深大の起こした日本測定器株式会社の流れを汲むとも言え軍需企業からの転身とも言える。海軍技術中尉であった盛田昭夫とはケ号爆弾開発研究会(戦闘機搭載の赤外線誘導の対戦艦用爆弾)で知り合ったのが縁である
トンネル・ダイオード
この半導体産業の黎明期にに活躍した技術者でノーベル賞を受賞したのが73年の江崎玲於奈と2000年のJack Kilbyであった。Kilbyの授賞は発明から41年後であった。
江崎は47年に神戸工業へ入社、56年にソニーへ移り、そして60年にはBMのWatson研へ移った。57年8月に発明されたトンネル(江崎)・ダイオードの特許(57年9月出願、黒瀬百合子さんと共同出願)はソニーが基本特許こそ取得したものの、トンネルDiのスウィッチング速度の高速性が将来のコンピューター用論理素子の有力な選択肢として注目され、その応用に取り組んだIBMなどの外国勢にことごとく応用特許を取得されてしまった。アナログ主体の日本の当時の半導体産業にとって、デジタル系機器での応用に向いていたトンネルDIは余り注目されることは無かった。ソニーは応用特許を外国勢に抑えられてしまった反省から、その後は基本発明の後、応用研究・開発研究を経て一括して外国特許申請を済ませてから発明の発表を行う方式にしている*1。
トンネルDIは60年代初期には注目されたが、IC化及びECL回路など高速化技術の発展によってコンピュータ素子としては採用されることは無く影の薄い素子となってしまったが、トンネル現象は半導体のみならず超電導やその他様々な電子関連に共通する現象であり寧ろその応用は21世紀に期待されるとも言える*2。
*1 トンネルDIの発明のケースでは、発明の翌月に特許申請が行われ、その翌月には江崎と実習生だった東京理科大学学生の鈴木隆によって学会発表がなされていた。
*2 半導体関連としては、フラッシュメモリーの書き込みにおいてトンネル効果が利用されている。また、量子コンピュータなどにおいてもトンネル効果は重要な要素技術と言える。
Si-TRとICへの対応の遅れ
単純にTRの生産数だけで比較すると、59年には既に日本が米国を上回っている*1。ラジオを中心とする民需では日本が86.5百万個に対して、米国は民需71.5百万個、軍需12百万個の計83.5百万個と数量的には日本が上回ることになる。労働集約的なTR生産では低賃金の日本が優位であった。
しかし、Ge-TRでの成功は次のSi-TRやICの成功には結びつかなかった。Si Planer型TRの場合、現在のIC製造と同様にSiウエハー*2による製造工程が使われ、Ge合金型TRに比し前工程の生産性が高いことに加え、平面的な構造のため組立工程の生産性も高く省力化も行いやすかった。更にplaner型の場合はSiO2膜で表面が保護されており表面の劣化に強く、また空輸貨物輸送*3も普及し、米国企業による組立工程を低賃金の海外に移転する動きがすすみ日本の低賃金による優位性は失われて、TRラジオの輸出規制もあり再び日本企業がTR生産数でも米国企業に抜かれることになる。TRラジオの成功によりGe-TR偏重となり、GeからSiへの変化、更にはIC化に乗り遅れGe-TRで築き上げられた日本の地位は若干勢いを失いかけるものの、電卓・テレビ*4等民生用機器の急成長もあり、軍需・産業用*5に牽引された米国とは異なる発展の道を辿っていく。日本のSi-TRの生産がGe-TRを超えるのはようやく69年になってであった。ICにおいて米国企業をキャッチアップできるのは更に10年後の70年代末である。
IC化は先ずBIP(バイポーラ)デジタル回路から始まるが、60年代初期には極めてコストが高く、それに
見合う市場は日本には少なかった。価格に糸目をつけない軍需・航空宇宙や、大きく発展しつつあったコンピュータ産業に依存し得た米国半導体企業に対して、日本は余りにも市場規模が小さく大きく立ち遅れることになる。
*1 1959年の米国の半導体(TR及びDI)生産金額は396百万ドル。内、軍需が180百万ドルで45%を占めていた。非軍事用の産業用・民生用TRに限ると、日本の生産金額44百万ドル(86.5百万個)、単価51セントに対し、米国は134百万ドル(71.5百万湖)、単価1ドル87セントと単価は4倍近い。既にアメリカではIBMのオールトランジスタ型のコンピュータが50年代後半には登場しており、TR需要はコンピュータや交換機など産業用機器が金額的にはラジオ用を上回っていたと思われる。数量はともかくとして金額的には米国が日本を大きく上回っていた。
*2 1960年ごろには米国では直径20mmのSi-waferの入手が可能であった。
*31960年代初頭、ダグラスDC8F、ボーイングB707Fなど30トン積みの貨物専用機(ないしは貨物主体の貨客機)もあらわれ、航空貨物輸送は大きく増大する。例えば日本発着の航空貨物量は1960年の6,200トンから1965年には35,400トンと約6倍に増。
*4 日本企業はTRラジオに続きテレビ(TRテレビ、59年に東芝が世界に先駆けて発売)でも躍進を遂げる。テレビの場合、小型化によるメリットは少ないとは言え、消費電力は真空管式テレビの約1/3の30W程度と省エネ性能に優れ、真空管からの置き換えが進む。更にラジカセ(63年)やVTR(65年)、オーディオ製品など製品も多様化し家電業界は大きく発展することになる。1965年には家電製品の生産額7,137億円(輸出1,818億円)から75年には32,744憶円(輸出11,800億円)と成長し、半導体市場を牽引する。更に電卓やコンピュータなど事務用機器など半導体のユースは広がり、日本の半導体産業は成長していく。
尚、テレビはICの需要を牽引することが期待されたが、大きなブラウン管は他の部品に小型化の必要性を与えなかった。そのためテレビにおけるIC搭載は高性能なイメージを醸し出すための単なる宣伝に使われたに過ぎなかった。TRの歩留まりさえ低いのにICは更に低歩留まりでコストアップになると考えられていた。それに加えアナログ回路はIC化に適さない大容量のコンデンサや高抵抗値の抵抗の回路を含んでいたり、加えてアナログ用ICは同じ機能でもユーザーが要求する仕様は多様であり標準化・汎用化が難しく、単純なスィッチングTRで構成されるデジタル回路と異なりいIC化が進みにくかった。その一方でメリットとしてIC化により信頼性が高まりアフターサービスの手間が省ける効果があるが、これは寧ろC化してから気付かれたことであった。70年代後半に高機能化の為にテレビのデジタル化が進むまではIC化のニーズはそれほど無かったと言える。
半導体企業の盛衰
TRの草創期に活躍したRCAは真空管メーカーであり且つラジオメーカーでもあった。Siへの流れに乗り遅れ、おまけにGe‐TRでは日本製TRラジオの攻勢に敗退する米ラジオ産業の衰退により市場を喪失していく。RCAから技術導入した欧米の真空管メーカーはほぼ同じ道を辿る。
日本ではソニーと日本電気が非RCAの技術系統であり、特に日本電気はラジオで弱かったせいかGe‐TRでは後れをとってしまいSiに注力していく。Si はトランジスタの開発ではマイクロ波用への拘りから他社に出遅れたが、ICにおいては順調な立ち上がりとなり、以後40年に渡って日本の半導体産業をリードする。63年にIC製造には避けられないFairchildのPlaner特許の専用実施権を獲得し、他社は日電に再ライセンス料を支払うことになる。
売上高も1965年には5500万円程度のものが1970年には112億円(3,998万個)に成長し、米国以外の半導体メーカーとしてはトップとなる*1。
60年代末頃より、日本では家電系メーカーに代わり通信・コンピュータ系メーカーが半導体産業のリード役として登場する。アナログからデジタルへ、TR/Diの個別半導体からICへと市場のリード役は変わっていく。とりわけIBMがICを本格的に搭載するSystem370シリーズを出荷する70年頃からコンピュータ産業*2が半導体産業の牽引役として技術面とともに市場面でもリードしていく。
そのため、宇宙・軍需関係更にはコンピュータなど産業用機器を市場として持つTI、MotrolaやFairchildなど米国半導体メーカーに比べ日本の半導体メーカーにICへの対応の遅れは大きく、60年代から70年代前半にかけては日本のIC産業は保護されるべき脆弱な産業の一つに過ぎなかった。
日本でIC生産が立ち上がる60年代末期で、NAND、NORやFlip-Flopの基本的なゲートICが電卓やコンピュータに搭載される。アナログICのオペアンプなどもこの頃から製品化されている。日本のC生産額は
67年に25憶円(333万個)、68年に103憶円(1,988万個)、69年210億円、70年476億円と増加していく。
*1 日本電気(コンピュータはハネウェルから技術導入、およびハネウェル製のノックダウン生産)は65年にオールIC化された日電独自開発のコンピュータNEAC2200-500を発売している。14pinパッケージの高速不飽和型のCTL(Complementary Transistor Logic)型素子搭載し、個別半導体で作成した場合に比し数分の1のサイズで且つ信頼性を1桁以上向上させた。一方、独自技術の富士通は68年に飽和型のTTL(Transistor-Transistor-Logic)を使いFACOM230-60発売しているが、ハード的に見るとプリント版実装技術なども含めNEAC2200-500に比しかなり見劣りがするものだった。
*2 産業用半導体のユースとして、コンピュータが大きなウェートを占めるようになってきたのは、IBM360シリーズの登場から。尚、IBMは360の成功により、68年頃には米国シェア70%(市場規模213憶ドル)、欧州シェア58%(市場規模45億ドル)を占有した。IBMは360シリーズ用の半導体生産のために62年にニューヨーク州Fishkillに敷地面積182万㎥(83年に追加取得し247万㎥)の広大な土地を取得しFishkill工場を建設、本格生産を64年から行っている。ここで、SLT(Solid Logic Technology)と呼ばれたHybrid-ICを生産している。ICの品質は当時まだ大型コンピュータに本格採用するには十分ではなく、IBMはHybrid方式を採用している。生産数量は64年6百万個、65年56百万個、66年90百万個と拡大。IBMも半導体メーカーとして見るなら、桁外れに巨大半導体メーカーの誕生である。内製であるが金額換算すれば、TI、Motrola、Fairechildなどの大手企業に対し優に1桁以上上回る。 Fishkill工場はピーク時の84年末には31,300人の従業員を抱えた。
その後、長期に渡りIBMが影の半導体トップメーカとして半導体産業に君臨し、日本のコンピュータ・半導体メーカーはその陰に怯えることになる。端的な例は75年頃、IBMがFuture Systemに1M-DRAMを搭載するという噂が流れ、その対策として76年3月に通産省の補助金を得てコンピュータメーカ7社による超LSI技術研究組合が設立されている。当時はやっと4K-DRAMの量産化が本格化し、16k-RAMの開発が進んでいた頃である。IBMなら1M-DRAMの開発が可能であると本気で信じられていた。
尚、IBMの半導体製造拠点ととしては、バーモント州Burlington、海外ではドイツの Singdelfigen, フランスのEssones、日本では83年末にMOS-memoryの操業を開始した野洲などがある。
輸入自由化と行政指導
揺籃期のIC産業保護のために輸入制限や行政指導がなされていた。日本は64年4月にIMFの8条国に移行しOECD加盟、自由化を迫られることになる。
政府はコンピュータ産業の育成策を積極的に採っていたが、コンピュータ技術のキーとなるのがICであるという認識が政府・産業界に定着し、半導体産業育成のための女性が積極化していく。米国の場合は政府関係(軍需・宇宙)の助成・市場が半導体産業の成長に大きな役割を果たしたのは60年代末までであったのに対して、日本では70年代に政府により半導体産業に対し、直接・間接的に助成がなされる。
これらの助成もさることながら、電電公社とのDIPS*1やLSIの共同開発、および、電電公社による機器の調達*2が半導体産業の育成に大きな役割を果たし、とりわけ、電電ファミリーの日電・富士通・日立の3社が日本の半導体産業のリード役となっていく。
*1 Denden Information Processing Systemの略。70年代初のDIPS-1、70年代半ばのDIPS-11などがある。電電公社は57年にUSASHINO-1を開発するなどコンピュータ開発にも取り組んだことがあったが、その後はしばらく電子交換機の開発に専念しコンピュータ開発から離れていた。
DIPS-1は電電公社がアーキテクチャーを決め68年から71年にかけ富士通・日電・日立に対してそれぞれ独立に設計・製造を競わせた。Microprogram方式、また論理回路には高速のCML(ECL)のSSI/MSI採用など技術的に一挙に高度化し、ハード的にIBMをキャッチアップさせるのに大きく寄与したと言える。
DIPS-1開発においては、3社の中では唯一富士通のみがDesign Automation(DA)を既に使っていたこともあり最初に開発に成功するが、日電・日立はDAを使っておらず設計ミスに悩まされることになる。IBMは50年代末頃に7000シリーズの設計に論理シミュレーションなどDAを既に使っていたが(DAは60年代になってUCバークレーで開発され普及していく)、富士通がDAを導入するのは60年代末となるが、日系他社は更に遅れていた。DIPSシリーズは生涯に2,500台が出荷されている。電電公社はコンピュータの飛び抜けて大きなユーザーでもあった。
DIPS-11では、日立がモデル10(75年9月試作完)、日電がモデル20(75年11月試作完)、富士通がモデル30(76年6月試作完)を開発している。性能比は10を1として、20は1.4、30は3。CPUの論理素子には多品種少量に対応できるマスタースライス(Gate-array)方式が採用されている。これは同じパターンのチップを製作し、第一層配線までは共通で作り、第二層目の配線パターンのみで多様なICを作り上げる方式で、低コストでfull-LSI化を実現し、ハード面ではIBMを凌駕することになる。富士通の場合(素子名MB11kシリーズ:ECL100ゲート,1000素子)、DIPS-11/30に加え、ほぼ同時期に開発された自社のMシリーズ、OEM生産するAmdahl社の470/V6に採用し、1台当たり2,000個程度(共通なものも有るので数百種程度)が搭載されている。MB11kの基本設計はアムダール社が行っているが、問題は当時まだこれに耐える本格的な多層配線プロセスが確立していなかったことにあったが、富士通のケースをみると、平坦化技術(SOG:Spin Oǹ Glass)を世界に先駆けて開発したほか、配線間絶縁膜形成、エッチング技術等を高度化させICの高集積化を飛躍的に高めることができる要素技術をMB11kの開発において完成させている。尚、DIPS-11/30 、Mシリーズ、470/V6ともIBM互換機である。
*2 電電公社向け部品の採算性は極めて高かった。電電公社向けシステムに使う部品は認定品規格として高い信頼性を要求されていたが、それを斟酌しても1桁近く高い価格であり、特に日電・富士通の半導体事業部門を潤した。値下がりの激しいICにおいて、当初設定された価格で購入が続けられたことにもよる。
欧州企業の立ち遅れ
PhilipsはWEと提携関係にあり早くからTRに取り組んでいた。但しかなり消極的で、48年10月に出されたasessment paperでは“現状では”としながらもTRは真空管を代替しえるものではないと結論している。Bell研が試作したTRラジオに関しては雑音が多く、一段あたりの増幅率が小さすぎ、Hf性能(高周波特性)が悪い、出力が小さいなどと酷評していた。Philipsは50年にGe-DIを製品化し、51年には点接触型TRを試作、53年頃にはイギリスのMitcham*1、オランダのNijimegen、ドイツのHamburgで生産を開始ている。早くも52年には点接触型TRの生産しているが、その後は合金型への移行が進み、欧州ではPhilipsがOCシリーズと名付けられたTR群により圧倒的なシェアを占めたが、それでも真空管事業と比べると売上比率は58年23%63年65%68年95%(IC含む)であり、且つ真空管事業の衰退により比率が向上したとこも有って、初期的には成功を収めるものの順調とは言えない。60年代に入った頃には合金型の衰退とともにPhilipsは半導体事業の勢いを失うことになる。尚、Philipsは日本では松下電器と資本技術提携し52年12月に松下電子工業*2を設立している。
製品への応用とではPhilipsは54年に補聴器、57年にポータブル型7TRタイプのラジオを発売するが、TR需要を牽引するほどの勢いはなかった。また、IBMと提携し53年より真空管式コンピュータの開発を行うが、56年には撤退しておりほとんど外販は行われていなかった*3。
欧州は半導体応用機器のコンピュータではIBM等米国企業に、民生機器では日本企業に席巻され、半導体産業を牽引する産業が弱く後れをとることになる。欧州ではTRメーカーとしてPhilips(半導体部門は独立しNXP)の他、ドイツのSiemens(半導体部門は独立しInfinion)、Telefunken、イギリスのSTC(Standard Telephone&Cable)、GEC(General Electric Company)、フランス*4のThomson、CSF(Compagnie Générale de télégraphie Sans Fil) 、イタリアのOlivetti の子会社のSGS( Società Generale Semiconduttori)*5などがあるが、いずれも歴史を持つ大企業であり、且つ、SGS(Olivettiはタイプライターなどの事務機メーカー)以外は真空管の代表的メーカーであった。
*1 イギリスの真空管メーカーMullardの工場。Mullardは1920年にStanley Mullardによって設立される。Stanley Mullard はイギリスの真空管メーカーMackeyやEdison and Swan Electric Light Company、および一次大戦中には英国海軍の研究所で真空管の研究開発を行ったのち1920年にMullard electronics companyを設立する。27年には資本業務提携関係にあったPhilipsの完全子会社となっている。50年頃においてPhilipsは欧州6か国に13の真空管工場を持っていたが、その内の6工場はイギリスのMullardの工場でありMullardがPhilipsの真空管事業の中核であった。Mullardでは、Micham工場(ロンドン市内)で1952年に点接触型TRの生産を開始、53年には接合型TRの生産を開始、合金型も早くから取り掛かり、57年に新設した欧州最大のTR工場Southamptonの操業開始時には合金型が生産の主力となっている。
*2 松下電子工業は資本金6億6千万円と松下電器の資本金5億円よりも大きかった。52年12月に設立され出資比率は松下70%、Philips30%。54年には大阪府高槻に工場建設し、松下電器内の電球等関連事業を移管するとともに、Philipsの新鋭設備を導入し真空管・ブラウン管等を相次いで生産。1957年5月にはGe-DI、同年11月にはGe-TR(合金型と思われる)の製造を開始している。
尚、技術提携に関しPhilipsは当初7%(4.5%で決着)のライセンス料(+技術指導)を要求したといわれる。一方、松下も経営指導料名目で3%を得ることになる。
*3 Philipsは60年代末期にオフィスコンピュータやミニコンで再度参入し、それなりの成功を収める。また、70年代に入るとフランス政府主導でフランスのCII(International Company for Informática)を中心に欧州の主要コンピュータメーカーが連携しUNIDATAというコンソーシアム結成の動き出てくるが、73年にCII、Philips、Siemensの3社でコンソーシアムが結成されるが、スパコンなど大型機分野への進出をはかるが、75年にはCIIがHonewell Bullと合併(CII Honeywell Bull)したことにより脱会し事実上UNIDATAは破たんする。
尚、Siemenseはその後、TelefunkenやNixdolfを吸収し、富士通(Siemense本体向け)や日立(SiemenseとBAFSの合弁会社COMPAREX向け)からIBM互換機のOEM供給を受け事業の再構築を図っっている。、
*4 フランスには、Bell研とほぼ同時にTRを開発したF & S Westinghouse(50年代初期には早々と撤退)や、Bell研と最初にライセンス契約を結んだ34社の内の1社であるLCT(日電と真空管技術供与)などもあるが、いずれもほとんど目立たない。
*5フランスのThomson、CSF、イタリアのSGSの3社は合併して、STMicroelectronics(21年売上128億ドル)となっている。
第三章 シリコンバレー
Stanford大学
20世紀初頭のSan-Francisco Bay Areaは北部に工業が発達していた。Bay Areaの東北端にあるVallejoにはミシシッピ川以西では最大の工場といわれたMare Island Navy Yad*1(海軍工廠)があった。1854年に設立され第二次大戦中には5万人を超す従業員を抱えた。それに対してBay Area南部は果樹園の拡がる田園地帯だった。
シリコンバレー形成の源流を求めるなら、1887年に鉄道事業で財をなしたLeland StanfordによってPalo Alto*1にStanford大学が設立にまで遡るべきかもしれない。そして1906年4月にSan Franciscoを襲った地震によってかなりの数の企業がPalo Alto周辺に移転してきた。この地震と5日間続いた火事によって3,000人が死亡し5億ドルの被害を被った*2。この時、American DeForest Wirejess Telegraphの無線通信網により自身のニュースがSan Diego停泊中の戦艦Chicagoに電信され、それを受け救助に出動し火事に追われた2万人を救助したが、これが自然災害において無線機器が活躍した最初だと言われている。当然の事、Mare Islandからの海軍部隊なども救助に活躍している。
シリコンバレーらしさのある企業としては、1909年にStanford大の卒業生Cyril ElwellによってPalo Altoに設立されたarc transmitter製造(デンマークから技術導入)のためFederal Telephone&Company(32年にITTが吸収)があった。Federalの設立の際にStanford初代学長(President:1891-1913年)のDavid Starr Jordanが500ドル出資すると、近隣の事業化たちがそれに続いたといわれる。また三極管の発明者であるLee DeForestも彼の設立したDeForest Radio Telephone&Telegramを追われた後2年間(11~13年頃)ほど、このFederalに勤めていた。これは設立して間もないFederalの評判を高めたという。Titanic号沈没*3の翌13年に、全ての客船への無線機の装備が義務付けられたことや、第一次大戦の軍需によりFederalは発展していく。ITTに買収された際、Federalはニュージャージー州に移るが、その際に退社した者の中に、自宅を作業場としてコングロマリットのLitton Industry*4の前身であるLitton Engineering LaboratoriesをRedwood(Palo Altoの北西10km)創業するにCharles Litton(Stanford大学出身)がいる。またLittonのFederal時代の部下には後にTIの共同創業者となるCecil Greenがいた。Littonは第二次大戦の軍需(レーダー用真空管など)で大きく成長する。
*1 厳密に言うと、行政的にはPalo Alto市には属していない、というかどこの市町村にも属してはいない。Santa Clara郡(Palo Altoなど15の市を含む)の直接的な管轄下にある。尚、徴税などの業務はPalo Alt市に委託。
*2 戒厳令が出され怪しいものは躊躇わずに射殺せよとの命令だだされた。
*3 Titanicは12年4月12日に遭難したが、結果はともかくとして無線が大いに活躍した。Titanicは12日だけで近辺を航行中の船舶から6回にわたり氷山に関する情報を受けたり傍受していた。遭難信号は58マイル離れていた地点を航行していた客船Calpathiaに受信され、Carpathiaは直ちに向きを変え全速力で航行し受信から4時間後(沈没から2時間後)に現場に到着し2,224人の乗客乗員の約1/3ほどの705名の救助を行った。
*4 Litton Industryは54年にⅭharles Thorntonに買収され、2001年にはNorthrop Grumman に買収される。VarianやHewlett Packardなどと共にSilicon valleyの前身と言えるMicrowave Valleyを代表する企業の一つである。Silicon Valleyの起源をShockley Transistor Corporationに求めるとするなら、Microwave Valleyの起源はFederal Telephone&Companyに求めることができる。
Hewlett Packard
Stanford大学教授のFrederich Termanは産学協同の核として、優秀な卒業生を起業家として育て大学の周辺に置こうとした。この施策に載って38年にWilliam HewlettとDavid PackardはPalo Altoの貸ガレージでTermanから借りた538ドルTermanがアレンジしてくれた1,000ドルの銀行ローンを元手に事業を起こす。最初の製品としてDisneyが製作していたFantasiaの為のaudio oscillator HP-200Bを8台製作した。そして翌39年にHewlett-Packard(HP)を設立している。大戦中,Termanは軍のレーダー探知阻止装置*1の研究に従事することになり、HPにマイクロ波発信機を発注する。これを契機に軍需用の計測器の大量受注に成功し成長の足場をつくり、シリコンバレーを代表する企業に発展して行く。HPの与えた影響は単に事業的な成功にとどまらず、HP Wayと称される従業員を信頼し自主性を重んじ失敗をも容認する企業哲学や厚生福利の充実(catastropic health insuranceなど)、従業員持ち株制ストックオプション制や、いわば組織合成の誤謬の弊害を除くために考案された事業部業績評価制度など、シリコンバレーの企業のみではなく世界的にも大きな影響を与えることになる。フレックスタイム制度などもHPがいち早く(Varianと競うように)導入したことにより広まって行ったと言える。
これらは東部の企業に対してシリコンバレー企業を大きく特徴づけることになる。Fairchildはシリコンバレーの企業であったとしても、親会社のFairchild Camera&Instrumentは東部企業であり東部の流儀で経営されていたためNoyceやMooreまでもがスピンアウトする一因となった。
その後、TermanがStanfordの(副)学長*2(Provost)の時、学校経営に窮し*3大学の所有地209エーカー(84万㎡)をリースして51年に研究工業団地(Stanford Industrial Park→Stanford Research Park)をPaloAlto市と協力して創っている。当初進出したのが電子機器メーカーのVarian Associates*4(48年創業)やHPである。VarianはTermanが役員を兼務する会社で4エーカー(16,000㎥)の土地を年16,000ドル99年契約でリースした。55年にはHPは本社も入居している。現在は700エーカー(280万㎡)に拡張され、設立当初からのVarianやHPにくわえ、TeslaやSkypeなど150社が入居している。
*1 第二次世界大戦で、連合軍はドイツのレーダー技術によって多大な被害を受けている。ドイツは国内および占領地域にレーダー網巡らし、制空権を握っていた時期があった。ドイツのレーダー網に対する対策として米軍はMITのRadiation Ⅼaboratoryを母体にしてHarverd大学にRadio Research Laboratory (RRL)を設立したが、Tarmanがその責任者を務め850人ほどの研究者・スタッフを率いていた。“細かく切ったアルミフォイル”(chaff)を航空機からばら撒くことによって独レーダー網を錯乱することができるようになったが、このⅽhaffを開発したのがRRLである。当時、米国のアルミホイル生産量の過半は対独のレーダー対策に使われていたと言われている。当初は手で撒き、後には自動機で撒いている。大戦末期にはresnatron(高出力の真空管)を使った電波によるレーダー探知阻止装置を開発している。
Tarmanは戦後、Stanford大学に戻るとMicrowave Reaerch Laboratoryを設立し、RRLの研究者をStanfordに呼び寄せている。1950年代にはスタンフォード大学周辺には主に軍需産業に携わるマイクロ波関連企業の一大集積地”Microwave Valley”がsiliconに先立って形作されることになる。Litton、Varian、HPなどは、Microwave Valley企業の先駆けである。
*2 米英アイルランドなどの大学にはProvostと言う役職があるが、日本で言う副学長とはかなり意味合いが異なっている。また、大学により役割は異なる。理事長(President)に対する学長(Provost)という位置づけに近いのでは。尚、ライス元国務長官はスタンフォード大学の第10代Provostであった。
*3 米国の私立大学は潤沢な基金(University endowment)を持っているが、21年時点でStanfordは378億ドルとHarberd(519億ドル)、Yale(423憶ドル)に次ぐ第三位の資金量を誇っている。4位Princeton(377億ドル)、5位MIT275億ドルと続く。尚、学生1人あたりでは、Princeton4,478千ドル、Yale3,506千ドル、Harverd2,701千ドル、MIT2,307千ドル、Stanford2,192千ドル、これにPomona1,793千ドルが続く。Stanfordなどは大学院を持つ研究型の大規模大学であり、年間予算も大きいが、リベラルアーツ系の大学であるPomona大学(カリフォルニア州Claremont)は学生総数1,690人に対して基金3,030百万ドル、年間支出が245万ドルに過ぎず実質的には最も財政的に豊かな大学の様である。
*4 Varianはマイクロ波用真空管メーカーとして創業したが、真空技術などを生かしICの配線用のアルミなどの蒸着装置・スパッター装置メーカーとして半導体産業とともに発展する。
Varianはスパッター装置関連と分析装置関連を、HPを分割して誕生したAgilent Technologiesに、Ⅰon Ⅰmplantation(不純物注入)装置関連)をApplied Materialsに売却し、医療機器関連を残していたが、21年にSiemenseに売却している。
LLNLとIBM
1951年9月にLawrence Livermore National Laboratory(LLNL)がCalifornia大学Berkeley校の付属施設としてLivermore(Palo Altoの北東46km)に開所されロスアラモスと並ぶ核開発の中心となる。コンピュータにとってはLLNLに導入されることは最高性能の証であり極めて重要な意味を持つ。IBM、Sperry Rand*1、CDCなどはLLNLをターゲットユーザとして製品開発を行っていた。Super Computerの走りで或る。冷戦の最中、核開発に最も積極的な時期であった。LLNLの持つ意味は極めて大きく、例えば、Sperry Randは50年代末に接合型TR6万個を搭載したLARK*2を開発するが、これはLivermore Advance Research Computerの略であった。また、IBMはかなり背伸びした開発計画を立て、悉く失敗してしまうのもLLNLのニーズに応えようとした為だといわれる。
コンピュータ開発は戦時下に始まり、その産業としての発展も軍需に依存したものだった。軍需から得られる開発成果・利益で民需事業を推進する構造が50~60年代のハイテク産業であるコンピュータ、半導体産業の典型的なパターンであった。IBMがコンピュータで本格的に民需に参入するのは54年の小型機BM650からであり、その成功により60年頃には民需異存が5割を超すが、60年代になっても依然として政府関係の重要さは高かった。
IBMは52年San Jose(PaloAltoの南東25km、Livermoreの西南40km)にSan Jose Research Laboratory(86年にAlmaden Research Centerに改称)を設立する。ここでの開発成果としては55年に世界初のHDD装置であるRAMACがある。RAMACは用量5百万語(1語7its構成)、制御回路には真空管が使われ重さは1トンあった。翌56年9月にIBM350*3として出荷された。
IBMは55年より超高性能機の開発を開始する。そして61年4月に169千個のTRを搭載し、768kバイトのコアメモリーを持ったIBM7030*4(Sretchマシン、価格1,350万ドル)を出荷するが、プレアナウンスしていた性能に対して半分程度しか出せなかった。価格を778万ドルに引き下げたが8台(事前予約分のみ)しか売れず1年足らずで販売を中止する。ただ、SperryのLARCの販売阻止効果は十分にあった。
63年8月にCDC(Control Data Corporation)*5はCDC6600の発表(64年8月に出荷開始、1号機はLLNLへ)を行う。価格は700~1,000万ドルで35万個のTRを使っていた。CDCはSeymour Crayに率いられた僅か30人ほどのチームによって開発された。60bit機で74種の命令を持ちRISCのルーツとも言える。またパイプライン的な処理機構を持っており先進的な設計であった。約100台が販売され、更に69年には後継としてDC7600が開発される。
IBMはCDC6600との性能争いに負けると、迅速な対応をし大きな成果を上げる。CDC6600のは出荷が始まる64年8月にIBM360/92のプレアナウンスを行い、更に2ケ月後の10月末に開催されたAFIPS’64 Fall joint Computer ConferencesにおいてIBM360/92に関する技術面での発表を行いCDC6600の出鼻を挫こうとした。プレアナウンスから商談を開始し、出荷は1年程度後と言うのが一般的と言えるが、360/92の場合は、開発を始めるのは翌年になってからで、IBM7030の100倍の性能を目指すACS(Advanced Computing Systems)のプロジェクト・チームが編成されている。核となる技術者はWatson研(ニューヨーク州Yorktown Heights)やPoughkeepsie(ニューヨーク州にあるIBMの開発製造の主力拠点)、San Joseから10数人づつ集められ、Sunnyvale(San Joseの西方数km)に集結し、翌66年にこの部隊はMenlo Parkへ移転する。組織は拡大し末期には200人に達するが、開発方針の変更(88年5月に360シリーズとの互換性を持つよう変更する)などによる混乱もあり開発に失敗し69年にはACSプロジェクトは解散する。67年6月にCDC6600の後継のCDC7600の出荷が始まるが、それにACSは対抗する性能を出せなかったと思われる。開発には失敗したものの、CDC6600の販売を抑えることには成功したと言われる。尚、71年3月に4年遅れでIBM 360/195がCDC7600対抗機として出荷されるが、7600を機能的に上回るものではなかった。
68年12月にCDCは独禁法違反等(計37項目)で提訴しIBMは6億ドル*6を支払うことになる。司法省もCDCに続き69年1月に独禁法違反でIBMを提訴する。
*1 55年にSperryがRemington Randが買収して誕生。尚、Remington RandはIBMと同様PSC(パンチカードシステム)等の事務機器メーカーであるが、ENIACの開発者のEckertとMauchlyが46年に設立したEckert-Mauchly Computerを50年に買収してコンピュータ事業に進出している。
尚、ENIACは世界初のコンピュータであるとされているがかなり怪しいものである。ENIACには10進法が採用されていたり、またプログラムはパンチカードなどで読み込む方式ではあったとは言え、ハードの変更(パッチパネル盤を使ってスイッチや配線を変更)を必要とし、プログラムの変更のために1週間は要するしのものだった。
一方、ドイツでは41年に2進法(10進法に比べハードを単純化できる)を使い、プログラム変更がハードに依存しない方式のZuse Z3が既に実用化されていた。IBMは46年にKonrad Zuseから特許使用許諾を取得している。Zuse3が今日のコンピュータの源流といえそうである。
尚、ENIACに関する特許が成立していたが、Honeywellが特許を保有するSperryを67年に提訴。コンピュータの発明は42年にアイオワ州立大学で開発されたAtanasoff-Berry Computer(ABC)だとして、ENIACに関する特許は無効になっている。ABCは2進法を使った電子式計算器で、且つ演算と記憶する部分が分離していた。
*2 Super computerの走りで、60年6月にLLNLに納入された。翌61年4月にIBM7030が出荷されたため、2台(もう1台は海軍)しか売れなかった。当時Planer TRの性能が上がっており、それに対しLARKは1世代前の成長型TRを使っていた。尚、開発の中心となったのは中国出身でENIAC開発メンバーであったJeffrey Chu。
*3 IBMは周辺装置に優位性を持っていた。圧倒的なシェアを持つPCS(Panch Card SYSTEM)などもろもろの機器をコンピュータシステムに組み込み、更にはHDD装置などを開発した。他社はCPU装置では優れていたとしても、とりわけ事務用のシステムの性能では総合的には劣Nり、IBMの周辺機器に依存せざるを得なかった。IBMは寡占力を持つ周辺装置の収益でコンピュータ事業を優位に進めることができた。
尚、大型の汎用機(事務用)としてはRemington RandのUNIVAC 1の出荷は51年、IBM704は55年とIBMは出遅れていた。
*4 LARKに敗れたLLNLのプロジェクトを引き継ぎ、更に発展させたものでLos Alamos National Laboratory(LANL)のプロジェクトとして開発が進む。性能が出ず1号機は値引きしてLANLへ納入された。IBMとしては最初のスーパーコンピュータの試みであった。CDC6600が出荷される64年までの3年間は世界最高速のマシンであった。
*5 CDCはWilliam Norrisを中心とする戦時中海軍で暗号解読器を開発していたメンバーが、46年に航空機関連メーカーであるChase Aircraft Companyにチームごと引きとられ、Engineering Research Associates(ERA)がミネソタ州セントポールに設立される。52年にERAはRemington Randに売却され、57年9月にチームは集団退社しCDCを隣のミネアポリスに設立。約30人の技術者集団である。尚、Seymour Crayは50年にチームに加わっている。
*6 裁判は非公開であった。数千万ドルと推定されていた。約30年後、DECでVAX開発の指揮を執ったGordon BellがSeymour Crayの追悼公演の際に6憶ドルだったと言及していた。
Traitorous EightとDirty Dozen
54年にShockleyはBell研を去り、自らが発明した接合型TRの事業化の為の資金提供者を求め米国中を訪ねまわっている。そしてCalTech大での恩師で科学機器メーカーのBeckman Instruments (現Beckman Coulter)の創業者Arnold Bechmanの援助により56年*1にShockley Transistor Corporationを故郷であるMountain View(Palo Altoの南東8km)に設立する。 この時Stanford大のTermanが研究者の採用などで協力したといわれる。この会社は59年にはClevite Transistor社に売却され、更に65年にはITTに売却され、68年には閉鎖されることになる。ShockleyはCleviteへの売却後もコンサルタントとしてとどまるが、61年に交通事故で重傷となり退く。その後63年から72年までStanford大で教鞭をとっている。
*1会社発足時には25名であった。55年から採用活動を始め、先ずWilliam Happ(Raytheonから)、George Horsley(Bell研)、Leoppld Valdes(Bell研)、Richard Jones(UC Berkeley)の4人が採用されている。尚、最初に採用された4人の内、56年にValdes、57年にJones,58年にHappが去っている。去るものも多い一方、人材には事欠くことは無かった様で、例えば58年にはドイツからHans Queisserが入所し結晶関連の研究開発に従事し、61年にはShockley–Queisser limit として知られる太陽光の電気エネルギーへの変換効率が最大30%であることを解明したりしている。
尚、事業的には1958年までにBeckmanは100万ドル以上を注ぎ込むが、その時点でショックレーが執着したP-N-P-N型Diを日産数百個生産するが、特性にバラツキが大きく本格的に採用をするユーザーはなく事業的には依然として立ち上がらず、Beckman は58年にshockley semiconductor laboratoryと改称した上、Clevite Transistor社に売却する。尚、CleviteはTRの最初の発明者とも言えるドイツ人Herbert Mataré の設立した German Intermetall も55年に傘下に入れている。
Traitorous Eight
56年にShockley Transistor Corporationが設立されると、Shockleyの名声に引かれて、Philcoで表面障壁型TRの研究をしていたRobert Noyce、 John Hoppkins大からGordon Moore、Western ElectricからUgene KleinerとJulius Blank、Dow ChemicalからSheldon Roberts、CalTechからJean Hoerni、Stanford大からVictor Grinich、MITからJay Lastなど全米から研究者が集まってくる。
しかし設立早々、NoyceをリーダーとするグループとShockleyの間に対立が起きる。将来性の高いシリコン酸化膜を用いた選択拡散法*1によるTRの開発を主張するNoyce らに対し、Shockleyは自分のこれまでの研究の延長にあったP-N-P-N型のスウィッチング素子*2(サイリスタ)の研究を推進したことが対立の契機と云われる。
56年にShockleyはBell研の同僚であったBrattain、Bardeenとともにノーベル賞を受けるが、間もなくNoyceとMooreをリーダーとしてKleiner、Blank、Roberts、Hoerni、Grinich、Lastの8人が去ることになる。この8人は57年9月にFairchild Camera&Instrumentの創業者Sherman Fairchildの援助でFairchild Semiconductorを設立する*3。この8人の他にChih-Tang Sah*4(59年)やHarry Sello(59年2月)も後にFairchildに加わる。
Fairchildの立ち上がりは順調だった*5。Bell研で開発されたSiメサ型TRに集中し、58年には売上50万ドル、59年7百万ドル、60年24百万ドルへと増加する。IBMからからB-70爆撃機のコンピュータ用航空機メーカーのNorth American Aviation (NAA)からミニットマン・ミサイルの誘導システム用にSi NPN Mesa型の高速スウィッチングTR2N697/2N697を受注し飛躍の契機とする。価格は1個100ドル強だった。61年には世界に先駆け汎用ICのMicrologicシリーズを出荷する。軍用機製造のMartin Mariettaの汎用コンピュータMARTAC 420などに搭載された。価格は1個120ドルだった。
しかし、この8人もFairchildに長く留まることはことは無かった。まず、61年にKleiner、Roberts、Hoerni、Lastの4人がAmelcoを設立する。これは直にTeledyne社に買収される。Hoerniは64年にUnion Carbiteに移り半導体半導体部門を創設し、更に67年にはIntersil*6を設立する。
HoerniはPlaner技術の開発者として名高い。Planer技術は表面を酸化膜で覆う(選択拡散の際の遮蔽物として形成した酸化膜を除去せずに残すと言うべき)ことにより劣化問題を解決したのみではなく、IC化への道も切り開いた。KilbyとNoyceがICの発明者であるが、いわゆるNoyceの“Semiconductor device-and-lead structure”はPlaner技術を使ってKilbyの“Miniature semiconductor integrated circuit”の完成度を大きく高めたものである。
Kleinerは72年にThomas Parkinsと設立したベンチャーキャピタルのKleiner Parkinsの設立者としても有名である。Robertsもベンチャーキャピタリストになっている。
残る4人の内、GrinichはStanford大学へ、BLANKは60年代後半にコンサルタント会社を設立しており、残るのはリーダー格であったNoyceとMooreの2人だが、彼らも68年に去ってIntelを設立することになる。
シリコンバレーでのスピンアウトは60年代後半が特に激しい。この時期、東部の企業で撤退・事業売却する企業が相次ぐ。フロリダに59年に設立されたSolitronという今では忘れられてしまったような軍需中心(現在も売上12百万ドルの内の8割は軍需関連)の半導体メーカーがあるが、60年代後半には立て続けに買収を行っていた。Honeywell、Bendix、Sperry、Union Carbidとそうそうたる顔ぶれから半導体事業を買収している。そうした大企業の大企業の事業売却が60年代後半に集中するが、それに伴い人材も流動化する。シリコンバレーでもMOS-ICで先駆的な役割を果たしたPhilco-Ford Electronics(Fordが61年にPhilcoを買収)が68年に閉鎖される。Philco-Fordは63年にFairchildからスピンアウトしたJames Fergusonらにより設立されたGeneral Micro‐Electronics Inc.(GME:7番目のFairchildren)を買収していたが、GMEはトップを切ってMOS-ICの商品化をし、キーテクノロジーであるSi-Gate技術を開発した会社であり、MOS技術の将来性が高いこともありPhilco-Ford Electronicsの閉鎖は数多くのFairchildrenを生むきっかけとなる。Farechildに起源をもつ半導体メーカーは80年代半ばに数えたら126社にのぼったと言われる。
*1 熱酸化によってシリコン酸化膜形成しフォトプロセスを使ってパターニングし拡散の際の遮蔽物として用いた選択拡散法は57年にBell研のCarl FroschとLincoln Derickによって開発される。初期のIC製造の為の要素技術が出揃うことになる。
*2 50年にShockleyが考案、bell研などで研究が進み、56年にGEのFrank Gutzwillerによって開発され、58年初頭に量産化される。但し、Shockleyが目指したのはスィッチング素子でありGEの開発したものとは異なる。
*3 後にベンチャーキャピタリストとなるKleinerが投資銀行Hayden StoneとNoyce達を仲介する。Hayden StoneのArthur RockらがNoyceらにSherman Fairchildを仲介し、Sherman Fairchildは130万ドルを出資する。
*4 Sahは56年にShockley transistorに入社した初期のメンバー。中国出身。Stanford大で博士号取得後入社。63年にFrank Wanlassと共にCMOSを開発。尚、Sahは64年にIllinois大学へ、Wanlasも64年にGMEへ去っている。
*5 ほとんど市販されている半導体製造機器などは無かった時代であり、半導体メーカーは独自で試行錯誤しながら製造装置を開発していた。Si結晶製造装置、マスク製造装置(photorepeater)、拡散酸化炉、アルミ蒸着装置などなど。治具なども手作りで、例えばICチップのワイヤーボンディングに使用されるキャピラリーは細い管を通じてボンディングワイヤ(金線やアルミ線)がキャピラリーの先端から繰り出される構造となっているが、市販の温度計の水銀を抜きそれを加工して作っていた。
*6 Intersilは78年にNorthern Telecomの資本参加を受け、83年にはGEにより買収されGE Solid State Semiconductorと改称された後、85年にHarrisへ売却される。99年にHarrisの半導体部門がManagement Buyoutによって独立しIntersilの社名が復活するという変遷を辿った。ルネサス(日電・日立・三菱の半導体部門が統合)によって17年の3,000憶円で買収される。
Dirty dozen
シリコンバレー同じ頃にIBMのSan Jose研などからのスピンアウトが相次ぐ。またACS開発の失敗*1により人材の流出を招くことになる。
IBMのSan Jose研のVic Witt’s strage products groupから67年12月に12人(技術者が主、その他Financial analystなど)が集団でスピンアウトしInformation Storage System(ISS)を設立しIBM2314*2コンパチブルのDisk Storage Systemを開発する。IBMにとっては前代未聞の出来事だったようである。但し、この12人のスピンアウトは序の口に過ぎず、68年夏にはAlan ShugartがMemorexに転社すると、多くの技術者がShugartの積極的なリクルートによりその後に続き、その数は200人に近かったと言われる。Shugartはその後、Memorexを去り73年1月にFDDのShugart AssocistesをFinis Conner等9人ともに設立する。更にShugartとConnerは78年にHDDのSeagate technologyを設立し、そこらConnerはスピンアウトし85年にはやはり低価格の民生向け製品に特化したHDDのConner Peripheralsを設立し、このIBM San Joseからのスピンアウトは後にFDDやHDD関連のベンチャーをシリコンバレーに濫立させることになる*3。HDD市場は現在(22年)までに統合が進みSeagate(40%)とWestern Digital(40%)、および東芝(20%)の3社による寡占状態でであるが、嘗ては競争の激しい市場であった。そしてアジアの4社(富士通・サムソン・東芝・日立)を除けば、そのほとんどがIBMからスピンアウトした技術者たちによって設立されたものであったと言っても過言ではなさそうである。IBMのストレージ部門からのスピンアウトは80年代になっても続いていた。
一方、IBM Melon Parkでもスピンアウトの動きが始まる。69年にACSは開発中止が決定されるが、その直前にはRussell Robelen等3人がIBMを去りMascor(Multi Access System Ⅽorp)を設立している。これにFred BuelowやJohn Zasioなども加わり、総勢20人ほどがIBMを去っている。
そして、70年7月にEugene AmdahlがIBMを去り12月にIBMコンパチ・大型コンピュータ開発のAmdahl Corp*4を設立すると、ベンチャーキャピタル*5からの追加出資獲得に失敗し破綻したMascorからも15人ほどが合流しするほか、泡沫的に誕生し破綻したBerkeley ComputerやGemini Computerなどからの技術者もAmdahlに合流していく。その後、Amdahl社は急速に人員を増やし73年頃には600人を超えるが、その後、人員を半減させるなどのリストラを行い、それがまた人材の流動化を招くことになる。
これらIBM Menlo ParkやAmdahlから流出した技術者たちがFederico Fagginや嶋正敏らを継ぐ第三世代のMPU開発者としてシリコンバレーで活躍していくことになる。
*1 IBM Menlo ParkでのACSプロジェクトは失敗に終わるものの研究としては後のMPUに大きな影響を与えることになる。RISK MPUの原型と言うべきものがプロジェクトの一員であったJohn Cocke考案されている。CrayのCDC7600に始まるRISK architectureはCockeによって80年にIBM801 MPUとして完成を見ることになる。
*2 66年に発売され360シリーズおよび370シリーズに使われた。MemorexからもMemorex660としてコンパチ機が出されている。ISSの開発したコンパチ機はTelexから販売されている。尚、MemorexとTelexは88年に合併しMemorex‐Telexとなる。96年に倒産。
尚、69年には、Jesse Aweida, Juan Rodriguez, Thomas Kavanagh, Zoltan Hergerの4人がスピンアウトとして、IBMコンパチのHDD装置のStorage Technology Corporation.設立している。HDDでは或る程度の成功を収めたものの、IBMコンパチの大型コンピュータ開発に乗り出し失敗し84年に破綻する。
*3 2000年のHDD業界の主要企業を見ると、Connerを買収しtopに立ったSeagate(シェア21%)を筆頭に、Quantam(16%)、Maxtor(14%)、IBM(13%)、富士通(13%)、Western digital(10%、Tandon)、サムソン(5%)、東芝(4%)、日立(3%)の10社で99%のシェアを占めていたが、この内、Seagate、Conner、Quantam、Tandonの4社はIBM、Memorexを経た技術者たちによって設立され、MaxtorはIBMからの直接のスピンアウトである。
尚、SeagateはQuantam、Maxtor、サムソンを買収、Western digitalはIBMを買収した日立を買収、東芝は富士通を買収し、現在の3社体制となっている。
尚、HDDのキーパーツとして、ヘッド、モーター、メディア(アルミないしはガラスの基板)があるが、モーター、メディアに関しては日系企業が圧倒的なシェアを持っている。日本電産は83年から始まるSiegateとの取引(2000年にはSeagateのモーター部門買収)によって飛躍の機会を得たといえる。ヘッドに関しては集約化の進展に伴い内製化が進んでいるためTDKなど独立系のシェアは下降気味だが、非HDDメーカーとしては同じく日系企業が圧倒的なシェアを持っている。
尚、HDDからフラッシュメモリーを使ったSSD化が進んできているが、Western digital(傘下のSandisk)と東芝はSSDも手掛け、且つ両社は協力関係にある。
*4 Amdahlは設立早々資金に窮した。期待したベンチャーキャピタルからの出資が思う様には集まらなかった。71年にシカゴのベンチャーキャピタルHeizer Corporation より2百万ドルの出資を受けられた程度あった。同年富士通と提携し5百万ドルの出資を受け、翌72年には独Nixdolf社と提携し6百万ドルの出資を受け、これらに続き富士通の追加出資などで約20百万ドルを調達する。
事業資金は当初33~44百万ドルと想定されていたが、一時大きく膨らみかけたものの、富士通のIC技術や高密度実装技術との統一を図り(空冷を可能とした)、且つ富士通への生産委託により開発費用の削減、人員の大幅削減をするものの、結果的にはオイルショックによる物価上昇もあってか47.5百万ドルを要した。
470V/6の1号機を75年6月にNASAに納入している。翌76年には株式公開を果たしている。尚、富士通の類似機種DIPS-11/30やFACOM M-190に対して1年先行しての出荷である。
*5 70年代にはいるとベンチャーキャピタルの出資姿勢が厳しくなり、追加出資を受けられず破綻するベンチャー企業が多くなる。、
ベンチャーキャピタルは、1958年にSMALL BUSINESS INVESTMENT ACT(SBIC:中小企業投資法)」が制定されたのが契機となり濫立することになる。SBICは、政府からの低利の借り入れや債務保証で資金調達ができ、それを原資にベンチャー投資を行うことができた。60年初期には600社近いSBICが全米で誕生したとされる。60年代にはシティ・コープなどの大手の金融機関、EXXONなど大企業、年金基金、大学のEndowment(例えばHarvard大は2021年時点で532億ドルを持つ有数の機関投資家である)もベンチャー投資に参入し、ベンチャーキャピタル業界はブームを迎えていた。しかし、69年のキャピタルゲイン課税の強化(29%→49%)や不況による株式市場も低迷もありベンチャーキャピタルは不振に陥ることになる。不振からの脱却の喫機は74年のERISA法(従業員退職所得保障法)による年金基金に対する分散投資の奨励やキャピタルゲイン税率の78年の引き下げ(49%→28%、81年には20%)により再度ブームが訪れる。
スプ―トニックショックと産軍複合体
半導体産業の草創期は産軍複合体*1(Military-industrial complex)華やかなりし時代であった。冷戦を背景に軍事予算は増え続け50年代末期にはGDPの10%(2020年3.74%)を占めるに至っていた。企業と軍、更には議員の癒着が問題となっていた時期で、アイゼンハワー大統領は退任の際に警告したほどだった。ケネディー政権になりRobert McNamaraが国防長官(61~68年)となる。Harvard Business Schoolで助教(Assistant professor)を務めた後、二次大戦中は陸軍で統計学を使って戦略爆撃の立案などに従事し、戦後Ford Mortorsに移り,Ford社長から国防長官に転じた。McNamaraは軍の予算管理に経営学的手法を導入した。Planning Programming Budgeting System(PPBS)を導入し、その手法であるDevelopment Concept Paper(DCP)により、効果、スケジュール、費用積算、技術リスクなどをチェックし進行中のプロジェクトの見直しさえ行っている。これによりBoeingのB70爆撃機の開発を打ち切ったりした。また物資調達に競争原理を導入するためセカンドソースを求めさせるようになったのもこの時期である。それでも軍事予算はベルリン機器、キューバ危機、更に言はベトナム戦争の泥沼化により膨れ上がる一方だった。ABM(Antiballistic Missil)の配備計画に400憶ドルを申請されたりする。
ソ連の原水爆開発の成功に続き、ICBM(大陸間弾道ミサイル)の成功やスプートニク打ち上げ成功*2により危機感が煽られる。
半導体産業の立ち上がり期に、軍とNASAが提供した膨大な研究資金と調達によって半導体は技術・市場とも発展していく。50~60年代半ば頃までは軍やNASAの調達の場合、公開入札を行うことが原則とはなっていたが、競争原理が働くのはごく初期の段階に過ぎず以後は随意契約に近いものであった。軍は価格よりも性能を重視し企業が要して全ての費用と一定の利益を支払う方式を採った。半導体の場合、不良品も買い上げてくれるようなもので、歩留向上へのインセンティブが働かないどころか、悪ければ悪いほど売り上げも増え収益も上がることになるというとんでもない仕組みであった。70年代に入り軍拡競争から軍縮へと転換する。軍やNASAの予算が削減されるが、それに加え、McNamara時代にセカンドソースを求める調達方式に変えたことも大きく影響する。
*1 産軍+学の複合体と言うべきかも。大学も研究費において軍に対する依存が大きかった。
*2 この頃の米ソの軍拡・宇宙開発競争及び主な出来事を見ておくと;―
49年03月 ソ:原爆実験成功
52年11月 米:水爆実験に成功
53年08月 ソ:水爆保有宣言
54年01月 米:原子力潜水艦ノーチラス号進水
54年03月 米:ビキニ環礁水爆実験
57年08月 ソ:ICBM成功
57年10月 ソ:人工衛星スプートニク打ち上げ成功
58年01月 米:人工衛星エクスプローラー1号打ち上げ成功
59年01月 ソ:ルナ1号月の近傍6,000㎞を通過、9月ルナ3号月面に到着(激突)
61年04月 ソ:ボストーク1号による有人宇宙飛行(地球周回)成功
61年06月 米:マーキュリー・レッドストーン3号による有人弾道飛行成功
61年05月 米:ベトナム直接介入開始
62年02月 米:フレンドシップ7号による有人宇宙飛行(地球周回)成功
62年10月 米ソ:キューバ危機
62年07月 米:通信衛星テルスター1号による仏米間テレビ中継成功
63年11月 米:リレー衛星(62年12月打ち上げのリレー1号を使って)による日米間テレビ中継成功
64年07月 米:無人ロケット・レインジャー7号月面着陸(激突)
64年10月 中:核実験成功、67年6月水爆実験成功、核保有国となる
65年07月 米:マリーナ4号、火星を周回し撮影に成功
67年10月 ソ:べネラ4号金星に軟着陸
68年01月 米:米軍ベトナム派兵55万人に達する
69年01月 米ソ:第一次戦略兵器制限交渉(SALT1)の予備交渉開始
69年03月 ソ中:ダマンスキー島事件を契機に、中ソ国境線を挟みソ連軍658千人、中国軍814千人が対峙
69年07月 米:アポロ11号月面着陸、人類が初めて月面に降り立つ(これを受けソ連は技術的問題も有り月面着陸計画を断念)。
71年07月 米:ドル防衛策発表(ドル・ショック)
72年05月 米ソ:SALT1及び弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約調印、デタントの時代へ
73年01月 米:ベトナム戦争終結、69年以降米軍は撤退を続け、終結時には24,000人にまで減っていた
73年06月 米ソ:核戦争防止協定調印
73年10月 オイルショック
シリコンバレーと軍需産業
シリコンバレーの代表的な軍需企業*1としては、56年にSunnyvale(PaloAltoの南東14km)に進出したLockheedがある。ここで人工衛星や戦略ミサイルの制御システムなどの開発や、それらシステムのIC設計などが行われていた。80年代中頃まではLookheedのSunnyvaleがシリコンバレー最大の事業所だった。CADAMはここで開発されコンピュータ産業発展に多くな役割を担うことになる。
米国西海岸は航空・宇宙・軍事関係の集積の高い地域で特にLos Angels近郊には空軍の最大の拠点であるEdwarda空軍基地があり、その南のAntelope ValleyにはLookheedやNorthropの本拠がある。またantelope ValleyにはRockwellのSpace Divisionが置かれここを中心にGeneral Dunamics、Grumman、McDonnell Douglassなど約100社のサブコントラクターの協力により250万店の部品からなるスペースシャトルの開発・製造がおこなわれた。またJet Propulsion Laboratory(ジェット推進研究所)もLos Angels近郊のPasadenaにある。
55年に汎用計算機であるIBM701のLos Angels地区のユーザーを中心にしてSHARE(Society for Handling Avoid Repetitional Effort)が結成されている。当時のコンピュータ―はOSでさえ、必要ならばユーザーのプログラマー等が独自で作成していた。GMやNorth American Aviation (NAA:現Rockwell)のプログラマー等の手を経て改良されていったGM-NAA I/O*2というプログラムがあったが、SHAREではこれをベースにしてSOS(Share Operating System)を作成したり、Assembly言語のSAP(Share Assembly Program)などを開発したり、ユーザーグループ間のデータ交換のため磁気テープの記憶方式の統一をするなど先駆的な役割を果たしている。このSHAREの中心メンバーだったのが、これら西海岸のコンピュータの先進ユーザーである軍需関連企業であった。
Bay AreaはMare Island Naval Shipyard、San Francisco Naval Shipyardや小型護衛空母などを建造した民間のKaiser Shipyards(Richmond市)など軍艦建造の集積地であり、二次大戦中は建艦の半分はBay Areaでなされたと言われる。また二次大戦後は軍のR&D契約の3分の1をカリフォルニア州が占め、軍との結びつきが強かった。他州で創業した半導体メーカーも本拠をシリコンバレーに移す動き*3があったが、シリコンバレーの優位性は半導体装置メーカーなどサポーティングインダストリーの集積などもあり高かった。
ICの需要としては、60年代中頃までは軍需産業が大きな比率を占めていた。65年のICの企業別売上は、TI 26百万ドル、Fairchild 18百万ドル、WH 12百万ドル、Motrola 7百万ドルと主要4社で4分の3近くを占めていた。
*1 カリフォルニア州は航空宇宙を中心に、軍需産業の一大集積地であった。69年のデータでは、国防省の調達(Military Prime Contract)の総額35,249百万ドルの内、カリフォルニア州が6,824百万ドル(19.4%)を占め、二位のニューヨーク州の3,074百万ドル(8.7%)の2倍以上であった。特にミサイル・宇宙関連(missile and space system)においては全体5,474百万ドルの46.6%の2,550百万ドルを占めた。また、発注内容として、Hard goodsとRDT&Eの研究開発関連(Research, development, test and evaluation work)に分けられるが、RDT&Eにおいて全体で5,940百万ドル(70年)の内の36.3%の2,154百万ドルをカリフォルニア州が占めるなど圧倒的であった。こうした軍需との結びつきがシリコンバレー発展にとって極めて大きな役割を果たし、シリコンバレーは産軍複合の時代の申し子であると言えそうである。
*2 GM-NAA I/Oは、GMで作成されたInput/outputプログラムをベースにして、North American Aviation (NAA:元Rockwell)で機能追加され、更にまたGMで機能追加され作られていった。これが世界初のOSと言われている。例えば機能としては、コンピュータ処理では一つのプログラムを実行するのに、パンチカードを読み込ませたり、紙テープのデータを読み込ませたり、演算処理、ソートなど多くの処理から成っているが、GM-NAA I/Oプログラムを使うと、一つの処理が終わると自動的に次の処理を行うことができ効率化がはかれた。40社ほどで使われていたと言われている。
*3 例えば59年にコネチカット州で創業したNational Semiconductorは67年に本拠をSanta Clara市(Palo Altoの南東21㎞)に移している。Fairchildからスピンアウトして62年に設立されたⅯolectroを買収していたが、そこに本拠を移した形である。且つ、FairchildからCharles Sporckら5人の幹部を引き抜きSporckをトップ(社長兼CEO)に登用している。60年代後半頃には半導体製造装置や原材料など高度化が進み、また先進企業で経験・ノウハウを積んだ人材の獲得などシリコンバレーには半導体産業にとってのインフラ形成も進んできておりビシネス環境が整備されて来ていた。TIやMotorolaのような大企業はともかくとして、中堅・小規模企業にとって他地域はデメリットが目立つようになってきていた。
60年頃までは、半導体製造装置は自社開発せざるを得なかったが、60代半ば過ぎには日本でさえ、例えばアルミ蒸着装置ならばTemescal(53年Livermoreで創業、67年Aico-Temescal)が導入されていた。また、日電はバリアンとの合弁で日電バリアンを設立し、日電の真空機器部を分離・統合しその母体とし、蒸着装置(スパッタリング装置)やドライエッチング装置などを開発し販売している。
なお、日本のコンピュータ系の主要半導体メーカーの場合80年代初めまでは光学系機器を除くと自社開発装置(製作は外注)が多かった様である。先端技術開発のキーが装置開発でもあった。
R&Ðの軍需依存
FairchildのR&Dグループ人員は60年代半ばにはかなりの数に達し、既に500人近かったと言われる。軍事関係の場合、プログラムによっては、例えば当面は製品化に結び付きそうにないCCDなどの研究費用は軍が100%の費用負担を行っており研究費には事欠くことはなかった。また直接的な補助は少なくとも製品販売によって十分に研究費を回収できた。こうした半導体の研究費の多くは航空機メーカーやその関連機器メーカーを問うして半導体企業へ流れ込んでいた。Fairchildの研究部門を統括していたMooreは研究予算の管理に関しては研究員の数のみを管理しそれ以外は統制しなかったというが、それは丸抱え的な軍の研究費補助の仕組みに則したやり方だったのであろう。
70年には軍事宇宙関連予算の削減の影響が早くも表れだすが、この年、Fairchildは大幅な組織改革を行いR&Ð部門*1の人員を3週間ほどの間に500人から50人に減らすという大胆なものだった。解雇ではなく、Mauntain Viewの工場などより製品開発・製造に近い部門に研究員を再配置したものだが、72年の景気回復では再度増員されたりする。このリストラの時期は他の企業を危機的な状況に見舞われており転社もかなわず、また企業も困難な時期であったため、研究員の多くは止まらざるを得なかった。しばらくすると徐々にIntelなどへの転出が進んでいく。軍事予算に削減(研究費関連では3割程度の削減)や市場が産業用や民生用にシフトしていく中、且つ競争が本格化していく中、Fairchildは大きな方向転換を余儀なくされたようだ。
60年代末のHoneywellやSperryの半導体からの撤退に続き、この70年代初頭の不況の時期に真空管時代をリードしていた東部のGE、WH、Raytheon、Philco—FordなどがIC事業から撤退していく。Sylvaniaも工場閉鎖など事業を縮小している。
軍需が民需での優位に必ずしも結びつくとは限らないが、半導体においては初期的には極めて大きなものだった。TIは61年にICを製品化し、それらは空軍のコンピュータMinuteman Missileやアポロ宇宙船などに搭載された。Fairchildも同様にNASAとの関係が強かった。これらはBIPのゲートICで集積度が数個のICの価格が100ドルから場合によっては数百ドルしたが、70年代半ばには10セント程度で売られていたICに比べても見劣りするものだった。この価格ではほとんど産業用や民生用では応用できる製品が見つからず、ICの立ち上げ期での多陽はほとんどが軍事・中庸に限られており、そうしたニーズを持つ米国の半導体企業の独壇場だった。ニーズの乏しかった欧州や日本企業に対し米企業の事業化は先行する。しかし、70年代以降は軍事。宇宙の市場縮小に対し、産業用から民生用まで広く使われるMOS-ICが市場をリードしていく。この市場の変化により軍需依存の強いFairchildの低落が始まり、新たにIntelなどMOS系の企業が大きく成長していくことになる。
*1 シリコンバレーでのFairchildのICでの初期における最大のライバルは61年にÐavid AllisonなどFairchildからスピンアウトした4人によって設立されたSignetics(Rheem Semiconductor、Amelcoに次ぐ第3社目のFairchildren)であるが、研究所は持たずエンジニアリングパワーはもっぱら製造の生産性向上や顧客対応、特にカスタムICへの対応に重点的に配置するなど、二番手の戦略とでも言うべきものであったが、それなりの成果を出していた。装置メーカーや部材メーカーも育ってきており、それらを活用することで十分にやっていける時代になってきていた。一方、Fairchildは半導体業界のパイオニアとして業界を研究開発面でリードし、設備開発なども含め広範な分野の開発に取り組んでいた。それによって競争優位を形成できていた時代もあったものの、新興メーカーが濫立し競争が本格化してくると、それらは寧ろ重荷になってしまって来ていたようだ。競争のパラダイムがシフトしてきた時代であった。
第4章 MOS ICと電卓
Fairchild
60年にMOS型TRがBell研によって開発される。62年にはRCAによりMOS型TRは増副作用が真空管より優れていることや、IC化した際の回路構成がBIPより単純化できることが発表され将来の有望技術であると大きな期待が持たれることになる。しかし、実用化にはいくつかの大きな課題が残されていた。これに大きく貢献したのがFairchildのChin-Tang SahをリーダーとするEdward Snow、Andrew Grove、Bruce Dealのグループだった。63年に特性の不安定性における最大の要因がNaイオンにあることを突き止め、Planar-Ⅱと称されたプロセス技術を64年頃にはほぼ確立させMOS-ICの製品化に目途をつけた。開発部門のトップであるMooreが後に有名になる集積度が2年毎に2倍になるという法則を描いてみせたのは、このPlanar-Ⅱ技術開発の翌年であった。現実にはそれ以上のペースで今日まで衰えることなくMOS-ICの集積度向上は続いている。後にMooreは法則を1年半毎に2倍と修正している。
こうしてMOS-ICへの実用化への道がFairchildによって開かれるが、これを機にこのPlanar-Ⅱのプロセス確立に寄与したプロセス技術関係(Mountain Wiewにある製造サイド、SahらはPalo AltoのR&Ðサイド)のグループが64年にスピンアウトし設立したGMEによって商品化が先行される。GMEは20ビットのシフトレジスタを65年に15ドルで発売する。しかし市場の立ち上がりが悪く、GMEは66年にPhilco-Fordに買収されPhilco-Ford Electronicsとなるが、この買収の直後にPhilco-Ford ElectronicsからスピンオフしたAmerican Microsystems*1が60年代後半から70年代初めにかけMOS-IC市場をリードしていく。更には68年にPhilco-Ford Electronicsが閉鎖されると、この年から翌年にかけて半導体ベンチャー企業の設立ラッシュが起こる。こうしてGMEに流れを発する企業群が数の上ではFairchildrenの中心的存在になるが多くは泡沫的なもので終わってしまう。
また、Hughes Aircraft*2のRobert Bowerによって66年にSelf-aligned-gate技術が発明*3されるが、プロセス技術の確立ではSi-Gate技術としてFairchildによって完成されるなど、Fairchildによってリードされていく。然しながら、MOS-ICの集積度は高まるものの、動作速度の遅さ、静電破壊など信頼性の低さにより応用面での制約があり、また(当時は)3電源が必要であり、入出力も当時普及していBIP標準TTL ICとの互換性に欠けておりシステム設計がやりにくいなど一般機器への応用は進まなかった。そのため当初はシフトレジスタ(一種のStatic RAM)と言う信号をバケツリレーするようなMSIレベルの素子や時計用*3などへの応用にとどまっていた。FairchildはMOSには不熱心であったと言われるが、市場が未成熟であり、軍需や産業等が中心のFairchildにとってMOS-ICは将来技術であるとしても、当時は魅力あるものではなかった。
*1 American Microsystemsは2000年代初めにファンドに買収され、2008年には10憶ドルでOn Semiconductor(99年にMotorolaの半導体部門が分離して設立された)に買収されている。
*2 Hughes AircraftはBell研がTRの発明を公表(49年)直後よりTRの研究を開始する。また、早くからSiに着目しSiへの取り組みもTIに次ぎ早かった。50年代から70年代中頃までは大手(米国でトップ10)の一角を占めていた。半導体製造工場はロサンゼルス郊外(南東40km)のNewport Beachにあった。軍・航空宇宙用が中心だが、70年代にはデジタル時計用MOS-LSIのトップメーカーとなっている。尚、ディジタル時計用ICはヒューズが開発し時計メーカーに販売する形態の汎用品が主である。また、60年代からII(Ion Inplantation)装置の開発に着手するなど装置関連の開発にも積極的であり、II装置を最初に開発したメーカーである。またDie-bomderやWire-bonder装置も手掛けていた。95年にHughes AircraftはGMに半導体関連も含むHughes Electronicsを売却している。Bonder関係は同じく95年にファンドに売却され、更に2008にPalomar Technologiesに売却されている。
*3 Robert Bowerによって考案されたSelf-aligned-gate技術(どちらかと言うとAl-gateを前提としていた)はほとんど実用化できるものでは無かった。FairchildのThomas KleinによってAl-gateに対するSi-gateの優位性が解明され、Fagginによって製造プロセスが確立される。
半導体関連産業の発展とFairchild
初期の半導体企業は製造装置を自社開発する必要があった。と言っても多くは研究用設備を若干モディファイした程度のものに過ぎないものだが。設備開発をリードしたのもFairchildだった。そして、Fairchildとの結びつきによって多くの企業が生まれていく。Fairchildはそれらを後押ししたと言われる。
60年にFairchildからスピンアウトしたCecil LaschらによってSpecialty Products(64年 Electroglasと改称)が設立されるが、これは組立用のワイヤボンダ―に使われる治具capilary tubeの製造などを行っていた。60年代半ばには拡散炉やPP試験(wafer processを完了したチップの試験)用のprove cardなどにも事業領域を広げている。
67年11月にMichael McNeilly*1によってMountain Viewに設立された半導体設備メーカーのApplied Materials(AMAT)は個人資金を募って設立されているが、その出資者にはFairchildのMoore、Grove、Noyce、Sporckや既にFairchildを去っていたHoemi.などが名を連ねている。またVarianの様にシリコンバレーの在来企業の中にも半導体設備に参入していく企業が現れてくる。半導体設備産業もシリコンバレーを中心に発展していく。
日本企業においても、例えば63年に設立された東京放送(TBS)子会社の東京エレクトロンはFairchildと65年にIC Tester(Fairchild 4000*2は本格的に販売された世界初のIC Tester)や半導体製品の販売代理店契約を結んでいる。AMATとともに半導体設備産業を代表する企業へと発展していく。また半導体関連部材においてもFairchildとの結びつきにより飛躍のきっかけを掴む企業もあった。京セラ*3は68年にFairchildがセラミックパッケージの開発を京セラに持ち掛けたのを契機に飛躍の足掛かりを掴んでいる。それまでのパッケージ(Can type、プラスティックやセラミック系のCerdip)に比べメタルシールタイプやフリットシールタイプのセラミックパッケージは高コストではあるものの信頼性、精度、電気的特性に優れ、また多ピン化や小型化にも優れていた。
*1 McNeillyは東海岸のUnion CarbideでSi wafer製造用のトリクロロシランなどのガス関係の業務に携わったあと、65年にRichmond(サンフランシスコの対岸、北東10km)に半導体用の高純度ガスの製造販売のApogee chemical Inc.を設立。67年にApogeeを去りガスの施設内供給システム関連機器製造のApplied MaterialsをEast Palo Altoに設立。Fairchildの製造装置開発技術者を引き入れApplied Materials は70年にエピタキシャル成長用のCVD製造装置開発に乗り出し装置メーカーへと転じていく。
*2 日本企業においてIC生産が始まった頃は、Fairchild 4000MやTI553など米国半導体メーカー製のテスターに依存していた。DC試験をFC4000Mで行い、ファンクション試験をTI553で行っていたようだが、TI553は故障が多く、おまけに大きすぎて(長さ3.5ⅿ)工場に搬入するのに一苦労したようであり量産向きでは無かった様だ。IC一個を試験するたびに紙テープが一回転する方式のため紙テープの摩耗と読み取り機の故障も多かった。
Fairchild製はその後もFC5000、コンピュータ制御テスターのSNTRY-48など80年頃まで使い続けられている。
*3 京セラは59年に松風からスピンアウトした稲盛和夫によって設立される。当時、輸入に頼っていたブラウン管の電子銃を支える絶縁部品であるU字ケルシマの国産化で事業を立ち上げる。転機となるのは66年にIBM360シリーズに搭載されたHybrid IC用のアルミナ製基板の受託による。これがICセラミックパッケージへと繋がる。68年には鹿児島県川内市にセラミックパッケージ用工場を建設、71年にはSan Diegoに工場を建設している。低価格と高品質により、70-71年および74-75年の半導体不況を経て、米国の草創期の半導体パッケージメーカーを市場から退出させセラミックパッケージにおいて米国で80%のシェアを得る。
黎明期のMOS-IC市場
MOS-ICの特性として低速であるが集積度が高いことがあげられる。集積度の高さは一方では量の確保のための必須な条件である汎用性の欠如という問題を持つ。IC産業では量が必要であり、MOS-ICは高集積と量を兼ね備える応用を見いだせず、60年代後半に至っても主なものとしてはシフトレジスタや時計用くらいのものであった。こういう状況の中で、集積度が高くかなりの量が見込めるものとして電卓用LSIが登場してくる。
71年にはMOS-ICの米国採算学は約1億ドルに達するようになるが、その半分は電卓用であり、もっぱら日系企業が顧客となる。MOS-ICの主要企業として、AME、TI、Rockwell、GI*2(General Instrument)の4社がそれぞれ1千万ドルを超え、INTELも9百万ドルに達していたのに対し、Farechildは精々1~2百万ドルに過ぎなかったと推定される。日系の電卓メーカーを主要顧客としていた企業が上位を占める。リコーのAMI、キャノンのTI、シャープのRockwell、三洋のGI、その他、栄光ビジネスマシン(ユニトレックス)のCaltex Semiconductor*3などというのが典型的な組み合わせで、ある程度だが主要な委託先というのがあった。
*1 キャピラリーチューブはガラス製で金線表面の汚れ・荒さが原因でキャピラリーの内面に汚れ等が付着して金線が切れ頻繁に交換する必要があった。日本では60年代半ば過ぎには金線の伸線・焼鈍方式、洗浄方式の改善により、金線の精度を高めることによって解決している。
*2 GIは1923年に音波を使って水深などを測定する測深儀メーカーとしてニューヨークに設立されている。50年代より買収を重ね半導体やケーブルTV機器など広範な事業を展開している。半導体では61年にSunnyvaleのPyramid semiconductorを買収している。64ビットのシフトレジスタを製品化したAMEに続きGIは65年には256bitを製品化し、また60年末にはイタリアにMOS-ICの一貫工場を建設するなど早くからMOSに注力する。
尚、GIは主力事業を2000年にモトローラに170憶ドルで売却するなどによって解体されている。Pyramid semiconductorは21年に航空機部品メーカーの HEICO Corporationに買収されているがfabless半導体メーカーとして存続している。
*3 Caltex Semicondoctorは71年にSanta Claraに設立される。TIからスピンアウトした台湾人技術者およびそのオレゴン州立大学の台湾人留学生仲間を中心にして電卓用高性能1チップICの開発を目的に設立されたFabless半導体メーカーの先駆け的企業。70年当時、wafer processを持つ垂直統合型の企業がほとんどであったが、半導体不況の影響もあり生産を請け負う企業もありFabless企業が生まれているが、安定的な委託先がないこともあり発展には限界があった。Fabless半導体メーカーの隆盛は90年代に入ってから。尚、69年にニューヨーク市に設立されたLSI Computer Systemsが最初のFabless半導体メーカーだと言われている(電卓用chip setの開発のために設立されたMos Technologyの設立は68年と更に早いが)。但し、大抵のFabless半導体企業は自社ブランドで事業を行っていたものは少ないようで、一種の設計請負業に近かった。74年にIntelをスピンアウトしたFagginや嶋正敏によって設立さえたZilogが自社ブランドを確立して大きな成功をおさめた最初の例と言える。Zilogの成功により多くの企業が続くことになるが、Fagginや嶋正敏は単にマイクロプロセッサーの開発者として大きな貢献を成しただけではなく、今日の半導体産業の構造を作り上げたとも言え、極めて大きな役割を果たした。
尚、Caltexの設立資金は主に栄光ビジネスマシンが負担。栄光から派遣された4人の技術者がロジック設計をし、Caltex側はそれのチップへの落とし込みを担当。71年に電卓用1チップLSIを完成させた。尚、栄光ビジネスマシンは56年に設立されたアパレルの栄光商事の子会社として設立されている。
電卓戦争
それまで計算器と言えば、機械系企業の事業分野でありタイガー計算器*1(1923年設立)などが代表的であった。これら機械式手動計算器メーカー*2は電子化の進展とともに(ビジコンを除いてだが)淘汰されていく。電卓が登場した頃、当時の代表的なタイガーの機械式手動(手廻)計算機の価格は3万5千円(53年から生産終了の70年までこの価格を維持)と60年代後半までは30万円から50万円程度した電子卓上計算機に比べて安く、販売は60年代後半になっても順調に増加していたが、70年頃になると売上が急速に落ちていく。機械式の市場規模は60年代前半で年4万台、後半で年7万台程度だった。機械式計算器メーカーとしては、シェアで過半をしめるタイガー計算器のほかに太陽計算器(34年設立、販売は内田洋行) 、ビジコン*3(富士星計算器製作所42年設立→日本計算器→ビジコンと改称)、東芝、パイロット事務機などがある。戦前および戦後しばらくの間は、精密金属加工技術はかなり劣ったもので、部品のバラツキが大きく1台1台調整しながらの作業で、例えば2台の計算器を分解し、それらを混ぜ合わせて再度2台の計算器を組み立て直そうとすると微妙に部品が組みあわず上手くは組立てられなかった。そのため1台づつの手作りに近くスケールメリットが少なく、ある程度の技術的経験があれば参入可能であり小規模企業の生存余地もあった。参入障壁が低いというものの、機械式は摩耗もありアフターサービスが重要であり、全国に展開するタイガーの販売・サービス網は大きな優位性を持っていた。ビジコンなどは海外に販路を求め、機械式計算器やタイプライターなども輸出産業となっていた。
*1 タイガーは36年に電動式の高速自動計算器を販売しているがほとんど普及はしなかった。64年には最後となる電動計算器E64-21など電動式も販売している。戦後しばらくの間は日本には高速回転に耐えるような鋼材の入手が困難だったことも有り、電動式はMonroe(ニュージャージ州)、Merchant(Oakland)、Friden(San Leandro)などの米国製やイタリアのオリベッティなどが輸入品に席巻される。とはいえ、電動式は手動に比し効率がかなり高かったが、価格が高いこともありそれほどは普及しなかったようだが。電動式は数字キーが並んでいて、例えば掛け算の場合、掛け合わせる2つの数値を数字キーでセッ トし、掛け算の命令キーボタンを押すと歯車が自動的に回転し10秒から20秒程度で計算結果が求められる仕組みになっている。価格は50万円程度、重量は30㎏と言ったところで、騒音・振動および計算時間が長くかかることを除けば、初期のリレー式などの電卓に近いものだった。
尚、1946年11月12日に、東京宝塚劇場で機械式電動計算機を使う米陸軍兵士Thomas Woodと、ソロバンを使う日本逓信院職員松崎喜義が公開試合を行った。四則演算および複合問題の計5問で争われ、結果は4勝1敗でソロバンが勝利した。機械式計算器は電動式でさえ、それほど効率は良くは無かったようで、日本ではパソコンの表計算ソフトが一般化する頃まで、電卓に押されるものの、そろばんは使い続けられる。尚、79年にシャープからソロバン付き電卓ELSI MATE EL-8048ソロカルが発売されている。
*2 50年代から60年代半ばにかけて、機械式手動計算器メーカーとしてはタイガーなど5社の他に、主なメーカーとしてキーパー計算器、ニッポーなどがある。また、機械式電動加算器(コンプトメーター)の主なメーカーとしては、東芝、栄光マイクロマシン(ユニトレックス、61年参入)、リコー、Frontier、ブラザー、シチズン、カシオなどがある。
*3 ビジコン(富士星計算機製作所)は小島和三郎によって設立された。小島和三郎は18年に満州奉天に昌和洋行(小島コンツルン)を設立、満州を拠点に中国各地に事業を展開していたが終戦で在外資産の全てを失う。例えば、中国の三大自転車メーカーに天津の「飛鵠自転車」、上海の「永久自転車」、同じく上海の「鳳凰自転車」があるが、これらはいずれも昌和洋行が設立した会社である。日本の拠点は日本計算機の他に、オートバイ生産の昌和製作所がある。昌和製作所は軽自動車開発(昌和ミニカ)に乗り出すも経営悪化により60年にヤマハ発動機に吸収されている。尚、ビジコンにおいて次々に新機軸を打ち出したのは、小島和三郎の息子の義雄。
電卓の誕生
19世紀末に電動モータを使った電動式計算器が誕生している。これは歯車を回転する方式であった。この方式の最期をかざったものに、64年に発売された東芝テックの機械式電動加算器トステック・シリーズがあるが、これは日本で大ヒットし米国にもかなり輸出されている。
一方、57年6月にカシオ*1によりモータや歯車類を一切使わない、約340個のリレーを使った机と一体になったタイプのリレー式計算機カシオ14-Aが開発され発売される。価格は機械式電動計算器とほぼ同価格の485千円だった。この計算器ばリレーの開閉によるもので回路的には2進のデジタル回路であるが、開閉動作を伴う点では機械的である。現在の電卓と同じような配列のten-keyを持ち,表示部分も1つにしていた。機械式電動計算器はそれぞれの桁数に対応して10個づつのキーがあり、また入力表示2つと結果表示1つの計3つの表示部があるのに比べかなり簡素化され現在の電卓の原型といえそうである。
これに対し、61年10月にイギリスのSumlock Comptometer(Bell Punch Company*2の一部門)より小型真空管式(MT管)を使ったAnita Mark ⅦとMark Ⅷが公開され62年1月に発売されている。これが最初の電子式卓上計算機と云わる。Anita Mark Ⅶは消費電力も100kWと大きく重量は14㎏、価格は355英ポンドだった。
また、日本では大井電気*3から63年パラメトロン*3を使った卓上計算機アフレゼロ101を開発し(64年3月に開かれた第16回神奈川県発明展覧会で公開)、64年4月から販売している。ビジネス的には失敗だったようで、累計1,000台弱を売ったのみで電卓市場から撤退している。
*1 カシオは46年に機械加工業の樫尾製作所として樫尾4兄弟(忠雄、俊雄、和雄、幸雄)の長兄忠雄により東京都三鷹に設立された。次兄の俊雄は逓信省東京逓信局(現:NTT)に技術者として勤めていたが、退職し兄忠雄の設立した樫尾製作所に46年に加わる。指輪パイプのヒットで得た資金を基に50年頃より計算器の開発に着手し完成させる。
*2 Bell Punch Companyは1878年に設立された、鉄道やバス、劇場などのチケットをパンチする器具やタクシーメータなど、主に交通に関係した事業の会社。1940年頃より電動式のキー操作の加算器であるコンプトメータ事業に参入、コンプトメータのトレーニング学校なども運営。
電卓事業としては、66年に分社しSumlock Anita Electronicsを設立、71年ごろがピーク。72年にはポケットタイプを投入している。73年にRockwellに売却され76年には電卓事業から撤退している。
*3 大井電気は東洋通信機(旧東洋無線電信電話、住友系、通信部門は2005年に日電に吸収されている)を退職した石田實の世田谷の自宅6畳間で49年に同僚であった4人とともに創業されている。同年に五反田に事業所を設け搬送装置を製造し、警視庁に納入、翌50年大井電気を設立。大井電気は1957年3月に完成した日本初のパラメトロン計算機MUSASINO-1号の制作に協力している。パラメトロン製造(TDKが作成したフェライトコアを日本電子測器が選別、そのコアを使って)、およびプリント版への実装は大井電気が行っている。
通信機器メーカーは戦時中、軍事物資の生産がほとんどを占めており(例えば通信関連の専業だった富士通信機製造の場合、大戦末期には95%が軍需を占めていた)、戦後数年は、通信機メーカーは民需への転換が進まず人員削減、それに伴う労働争議に数年間を費やするが、その間に多くの従業員が去ることになる。大井電気の創業者たちもそうした中で退社して行った技術者であった。通信機メーカーが立ち直るのは52年8月に電電公社が設立され通信インフラ整備が始まる頃から。電話加入者数は回復し戦前のピーク時108万台を52年には140万台と超えるものの、回線は逼迫し、予約して特急(料金3倍、60年過ぎまで待ち時間によって市外電話料金の差があった)でも1~2時間待って電話できるという状況が続いていた。
*4 パラメトロンは東京大学教授であった後藤栄一が大学院生の時に開発。フェライトコアに2つにコイルを巻きコンデンサーを組み合わせた素子。富士通のだパラメトロン式コンプータを開発したメーカーはTDK製のフェライトコアをを使ってパラメトロン製作を内作していた。50年代後半から60年代初にかけ、富士通や日立、日電等が販売したコンピュータはパラメトロンが使われていたものが主流であった。当時はTRに比べ消費電力が大きいなどデメリットがあるものの価格が安く信頼性も高く且つ長寿命であった。TRの信頼性向上や価格低下によって60年代半ばにはパラメトロンは廃れていく。但し、近年量子コンピュータなどで見直気運がある。
TR/IC式電卓
カシオに続き、シャープは62年に伝票発行機能を持つリレー式計算機CTS‐1(オフィスコンピュータ)を発売している。これがシャープにとっての初のデジタル機器となるが、その開発に携わった浅田篤(後シャープ副社長→任天堂会長)など若手技術者20人のチームを編成し60年9月より計算機の開発がすすめられていた。このチームが電卓開発に携わることになる。
64年3月18日にシャープ(CS-10A:フルキ―タイプ、翌年テンキータイプのS-20A)とソニー(Sobax MD-5試作機)が電卓を同時発表する。これに続き、5月にはキャノン*1(Canola)が続く。シャープは6月に他社に先駆け販売を開始する。そして翌年にはカシオ、ビジコン*2、東京エレクトロン、シチズン、ゼネラルなど続々と参入していく*2。ただし、大して売れてはいなかった様で、65年の生産数量でも4千台に過ぎない。
シャープCS-10AはGe-TRを530個、Ge-Diを2,300個、その他部品を2,900個使い消費電力90W、大きさは42cm×44cm×25cm、重量25㎏、四則演算の12ケタ表示で価格は535千円と当時の自家用車並みの価格であった。シャープはCS-10Aを皮切りに電卓業界をリードしていく。
CS-10A に続き、66年にはBIP-IC電卓コンペット CS-31Aが発売され、それには三菱製*3の汎用TTL28個(およびTR533個、Di1,549個)が使用され価格は35万円だった。翌67年には日立・日電のSSI/MSIレベルの56個のMOS-ICを搭載しフルIC化したCS-16A(価格23万円)を売り出すと、他社も一斉に追随する。その後、MOS-ICの調達は日本企業より進んでいた米国企業に依存するようになる。67年頃に米半導体産業は最初の不況に見舞われたこともあり、日本の電卓メーカーのアプローチに積極的に応じている。次々に米国で開発される標準(汎用)Logic‐IC(SSI/MSI)をいち早く電卓に搭載することが競争に生き残るための必須の条件となり、更にはカスタムLSI化が始まるが、電卓メーカーは技術者を米国メーカーに常駐させることになる。こうした中でシャープは69年にはプログラム論理方式を採用したRockwell製の4個のカスタムMOS-LSIを搭載(他に2個の標準SSI/MSIを搭載)した8桁電卓マイクロコンペットQT-8Dを99,800円で発売する。そして他社も一斉に追随する。
真空管式電卓の誕生から、パラメトロン、TR、標準BIP-IC、標準MOS-IC、そしてカスタムMOS-LSIへと電卓は10年ほどの間に一挙に進化を遂げることになる。そして更にはIntelとビジコンによる汎用MOS-LSIと言うべきマイクロプロセッサーの開発へと繋がっていく。
電卓用はMOS-IC、コンピュータ関連はBIP-Digital-IC、テレビ・ラジオ用はBIP-Analog-ICが主な用途である。電卓用ICは米国からの輸入が中心だったが、72年頃より急速に国産品に替わっていく。またシャープはRockwellと技術提携し70年には奈良県天理市に75億円かけLSI量産工場と研究施設を建設する。
コンピュータ関連の標準BIP Digital ICはTIが低価格で日本市場を席捲しており、日系のコンピュータメーカーは内製を中心に不足分をTIなど米系企業からの調達で補っていた。テレビ・ラジオ関係もない製品の比率が高かったため、日本のCメーカーの外販においては、シャープが内製化したとはいえ電卓用MOS-LSIの比率が高かった。72年8月にカシオミニ*5(6桁)が12,800円で発売されたのを契機として電卓の価格競争は激しさを増すとともに、電卓は個人ユースが主力となっていく。70年に生産数1,423千台(内輸出730千台)だったものが75年には30,040千台(輸出25,727千台)と急拡大し、それに伴い電卓用MOS-LSI価格も下落が進む。
*1 キャノンは64年5月に東京晴海で開催された第28回ビジネスショーに出品している。尚、この時に大井電気、シャープ、ソニーの計4社が電卓を出品している。尚、このビジネスショーでカシオはリレー式計算機Casio 81を発表している(発売に至らず)。これによりカシオはTR採用に切り替え、1965年10月に最初のTR電卓 Casio 001発売に至る。
尚、IBMがSystem 360を発表したのが、64年4月である。世界は本格的なコンピュータ時代に入りかけていた。
*2 70年頃には電卓メーカーが数十社あったと言われる。主な企業を列記しておくと:―
家電系:シャープ、東芝、日立、三洋、ソニー、ゼネラル、松下、
光学系:キャノン、ミノルタ、チノン、ヤシカ、
計算機計:カシオ、ビジコン、タイガー、太陽ビジネスマシン、
金銭登録機系:日本金銭機械、キング工業、
音響系:日本コロンビア、ビクター、
時計系:服部セイコー、シチズン
事務機系:リコー、コクヨ、三和プレシーザ、信和デジタル、
通信系:大井電気、日本通信工業、
精密機械:オムロン、ブラザー、シルバー精工、
商社系:内田洋行、東京エレクトロン、東邦通商、不二商、
その他:栄光、シグマ、クラウンラジオ、東興化学工業、システック、無電テレビ工業、タマヤ計測システム、SATEK、日満電気、東京電子応用研究所、星電器製造、
外資系:横河ヒューレットパッカード、日本オリベッティ
*3 ビジコンは機械式手動計算器メーカーであり、またAnita MarkⅧの輸入を手がている。65年5月にビジコン160を発売したが、価格が55万円と高く不調に終わる。翌66年7月に磁気コアメモリを採用したビジコン161を発売。298,000円という当時の電卓としては低価格かつ高性能(桁数は16ケタと多く、磁気コア搭載によるメモリー機能、平方根計算機能などもあり当時としては最高性能、IME84とほぼ同仕様)を有し、また発表時には比較広告を日本経済新聞で展開、一気にメジャーの一角に食い込むが、部材調達難により伸び悩む。イタリアのMontecatini Edison(IMEの親会社)から技術導入し、64年(発表は3月のミラノでの見本市)に発売されたIME84(価格1,700ドル)をベースにして開発されたものと思われるが、IME84はコアメモリを搭載しているせいか、424個のTR、1,074個のDiと部品点数が同性能の他機種に比べ部品点数が4割ほど少ない。ビジコン161(詳細データ不明)は大幅なコスト削減できていたと思われる。尚、ビジコンはNCRやMontecatini EdisonなどにOEM供給するなど海外企業からの開発・生産受託が多かったが、そのためハード開発工数が膨れ上がり、その対策として、ハード依存性の無いマイクロコンピューター方式の採用を進めることになる。
尚、他社もOEM生産を手掛けており、北米を見ると、NCRのビジコンの他、Commodoreのリコー、Fridenの日立、Burroughsのシャープ、Monroeのキャノン、Remington Randのカシオ、SCMの東芝など。米電卓メーカーは日系企業やEMSの先駆けの米Bawmar社などへ委託していたものが多い。
尚、59年設立のIME( Industria Macchine Elettroniche) S.p.A. がIME84を開発した。尚、IMEは60年代前半に主力事業の電力を国有化され新規事業を模索していたMontecatini Edisonに買収されている。
*4 68年にTIと日本の半導体企業はライセンス契約を締結する68年までは、日本メーカー製のICを搭載した場合、輸出、特に対米輸出はTI特許の関係でできなかったものと思われる。
*5 カシオミニは大ヒットし、発売後10ヶ月で販売台数が100万台を突破、翌73年末には販売台数は200万台に達した。最終的にはシリーズ全体で1,000万台に達する。以後、カシオが電卓業界をリードし、2006年に電卓の累積売上が10億台を突破、17年には15億台を突破している。
カシオは機械系の機器のエレクトロニクス化による代替を進め、且つ普及価格にすることを開発のポイントにしており、電卓に始まり、デジタルウォッチ(74年)、金銭登録機(76年)、ファクシミリ(77年)、パソコン(78年)、電子楽器(80年)、電子辞書(81年)、液晶TV(83年)、液晶シャッター式ページプリンター(85年)、電子カメラ(87年)と次々に開発し、且つ激しい価格競争をリードする。
低価格Ge-TRと日本の優位性
カシオのリレー式計算機はコンピュータの代用物として大学などの研究機関や大企業など十分にに販売されている。コンピュータが導入される前は、米Monroe社*1などの機械式電動計算機やカシオの計算機がこうした機関に導入されていた。米国の大学や研究機関などは既に60年頃にはIBM1400シリーズなどの導入が進んでおり既にコンピュータ時代に入っており、また機械式電動計算機も普及していた。日本は未だソロバンを超えた計算需要を満たすためのこうした機械式電動計算機の普及さえ十分には進んでおらず、普及の余地が十分にあった。
電卓の製品化を推進したもう一つの要因として、TRラジオの成功による量産効果により原価低減を果たしたGe-TRやGe-Diを始め小型電子部品の存在があった。Ge-TRの価格は欧米に比し半額以下であり、コンパクトで安い電卓を可能にした。そして、電卓は価格低下と共に、また日本の高度経済成長とともに、研究部門などから一般企業へ、更には個人へと需要が拡大していき、同時に国際競争力をもった製品として、TRラジオに続き世界市場を席巻する。
*1 Monroeは1912年に設立。 Pinwheel式で且つ世界初のボタン操作の計算機を開発している。日本では丸善が18年より輸入を行っている。50年代末、日本製の手動式計算機が3万円台だったのに対し、Monroeの電動式計算機は40万円程度だった。71年まで機械式計算機の製造を続けた。
電卓と日本のMOS ICの立ち上がり
シャープは最初電卓のLSI化を日本メーカーに打診したが断られたと云われる。そのためRockwellと68年から共同開発を進めている。集積度の高さによる躊躇も有ったのだろうが、もう一つの問題としてTI特許の問題があった。日本で販売される場合には問題はないとしても、ICの対米輸出だけではなく日本製ICを組み込んだ機器の輸出もできないという状況にあった。ましてICのかたまりの様な電卓をそれもアメリカに輸出することはトラブルが生じ、これも日本のICメーカーが躊躇する要因だったのだろう。68年にはTIの日本への直接進出をソニーとの合弁の形で認め、TIが特許を公開しこの問題は解決する。
日本のICの市場規模(国内需要)は70年代初期には2億ドルに達する。当時の米国市場規模がIBMやWE等内製分を除いて10憶ドル程度と言われている。日本の市場規模は実質米国の6分の1から7分の1程度に達することになる。しかも、将来性を期待されるMOS-ICのみならば、電卓市場に牽引された日本市場(需要200億円)は米国(生産は1億ドルあったが日本への輸出割合が高かった)とほぼ同じ規模かないしは日本がまさっていた。
MOS-LSIは日本の電卓メーカーが最大ユーザーであり、米国企業のMOSプロセスの立ち上がりに大きく寄与することになる*1。但し70年代に入ると、日系半導体メーカーも力を付けて来ており、71年の不況の頃から積極的にそれもかなりの低価格で応じるようになってくる。また71年頃に米国製の電卓用MOS-LSIの不良が続出する。MOS-LSIの集積度の向上により静電気に弱くなっていたのが原因だが、そうしたこともあり日系メーカー製に切り替わっていくとともに、輸出に牽引され電卓生産は急増する。70年に73万台だった輸出は76年には3,519万台と約50倍に増える。電卓用MOS-LSIは量が膨大であるがそれ以上に価格は極めて厳しかった。電卓の価格競争も激しかったが、それ以上に電卓用MOOS-LSIの競争は激しかった。この過程で日系の半導体企業は強力なコスト競争力やMOS-LSIの量産技術を確立していく。
この電卓用MOS-LSIにより培われた競争力はその応用製品にも競争力をもたらすことになる。デジタル時計用、オーディオ用、多種の通信機器関係*2、TV関連やVTRなど、ほんの数年前には応用製品が見いだせなかったものが、集積度の向上に伴う実質級数的な価格低減により、様々な製品への応用が日本主導で進んでいき、それら応用製品とともの日本のIC産業も高い競争力を確立していく。
70年末なるとVTR等でも日本メーカーが世界を席巻するが、電卓用と同様にVTR用ICは半導体企業にとって量に関しては大きな魅力があるものの、大手家電メーカーはICメーカーでもあり、外部発注の際には厳しい価格要求や仕様であった。VTRではソニーのベータとビクターのVHSの競争が良くしられているが、如何に機能を折り込み且つ軽量化させ、価格も引き下げるかがポイントであり、それらを同時に実現する手段がLSI化であった。そのためAV製品のデジタル化の進展に伴い松下電子、東京三洋、シャープなどの家電系メーカーも内製主体だがデジタル系のLSIメーカーとして登場してくる。松下電子は松下が60年代半ばにはコンピュータから撤退したものの世界のトップを切って16bit MPUを製品化するなどMOSデジタルLSIにも積極的に取り組んでいたし、DRAMの準大手でもあった。
*1 日本はMOSではかなり遅れていたいたものと思われるが、キャッチアップするのは早かった様である。Intelが70年10月にSi-Gateの3TR型のPMOS-1kbit-DRAM i8103を発表(HPが開発したRAM技術を使いHPの協力で開発された。それに先立ち70年2月のInternational Solid-State Circuits onferenceでi1102を発表している)すると、日本のコンピュータ系半導体メーカーはサンプルを入手しリヴァースエンジニアリングで開発を進めるが、富士通の場合、72年初には完了する(MB8103)。Intelは東京エレクトロン経由で富士通のMB8103を入手し評価しているが、完成度はかなり高かった様でIntelがさんざん苦労を重ねて解決した問題点がクリアされておりIntelの最終版と比べ遜色はなかった。Intelは歩留まりが上がらず5回のマスク改版を経て量産というレベルに達するのは71年の秋頃であるから、大した遅れではないかも知れない。但し、富士通は大型コンピュータ―の要求仕様を満たす為に更にMB8103の改良を重ねることになり、結局はより性能に優れるNチャネル型の開発に進み、当時世界最高速を達成したMB8201を完成させAmdahl470/V6などに搭載されることになる。
また、東京エレクトロンは72年に同一のSi-gate P型MOS-LSI(12桁プリンター出力付き電卓用カスタムLSI)をIntelと富士通の2社へ発注しているが、ほぼ同時期に完成しており、ほとんど甲乙を付けられないレベルであった。
富士通は電電公社のDIPS-11/30、Amdahl470/V6、自社のMシリーズのプロジェクトが進行しており、ハード性能でIBMを超えることを目標とし、そのためのLSI開発に全力で取り組む。75年のAmdahl470/V6の成功、および信頼度の高さにより富士通のLSI技術の高さが実証され、世界の多くのコンピュータメーカーなどからMOS Memoryの引き合いを受けることになる。これに日電・日立等も続く。本格的な輸出が始まるのは16k-DRAMの量産が始まる77年春ごろからである。そして早くも77年末には日本の半導体輸出攻勢に対する米半導体業界との摩擦が生じる。そして、79年5月にはDRAMのパイオニアであるIntelはDRAMからの撤退に追い込まれる。
*2 例えば、無線機器などに使われるPLLシンセサイザーなど原理的には古くからあったものの、TRなどで構成すると回路規模が大きくなり過ぎて高性能であっても、多数の水晶を使うクリスタル・シンセサイザーの相手となるものでは無く実用化されなかったものが、MOS-LSIにより実現することになる。ユニデンやアイコムなどがPLL搭載のトランシーバーなどの対米輸出により成長の足掛かりを得ている。
*3 ソニーのベータは技術的には優れていたものであったのだろうが、そのため部品点数は多く重量も重かった。
ソニーは75年4月(発売5月)にSL-6300(1時間録画、重量18.5kg、価格229,800円)、SL-7800(1時間録画、重量20.5kg、価格298,000円)を出す。一方、1年4か月遅れでビクターが76年9月(発売10月)にHR-3300(2時間録画、重量13.5kg、価格256,000円)を出が:―
録画時間の長さ(βのテープ長150m、VHS248m)は単に長時間録画ができるというのみではなく、当時数千円と高価だったカセットテープの費用を考慮するならランニングコストに大きな優位性を持つものだった。また、重量が13.5㎏というのは購入者が持ち帰り可能な重量であり、小売店の配送・設置の負担を軽減するものであり、部品点数の少なさは修理などアフターサービスの負担を軽減するものでもあり、また製造的にも心臓部と言うべきヘッドブロック製作は厄介としても他は製造的に容易な構造であった。いわゆる消費者、販売店、そして世間ならぬメーカーの三方良しの製品であった。
加えて、ビクターは製品の開発は完了しても発表は急がずファミリー作りに注力し、松下・シャープ・日立・三菱などを陣営に加えることに成功する。また発売後は、77年12月のドイツのSABAを皮切りに、翌78年にはフランスのThomson、イギリスのThorn ENI、ドイツのTelefunkenなどにOEM供給の契約を結ぶなど欧州を取り込んでしまうなど迅速な対応をおこない、米国でも少しマイナーだがMagnavox(カラーTVでRCA、、Zenithに次ぐ3位)Sylvania(8位)などとOEM契約を結び、VHSの優位性を決定づけている。
振り返ってみると、ソニーのSL-6300やビクターのHR-3300の発売はエポックメーキングとも言えそうだが、実のところ当初は特には注目されるほどの事でも無かったかもしれない。1975年のソニーのベータの生産は2万台であり、ソニーは米国市場重視で展開してきており、輸出も多かったようで、国内では1万台にも満たなかった様である。ソニーは65年に世界初と言える家庭用VTRであるオープンリール方式のCV‐2000(198,000円)を発売している、そして71年にはカセット方式のVP-1100を主に米国市場をターゲットに発売しているが、単にその延長に過ぎなかったのこも知れない。東芝(67年GV101C)や松下(68年NV-2300)、ビクター(70年KV-340)も後を追って家庭用VTRに参入しているが、ほとんどが不発に終わっている。
それらとの違いと言えば、カラーであること、Video cameraがオプションとしてありVTR(録画に使う)に繋いで撮影ができたこと、記録密度の向上もありVideo tapeの価格が半額以下になったこと、LSIの採用により録画予約、裏番組録画などコマーシャルカットなど高機能化が一挙に進んだことが挙げられる。加えて、アメリカでは既に77年末からレンタルビデオ店が開業しているが、日本でも82年頃から映像ソフトの販売も本格化し(映像ソフト売上数:81年476千巻、82年1,010千巻、83年1,948千巻、84年3,089千巻)、83年ごろからは既に2,000店ほどに成長していたレンタルレコード店などがビデオも扱いはじめ、映像ソフトの流通もVTRの普及を促進するようになる。
輸出が急増するが、対米摩擦は生じなかった。米国には既にVTRに参入するほどの余力を持つ企業は無かった。長年に渡って米家電業界をリードしてきたRCAは86年にGEに吸収され、翌年には家電部門は仏Thomsonに売却される。カラーTVの主力工場であるインディアナ州のBloomingtonは縮小しながらもカラーTVの生産を続けたものの98年には生産を打ち切っている。
一方、欧州ではPhilipsなどがVTRの新規格を作り参入し、貿易摩擦が生じるが、ほとんどシェアを採るに至らず撤退する。日本メーカーは完成品の関税が高いこともあって現地に直接進出する。
欧米の電卓メーカー
電卓の開発は欧州で進んでいた、61年のイギリスのSumlockのAnitaに続き、Philipsが翌62年に3機種でラインアップされたTR式計算機(コアメモリー搭載)の試作機を雑誌“Der Büromaschinen Mechaniker(Office machine mechanic)”の62年3月号において掲載しているが、それは発売を予告するものではなく、且つ発売されることはなかった。機械式計算機はコンピュータ化の進展により既に衰退が始まっており、それを高価格の電子式で代替するというのは事業性が乏しいと判断されたようである。続いて63年にはイタリアのIMEがTR式でコアメモリ内蔵のIME84を開発(販売は64年末)している。IME84は40数か国に輸出されており、黎明期の電卓市場をリードしている。尚、OlivettiはProgramma101を64年のニューヨーク万博に出品し翌65年から販売しているが(60年にFagginが試作機を作成)、これは科学技術計算用電卓とも言え、この系統は68年のHPのHP9100A*1に引き継がれる。
米国では、タイプライターや機械式計算機メーカーであるFriden(65年にSingerに買収される)がIMEやシャープとほぼ同じ時期に電卓を開発し、64年末にEC-130(価格2,200ドル)の販売を始めている。欧米でも、多くの企業が電卓に参入するが、TR電卓でも参入は少なく、若干遅れて60年代末のMOS-LSI化してから参入が本格化している。且つ自社生産ではなく日系企業や米Bowmar(51年設立の航空宇宙用などの精密歯車製造の会社)などEMS企業への委託生産が多かった。Bowmarは主に米国での生産だが、MOS-LSI化によって部品点数が激減したことや71年8月のドルショック以降のドル安もあって米国での製造のコスト的デメリットが軽減したようで70年代初期に製造請負で急成長している。電卓は当たり外れが大きく、また製品モデルのサイクルが短かったこともあり自社生産する会社は少なくBowmarなどへ委託生産*2する会社がほとんどだった。米国では電卓メーカーとして初期的には機械式計算機やタイプライターなどのメーカーが目立ったが、日系メーカーに押されそれらは撤退していくが、替わってTI*3、Rockwell、National Semiconductorなどの半導体メーカーやハイエンドの科学技術計算用電卓のHPが米国市場で目立つようになる。ベンチャー企業も多く有ったのだろうがあまりプレゼンスは無かった。
Intelは71年7月にデジタルウォッチのMicroma社*4を買収し、また72年末には電卓も試作しているが発売には至らなかった。デジタルウォッチもセイコー*5(73年10月LCD表示のクオーツLC V.F.A、135,000 .円)、シチズン(74年4月LCD表示クオーツリキッドクリスタル、98,000円)、カシオ(74年11月LCD表示カシオトロン、58,000円*6)等の日本勢の参入で価格低下が激しく小売価格ベースでは70年代初期には150ドルだったのが末期には30ドル程度(安値では10ドル)に低下し、Intelは78年にはMicroma社を売却し撤退する。同様にNSも73年には電卓やデジタルウォッチに参入し、75年にはゲーム機器、更に78年には日立からOEM供給を受けIBM370互換機も手掛けている。IntelやNSなどの半導体メーカーは70年代には多角化に積極的であった。それが成長のため、生き残りのために必須であると考えられていた。後にパソコンメーカーとして活躍する企業のなかには、電卓と関りを持っていた企業も多い。世界最初のパソコンと云われるAltairのMITS社は電卓の組立キットを手掛けていた。また、初期の代表的なパソコンメーカー*7であるCommodreは大手の電卓メーカーであったし、Tandy(Radio Shack)も70年代初期よりEC-250など電卓を手掛けている。AppleのSteve Wozniak*8はHPで電卓開発に従事していたし、TI*9、HP、NSなどもパソコンに参入するが、電卓の延長上にパソコンがあったと言えそうである。*1 HPのHP9100AはOlivettiのProgramma101との類似性があまりにも高く、Olivetti からクレームがついたのかHPはOlivettiに対し90万ドルをライセンス料として支払うことになる。
*2 日本企業の場合も所要変動により同様の問題を抱えていたが、下請けへの委託が大きな割合を占めており需給変動を下請けへの発注量の増減によって調整していた。電卓の組み立てはほとんど手作業であり、下請けで柔軟に対応できた。尚、自動化が進むのは2010年代に入ってから。
尚、海外工場展開は、カシオの場合、78年台湾、79年香港、87年韓国、88年米・メキシコ、90年マレーシア、95年中国と続く。各社の海外進出により、国内生産は85年の86,032千台をピークに減少に転じ、95年には5,565千台、2002年には683千台にまで減少。一方、(逆)輸入は、86年には11,698千台と10百万台を超え、94年には国内生産20,171千台に対し輸入30,143千台と生産を超える。
*3 TIは67年にKilbyが携帯型電卓(Electronic hand-held calculator)を開発し特許を取得している。キャノンに技術供与しキャノンから70年10月に世界初のMOS型の3個のLSIからなる電卓用チップセットを搭載した充電池内蔵の携帯型電卓ポケトロニクが発売される。当初、TIは電卓用LSIの販売には熱心に取り組んでいたが電卓の販売には消極的だったが、72年の中頃にTI 2500 Datamathを発売し参入する(メインの機能は1チップ化されている)。一時は米国でトップシェアを取るまでになる。現在もハイエンドからローエンドまで広範な電卓を販売している。
尚、TIは76年にはデジタルウォッチにも参入している。価格は20ドルだった。
*4 Micromaは74年にCMOSのインテルi5810を使って1チップのデジタルウォッチを開発している。
*5 セイコーがクオーツ時計で世界をリードする。
1927年に最初のクオーツ時計がベル研究所のWarren Marrisonらによって作成されたが真空管を使用していたためタンス並のサイズだった。セイコーはTR化や温度補正技術の開発により、公式時計担当となった東京オリンピックでは壁掛けサイズまでの小型化に成功する。そして、69年にはIC化し腕時計アストロン(45万円)を発売。70年代には特許を公開し、これによってクオーツとる化が進み、且つ急激な価格低下により米国の機械式時計メーカーのほとんどが破綻したと云われ、スイスの時計業界も大きな打撃を受ける。
尚、クオーツLC V.F.A、に搭載されたICはIntersillに委託され、その共同創業者である John HallとJean Hoerniによって低消費電力のCMOS技術を使って開発されたと云われる。
尚、電子式(電機駆動式)の方式としては、1957年、米Hamilton(1892年ペンシルバニアで創業)による「テンプ駆動式電池腕時計Ventura」、1960年に米BULOVA(1875年ニューヨーク市で創業)が開発した音叉時計「ACCUTRON」などもあり、60年代後半には電子式の置き時計や電子式時計付きTRラジオなどが普及している。例えば、ソニーは69年に電子式時計付のTRラジオ Digimatic 8FC-59Wを発売している(尚、ソニーはセイコー製の機械式時計付きのTRラジオは60年に発売)。また、Hamiltonは72年(発表は70年)にLED表示の電子腕時計Pulsar(2,100ドル、販売数400個)を販売している。
*6 カシオトロンの価格は翌75年には29,000円、78年には10,000円を割り、80年には3,900円。販売数は75年には150万個、80年には1,500万個に達し電卓と共にデジタルウォッチでもトップシェアを獲得する。
*7 75年のAltairに続き、多くの企業がPC(microcomputer/home computer)に参入する。76年頃におけるシェアをみるとMITISのシェアが25%程度、MSAIが15~20 %(IMSAI 8080、i8080ベース), Processor Technologyが10% 弱 (SOL-20, i8080ベース、$1,495)、SWTPCも10%弱(SWTPⅭ 6800、MC6800ベース、$395)の4社が6割程度のシェアを占めていたようだ。ただ、形態も価格も様々であり同じ製品とは言えるのかは別にしてだが。その他に目立つ企業としては、Cromemco,(Cromemco Z-2、Z80ベース、$1,299)、NASCOM (NASCOM-1、キット、Z80ベース,$300)、そしてAppleもApple Ⅰ(MCS6502ベース、$666.66)を175台販売している。恐らく数十社がMITISに続いたようである。
そして、翌77年になると、6月にAppleⅡ(MCS6502ベース、$1,298)、8月にTandyのTRS-80(Z80ベース、$600)、10月にCommodoreのPET2001(MCS6502ベース、$795)が発売され一挙に市場が開花することになる。特にTandyは子会社のRadio Shack 3,000店で販売し、ホビースト向けだったパソコン(Home computer)を一挙に大衆向けの製品に変貌させることに成功する。モニター、データレコーダー付きで600ドルの安さに加え、直にフロッピーデスクやHDDなども販売され、またゲームソフトからビジネス用の表計算ソフトなどアプリケーションが充実されて行き、家庭からビジネス用途にまで市場を広げていく。
*8 HPは72年にハンディタイプの科学計算用電卓HP-35を発売、また同年分散処理型のミニコンHP-3000を発売しともにプレゼンスを確立する。そうしたHPに対して、Wozniakは75年頃にパソコンの事業化提案をするが、5回提案して5回拒絶されてしまう。Apple Ⅰの設計図はその際に提出されていたと云われる。そのため、WozniakはSteve Jobsの誘いに乗りAppleが設立されることになる。WozniakはHP製の電卓を手放し、Jobsは車を手放しての起業であった。
HPは80年代にも電卓事業を積極的に進めていく。80年にはHP-80シリーズを発売する。そのシリーズの上位機種HP-85の価格は3,250ドルとパソコン以上の価格であり、モニター、プリンター、磁気テープ式記憶装置、キーボードが一体化したもので、アセンブリーやBASICでプログラミングできる科学技術計算用の高機能電卓であった。HPがパソコンに参入するのは83年になってからである。
*9 TIは79年6月にパソコンに参入し83年9月に撤退している。この時もTI哲学を実践し、低価格こそが勝ち残るための最も有効な手段とし積極策に出たものの、結局はパソコン売上4億ドルに対し、5億ドル以上の損失を被ったと云われる。TIと入れ替わるように、TIからスピンアウトしたJoseph Canion、James Harris、William Murtoの3人によってCompaqが設立され、83年3月にIBM PC互換機Compaq Portableが発売される。
液晶・太陽電池と電卓
液晶は1888年にオーストリアの植物学者Freidrich ReinitzerとドイツのOtto Lehmannの協力によって発見される(物性としての液晶が知られることになる。液晶自体はそれ以前に発見されていた)。そして、1962年にRCAのRichard Williamsが液晶の電気光学特性を発見し、68年にはRCAのGeorge Heilmeierらが表示装置の試作に成功する。これはテレビのブラウン管の代替を狙ったものだった。しかし当時の技術ではテレビ用の大画面を作るには歩留まりが低すぎてコスト的に見合わず、また輝度や表示速度、更には視野角、寿命などの面でもテレビ用としては耐えられるものではなかった。RCAは70年代初めには開発を打ち切る。
71年にスイスの化学・製薬メーカーのF.Hoffmann-La Rocheが液晶で時計用の表示パネルを開発に成功する。70年代にはスイス企業が初期の液晶産業をリードする。液晶の歩留まりは画面サイズ比例し大きく低下するが時計用はサイズが小さく十分な歩留まりを達成でき、コントラスト比などの面でも当時の水準で特には問題が無かった。
世界で最初の液晶電卓はBusicom LC-120 で1971年1月のビジネス・ショウに出品され、価格は9万円前後で8月発売予定だったが、液晶の安定性が十分でなかったことから販売されなかった*1。73年6月にシャープは液晶表示のポケット電卓EL-805*2を発売する。シャープは69年より液晶の自社開発に取り組みRCA社の開発したDSM液晶をベースに液晶剤の改良などにより長寿命化や表示性能の向上に成功すろ。
シャープは液晶の薄型・軽量・低消費電力に着目し、RCAに電卓表示部への適用を打診したが技術的に困難だとして断られている。やむなくシャープは69年より液晶の研究開発を行う。この時以来シャープが世界の液晶産業をリードすることになる。液晶が日本企業を中心に発展*3してきた原点は電卓用や時計用液晶にあり、また液晶需要が日本に集中していたことにある。
また、76年12月にシャープは太陽電池式(充電池内蔵)電卓EL-8026を発売する。価格は24,800円(電池式の約3倍)と高かったこともあり普及は進まなかった。当時、省電力化が進み1,000時間を超えるものも販売されており、電池交換不要と言うのはそれほどの優位性は無かったのかも。80年頃には価格も電池式と比べ大きな差もなくなり80年8月に売り出されたシャープのEL-826の価格は4,500円と普及価格帯となっている。尚、80年9月には三洋がアモルファスシリコン製太陽電池搭載の電卓発売し、アモルファスシリコン太陽電池の実用化に成功する。太陽電池*4、また小型電池においても電卓の果たした役割は大きかった。
液晶産業は90年代半ばよりパソコン用の大型TFT--LCDパネルの急成長により2000年には約230憶ドルに達する産業に成長する。シャープが90年代半ばには30%程度のシェアを持っていたほか、ほぼ日系企業の独壇場となるが、韓国、台湾企業の相次ぐ参入により日系企業のシェアは低下し続ける。
半導体に関しては、日本の敗退の分析が多くなされているが、的外れのようである。液晶、太陽光等、多くの製品が半導体の後を追うように敗退して行く。原因は基本的に同じと言っても過言では無いのかもしれない。共通する要因を分析すべき様である。
液晶は液晶TV時代の入り口に差し掛かり市場が飛躍的に伸びる時期に日本勢の設備投資が急速に落ち込む。韓国・台湾企業による大型TVに対応できる第五世代工場の建設ラッシュが始まった時、日本勢の第五世代建設は皆無であった。その後、シャープが一人気を吐き6世代、8世代、10世代と積極投資を行うが、結局は経営危機に陥ってしまう。
*1 ビジコンは71年に表示部にLEDを搭載した12ケタのポケット電卓LE-120Aを発売している。モステック製の1チップLSIが搭載されていた。10時間電池がもった。LEDに比べLCDは表示性能が大きく劣っていた。
*2 シャープのEL-805の消費電力は更にビジコンのポケット電卓LE-120A に比し更に電力消費が1桁少ない0.02W/Hだった。EL-805はCMOS LSIを使い更に1枚の強化ガラス板上に、CMOS LSI、液晶、キー接点など全てを一体化したCOS(Calculator -on-Substrate)技術を使うなど、徹底した省電力化・軽量化を図っていた。サイズは78mm×118mm×20mmとほぼ同じだが、重さ210gを実現した。単三乾電池一本で100時間動いた。。
尚、カシオは74年11月にデジタルウォッチ・Casiotron 04-501に液晶を搭載するが、使われた液晶はスイスBrown Boveri製。カシオは74年から液晶の研究開発に着手、自社製液晶を最初に搭載したのは78年9月発売のデジタルウォッチ Casiotron 31-CS10Bより。
*3 東芝も液晶への取り組みは早く、開発・製品化においてもほぼシャープと足並みを揃えていた。
*4 太陽電池においては米国が独走していた。太陽電池の歴史は1839年にまで遡ることができるが、実用化に耐えることがなるのは、1954年にBell研によって変換効率4%の太陽電池が開発されたときから始まる。56年にはGEが太陽電池駆動のTRラジオを試作している。翌57年にはニュージャージ州のAcopian technology(現Acopian Power Supply)が太陽電池駆動のTRラジオを発売しているがTR1個/Di1個/可変抵抗器1個、その他に抵抗等などで構成され7.5cm×5cm×1.7cmという超小型で且つ$12.95という安さであったが性能的に劣り普及は限定的であったようだ。無電源する駆動の鉱石ラジオの鉱石をTR/Diと太陽電池によって置き換えたものである。TRも太陽電池も軍用等の派生品を低価格で入手したものと思われる。キットとして主に売られたものと思われる。
58年には米海軍が人工衛星ヴァンガード1に太陽電池は搭載されているが、太陽電池は衛星搭載用を主に初期的には開発が進められる。
太陽光発電としては、Alcoが1982年には早くもカリフォルニア州のHisperiazoに1MWの太陽光発電所(メガソーラ)を完成させ、84年には同じくカリフォルニア州のCarrizo Plainに5.2MWの完成させている。日本でメガソーラが建設されるのは、それらに遅れ30年後の2014年に双日が北海道斜里郡小清水町に建設した9.1MWの小清水太陽光発電所が最初である。
米国は太陽光発電にとって優位な日照時間の長い砂漠地帯など立地に恵まれてはいたものの、電力料金が安く、且つ、太陽熱利用の発電(例えば、カリフォルニアのモハべ砂漠に84年から稼働したSEGS-Ⅰの14MWを皮切りに90年のSEGS-Ⅸまでの合計発電量は394MW)との競合もあり普及はあまり進まなかった。
一方、日本はシャープが81年に22.2KWの太陽光発電をシャープの天理社宅に設置し実証実験を行っているのが最初のようである(実験以外では83年に奈良県高市郡高取町の壷阪寺にシャープ製の35Wモジュール40枚から成る1.4KWのシステムが設置されている。これは40年近く経過した現在も稼働を続けており、且つ、当初の性能を維持している)。
日本は電力料金の高さにより太陽光にとっての劣位性が相対的に緩和され、家庭用を主に融資制度・補助金制度に後押しされ普及が進み、1993年より住宅用の販売(同年24MW設置)が始まり、2000年頃までには累積設置容量330MWに達している。99年には生産量で米国を抜きトップに立ち2005年頃までは、日本は太陽電池生産・新規設置ともに世界の約5割を占めリードする。2006 年までシャープが世界第一位の生産量(発電容量ベース)を誇り、一時はシャープの他、京セラ、松下、三菱電機を含めて、上位 5 社のうち 4 社を日本勢が占める等、日本は非常に高いシェアを有していたが、以後、太陽光発電が世界的に本格普及するとともにコスト競争力を持つ中国・台湾勢が大きくシェアを伸ばし、2009 年になるとトップ10に入る企業は2社となり日本企業のシェアは 10%、2012年には日本企業はトップ10から姿を消しシェアも6%に低下する。現在(21年)では日本の生産シェアは1%にも満たない。
欧州企業の半導体
70年代半ばには欧州における現地生産も含めた米国系メーカーの市場占有率は約7割に達していたが、MOS ICでは更に欧州企業は立ち遅れていた。MOS ICに対しては電卓やコンピュータ関連(特にDRA等)など需要面で牽引するものが少なかった。日本と同様に、エレクトロにクス関連企業の一部門であることが多い、且つ日本もそうだが真空管時代からの企業が生き残っていることも特徴と言えそうである。
欧州で代表的な半導体メーカーと言えば、Philipsであるが、今振り返ってみるなら、ある意味では世界で最も成功*1した半導体メーカーと言っても過言ではないが、70年代には売上こそトップクラス(80年にはTI、Motorolaに次ぐ3位)であったが、先端のMOS-Memory*2などにおいてはほとんどプレゼンスが無かった。寧ろ合弁の松下はDRAMにおいても準大手*3でありMOSのウェートも高かったが、MOSは松下の自主開発でありPhilipsからの技術導入ではなかった。ただ、Philipsの技術水準が低かった訳ではなさそうで、日本企業の場合、70年代末にはWEやFairchild*4への特許支払から解放されるが、それに対しPhilipsへは多額の特許料を支払わされることになる*5。Philipsは縮小露光装置(ステッパー)の開発・販売*6を行ったり、LOCOSなど微細加工技術の開発も早くから進めていたが、MOSメモリーなど先端分野においてほとんどプレゼンスはなかった。MOS-LSIでは通信関連やデジタル家電用に注力していた。
Philipsは90年代半ばにIBM*7との合弁でドイツのBoblingen(Stuttgart近郊)にSubmicron Semiconductor Technology GMBHを設立し16M-DRAMに参入するが98年には提携を解消するとともに、工場もロジックに転換してDRAMからは撤退している。
Siemensは70年代よりDRAMに参入*8しているが、ほとんどプレゼンスは無かった。目立ち出すのは93年に、当時DRAM技術をリードしていたIBMと東芝との256M-DRAMの共同開発プロジェクトに参加してからであるが、Siemensも技術的な蓄積は十分にあったと思われる。IBMとの合弁でフランスのCorbeil-Essonnes (パリ近郊)にALTIS Semiconductorを設立する。 2000年にはDRAM売上で日本勢を押さえ、Micron、Samsung、Hynixに次ぎ4位(東芝6位、IBM16位)となっている。Siemensもヨーロッパの半導体企業に多いのだが、アナログ系やパワー半導体関係で通信や重電、その他産業機器関係用途に強みを持っており、現在(2021年)においてパワー半導体においてはSiemens (Infineon)が世界トップであり、2位はST Microelectronics(SGSとThomsonが統合)であり欧州勢が健闘している。パワー半導体関連においては欧州が最大の市場である。
TRから参入した企業としては、イタリアのOlivettiが目立つ程度の様である。OlivettiはAziende Tecniche Elettroniche (ATES)を57年に設立している。またOlivettiは60年代にはFairchildとの合弁でSGS Fairchildを設立し、72年に両社は統合し、SGS-ATES Componenti Elettronici (85年にSGS- Microelettronicaと改称)となるが、ヨーロッパではPhilipsに次ぐ大手となる。66年頃にはMOSのプロセス技術はかなり確立されており、67年には製品化されていた。Federico Faggin はFairchildに派遣される前に、ここでMOSプロセスの開発や製品設計を経験しており、後のFairchildでのSi-Gate技術の開発もそれらの経験が有ったからこそであろう。Olibettiの他ではBoschやSemikronなどもTRからの参入であるが、主に産業機器や自動車関連のパワー半導体などが主である。
*1 半導体でもっとも成功と言えばIntelと一般には云われそうだが、株式の時価総額と言う観点から見るなら:―
時価総額(22/04/01)
TSMC 5,344億ドル・・・Philipsが筆頭株主として設立
ASML 2,704億ドル・・・Philipsから分社して誕生
Intel 1,967億ドル
Philipsが合弁として設立した2社の時価総額の合計はIntelの4倍にのぼる。尚、ASMLの成長はTSMCによるところが大きい。ASMLは世界の半導体投資の3割近くを占めるTSMCをキャプティブ市場として持ち、更にIntelとの取引の多い4位のSVG(ParkinÈlmerなどが統合して設立)を買収し、2000年頃にはニコンを抜きトップに立つ。TSMC、Intel、それにMicronも以前より抑えており、ニコン、キャノンなどに対し優位に立ち、且つニコンの開発した液浸方式のスキャナー(基本特許はニコン)をいち早く製品化しほとんど独占に近いシェア(95%程度)を得るに至っている。ニコンは2006年(ASMLは2005年)より販売しているが現在でも数%のシェアしか確保できていない。更には次世代のASLMが18年より出荷しているEUV(極端紫外線、装置価格は約2億ドル/台)ではニコンが開発を打ち切ったこともあり独占が確定している。
隅谷・長島理論に則すなら、半導体産業を支配するのに何も半導体を作る必要はなく、些細なものであろうが、何か一つでも、参入障壁が高く、且つ、避けることができない様な何かを独占できるならそれで十分に支配ができると言う理論のASMLはその実践者である。
尚、半導体関連企業の時価総額では、セガや任天堂、更にはソニーに育てられたNVIDIAが最大である。
NVIDIA 6,904憶ドル
*2 DRAMの競争は設備投資競争でもあった。設備の陳腐化が早く常に最新の設備を導入し且つ大量生産により累積生産を増大する必要が有った。例えば4k-DRAMから64k‐RAMにかけて、Waferの口径は3インチ、4インチ、5インチと拡大し、アライナーは密着露光から投影露光、更にはステッパーとなり、エッチングはケミカルのウェットエッチからフィジカルのドライエッチへ、拡散も拡散炉による熱拡散からイオン・インプランテーションへ、配線も真空蒸着からスパッターへ、クリーンルームのクリーン度も急速に向上し、空調等のコントロールも格段に向上する。歩留まりは20%台から量産化に入り、累積生産効果、およびプロセス改善により1年程度で60%台まで向上する。設備の自社開発力も問われた。このDRAMの競争に対応できたのは、日系企業及び日本にDRAM生産の拠点を持つTIくらいであった。こうした中、MOS MEMORYのパイオニアであるIntelは80年代半ばにはRAMから撤退、4k-DRAMで圧倒的シェアを獲得したMOSTECHは破綻する。一方、マクドナルド向けジャガイモ販売で成功を収めたアイダホのジャガイモ業者のJohn SimplotがMicronを買収し82年よりDRAMに参入しDRAM業界をリードすることになる。
*3 松下は91年4月のPalo Altoで開かれたISSCCで東芝、富士通、三菱と並んで64M-bit DRAMの発表をおこなっている。開発面ではDRAMの大手企業にひけをとらなかったようだ。尚、東芝に比べるとかなり劣っていたが、富士通・三菱とは同レベルであった。
*4 Fairchild特許は日電からサブライセンスを受ける形だったが、当初4..5%であった。その後、4.1%、3.8%と下がり、73年には日電の再実施権はなくなりFairchildとの直接契約となるが3.2%程度に下がっている。メインはplaner特許であるが、これは「製造過程で出来た酸化膜を保護膜として使用する」と言うのが特徴であるが、直に日本企業は”製造過程でできた酸化膜を一旦除去してしまい、新しく酸化膜を付け直す”ことによってPlaner特許から逃げて特許料を大幅に削減することに成功する。また、MOS-ICは製法が異なりPlaner特許の対象外である。
*5 Philipsの特許で最も有効だったのが66年のLOCOS(Local Oxidation Of Silicon)特許。16K-DRAMの頃から必須の技術になる。この時、日立は上手くクロスに持ち込むことに成功し、無償または低い額でLOCOS特許の使用権を取得したと云われる。この時の日立の特許は64年のMOSの低電圧化を可能にし集積化を促進した結晶関係の技術であった。尚、日立はSi waferの開発製造を99年に信越半導体に営業譲渡するまで続けていた。他の日系半導体メーカーは70年頃までにはSi Waferの開発・製造から手を引いていた。尚、ロームは一部であるが現在も結晶関連の開発・製造を行っている。
尚、TSMCはPhilipsの特許によってカバーされ守られていた。
*6 85年当時、10数社がステッパー(縮小投影露光装置)を手掛けていた。パイオニアのGCA(米)に加え、ニコン、キヤノン、日立、ParkinElmer(米)、Philips、TRE(米)、Ultratech(米)、Optimetrix(米)などがあった。一時はニコン、キヤノンで圧倒的なシェアを占めた。90年代末には、ニコン、ASML(Philips)、キヤノン、SVG(parkinelmer)、Ultratechの5 社に減る。
*7 IBMは、東芝、Siemens、Philipsと合弁で、それぞれとDRAM/Flash Memoryの製造会社を設立している。東芝とは96年2月にバージニア州Manassas(ワシントンD.C.郊外)にDominion semiconductorを設立、翌97年操業開始、2000年12月提携解消。翌年末、Dominioの工場はMicronに売却される。
*8 欧州でDRAMに参入していたのは、Siemensの他に、米Ⅿotorola、SGS、Thomsonの4社が有り、これら4社が87年7月に日本製DRAM/EPROM(TIを含む)に対してダンピング提訴するが、EC委員会により調査は行うものの特には具体的な罰則等は無く調査のみで終わっている。輸入制限等を行っても、それを代替することがヨーロッパメーカーにとってはほとんど不可能であったことが要因のようである。但し、これに対し日系企業は自主規制を行い、価格の適正化を行っている。Samsungなどは、これに乗じ、日系メーカーより若干安い価格によってシェアを伸ばしていく。