エレクトロニクス産業史 第5章
第5章電卓用lsiからマイクロプロセッサーへ.pdf
掲記のpdfファイルが正式版です。
下記にしたものは表がアップできませんでした。
第5章 電卓用LSIからマイクロプロセッサーへ
電卓の進化
MOS-LSI電卓の誕生
60年代後半、FairchildやTIなどが標準TL-ICをシリーズ化する。このシリーズは70年代半ばころまで活発に製品化され毎週のように新製品が出され数百種類に及ぶシリーズとなって行く。これら標準TTL-ICによりロジックが組みやすくなったことで、小型化、省電力化、多機能化などをターゲットにして電卓の開発競争が活発化し開発期間の短縮と機能の向上が競争のポイントとなっていた。
70年2月にシャープは4個のRockwell製のMOS-LSI*1と1個のMOS-MSI、および1個のBIP-ICを搭載した8桁電卓Micro COMPET QT-8Dを発売する。
*1 Micro COMPET QT-8Dに搭載されたそれぞれのMOS-LSIのTR数は633個、740個、900個、940個、MSIは240個。尚、コンデンサーや抵抗を加えると4つのICの素子数は優に1,000を超えLSIに分類された。LSIの定義は素子数1,000個以上、MSIが100~999個、SSIは100未満。超LSIは100,000個以上と定義されていた。現代ではNAND Flash memoryは1,000億個を優に超え、ロジックでも1,000億個に迫っている。
尚、価格はLSIの4個のセットで40ドル、発注は25万セットで10百万ドルだった。
プログラマブル電卓
62年にカシオ計算機から科学技術用のリレー式計算機AL-1が発売されている。プログラム計算が可能で複雑な技術計算を迅速にこなすことができた。樹脂製歯車6枚(歯数60)のユニットを使いユーザー自身が最大58ステップのプログラム(1語6ビット)を組み、そのセットされた計算手順に従って計算を行えた。ユニットは取り外し可能で、ユニット交換によりプログラムを組み替える方式だった。電卓としての基本的な機能は四則演算に加え開平演算(平方根)があった。また、プログラムミングではジャンプ命令は無かった。リレー516個搭載した本体のサイズはかなり大きく卓上計算機と言えるものではないが。尚、価格は995,000円だった。
1960年にFagginは、Olivettiが64年に発表し翌65年に発売するProgramma101(P101)の試作機を作成している。P101は10cm×20cmのプラスチック製磁気カードにプログラム120ステップ(1語8ビット)の命令を記録することができた。価格は3,200ドルで米国を中心に44,000台が販売されている。電卓としての基本的な機能は四則演算に加え平方根があった。また、プログラムミングではジャンプ命令もあった。重量は32.5㎏で610 mm×465 mm×275 mm、消費電力350Wで、64年発売のシャープのCS-10Aの重量25kg、42㎝×44㎝×25㎝、消費電力90Wと比べると容積は7割、重量は3割、消費電力は4倍であるが、卓上に置くことはできた。
*1 歯車の歯の有無で0:1を表現する仕組みなので、プログラムするには6枚の樹脂製の歯車の歯を命令に併せて切断する必要が有ったと思われる。それに比べOlivettiのP101は磁気カード方式なのでプログラム作成は容易だった。
ビジコンの課題
機械式計算器メーカーだったビジコン(日本計算器製造)は66年に磁気コアメモリーを搭載したTR式電卓ビジコン160を30万円弱の価格で発売しヒットさせる。これにより価格競争の激化が始まったといわれる。ビジコンは自社ブランドでの販売に加え、OEMとしてRCAや伊IMEなど欧米企業に供給していた。その際に、メモリー*1の有無・方式の差異・容量の差異、レジスターの個数・容量の差異、キーの入力順序・配列・機能さによるキーの数の違い、表示やプリントアウトなど出力の違いを始めとして各社のアーキテクチャーなどの差異による開発負荷の増大に悩まされていた。まだ、汎用性の高いTRやDIの個別半導体素子の場合にはそれなりに対応できていたとしても、IC化、更にはLSI化し汎用性に欠けてくると、個別にLSIの設計をせざるを得なくなり、そのLSI開発のために半導体メーカーへ支払う開発費や生産面における部材調達の厄介さなど数々の問題に直面する。それらの課題を解決するため、OEM各社の電卓用に共通のLSIを開発しプログラム(ファームウェア)により様々な差異を吸収することを試みる*2。
ビジコンは68年に島正利らによりプログラム内蔵方式電卓Busicom 162P(販売はされなかった)の試作をおこなっている。ビジコンはBusicom 162Pの開発を機に、カスタムLSIによってプログラム内蔵方式電卓の多機種展開および低価格化することを決定する。ビジコンはこの時点までに、汎用的な機能である中央演算ユニット(CPU)、命令格納用ROM、シフトレジスタ、データ格納用シフトレジスタ―と、機種毎の個別対応となるI/O部のキーボード制御、表示制御、プリンター制御、データ格納(バッファー)との切り分けを行っている。そして、I/O部の変更のみで多様な機種、それも単に電卓にとどまらず、キャッシュレジスターなど他の製品への応用も視野に入れていたようである。
この時、ビジコンはNational Semiconductor(NS)の提案したROM(MASK ROM)の内容を変更し自由に仕様を変えられる方式や、Fairchildの提案したIC製造のバルク工程を共通化(Standard Gate Cell)し配線のみの変更による方式も検討している。NSの場合の難点は方式の異なる各社の仕様をLSIに織り込むと命令(マクロ的)の種類が増加してしまい回路規模が拡大しchipサイズを抑えることができずコスト高になる。また、新しいOEMを獲得する毎に回路が拡大し設計変更を要してしまう。Fairchildの提案はCADシステム(IC設計用論理シミュレーション)のFAIRSIM*3を持っており設計期間の短縮、開発費の削減など大きな効果が期待されるものの、配線領域が大きく増えやはりchipサイズを抑えることができずコスト高になってしまう。
ビジコンは結局設立して間もないIntelに委託することになるが、NS案に沿ったものというより、ビジコン案と言うべきもので委託する。然しIntelが検討を進める内に開発費が膨れ上がることや、chipコストが当初の想定をかなり上回ってしまうなどの問題が判明していく。これに対しIntelは対案としてマクロ的な命令レベルをミクロ的な汎用性の高い命令にブレークダウンしてそれを組み合わせることによりマクロ的な命令を実行することで回路を単純化することや、10進法から2進法への変更、開発chip数の削減(ビジコン案8種10個使い→Intel案5種9個使い)、chipセットの価格の270ドルから195ドルへの引き下げなどを提案してくる。IBMがSystem 360シリーズの設計において使ったマイクロ命令方式*5と似たところがある。
*1 70年頃、電卓に使われていたメモリーとしては、磁気コアメモリーや磁歪遅延線メモリー(例:ソニーが67年発売したSOBAX ICC-500)が主に使われていた。
*2 ビジコンは69年4月にIntelと仮契約を行い、6月には8種類のカスタムLSIの論理設計(マクロ命令方式)をIntelに渡している。以降はIntelがそれを基に回路設計を行いMASK製作などchipに落とし込みを行い、LSIを製造するという手順で、年末頃までには完成するはずであった。
*3 FAIRSIMはFairchildが開発したIC設計用のCAD(EDA)システム。通常はIBM360/67などのタイムシェアリング機能を持つメインフレーム上で使われた。Fairchildは電卓メーカーなどのFairchildの顧客に頒布(無償)していた。顧客はFAIRSIMを使って論理設計を行い、それをFairchildではなくAMEやTIなどに発注していた。
IBMは50年代末にはEDAを使っていたが、IBM在勤中にEDAの使用経験のあったJames KofordがFairchildでIC設計用のEDAであるFAIRSIMを67年に開発している。
*4 Intelの設立は68年7月、ビジコンとの仮契約は69年4月。尚、Intelの製品出荷は69年の8月から始まっている。Intelの最初の製品はBIP-ICであった。年末にはSi-gateテクノロジーを使った256ビットのMOS-SRAM(i1101)を出荷している。69年12月期の売上は37万ドル、損益は191万ドルの赤字だった。
*5 IBM System360シリーズでは、同一の命令セット・アーキテクチャ(ISA)を上位機種から下位機種まで共通して使っている。上位機種では(可能な限り)ハードウェアで直接的に実装し高速処理できるものの回路規模は大きくなるのに対して、下位機種ではマイクロプログラム方式の活用により低速だが回路規模を小さくしている。尚、このマイクロ命令による方式は後にCISC(Complex Instruction Set Computer)と言われる命令セット・アーキテクチャでIntelの32bit-CPUであるi80386(85年10月発売)まで踏襲されることになる。当初は回路規模を削減の効果があったものの命令数が大きく増え逆に回路も複雑化してしまうことになる。
ビジコンとIntel
69年4月にビジコンはIntelと‟プリンター付き電卓用LSI”開発の仮契約を結ぶ。当時のIntelは製品出荷さえ未だ始まっていない設立1年(68年7月設立、製品の初出荷は69年7月に256ビットSRAMを出荷)にも満たない会社だった。1k-DRAMで注目を浴びることになるのは、翌70年からであり、また、Si-Gateテクノロジー*1を持っていたとはいえ、その優位性が認識されるのも1k-DRAMの成功によってである。Intelに有ったのは、NoyceやMooreの名声くらいのものだったかも知れない。
*1 FairchildのR&D部門の責任者のGordon MooreはÌntel設立の1か月前の68年6月にFagginに対し10月にワシントンで開かれるIEDM( IEEE International Electron Device Meeting :国際電子デバイス会議)でSi-Gateに関する論文発表をするよう指示している。これによって、Fairchildが特許申請をすることは封じられた。MooreらはSi-Gateを使った最初の素子であるFagginによるFairchild 3708(Al-gateのFC3705のSi-gate版)の完成後、Intelを設立している。MooreらはSi-Gateに大きなビジネスチャンスを見出したのであろう。Si-Gateを使った最初の製品であるFairchild 3708(8-bit analog multiplexer )がFagginによって4月に完成していた。ビジネスチャンスを見出すと集団でスピンアウトするというのがFairchildの伝統かもしれないが、Si-Gateテクノロジーは遂にトップであるNoyceとMooreをもスピンアウトさせることになった様だ。これにより、Fairchildの設立者である8人は全員Fairchildを去ったことになる。
尚、Fagginは68年2月にイタリアのSGS-FairchildからFairchildに出向してきたばかりであった。ほんの2~3か月でSi-Gate技術やそれに関連したBuried Contact技術(FC3708で既に使用)などを開発している。
i4004の意義
i4004はMarcian Hoff、Stanley Mazor、Federico Faggin、嶋正利の4人*1によって開発されたと云われる。これが世界初のCPUと云われることもある*2。
ただ、実際のところとしては、例えば点接触型TRが発明されると真っ先に爆撃機搭載用のコンピュータTRADICが開発されたが、小型・高性能化を求める航空宇宙関連では、その延長として1 chip CPUへの流れは必然であり、70年にはi4004に先立ちGarrett AiResearchが20ビットCPUのCADC(MP944)*2の開発に至っている。1 chipとは行かないまでも航空宇宙関連では複数個のICを使い幾つかのコンピュータが製作されていたようだが、それらも製造技術の進歩により必然的に1 chip CPUに至るものだったようである。民間でも、69年のFour-Phase Systems社(Fairchildからスピンアウト)のAL-1*5があるが、NoyceはFour Phase System社の出資者でもあり役員を務めており、当然のことAL-1について知っていたであろうし、Noyceから見れば24ビット(8ビット×3のビットスライス、8ビット単体でも機能する)のAL-1に比べ4ビットのi4004は単なる電卓用のカスタムLSI以上のものには見えなかったかもしれない。
1 chip CPU開発の難点は数量の少なさであった様だ*6。開発負荷が大きい割にはほとんど数量が出ないため、半導体メーカーにとっては航空・宇宙関連を別にすればあまり旨みは無かった様だ。Intelではi4004に若干遅れて、Computer Terminal Corporation(CTC:68年7月設立、後にDatapointと改称)のDatapoint 2200用に8ビットCPUのchipセット(i8008)の開発を進めるが、CTCは70年5月にBIP-TTLベースでDatapoint2200を完成させ出荷する。そのためもあってかIntelは余り真剣に取り組んではいなかった様で開発は一時中断される。またCTCはそれをTIにも発注し、TIはIntelより早く完成させることになる。このTIのものが世界で初めて公開された1 chip CPU TMX1795*3である。
ただ、i4004がそれらと大きく異なるのは、ビジコンはそれを電卓はもとよりキャッシュレジスターや帳票発行機など、そしてOEM生産を通して多くの会社の製品に広く適用することを意図して設計された汎用性の高いというところかもしれない。そして完成に至ったi4004*4は個別対応を要すと見做されていたI/O部分も取り込み汎用性を更に高めビジコンの思惑を超えるものとなっていた。
*1 HoffはStanford大学のコンピュータ研究所の研究員から68年にIntelが設立されるとほぼ同時期に入社。Mazorは69年9月にFairchildから。Fagginは70年4月に同じくFairchildから。嶋は東北大学で化学を専攻し67年にビジコンに入社し、70年4月よりIntelに派遣される。尚、FagginはSi-Gateの開発者であり、このCPU chipセット開発においてSi-gateの持つポテンシャルの高さを実証することになる。
*2 CADC(MP944)は70年にGarrett AiResearchとAmerican Semiconductorsによって開発されている。F-14戦闘機のCentral Air Data Computer(CADC)に搭載されたが、71年にGarrett AiResearchが雑誌Computer Design Magazineに投稿しようとした際、軍事機密として軍の検閲により差し止められ、存在が知られたのは98年に機密指定解除となってからであり一般には知られることさえ無かった。
*3 TIのTMX1795(24ピンパッケージ)は71年3月のBusiness Week誌で紹介されている。これが最初に一般に公開されたCPUであるが(Intelのi8008は70年10月にElectronic Design誌で簡単にだが紹介されているのだが)、これは、CTCがIntelに委託していたi8008(18ピンパーケージ)同等品でインテルが仕様を作成し、CTCがその仕様を基にTIに依頼したものと言われている。そもそも、CTCはMOS 1 chip化に積極的であったわけではなく、i4004の仕様作成の経験を生かしたMazorらの提案を受け入れたまでの事であった。TIは70年4月ごろ情報をキャッチしCTCにアプローチしている。結局CTCはTI製もIntel製も採用しなかった。CTCは結局80年に至るまで速度でMOSに大きく勝るBIP-ICを使い続けることになる。
尚、TIのTMX1795のchip面積は31㎟(TR数3,078個)とIntelのi8008の15㎟(TR数3,098個)に対して2倍であった。且つ、TMX1795が24ピンパッケージであったのに対しi8008は安い18ピンであった。単純計算ではchipサイズが倍になると2インチ(69年から導入されだしている。3インチの導入は72年から始まる)程度のウェハーなら有効数は4割程度に落ち、且つ歩留まりはi8008が30%程度とするとMX1795は10%程度に過ぎず、i8008に比べコストは数倍かかったものと推定される。TIが鳴り物入りで宣伝したものの販売を諦めたのはコスト高の要因もあったものと思われる。
Chip sizeの大きさはTIのchipレイアウトの未熟さもさることながら、IntelはSi-Gateを使ったのに対してTIはAl-Gateであったことがより大きな要因であったようだ。TIのTMX1795は結局販売されることは無かったが、IntelはCTCから権利を買い取りTIの発表から1年遅れの72年4月に発売することになる。
Intelでのi8008の開発は当初混乱を極めたようで一時中断してしまい、結局Fagginがi4004の完成後に責任者として開発を完了させているが、当初の仕様とはかなり異なっていると思われる。i8008はi4004と同一の命令セット(45種)を持ったi4004のup-grade版となっている。嶋は日本に帰国しておりi8008の開発には関与していない。
尚、i4004のChipにはFederico Fagginの頭文字F.F.が焼き付けられている。嶋家の家紋(丸に三本線)入りのchipはi8080。このi8080が多くの半導体メーカーにコピーされ本格的に普及する最初のCPUとなり、後のx86アーキテクチャーの起点となる。
*4 i4004のchipサイズは3㎜×4㎜でTR2,237個を集積、10ミクロンのPMOS-Si-Gateプロセスによって6枚のマスクを使って製造されている。2kビットのMask-ROM(i4001)、320ビットのリフレッシュ回路内蔵のDRAM(i4002)、I/O(シフトレジスタ―、i4003)からなる計4種のLSIで構成されている。これら3種はマスク5枚である。いずれも16ピン・パッケージに納められている。ビジコン141-PFには、メタルパッケージのi4004が1個、プラスティックパッケージのi4001が4個、i4002が2個、i4003が1個の計8個が搭載されている。i4003とi4004は本来なら24ピンとなるはずだがマルチプレクスして16ピンに抑え、コスト削減に努めたようだ。また、リフレッシュ回路内蔵のDRAMは一種のSRAM(疑似SRAM)であり、SRAMとすべきところをコスト削減のために敢えて開発したものと思われる。本来なら高価なSRAMを使うところを安いDRAMで代替することに成功している。加えて、ROM容量の節減のための工夫、例えば2進法から10進法への変換をROMに依存するのではなく10進補正命令を使うなど、コスト削減のための創意工夫が満載といったところである。
これら4種で構成されるMCS-4 Micro Computer Set(MCS-4)は、基本の4種4個使いなら価格は47.65ドル、これに追加のROM数×16ドルを加えることになるが、かなり低価格であり、市場に受け入れられやすい価格であり、成功の大きな要因となったと思われる。徹底的な低価格化を主導したのは、50ドルの積りが300ドルを吹っ掛けられてしまったビジコンサイドの嶋であったと思われる。
*5 TIはTMX1795やone chip電卓などの開発などを通じ ❝a single-chip processor❞特許などを持っていた。80年代後半にそれによって大きな特許収入を得ることになる。 Dellが90年にTI特許の無効を求め、93年に勝訴するが、その際にDellが特許無効の為の先行事例として持ち出したのがFour-Phase Systems AL-1だった。8ビット1 chipでCPUとして機能することを実証した。90年のDellの売上は546百万ドル、利益5百万ドルで米国第6位のパソコンメーカーに育っていたとは言え、会社の存亡を賭けた提訴( "bet the company" lawsuit)であったと云われる。
*6 当時(60年代末)の小型コンピュータはFairchildやTIなどの標準BIP-TTLシリーズの8ビットALUであるFairchild 3800や4ビットスライスのTIのSN 74181を使って構築されるのが一般であった。これが標準BIP-SSIで構成されたCPUからMOS-1chip LSI-CPUへの進化の過程の中間に位置するものとも言えるかもしれない。75ゲート(TR数で約300個)程度を集積したもので、BIP-ICにとっては当時の集積の限界に近いものであるが、Fairchild 3800は67年に発売され、TIのSN 74181は70年3月(68年頃に販売され、74シリーズに加えられたのが70年3月と思われる)に発売されている。特にSN 74181は70年に発売されたDatageneralのヒット商品である16ビットミニコンSuperNOVAに搭載されている。SN 74181は改版され高速化されながら90年代初期まで使われることになる。単に、ALUのみではなくCPUとしてMOSで1 chip化することも可能であるが、量的な問題からそれを試みることは少なく、また試みたとしても性能面からほとんど成功したものはなかったと思われる。その失敗例がTIのTMS1795やIntelのi8008(但し汎用CPUとしては成功する)なのかもしれない。MOSで1 chip CPUを作るという発想は特に新規性が有るというほどのものでは無かった。
日本では75年頃には東芝のTOSBAC-40Lやパナファコム(松下・富士通合弁)のPFU-100などのミニコンはCPUを2~3個のchipにまで集積化が進んでいた。更には富士通が79年にオフィスコンピュータV830で1万ゲートのCMOS 1 chip CPU(MB8830)を搭載していたが、その頃よりミニコンクラスのCPUのMOS 1 chipへの移行が始まり出すようだ。MB8830のchipサイズは100㎟だったが、当時としてはかなり大きなサイズであった。DECが80年に発売するVAX-11/750にNMOSの4 chip構成のV-11 chipセットが搭載され、また85年にはCMOS 1 chipのMicroVAX Ⅱ chipを搭載している。90年代にはCMOSがBIPを性能(速度)面でも凌駕するようになり、BIP-LSIを使ったメインフレームコンピュータの終焉(CMOSへの移行)が訪れることになる。
Fagginと嶋
ビジコンはchipセットの開発費として6万ドル(+ROMのマスクチャージ2,000ドル/枚)を支払っている。但し、開発分担は不明確であり混乱を招いていたようである。この頃は半導体メーカーとユーザーの開発分担が未だ曖昧な時期であったのかもしれないが、MSIレベルならいざ知らず、汎用的な造りとはいえLSIレベルの設計は製品に対する設計ノウハウを蓄積したユーザーが論理設計(及び試験パターン作成)までを行い、MASK設計以降を半導体メーカーと言う分担であるが、その間にある回路設計に関しては分担が曖昧だったようである。
69年4月の基本合意の後、ビジコンは6月に論理設計・回路設計をIntelに渡しているが、そこから紆余曲折が始まってしまう。Hoffはその複雑さに驚かされ、開発費用や製造コストが当初の想定を遥かに超えてしまうことに気づく。基本合意では、chipセットの価格が50ドル未満であったが、これが270ドル(Intelの当初の言い値は300ドル)にまで上がられてしまった。次にHoffはマイクロプログラム方式の採用(IBMのSystem360の上位機種的なハード設計を下位機種の設計に変更するのと同義)によりハードの単純化(8種10個→5種9個、最終的には4種8個)するとともにセット価格を195ドル(最終的には4種8個のセットで99.65ドルと思われる)への引き下げを提案し、それをビジコンが受け入れることになる。そして、FairchildからIntelに移ったばかりのMazorがビジコン側の要求も踏まえ仕様をまとめ上げ、ビジコンに受け入れられることになる。また回路設計もIntelが受け持つことになる。そして本契約が70年2月に結ばれる。然しながら、HoffもMazorも設計の経験が無かったため4月にFagginが採用されることになる。
70年4月に嶋がIntelへ進捗状況を確認のため訪れた。既に仕様決定から半年もたっていたのに設計は着手していなかった。訪問の僅か2日前にFagginは着任したばかりだった。かなり複雑なLSIでありCPUからROM/RAM、I/O関係までと広範なものだったが、HoffもMazorもその困難さに対する認識が欠けており、3か月(Intelの正式回答は6か月、ビジコンの推定では1年)もあれば開発できると考えていたと云われる。ともあれ、この時よりイタリア人と日本人のコンビにより開発が進められ71年3月に完成することになる。それが歴史的に如何に大きな意義を持つものであったにせよ、誰もそんなことを意識していたわけではなく単にビジコンの電卓用LSIを開発していただけの事であった。単に、MOS-ICの集積度の向上、ビジコンの電卓等に対する特異なニーズ、それらがコンピュータ技術と融合することによりi4004は生まれることになる。
電卓市場の競争激化と構造変化
ビジコンは71年1月に世界初の1 chip電卓であるビジコンLE-120Aを発売する。I chip LSIはMosteck製のMK6010L(40ピンmetal-sealパッケージ)である。開発開始から7か月での完成であった。価格は89,800円と低価格電卓のはしりであった*1。72年2月にはLE-120S(価格64,800円)を発売する。そして、72年8月にカシオが日立のLSI(および日電のMSI)を搭載したカシオミニを12,800円で発売する。
日本の電卓輸出は70年の730千台から、73年には6,366千台、76年には35,192千台へと跳ね上がる中、日系メーカーの攻勢により欧米メーカーは撤退ないしは独自仕様による開発・生産委託(OEM)から、単なるブランド張替のODM調達に切り替わっていく。ビジコンのLE-120AはNCRや英Broughtons、独Quelle InternationalなどへODM供給された。
ビジコンはこのMCS-4 Micro Computer Setを使い141-PF(価格159,800円)を71年10月に発売する。開発を始めてから2年半が経過していた。価格競争の激化(カシオミニは75年には4,800円)、日本企業の輸出攻勢は電卓市場を大きく変えてしまっていた。電卓用LSIの調達価格はカシオミニの様に1種のLSIで100万個を超える様なケースでは72年頃でも1個2,000円未満、75年には1,000円を割っていたと推定される。このi4004を搭載した141-PFは電卓として注目を浴びることはなかった。その後、ビジコンはドルショック、オイルショックを経て74年2月に破たん*2することになる。
*1 70年12月にシャープが発売した8桁のEL-8(価格84,800円)はRockwell製の4 chip(42ピンmetal-sealパッケージ)から成るもので、サイズは102mm×70mm×164mmであったが、その僅か1か月後にビジコンが発売した12桁のEL-120Aのサイズは64mm×22mm×123mmと容積的には僅か1/8で世界初のポケット電卓であった。消費電力はシャープが1Wに対し、0.36Wであった。
ビジコンのLE-120Aに搭載されたMostekのMK6010Lは4.6㎜角、chip面積21.2㎟、TR数2,100個。消費電力は通常なら0.5Wであるところを、拡散炉の代わりにIon Implantation装置を活用したことによって0.05wに引き下げることに成功し、Al-Gate PMOSでポータブル電卓を実現している。MostekはこれをベースにMK6011Pを開発し(MK6010Lとほとんど同じと思われる)、日本メーカーでは栄光のUnitorex1200(OEMで米国ではColex 1200LP、Privileg 1200)などに搭載される。そして、この成功によりHewlett Packardの関数電卓HP-35用chipセットの受託などによりMostekは事業基盤を確立する。
尚、Ion Implantation技術は出資者であるSprague Electricが抵抗の製造用に使用していたものをベースにしてSpragueの協力によって半導体製造用装置用に開発された。I.I.での先行がMostekの大きな強みとなる。
尚、TIはMostekのMK6010が71年2月(契約は70年5月、chip完成は70年11月)に発表されるやいなや、1 chip電卓用LSIの開発に取り掛かり71年9月にTMS1802を発表する。
MK6011P はi4004の陰に隠れてしまい余り注目されることは無いが、MK6010(およびTMS1802)はその後、組込型マイコン(マイクロ・コントローラ)として大きな発展をして行くものであり、こちらも大きな意義を持つものである。
尚、Mostekは69年6月にTIからスピンアウト(TIからのスピンアウトの第一号と云われる)したLeonce Sevinらにより、Sprague Electricの支援を受け設立されている。Intel同様に設立1年にも満たない時期にビジコンはMostekにアプローチしている。Intel、Mostekともその後は順調に成長し80年にはIntelは売上575百万ドル、Mostekは360百万ドルと米国でそれぞれ4位、7位の半導体メーカーに成長する。特にMOSメモリーにおいて両社は70年代後半にはトップを争っている。然し、日本勢の攻勢により、85年にIntelはDRAMからの撤退を余儀なくされ、またMostekも同年にこの実質的に破綻する。
*2 ビジコンの主力事業は電卓の他に三菱電機のコンピュータの販売・サポートが有ったが、三菱電機の提携先であった米TRW社のコンピュータ事業からの撤退により三菱電機のコンピュータ事業は大きな打撃を受けることになるが、ビジコンはそのあおりも受けてしまう。
米国では70年頃、IBM System 360の成功により、GE、RCA、TRWなどコンピュータ事業からの撤退が相次いでいた。
Computer On A Chip
TIは71年6月7日のElectronics誌に❝The Thrust in MOS/LSI”と題した全3ページの広告を打つ。
TIは212mils×224mils(5.4mm×5.7㎜)のchipにTR3,100個を集積した8ビットのCPU開発し、それによってComputer Terminal社のDatapoint 2200のCPUの1 chip化に成功したことを大々的に宣伝する。後にTMX1795と称されることになる8ビットCPUである。これは結局、Datapoint 2200に採用されることは無く、少々先走りし過ぎてしまったようだ*1。
ともあれMOSの級数的な集積度の向上により遂には”MOS can put a computer on a chip”に至るまでになったのは紛れもない事実である。
このTIの広告に若干先立って、Fagginがi4004のchipセットを電卓以外の用途へ販売することをNoyceらに提案することになる。そしてTIの広告がIntel幹部を刺激したのか、Fagginの提案が受け入れられ、TIの広告の直後の71年6月から8月にかけてIntelはビジコンと交渉し、開発費6万ドルの返却と若干のchipセット価格引き下げ、および電卓メーカー以外への販売という条件で外販権を獲得する。そして、Intelは71年11月にMCS-4 chipセットとして製品発表を行う。
*1 IntelのDatapoint 2200用8ビットCPU(後のi8008)は70年10月25日のElectronic Design誌で小さく紹介されているが、出荷時期を71年第一四半期とするなど、TIと同様に実際とはかなり異なった内容であった。
Vendor Lock-in
i4004を多様なユーザーニーズに応えさせるために、プログラマーズマニュアルなどのマニュアル類やデーターシートなどの技術資料、エヴァリュエーションボード(デバッキングツール)、更にはアセンブラーなどの言語やコンパイラー、顧客の用途に合わせたアプリケーションソフトのサポートなどの顧客サポートツールやサポート体制が整えられていく*1。この時に開発されたエヴァリュエーションボードであるSIM4-01 Microcomputer Boardが最初のPersonal computerであると云われることもある。
CPUは単なる部品というよりシステムに近い製品であり、単にデバイスを供給すれば良いと言うものではものではなく、こうしたサポーティングツールを必要とする。また、CPUベンダーが提供するだけではなく、多様なニーズに応えるため寧ろサードパーティーに依存する度合いが高くなっていく。こうした広範なサポーティングツールやユーザーの設計資産・ソフト資産やノウハウの蓄積が進んでいくことにより、ユーザーは囲い込まれていくことになる。
*1 CPU(マイコン)はシステムに近い製品であり単にデバイスだけを供給すれば良いというものでは無く、通常のICに比べ製造以外のところに多くのリソースを必要とするが、その割には顧客の所要数は少なく、そのためCPUの価格はかなり高めに設定されることになる。パソコンが登場し、所要数が2~3桁増えた時、Intelは既存市場の価格維持に努め、パソコン市場での価格対応に失敗することになる。
第二世代CPU
4ビットCPUに続いて8ビットのi8008がFagginやHarold Feeneyらにより72年4月に開発される。これは当初CTC(computer Terminal Corporation、後にDatapointと改称)のDatapoint3300の後継の2200用に向けに開発していたものだが、CTCがBIP-TTLベースで2200を別途開発し出荷したこともあり、一時開発が中断される。そこへ、精工舎*1からのアプローチがあり、更にそれにSycor*2が続いたこともあり開発が再開されることになる。i8008はKodakのコピー機のコントローラーなどある程度の量があるところもあるものの、寧ろ量の少ない広範な分野で使われることになる。しかしCTCに採用されることは無かった。
*1 精工舎は、68年5月にハイブリッドICベースのプリンター、紙カードリーダー内蔵でプログラム機能を持つ技術計算用電卓セイコーデスクトップコンピュータS-300を発表する(695,000円)。翌年にはその改良版でBIP-ICベースのS-301(795,000円)、そして、72年にはi8008を使ってS-500を発売する。且つ、CPUベースで回路設計に柔軟性が高いこともあってN20型(155万円)、N30型(170万円)、N40型(189万円)とシリーズ化する。主に土木建築業界に販売されていた。尚、精工舎のIntelへのアプローチはビジコンのi4004を搭載した141PFに影響されたもの。
尚、これら精工舎の製品は基本的にはOlivettiのP101の流れを汲むプログラマブル電卓である。
*2 SycorはHPからスピンアウトしたSamuel Irwinらにより66年に設立される。Sycorはスタンドアロンのインテリジェンス端末メーカー。78年にNorthern Telecom(Nortel)に買収されている。CTCのライバル企業でもある。
Intel i8080
嶋は141PFの開発が終わると、71年9月にビジコンを退社しリコーに転社する。72年春、Intelから誘いが来る。これはFagginの熱心な誘いによる。Noyceが直接リコーの役員と交渉したと言われる。11月にIntelに加わる。この時、リコーには結局戻ることは無かったが、リコーは嶋に5年内ならいつでも復帰できるという猶予を与えて送り出したという。
i8008はPMOSのため速度が300k㎐と遅すぎNMOS化を図ることになる。単にNMOS化するだけでも3倍近くの高速化が達成されるが、プロセスルールを10μから6μへと微細化したこともあり2MHzと大幅に高速化される。またi8008では18ピンパッケージに納めたため設計上の制約が課されていたが、一挙に40ピン*1に増やされアドレスバスとデータバスが分離され、命令セットの数の48種から65種への拡張、メモリー容量の4kバイトから64kバイトへの増大などを行っている。また、i8008とはアセンブリー言語(機械語)レベルでの互換性*2を維持しながら大幅に機能拡張がなされている。アーキテクチャー(仕様)の作成はFaggin、Hoff、嶋が行い、設計はほとんど嶋が単独で行っている。
74年4月に完成したi8080はROMに格納された特定のアプリケーションのみを対象とするシングルタスク用として設計されたものである。SRAMが小容量のデータを一時的に記憶するために使われた。DRAMが使われるようになるのは4k-DRAMが一般化した75~76年頃からであり、その頃開発されたZ80はDRAM refresh回路を内蔵しDRAMを前提に開発されていたが、i8080は小容量のSRAMが前提である。PCの様な汎用的な用途を意識して開発されたわけではなく、いわゆるEmbedded Application用に開発されたものであった。また絶対番地指定方式を使っており、ソフトウェアのバージョンアップなどの際には番地の修正を要すこともあった。電源電圧も+12V、+5V、-5Vの3電源を要した。Floppy Disk装置やDRAMが普及する前に開発が進んだためPC時代に向け大きく改良すべき点が幾つかあった。初期のAltairなどに搭載されるなど初期的にはリードするものの、Commodore PETやApple Ⅱなどに代表されるPC大衆化時代には適応できなかった。
*1 i8080のピン配置が少々歪である。この頃はまだ規則正しく配置することが難しかったようである。これに比べると日電の8ビットCPU μPD753(42ピン)は整然と並んでいた。μPD753は日電オリジナルでありi8080とソフトウェア的にも互換性はない。
日電はi8080を分析し技術的な問題が多々あることを見つける。そこで、NECではi8080と同じものではなくそれを改良したのがμPD753である。然し全く売れなかった様である。技術資料や開発サポートツールは不十分、セカンドソースは無い、i8080なら海外の技術者との話が通じるが、μPD753では説明のしようもない。広く売るには少々無理があった様である。
*2 i8080A(MCS-80)では周辺素子などの開発も進み、システムコントローラー/バスドライバーのi8228、割り込みコントローラー-Ì8259、DMAコントローラーのi8257/37、パラレルI/Oのi8255、シリアルI/Oのi8251、クロックジェネレータのi8224、タイマのi8253がある。これらはIBM PCても使われることになる。
互換CPU
Intel互換CPUとしてNSから4ビットのchipセットINS4001~4が出されている。また、カナダのMicrosystem International Limited(MIL)*1からもMF7114(CPU)、1601(ROM)、7115(RAM)が出されている。IntelはMILに対し70年に広範な製品のライセンス供与を行っていた。i8008ではMILからMF8008、SiemensからSAB8008が出されている。
i8080およびそのバグフィックス版のi8080Aでは互換CPUが激増する。Advanced Micro Devices(AMD)*2からi8080Aと電気的特性が異なるAM9080Aが先ず出され、直にほぼコンパチブルのAM8080Aが出された。AM8080AはIntelとセカンドソース契約が結ばれていた。その他、米国ではTI(TMS8080JL)、NS(NS8080AD)、Signetics(MP8080AI)、NTE(NTE8080A)などから出されている。日本企業では日電(µPÐ8080A)、東芝(TMP8090AP)、三菱(M5L8080AP)、沖(MSM8080A)、そして少々遅れて 富士通(MBL8080)*3からも出されている。その他、欧州ではSiemens(AB8008A)、更にはソ連(580BM80)、チェコ(Tesla MHB8080A)、ポーランド(MCY7880)など、日米欧、更には共産圏まで数多くの互換品が製造されている。
*1 MILはカナダ政府の要請もあってBell Canadaの製造子会社であるNorthern Electric(76年にNorthern Telecom、98年にNortelと改称)によって69年に設立された半導体メーカー。Intelとのセカンドソース契約によって、1k-DRAM(i2103)のFM1103やMF7114(i4004)、MF8008(i8008)などを製造している。
*2 AMDはIntelと同様にFairchildからスピンアウトしたJerry Sanders、John Carey等により69年5月に設立された。SandersはMotorolaで営業を担当し辣腕ぶりを発揮し、Fairchildに引き抜かれ国際営業を担当していた。AMDの創立以来2002年までCEOを務める。全従業員にストックオプションを与え、不況でも従業員を解雇しないなど、在職中はPeople first, products and profit will follow!を徹底して貫いた。
75年にIntelとCPUのセカンドソース契約を締結、以後i80286まで続くが、i80386以降は互換品の開発を行うが、現在ではIntelと相互に命令コードを共通化することによって互換性を維持した上で独自開発を行っており、Intelと対等な立場となっている。MicrosoftがIntelによるCPU独占を阻止するために、働きかけた結果であり、Intelの大きな失策と言える。隅谷・長島理論に従えばMicrosoftにとっては利益急増、Intelの利益は1/4に激減する恐れがあるが、そんな提案をIntelは受け入れてしまった。そのためか、以前はMicrosoftと拮抗していたIntelの株式の時価総額が現在では10倍の差がついてしまった。また、AMDの時価総額はIntelに拮抗するまでになっている。
半導体製造部門は2009年3月にGlobalFoundriesとして分社化。
*3 Intelが電卓から出発したのに対し、MotorolaはDECのミニコンPDP-11の1 chip化を目指したため、 i8080 に比べ MC6800 はアーキテクチャー的に優れ、且つすっきりとして判りやすく、またアドレッシングモードも i8080 に比べて豊富でプログラムし易く、そのため富士通や日立はMotorolaのMC6800の互換品に注力していた。
パソコンOSの誕生
CP/Ⅿ(Control Program for Microcomputer)の開発者Gary KildallはMonterey(Palo Altoの南方97km)にあるU.S.Naval Postgraduate School(NPS)でコンピュータサイエンスを教えるかたわら、i8080用にPL/1言語のコンパイラーPL/Mの開発や最初のパソコン用OSとなるCP/Mを開発している。IntelにPL/Mの開発を申し出て了承され、Intelに自由に出入りして開発を行ったり、NPSのDECのミニコンにi8080をエミュレートしたりして開発を進めた。
開発したPL/Mの試験の為にi8080ベースのコンピュータボードにFDD(Floppy Disk Drive)を繋ごうとする。そのためにFDDにインストールしたプログラムを読み出し実行させる管理プログラムを開発する。これはその後拡張されDECのミニコン用OSのTOPS-10などを模範として、同じような操作環境/コマンド体系を持つ8ビットマイコン用OSへと拡張されていく。このソフトウェアをCP/Mと名付けた。このような背景もあってCP/Mはタイムシェアリングシステムを小型化したようなものになったと云われる。
CP/Mは73年に完成し、KildallはIntelに買い取りを依頼するが、PL/M compilerはIntelが興味を示し買い取るものの、IntelはCP/Mの必要性を認識できず購入を見合わせてしまった*1。その為、Kildallは74年にIntergalactic Digital Research(後にDigital Researchに改称)を設立。75年と思われるが、雑誌に広告を出し通信販売*2に乗り出す。そして77年にIMSAI 8080*3(発売は75年12月)がCP/Mを採用(バンドルして販売)することになると、以降、i8080(その互換品)やZ80を搭載した多くの機種がそれに続くことになる。i8080やその上位互換品であるZ80搭載システムでFDD装置が接続されている装置なら若干の移植作業(BIOSの書き換え)を要するがCP/Mを使うことができる。
*1 Kildallからみるとi8080はコンピュータして十分なポテンシャルを持つと見えていたのに対し、Intelは当時におけるほとんど全ての用途である組込型マイクロプロセッサーと言う位置づけに置いていたようである。そもそもi8008でさえインテリジェントターミナルとは言えスタンドアロンのコンピュータとしても使われていたDCのDatapoint2200用に開発された1 chip CPUであり鈍速とはいえコンピュータとしてのポテンシャルを持つものであった。この時、IntelがCP/Mを購入(2万ドル)していたならば、IntelはCPUのみではなくOSも支配し後のパソコン関連業界は大きく異なったものとなっていたかも知れない。
*2 CP/Mは機種毎の依存性があり条件を満たす機種しか適応できないはずであり、通信販売で対象となりうるパソコンはAltair(発売74年12月)やその互換機に限られていたと思われる。CP/Mを通信販売で購入したAltairやその互換機のユーザーならマニュアルを見ながらBIOSを呼び出し、メモリー容量などの設定を変更するなど、若干の設定変更でCP/Mを使うことができたものと思われる。条件を満たす機種はi8080ベース(Z80も可)で、且つ、当時FDDの標準規格であったIBMおよびそれと互換性のあるFDDが必要である。CP/Mは直に、機種依存性の無い部分と依存性の有る部分に分離され、依存性の有る部分をBIOSとして切り分けるがBIOSの書き換えのみで、i8080ベースのパソコンなら移植できる仕組みとなっているが、BIOSの書き換え簡単ではなさそうである。
尚、i8080が発売されるのは74年5月頃(72年11月から開発着手)であるが、i8080用であるCP/Mはそれ以前に完成している。73年当時KildallはIntelのソフトウェアグループ(Kildallを含め3人)にコンサルタントとして所属し、嶋と密接な連携のもとでCP/Mなどの開発を進めていたようである。嶋はなにかにつけ、ソフトウェアグループの部屋を訪ねていたようで、73年末にi8080が初めて動いた時、嶋は真っ先にKildall達を呼びに行き、i8080が動くところを見せたという。
*3 IMSAI 8080はAltair8080の互換機。76年頃におけるシェアをみるとMITISのシェアが25%程度、IMSAIが15~20 %(IMSAI 8080、i8080ベース), Processor Technologyが10% 弱 (SOL-20, i8080ベース)とTop3を占めていたが、IMSAI-8080もSOL-20もAltairの互換機であり、これらが大きなシェアを占めていたこともあり、その後も多くのAltair互換機が生まれている。CP/MやMicrosoftのBasic、更にはアプリケーションソフトなども開発されてきており、互換機であることの優位性があった。特にソフトウエアの流通の場合、当時はコピーされることが多く、そのためにも互換性が求められた。一方、CP/M(ソフト・マニュアルセットで100ドル)などはコピーされることを前提にして、ソフトの販売とともにマニュアルで収益を上がられるよう、マニュアル(25ドル)を別売していたが、当初、通信販売に頼っていた頃はマニュアルの売上の方が多かったかも知れない。
とは言え、まだパソコンは草創期であり、売上台数も76年頃は精々2~3万台程度に過ぎず、販売も通信販売が主体であり、店舗販売があったとしてもローカルにほんの数店舗で販売されている程度であり、Altairの規格がデファクトになるほどではないが。
Motorola MC6800
i8080に半年ほど遅れて74年末(74年3月に発表)にMotorolaのMC6800が発売される。MⅭ6800は相対番地指定方式を使い、且つ電源は5V単一だった。TR数は4,000個、NMOSプロセスが使われた。Chuck PeddleとWilliam Menschによって開発され、DECのミニコンPDP-8のCPUを1 chip化する発想で開発されたという。MC6800の命令セットはDECのミニコンに似ており、後にDECからクレームがついたと云われる。優れたCPUであったが、米国ではこれを搭載したパソコンにはヒット商品は生まれなかった。
76年早々には富士通のMB8861*1(サンプル出荷は75年10月)や日立のHD46800が販売された。80年代に入ってからMotorolaは他のファミリーを含め富士通などとセカンドソース契約を結ぶことになる。このMotorolaの系統には自動車のエンジン制御に特化したMC6801、MC6805やパソコン用として機能強化されたMC6809*2がある。エンジン制御としては大きな成功を収めたものの、パソコン用としては、そのOSであるOS-9*3と共にMC6809を搭載するパソコンは少なかった。
*1 日本でMC6800のサンプルが入手できるようになったのは85年2月であるから、富士通は8か月ほどで互換品を開発したことになる。富士通は回路検証作業を5月に完了、レイアウト作業および4命令追加などの作業を8月に完了させ、10月にはサンプル出荷にこぎ付けている。70年代半ばにおける互換品の開発作業は他社もこのようなものだったと思わる。
尚、日立は75年にMotorolaとMC6800のセカンドソース契約を結んでいる。
*2 1980年頃、Z80は9ドル、MCS6502は6ドル程度だったのに対し、MC6809は37ドルとかなり割高だった。
*3 OS-9は77年に設立されたMicrowave Systems(Clive, Iowa)が80年に開発した。Microwave SystemsはMC6800用のBasicを開発していたが、MotorolaからMC6809用のBASIC09の開発依頼を受けて、それを開発するとともに、独自にOS-9の開発をおこなった。OS-9が搭載された代表的な機種としては、TandyのTRS90 Color computerやComodoleのSuper PET SP9000などがあるが、標準実装されていたのはBASIC09であった。
日本では富士通が81年発売したMC6809(MBⅯ6809)ベースのFM-8にもOS-9が搭載されていたものも有るが、標準装備されていたのはF-BASIC(MicroSoftのBasicをベースにしてカスタマイズ)であり、82年に発売されたFM-7、84年発売のFM-77にしてもOS-9が採用されたものは少なく、主にF-BASICであったようだ。80年代半ば頃まではFDDはそれほど一般的ではなく
スピンアウト
74年の夏、Ralph Ungerman*1がIntelを去る。続いて11月にはFagginも去る。そして、翌75年2月には嶋も去ってしまう。そして6月には石油会社のExxon*2(投資子会社のExxon Enterprises)からの50万ドルの資金提供を受けLos Altos(Palo Altoの南東8km)にZilogを設立する。当時はオイルショックの影響も受け半導体は不況に入っていた。株価も低迷し、ベンチャーキャピタルの投資額も底をついていた時期であった。Z80の開発は嶋の着任とともに開始され、75年1月にはほぼ完成に至っている*2。
ZilogはFablessも考慮していたようで、当初はSynertek*3へ生産委託をしていた。但し、Synertekは試作を担当した程度であり、量産初期にはMostekへの委託に切り替えている。Zilogは75年3月にZ80をExxonに披露するが、その後追加出資を受け6月よりCampbell(Palo Altoの南東23km)で工場建設を始め年末には完成する。
一方、Motorola MC6800を開発(場所はArizonaの開発センター)したPeddleはMenschら7人を引き連れは74年8月にMotorolaを去り、ペンシルバニアのMOS Technologies(Mostekと混同されやすい)へ転社する。PeddleがMC6800互換CPUの開発プロジェクトをMOS Technologiesに売り込んだようである。移るやいなやMenschを中心にMCS6801/6802の開発に取り組み75年9月にMCS6502を発表する。尚、Menschは77年3月にMOS Technologiesを退社し、78年5月にPeddleらの支援を受けFablessのWestern Digital Center(Western Digitalと混同し易いので注意)をアリゾナに設立し、MCS6502のCMOS版のW65C02や16ビットCPUのW65C816などを開発する。
*1 Ralph Ungermanはmicroprocessor groupを率いていて、嶋の上司にあたる。尚、Fagginは部長クラスで主にEPROMやSRAMなど幾つかのグループを率いていた。Zilogの設立はFagginがUngerman にスピンアウトを持ちかけたのが発端である。Ungermanは一も二もなく(just an immediate response) 賛成したという。また、嶋にはFagginがIntelを去る際に打ち明け、直ぐにでも行動を共にしようとする嶋に対し、Fagginは新会社設立の資金の目途が立つまでIntelに留まるよう嶋に頼んだという。
*2 75年1月にZ80の開発がほぼ完了するが、その時点でZilogの従業員数は11人だった。MASKパターン作成要因が2人いたが、作業がかなり遅れ気味だったようで、見かねたCEOのFagginが手伝い過半を仕上げたと云われる。
*3 SynertekはFairchildからスピンアウトしたRobert Schreiner(ソフト開発に従事していた)らによって73年に設立された。当初、ZilogからZ80の生産委託を受けていたが、試作を行った程度に過ぎない。尚、SynertekはMCS6502のセカンドソーサーである。
*4 Exxonは当時積極的にIT関連に投資をしていた。単なる投資ではなく、事業の多角化の意味合いもあった様であり、IBMへのチャレンジャーと自らを位置付けていたようである。Exxonの80年の純利益は5,650百万ドル(売上103,142億ドル)、一方、IBMは3,562百万ドル(売上26,213百万ドル)と、Exxonは利益で唯一IBMを上回る企業だった。
Exxonの投資先の主だったところでは、ワードプロセッサーのVidec、電子タイプライターのQuiz、ファクシミリのQuip、プリンターのQumeのほか、IT関連で20社ほどを傘下に抱えていた。Zilogもそれらの1社に数えられる。
Z80とMC6502
50年代からリレー制御などにより工場の自動化が進められていく。68年にPLC(Program Logic Controller)がGM とBedford Associatesによって開発され、リレーからTRやICに置き換わり、且つソフトウエアによる制御となり工程変更などが柔軟に対応できるようになる。そして、70年代半ば以降はマイコンが普及していき、PLCのCPUもマイコン*1(組込マイコンボード)に置き換わっていくほか、個々の装置においてもミニコンなどで制御されていたものがマイコン制御に置き換わっていく。これら産業機器の場合、CPUのコストに占める比重は小さく、且つ所要数も少ない為、i8080やMC6800などは高価格維持が可能であり、一方、従来のICとは異なる販売形態やユーザーサポートを要した。また、ユーザーにおけるノウハウ・ソフト資産は蓄積されて行きユーザーはrock-inされるため囲い込みがし易く、価格競争的には限定的なものであった。
74年11月にMotorolaはMC6800を360ドル(i8080と同一価格)で発売する。Chuck Peddleは、この硬直的な価格政策がCPUの市場を狭め、市場の発展を損なうとして営業部門と対立し、結果、発売前の8月にMotorolaを去ったと云われる。尚、75年4月に175ドルに引き下がられている。ほぼIntelに追随する価格政策を採っていた。
75年9月にMOS TechnologiesはMCS6501/6502*4を25ドルで発売する。i8080やMC6800に対して1桁近く異なる価格であった。
尚、Z80は発売当時200ドルで売られたが、MCS6502の発売、およびにパソコン市場の拡大と共に大きく値下げされ78年初頭には22ドル程度とMCS6502並の価格で売られるようになり、パソコン用CPUとしてはMCS6502とZ80の争いとなる。パッケージは共に高コストのメタルシールからプラスティックへと替わっていく。
尚、MotorolaのMC6800は3インチwaferで有効数140個、歩留まりは20%程度だったと云われる。またMotorolaはdepletion load技術*2を持たず、die sizeが大きく、そのため歩留まりは悪く、かなりの高コストであったようだ*3。また、MOSメモリーの大手は新鋭工場でDRAMの少品種大量生産を行い、古い工場では、ロジック品などの多品種少量生産を行うという住み分けをするのが一般であったが、それも低歩留の要因である。
*1 当初はi8080など一般のCPUが使われていたが、現在、PLCのCPUとして使われている組み込み用としては、96年に発売されたDECのSA-110(StrongARMファミリー)の流れを汲むIntelのATOMなどが代表的。
*2 depletion load技術はNMOSにおいてdie sizeを拡大させずに単一電源化する技術。CMOSでは不要。
*3 歩留は単純計算では、例えば1枚のウエハー上に224個の欠陥がランダムに有ったとして、それら欠陥を避けられたchipが幾つあるかという計算に単純化できる。MC6800の場合、有効数140個なら、(139/140)224≒20%と計算できる。一方、MCS6502の場合は有効数250個程度と推定されるので、(249/250)224≒40%となる。1枚のwaferからの良品数はMC6900が140個×20%=28個に対して、MCS6502は250個×40%=100個となる。また、MOS TechnologiesはParkinElmer製の等倍投影露光方式(Micarlign 100)を使っていたようであり、密着露光方式を使っていたMotorolaに比べ、更に歩留的に高かった様である。
Motorolaは75年9月にMOS TechnologiesがMCS6501/6502を20ドルで発売すると、MC6800の価格を69ドルに引き下げて対抗するとともに(Intelも同様に引き下げる)、MOS Technologiesを特許侵害で提訴している。
尚、MotorolaはIntelからdepletion load技術のライセンスを受け76年7月にはMC6800のDie sizeを16.5㎣にシュリンクさせるとともに価格を35ドルに引き下げている。
*4 MCS6502のダウングレード品としてMCS6507がある。これは77年9月に発売されたAtariのゲーム機Atari 2600に搭載された。Atari 2600は世界で累計3,000万台売られている。82年までに米国ではパソコンが累計で約470万台売られているが、それに対して同時期までにAtari 2600は累計で1,000万台が販売されており、MCS6502系は8ビットCPUとして圧倒的なシェアを持っていた。尚、83年にAtari shockと言われるゲーム専用機・アーケードゲーム市場の不況に見舞われる:―
・インヴェーダーゲーム(タイトーよりライセンス)やパックマン(ナムコ)により過熱したゲームブームの終焉
・CommodoreとTIのパソコン価格がゲーム専用機並価格で販売され、ゲーム専用機との競合化
・Atariのコントロールの利かないサードパーティーによるソフトの投げ売りで、Atariのゲームソフト売上が急減
特にゲームソフト(8kバイトのROMカートリッジ)のサードパーティーによる投げ売りが始まり、35ドル程度だったものが5ドル程度まで下がり、Atariのゲーム機器・ソフトの売上は激減し83年には▲5億ドル程度の営業損を出し、親会社であるWarner Comunicationを経営危機に陥らせる。
日本企業のCPU開発
日本による1 chip CPUの開発で最も早い時期に着手されたのは、フォードモータースのEEC(Electric Engine Control)プロジェクト*1に参画しCPU開発を担当した東芝と言えそうである。東芝はフォード車のエンジン制御向けに71年より12ビットCPU TLCS-12(マイクロプログラム制御方式)の開発に着手し、73年に完成させている。NMOS Si-gate 6μプロセス技術を使い32㎟(5.5mm×5.9mm)のchipに2,800個のTRを集積している。このフォードの1 chip CPUの車への搭載を皮切りに一斉に自動車メーカーによる1 chip CPUの搭載が始まることになる。
他の日本企業も早い時期からCPUの開発を進めていた。特に日電にいたっては70年代には世界で最も熱心にCPU開発に取り組んでいたのではないかと思われるほどである。シャープが72年に日本コカコーラ向けにポータブル型の端末機ビルペット*2を開発しているが、それに搭載されていたのが、シャープの依頼により日電が71年12月に完成させたμPÐ707/708の2 chip構成の4ビットCPUだった。シャープはこれをベースにガソリンスタンド向けのPOSシステムBL-3700なども開発している。日電はこの後、73年には1 chipの4ビットのμPÐ751*3(28ピンパッケージ、TR数2,500)を開発する。これはCPUとしては世界初のNMOS(7.5μプロセス).で作られたもので、そのためPMOSのIntelのi4004が108kHzだったのに対し、μPÐ751は1MHzと桁違いの高速性を持っていた。電卓やキャッシュレジスターなどに使われた。74年には8ビットのμPD753、同じく74年11月に16ビットのμPD755/756*4(2 chip構成)と立て続けに開発(発表)している。その他、73年10月に発売された日電のインテリジェントターミナルN6300には8ビットCPU DT-1(3chip構成)が搭載されるほか、IntelやZilogの互換品開発など、かなりの数のCPUの開発を行っている。
また日本では75年頃には東芝のTOSBAC-40Lやパナファコム(松下・富士通合弁)のPFU-100などのミニコンはCPUを2~3個のchipにまで集積化が進んでいた。そして富士通が79年にオフィスコンピュータV830で1万ゲートのCMOSの16ビット 1 chip CPU MB8830を搭載、また82年に発売された東芝のTOSBAC UX-300FⅡには16ビットのT-88000(Silicon On Sapphire技術)が搭載されるなど、LSIの集積度の向上により小型コンピュータのCPUのCMOS 1 chipへの移行が80年前後には一般化していく。但し汎用的なCPUの性能向上により、プロプライエタリなCPUの開発はゲーム機など一部を除き80年代半ばにはほぼ終息していくことになる。
*1 70年に米国で大気汚染防止法(マスキー法)が制定される。それをクリアするため自動車メーカーはエンジンの電子制御技術の開発を推進するが、東芝は71年にフォードのEECプロジェクトに参加する。当時の日本の半導体産業は政府の手厚い保護のもとにあり、ICの輸入もSSI/MSIレベルの100素子未満(TR数で60個程度)が輸入自由化されていた程度であった。そんな日本の半導体企業にフォードはプロジェクトの要とも言えるCPUの開発を委託する。尚、当時、1 chip CPUを搭載したのはフォードのみであった。フォードに続き76年にGMがMotorolaと共同開発を進め、78年にCadillacにMC6802が搭載される。
TLCS-12は周辺LSIも整い、また温度や湿度などの過酷な環境条件に耐える設計になっており、東芝のプロセス制御用や製造ライン制御用のデジタルコントローラーTOSDICなどにも搭載されている。そのほか、TLCS12Aマイコンキットとしても市販され、NEC のTK-80キットがそれに続くことになる。
尚、フォードと東芝は秘密裏に開発を進めており、トヨタがフォードのマイコン制御に1 chip CPUを搭載したのを知ったのは75年になってから。急遽TLCS-12を入手し試作をする。77年に東芝と共同開発を始め80年にクラウンに搭載(Motorola系の8ビット)した。尚、日産はトヨタの先を越し79年にセドリック・グロリアに1 chip CPU(Motorola系)搭載している。
*2 ビルペットは営業マンが客先で販売情報を入力するための端末機器で、その情報は持ち帰られホストコンピュータに取り込まれた。現在のハンデターミナルのオリジンと言えそうである。
*3 μPÐ751は、周辺chipであるμPD752:(8ビットI/Oポート)、μPD757:(キーボードおよびスクリーン・コントローラ)、μPD758:(プリンタ・コントローラ)とあわせ、µCOM-4を構成。これも日電オリジナルであり、Intelのi4004とは互換性はない。
*4 16ビットのμPD755/756は横河電機の計測器やカシオや日電のオフィスコンピュータや端末に搭載されていた。発表されたのは74年と早かったが発売は76年になってからと思われる。顧客を得るのにかなりの時間を要したのかもしれない。
尚、16ビット1 chip CPUでは75年にパナファコム(松下と富士通の合弁)がPFL-16((松下電子工業が製造MN1610)を開発している。75年5月にトロントで開催されたIEEEや9月にサンフランシスコで開催されたWESCONに出品されているが、これが実質世界初の16ビットCPUと言えそうである。同年11月にはTIがTMS9900を発表しこれに続いている。PFL-16は富士通の77年発売されたL-Kit16や81年に発売されたインテリジェントターミナルF9450シリーズ(製造はパナファコム)などに搭載されたほか、パナファコムからのOEMで松下や日本ハネウェルからもF9450相当の機種が販売されている。尚、F9450はインテリジェントターミナルとして大きなヒット機種であった。
互換CPUの開発
70年代末までは集積度もさほど高くはなく、いわゆるリバースエンジニアリングの手法は単純なものであった。先ず、chipを取り出し、オリンパスなどの顕微鏡写真装置(ポラドイドフィルム)で数百枚撮り、それを張り合わせスチール机2個分ぐらいの大きさのchipの拡大写真を作成する。写真から回路解読しi8080やMC6800クラスのCPUなら2週間ほどで回路図が出来上がる。これに独自の命令を追加(あまり得策とは言えない)したりして上位互換CPUが完成するという次第である。70年代半ばにはIon Implantation(I.I.)装置が熱拡散装置を代替するものとして導入されてくるが、I.I.を使われるとかなり回路が読みにくくなってくる。Z80の場合、嶋はI.I.で敢えてダミー的なTRを作り、解読を混乱させ時間稼ぎをしていた。ただし、この手法が通用したのは8ビットじだいまでの様である。
ここで問題となるのがバグの扱いである。日電はi8080Aの上位互換品µPD8080Aを開発した際にバグの扱いにかなりてこずっていた。µPD8080Aは割り込みの機能強化を行っており、AltairのユーザーなどはIntel製を取り外し日電製に置き換える者もいたと云われるが、i8080Aのバグ修正を施したために逆に混乱を招いてしまったといわれる。ユーザーはソフトウェア作成の際にバグに気づき回避策をとっていた。バグを修正すると逆にエラーが生じてしまうことになる。日電はバグを戻しµPD8080AFとして改版をおこなっている。バグすら互換の一つと言うべきものだった。動作的に明らかに意味が無い回路も、動作を解析した上でしっかりコピーし、バグも再現することが必須であった。
後に日電が16ビット版のIntel CPUやMicrosoft の8ビット版BASIC互換の16ビット版BASICをクリーンルーム方式により開発した際にはバグがきちんと再現されていたといわれる。そのため、妙な憶測をされたりするが、そこまで徹底することが必要であった。新規にBASICを開発することはさほど厄介なことではない。マニアが趣味で作る程度のものである。いったい何種のBASICが当時パソコン用に作られていたかは数えきれないほどであろう。外部仕様を頼りに他人の作ったソフトのバグまで互換化する方が遥かに困難である。マイクロソフトのMS-BASICではメモリ容量を押さえ機能を無理やり詰め込んだためその場しのぎ的な荒業が使われていたのは良いとして、Microsoft自身が混乱してしまっていたと云われる。メモリー1バイトを節約する為に、分岐命令のディスプレースメントの1バイトを命令として活用するといったコーディングが随所にあった。結局、8ビット版MS-BASICが多数の非互換バージョンに分岐してしまったこともあり、Microsoft自身が16ビット版を新規に作り直し(GW BASIC)、8ビット版との互換化は図られなかった。日電は徹底した互換化によってパソコンの8ビットから16ビットへの上方互換を維持した。PC98が日本市場を制覇した大きな要因となった様である。
互換CPUの開発において、日電はセカンドソース契約をほとんど行っていない.その為、幾度となく裁判沙汰に巻き込まれるが、大抵は勝っている。一方、他社はセカンドソース契約を行ったり、場合によっては事後的に契約したりしている。例えば富士通の場合を見ると、75年にMotorola MC6800の互換品MB8861の開発を行い76年から販売を始めるが、これに対し8年後の83年にセカンドソース契約を締結している。また78年にはIntelのi8048の互換品MBL8048を開発し、翌79年にはi8086の開発に着手している。ただ、i8086の開発中にIntelからセカンドソース契約の話がもたらされ設計資料を貰うが、それらは確認に止め、当初の予定通り開発を進め、81年にこのリバース品をセカンドソース品として契約を結んでいる。またこの際、i8089(I/Oプロセッサー)の高速版(既存品の4MHz→8MHz)の開発を受託することになるがかなり手こずった様である。一からやるより寧ろ困難だったようで、結局、200個所余りの変更を必要とし、完成までに2年近くを要してしまうことになる。富士通は逆にIntelに対してマスクデータを供給する立場になっている。ただ、プロセスの違いなどでIntelは上手く製造できなかったのか、後には富士通が世界で唯一のi8089の供給者となっている*1。
80年代初頭における日本企業のセカンドソース契約の状況を見ると、
Intel:東芝、三菱、富士通、沖、(事後的に日電*2)
Motorola:日立、富士通
Zilog:日立、東芝、シャープ、ローム、(日電も事後的にライセンスを受けている*3)
Mos Technologies:リコー(Rockwellのサブライセンス)
*1 Intelはかなり不誠実であったようで、例えばi80286の場合、Intelは5回ほどバグ対策で改版を行うが、改版マスクの提供を意図的に遅らせ、最終の5回目の改版(E-version)は遂に提供さえしなかったという。 また、富士通はCMOS版のi8086を85年早々に開発し、Intelに承認を求めるが拒否されたりする。高速(10MHz)・低消費電力であり市場のニーズは高いが、悠長にセカンドソース交渉してから開発するのでは市場の要求について行けないような状況であった。尚、IntelはHarris(Intersill)と沖とCMOS版の共同開発を行っていたようであるが、それとの競合があったためのようである。加えて、現行の8086の市場を奪われるのを恐れたのかもしれない。尚、沖やHarrisはCMOS版開発に手こずったようで、かなり遅れて87年頃に沖からCMOS版Ⅿ86C86が出荷されるが、遅れた上に5MHzと低速だった。当時、主流であったi8086-2は8MHzであり、i8086並の5Hzでは市場性に乏しく、ほとんど売れなかったと思われる。また、M86C86にはIntelの著作権表示が無いなど、Intelの著作権管理は不徹底だったようで、後にIntelと日電の裁判で日電を救うことになる。但し、日電や富士通などのIntel互換品はそもそもセカンドソースではなく独自開発したクローンもありIntelの著作権が及ばないものも多い。
尚、CMOS版の開発においてはIntelもMotrolaも他社との共同開発を行うケースが多い様だ。例えば、Motorolaは16ビットCPUのMC68000のCMOSの開発を85年から日立と共同で行っている。
*2 日電のV20(i8088)/V30(i8086)はOlivetti PCS86などIBM PC互換機に搭載されている。日電は80年代半ば頃には、CPU+MCUのマイコン関連の金額シェア(86年:Dataquest)では17.8%のシェアを持つIntelに次ぐ13.9%のシェアを持っていた。Intelの最大のライバルであった。i8086/88の互換品であるµPD8086/88は事後的にIntelからライセンスを受けている。
*3 日電はi8080/Zilog80の上位互換の16ビット版であるV20(μPD70108)/V30(μPD70116)を逆にZilogにライセンス提供している。この提供はZilogとの訴訟合戦(83年6月にZilogが日電を提訴)の和解(84年3月)の際の条件であったようだ。ZilogはそれをZ70108/70116として販売している。Zilogの他にもソニーCXQ70108/70116、シャープLH70108/70116は日電のセカンドソース品である。
Zirogが著作権侵害で10百万ドルの賠償を求めて日電をを訴えると、それに対して日電は特許侵害で29百万ドルを求めてZilogを訴えたが、Zilogにとっては極めて分が悪い裁判であった。日電は負けても失うものは僅かであるのに対し、Zilogは全てを失う恐れさえあった。おまけに、Zilogは日電による著作権侵害を5年間も放置しておいて、今更何を訴えるているのかという、ほとんど意味をなさないものであった。然し、このような、既成概念では到底有り得ないような裁判が起こされたこと自体、大きな転換期を迎えつつあったのかもしれない。
Operation Crash
Intelはi8080で先行し当初こそAltairなど主要なパソコンに搭載されたものの、価格が高かったうえに性能的にも見劣りし(特に3電源)、Z80やMCS6502が発売されるとパソコン市場でのプレゼンスを失ってしまう。75年には179ドルとかなり高い価格だったが、ただ数量次第の様でありMITISは75年にAltair用に小売りでは300ドル程度で売られていたi8080Aを75ドル(発注数は200個と思われる)で入手し、Altairを397ドル(最小構成のキット価格、出荷時には439ドルに値上げ)という価格設定を行った。Altairは市販される世界初のパソコンであるとともに、その低価格で一層の話題を誘うことになる*1。一方、Appleは76年4月に発売したApple Ⅰ(価格$666.66)用にMC6800を入手しようとしたさいは175ドル(小売価格)だった。そのためAppleはMOS Technologiesから25ドルで発売されたばかりのMCS6502(セカンドソースのSynertek製)を採用することになる。
i8080Aはかなり広範なユーザーに使われ、ワープロ(76年6月発売のWang WPSなど)などに大量に使わるものも有るが、例えば製造装置の制御用など少量生産*2の製品に使われる方が寧ろ多かったと思われる。ROMもMASK-ROMが使われることは例外的で、多くはÌntelの得意とするEPROM(紫外線消去、電気的に書き換え可)が使われ、ソフトの変更に柔軟に対応が必要な分野などでは特にi8080Aは有用性を発揮していた。価格を下げてもたいして数量が増加するようなものではなく、価格弾力性の低い市場を対象としていた。i8008に対して上位互換性(バイナリーレベルでの互換性は無い)もあり、Intelアーキテクチャーに対するソフト資産やノウハウの蓄積の形成が始まりつつあった。こうしたキャプティブに近い市場を抱え、それがある程度ながら成長していたこともあり、パソコンの黎明期はともかくとして、急速に市場が立ち上がって行く時期においてさえ、失うものが大きかったせいか柔軟な価格対応ができずパソコン用CPUにおいてはマイナーな存在となってしまう。i8080の価格は当初360ドルで発売され、75年には179ドル、その秋には69.95ドルとOEMの基準的な価格は下げられていくが(MC6800はほぼ追随)、特にMOS TechnologiesのMCS6502に比べ価格的に大きな隔たりがあった。
*1 Altairは当時電子関連の雑誌では最大の発行部数(30~40万部)を持つPopular Electronics誌の75年1月号(発行日74年11月29日)の表紙を飾り、且つカバーストーリー(P.33-38)が掲載された。表紙には”World’s First Minicomputer Kit to Rival Commercial Models, Altair8800― Save over $1000”と書かれ、一方、カバーストーリーの方には”Altair 8800 The most powerful mini computer project ever presented - can be built for under $400”と題されていた。また、カバーストーリーでは、”made by Popular Electronics/MITS”となっており、共同プロジェクトであるかのように紹介されている。 「個人でも所有できるコンピュータが欲しい」という読者の投稿を受け、編集者のLeslie Solomonが以前会ったことがあったEdward Robertsに話を持ち掛けたのが発端だったとも云われる。またAltairと名付けたのはSolomonの幼い娘だった。
部品リストの詳細が記載されているが、それらを個別に個人が揃えようとするなら、$1,400(Save over $1,000)程度は掛かるものが僅か$400で提供されるというのが最もセンセーショナルだったかもしれない。
尚、Altairをパソコンとして使うには入出力装置としてテレタイプが必要でBASICが紙テープで提供されていたが、毎回BASICをテレタイプで読ませるところから作業を始める必要が有った。
*2 民生用機器、例えば電子レンジなど量が大きく低機能で十分な用途に搭載するのはTIが2~3ドルで販売していたTI1000の様なMASK-ROMやRAMを内蔵した1 chipのマイクロコントローラが使われた。
それに対し、72年頃よりスタンドアロン型のFDD内蔵のワープロ専用機(価格は当初2万ドル弱)がLexitron(Raytheon)、Linolex、Vydec(Exxon)、WangやDECなどから発売されるが、初期的にはi4004などが搭載(MASK ROMのi4001はEPROMのi1702などに置き換え)され、70年代半ば以降はi8080など8ビットCPUにアップグレード(DECは12ビットのIntersill 6100)されCPUの主要なユーザーとなっていた。尚、米国ではワープロ専用機のピークは81年で、価格が高かったこともあり(81年頃WangのWangwriterは6,400ドルまで下がっていたが)、以後はパソコンベースのワープロソフト(Word StarやWord Perfect)への移行が進み、この移行はパソコンの特にビジネスユースの市場拡大に寄与する。
一方、日本ではパソコンとほぼ同じ時期にワープロが誕生するが、寡占的な市場になったパソコンに対して、ワープロ市場は競争的であったこともあって価格が急速に下がったこともあり、83年の販売台数はパソコン885千台、ワープロ96千台であったものが、3年後の86年にはパソコン1,235千台に対しワープロは2,047千台と急増し、90年代に入ってもワープロの出荷台数がパソコンを上回ることになる。またゲーム専用機の急成長もあって、日本でのパソコンの普及は妨げれれることになる。尚、ワープロの価格は79年2月発売の東芝W-10が630万円、80年5月の富士通OASYS100が300万円だったのが、84年8月の富士通OASYS Liteは22万円、85年7月の東芝ルポJW-R10は99,800円と80年代半ばには普及価格帯に到達した。
産業用と家庭用
コンシューマー用パソコン市場は価格弾力性の高い市場であり、パソコンメーカーは売れ筋の価格帯に価格を押さえこみ、且つ機能強化を図るためにコスト削減が必須であり安いCPUを必要としていた。またMCS6502はパイプライン的な機能を持ち画像処理能力に優れ8ビットアプリに多いゲームに適していた。パソコンの世界シェアを見ると、80年にはTandy(Z80)が23.1%、英Sinclair*1(Z80互換の日電製µPD780)が14.7%、Apple(MCS6502)13.6%、コモドール13.0%(MCS6502)とこの4社で約世界シェアの2/3近くを占めていたが、上位のほとんどはZ80やMCS6502であり、主要機種でIntel系が使われたものはほとんど無かった。また、用途別にみると、Tandy、SinclairやAppleはビジネス系にも強く、一方Commodoreは家庭用と言えたが、ビジネス系は81年のIBM PCの発売、およびその互換機メーカーの躍進とと共にシェアを失っていく*2。一方、コモドールやアタリ(MCS6502)など家庭用はIBM PCの影響はほとんど受けずシェアを伸ばして行ったものの、83年7月(米国発売85年10月)に発売され大ヒットした任天堂ファミコン(リコー製のMCS6502系であるRP2A03搭載)や同じく88年10月(に米国89年8月)発売されたセガのメガドライブ(MC68000搭載)との競争でゲームユースにおいて敗退し勢いを失っていく*1。パソコン出荷台数は96年には世界で900万台に達するが、任天堂のファミコンだけで同年には390万台を売り、ゲームユースの大きかったCommodore64(MCS6510搭載)などに打撃を与えることになる。
尚、80年代には日電や東芝、エプソンなどの日本勢が健闘しているが、日電は主に日本市場で圧倒的なシェアを持っていたこと、東芝はフラットディスプレイを搭載したラップトップ/ノートパソコン(DynaBook)で世界トップシェアを持っていたことによる。
パソコン世界シェア
*1 初期のCPUの大きなユーザーとしては、家庭用ゲーム専用機があげられる。76年11月にFairchild Camera and InsturumentsからFairchildの8ビットCPU F-8(独Olimpia Welkeが開発したCPUがベース) を搭載した家庭用ゲーム専用機Fairchild Channel F(169.95ドル)を販売する。年に10万台程度売れている。翌77年にはAtariがMCS6502を搭載したAtari VCSを発売し初年度に40万台、翌年は55万台(25万台ほど売れ残りAtariは経営危機に陥る)ほど売れている。当時、家庭用ゲーム専用機への参入が相次ぎ、BallyのArcade(Z80ベース、299ドル)、更にはGIの16ビットCPUであるCP1610(75年にHonewellの制御システム用に開発)を搭載したMattelのIntellivision(299ドル)など第二世代の家庭用ゲーム専用機がパソコンに先立ちCPU市場をリードしていた。米国では83年頃までに累計で1,500万台のコンソールタイプの家庭用ゲーム専用機が普及していたと云われる。そして突如、83年にゲーム専用機市場が崩壊してしまう。いわゆるAtariショックと称されるものであるが、Atariの親会社であるWarner Comunications(映画会社のWarner Brothersなどを傘下に持つ)の経営さえ揺るがすことになる。Warner Comunicationsは83年12月期に▲418百万ドル、84年12月期に▲586百万ドルの損出を計上し、Atariは解体され家庭用ゲーム部門は84年にCommodoreを追われたJack Tramielに売却され、アーケードゲーム部門は85年にナムコへ売却されたが、共に昔の勢いを取り戻すことはできなかった。
一方、Fairchildは77年にはF-8ベースのパソコンVideoBrain Family Computerを発売し、パソコンに進出する、同じくAtariも79年11月にMCS6502ベースのパソコンAtari400を発売する。この際、MOS TechnologiesはAtariに対してMCS5602とI/O Chipのセットを12ドルで販売している。
Apple II、コモドールPET、TRS-80によるホームコンピューター革命とも言える現象が始まっており、ゲーム専用機からパソコンへの移行が進む様に見えた。任天堂の成功はこの流れを逆流させてしまったようだ。初期のゲーム機の売上台数を見ると;―
任天堂
83年07月発売 ファミコン 6,191万台(米国85年10月、3,400万台)・・MCS6502系(RP2A03)
90年11月発売 スーパーファミコン 4,910万台(米国91年08月、2,335万台)・・MCS6502系(MCS65C816)
96年06月発売 NINTENDO 64 3,293万台(米国96年09月、2,063万台)・・MIPS R4300
セガ
88年10月発売 メガドライブ 3,075万台(米国89年08月、2,000万台)・・MC68000+Z80
94年11月発売 サターン 926万台(米国95年05月、 126万台)・・SH-2
ソニー
94年12月発売 Play Station(初代) 12,240万台(米国95年09月、3,967万台)・・MIPS R3000
(Play Station初代から5までで21年末までに47,890万台)
90年代に入る頃には、ゲーム主体の家庭用パソコンはほとんど淘汰されてしまい、IBM PCおよびその互換機がパソコン市場の9割を占めることになる。
Intelの凋落
Z80はi8080と同じく40ピン・パッケージであったがピン・コンパチブルではなかったため単純には置き換えられないが、バイナリーレベルでのソフトウェアの上位互換性がありIntelの資産を継承できる強みがあった。Digital Research(DRI)のCP/MやMicrosoftのBASICなどi8080用に書かれたソフトウェアはZ80でそのまま使えた。IntelはZ80対抗の為i8085(単一5V)を開発するが、これはあまり成功しなかった。日本では日電が76年8月にトレーニングキットTK-80にi8080をしたものの、日本初のパソコンである79年9月に発売されたPC-8001などにおいては日電もZ80(日電製互換品)を採用することとなる。パソコン用としてはi8080やMC6800はZ80やMCS6502用に書かれた流通ソフトの移植はけっこう厄介だったと思われる。Z80には多くの追加された命令が有り、且つ、i8080の絶対番地方式に対し相対番地方式の違いもある。またMCS6502は画像処理の高速化の為にアセンブリー言語を使ってMCS6502にハード依存性のあるソフトの作りになっていたものが多いと思われ、且つ、MC6800がbig eggに対してMCS6502パソコンにはlittle eggであるという違いもあり、i8080やMC6800を搭載しようにも、単に価格面のみではなく、そもそも既に搭載は困難だったようだ。
また、Motorolaは70年代末にはMC6800を自動車産業向けにカスタマイズしたMC6801/2やMC6805やモジュール化した、例えばGMCM(General Motors Control Module)の形で自動車産業に強みを発揮していた。またMC6800系の命令セットはDECのミニコンに似ており、それに慣れた技術者たちにとっては使いやすかったこともありenbededの分野でIntelを凌いでいく。i8080は販売数量こそ増加傾向にあっただろうが、パソコンの成長と共にシェアを大きく落として行くことになる。
*1 SinclairはClive Sinclair によって61年に設立されたSinclair Radionicsにその起源を持つ。75年にはTIの電卓用TMS0803 chipセットを搭載した電卓Sinclair Scientificを世界的にヒットさせている。80年にZX80を£99.95(約52,000円、米国では$199.95)で販売し、初めて100ポンド/200ドルを切ったパソコンとなった(キットとしても£79.95で販売)。翌81年にはZX81を£69.95(約31,000円)、キットで£49.95で販売するなど更に価格を引き下げている。
尚、これら8ビットパソコンの後継として16ビット版を開発するために83年末から開発が始まり85年に完成したのがARM 1 (Acorn RISC Machine 1)である。シンプルな構造でその為消費電が少なかったが性能は高かった。翌86年に最初の製品となるARM2が完成する。80年代末、Appleと共同開発に取り組んだが、その際に、分社化してAppleの出資(43%)も受けAdvanced RISC Machinesを設立、91年にはARM6が開発され、AppleはこれをベースにARM610を開発しNewtonに搭載する。これを足掛かりにARMは飛躍することとなる。93年にリリースされたARM7 Core familyはAppleのiPod、任天堂やセガの携帯ゲーム機、HPの電卓や多くの携帯電話などモバイル機器分野を中心に広く使われることとなる。現在、ARM Coreとして広くライセンスされ、多くの企業によってARM CoreをベースとしたCPUやMCU(マイクロコントローラー)が開発されている。現在ではIntel・/AMDに対し十分に対抗できるところまで来ていると言っても過言ではないかも。
飛び出した茹でガエル
茹でガエルの譬えがあるが、実際に実験してみると、カエルは耐えられなくなる前に飛び出してしまう様である。
70年代末にはZilogとMOS Technologiesが勃興してきたパソコン市場のほとんどを獲得し、一方、Motorolaは自動車のエンジン制御などの産業分野を切り開きつつあった。
これに対し、70年代末にIntelはOperation Crushと称された積極的な拡販策に乗り出す。価格を大幅に下げ、例えばi8080Aの価格は80年には5ドルまで低下する。16ビットのi8086に関してもかなりの低価格を提示していた。この頃からntelはi80186やi80286へのRoad Mapや将来の価格へのコミットをするようになる。それもNoyceが率先してユーザーに出向きトップセールスを展開する。その為、CPUやⅯCUの価格は下落し採算性はしばらく低い状態が続くことになる。この積極的な低価格に加えサポートの良さやi8080(更にはZ80)などによって築かれたソフトウェア資産やユーザーに形成されたノウハウ、それに加え8086は性能的に見劣りしたが出荷時期が比較的早かったこともあって、一応は産業用などの市場においてはプレゼンスを獲得していたようであるが、パソコン市場には受け入れられるほどのものでは無かった様だ。
パソコン市場が立ち上げりつつあった78年におけるCPUのシェア(Dataquest)を見ると、8ビット市場においてはIntelはトップを維持しており、その互換品がほぼ4割程度を占め、金額的には更に高いシェアを占めていたと思われるが、低価格が求められた第二世代ゲーム機や立ち上げり出したパソコン市場では主要機種においてはほとんど採用されることは無かったようだ。4ビットにおいてはほとんど敗退し、8ビットにおいては市場の伸びによって数量的には増加するものの、Z80やMCS6502に対しては後塵を拝することになる。パソコン市場が立ち上がり出した78年の8ビットCPUのメーカー別の出荷個数を見ると;―
IBM PCのi8088採用
Operation Crashの最大の成果がIBM PCのi8088*1採用であった。IBMとIntelのIBMとIntelの関係は既にIBM Displaywriter(ワープロ)にi8086を採用した実績があったほか、80年頃に提携を結びIBMはバブリメモリ技術と交換にIntelのCPUに関するライセンスを得ている*2。
i8088の内部処理は16ビットであるのに対してバスは8ビットであり8ビットと16ビットの中間的と言っての良い様なCPUであり、実質は8ビットCPUの高速版と言う位置づけである。バスが8ビット幅のため8ビットCPU用の安価な周辺回路(周辺LSI)がそのまま使えるほか、当時のDRAMは1ビット構成だったので、16ビットバスなら最低16個必要なところが8個で済ますことができるなど、低コストを志向したものと思われる*3。また、i8086/88は8080と流石にバイナリーレベルの互換性はないのでユーザーが保有している8ビット機用のパッケージソフトなどは使えないものの、ソフトウェアハウスにとってはi8080用に開発されたソフト(アセンブラ)に一切の手を加えることなく再アセンブルするだけで、i8086/88用のバイナリを生成する事も出来、移植がし易かった(アプリケーションソフトから見て64kバイトのメモリー空間などi8080と同じ環境を設定することができた)。
IBM PCのCPU採用に関しては、ZilogはExon(Exxon Enterprise)の子会社であったことが不利だったと云われる。当時、An Affiliate of Exxon Enterprise,Inc.として、Exxonの関係会社であることを前面に出した新興企業群がワープロ、ファクシミリ、電子タイプライター、レーザープリンター、OMRシステム、カラーグラフィカルディスプレイ、データ通信など新分野でプレゼンスを確立しつつありZilogもその一つであり、新規分野においてはExxonとIBMとの競合が始まっていた。また、Z8000はハードワイヤド方式を採っており、そのバグ修正に手間取り出遅れてしまったことに加え、周辺LSIではほとんど使えるものは無く、おまけにZ80に対して互換性が低い*4というより別物と言うべきものであった。その為、築き上げられたZ80の資産はi8086/88の方に継承されることになる。Z8000はAmdahlでCPU装置のアーキテクチャーグループにいたフランス人のBernard Peutoが開発の中心であり、コンピュータ技術者が開発をリードするようになり本格的なコンピュータ技術が取り込まれていく。その為、8ビットCPUに対し大きなアーキテクチャーの差異があった。
一方、80年に発売されたMotorolaのMC68000は内部処理が32ビット、バス幅は16ビットでi8088(内部処理が16ビット、バス幅8ビット)に比し一世代上のCPUであり高性能すぎた*5。本来は完全な32ビットCPU(84年発売のMC68020)として開発されるはずのものであったが、半導体の集積技術がまだ十分なレベルまで達しておらずバスを16ビットとした。こうした高性能CPUの場合、機器ベンダーが周辺回路を設計し独自色を出すのが一般であり、その為、周辺回路用LSIがそろっていなかった。
*1 i8088の出荷数、平均単価(互換品含む)の推移を見ると(Dataquest):―
81年 470千個 平均単価7.00ドル
82年 900千個 平均単価 4.50ドル
83年 2,400千個 平均単価 3.25ドル
*2 Intelが多くの企業に供与したセカンドソース契約とは異なる。後に、CyrixなどFablessのIntel互換CPUメーカーはIBMに製造委託することによりIntelとの特許問題等を回避することができた。IBMの他にはⅯostek(STMicroelectronicsがMostek買収により継承)、HPなどともIntelは包括的なoyalty-freeのライセンス契約を結んでおり、互換機メーカーはIBMやSTMicroelectronicsをファンドリーとして利用している。それら企業とライセンス契約を締結した当時はFablessを想定していなかった。それに対しIntelが後に、例えばサンヨーと結んだ契約では”Sanyo-desiged and Sanyo-manufactured products”と言う制約を設けている。
*3 IBM PCはビジネス用のイメージが強いが、当初は家庭用の位置づけであったようで、AtariからOEM供給を受けたり、またAtariの買収も検討したこともあったようだ。また、販売チャネルとしてはシアーズ・ローバック(当時最大の小売りチェーン)や、全米に200店近い店舗を持つコンピュータランドでの販売を決めていた。
*4 Z8000の失敗の要因としてZ80との互換性の低さがあげられるが、それ以上に半導体製造技術の弱さも大きな弱点であったようだ。70年代末期にはIntelもMotrolaもDRAMの大手として設備投資競争をリードし、ウェハーの大口径化(75年頃より4インチ化が始まる)、そしてフォトではGCAのDSWの導入が始まり、蒸着では真空蒸着からスパッター、拡散ではIon Inplantationが更に普及し、エッチングもウェットからドライへの移行が始まり、超LSIの玄関口とも言える64k‐RAM量産化への対応が進展していた時期であった。Z8000とMC68000を比較するとZ8000は1世代の遅れが有った様である。MC68000のTR数はZ68000の4倍に対し、chipサイズは1割程度の増加に留まっている。i8086に対してもかなりの製造技術の遅れが目立っていた。実質、Zilogは先端LSIを3インチ16k‐DRAMレベルの工場で、IntelやMotorolaの4インチ64K-DRAMレベルの工場と戦いを強いられていたようなもので、TR数も制限され、それなのにChipサイズも大きく、そもそも勝ち目は無かったと思われる。
*5 MⅭ68000(8ビットのMC6800とはほとんど互換性は無い)を搭載したシステムはOSとしてUNIXを採用するケースが多かった。UNIXというマルチユーザOSを採用した為にEngineering Work Station(EWS)として、シングルユーザ・シングルタスクのPC-DOS (MS-DOS)を採用したIBM PCとは別の発展を遂げ、10年後にはIBMのメインフレーム事業を大きく揺るがし、IBMは91年から93年にかけ3年連続の赤字に追い込まれ大胆な構造改革を迫られることになる。
IBM業績(単位:10憶ドル)
売上 純損益 売上 純損益 売上 純損益
1988 59.68 5.80 1991 64.79 -2.82 1994 62.67 3.02
1989 62.71 3.70 1992 64.52 -4.96 1995 71.94 4.17
1990 69.02 6.02 1993 62.72 -8.10 1996 73.42 5.42
32ビット版(但しBUSは16ビット)であるMC68000を搭載した83年1月発売のAppleのLisa、84年1月発売のApple Macintosh(84年MC68000→89年にはフルの32ビットのMC68030)、Commodole Amiga(85年)、Atari ST(85年MC68000→90年MC68030)の3機種のみでも91年には約350万台とPC市場1,880万台の約19%を占めるまでに成長する。またMC68000系のCPUはパソコン市場での成功に加え、Apollo Computer(80年設立)のDN 100 Work Station、Sun Microsystems(82年設立)のSun-3 Work Station、NEXT(Steve Jobsが創立)のNEXTcubeやHPの㏋9000などEWSにも広く採用され高性能CPU市場が大きく拡大していきRISCアーキテクチャーへと繋がることになる。また、MC680x0系はゲーム機器(88年10月発売のセガメガドライブにはMC68000が搭載され、累計で3,075万台売られた)やレーザープリンター制御、グラフィックやサウンドのコントロール、産業機器の制御用など広く使われていた。
尚、MC680x0はBig endianであり、本来ならばBig endianであるIBMのコンピュータシステムと相性が良い。それに対し、IntelはLittle endianであり、当時であればこのendianness変換はかなり困難であり(Data通信ができない)、それがIBMにとっては逆に製品構成上のメリットだったかも知れない。メインフレームなどに接続されるとインテリジェント端末などを置き換えてしまうどころか、MC680x0ならメインフレームコンピュータ用のアプリケーションソフトがパソコンに移植される恐れさえ生じてしまう。
然しながら、直にそうした危惧は現実のものとなってしまう。例えば、82年末にAuto CADがリリースされる。i8088ベースでOSはCP/M-86のVictor Technologies(Chuck Peddleが1980年に設立したSirius System Technologyが前身)のVictor9000 (Display 800x400)向けに先ず販売された。かなりローエンドのCADであるが、その動きは直にハイエンドのCADにも波及することになる。例えば、日本におけるIBM PC(5550)には日本語処理の負荷の大きさもあってi8088ではなくi8086が搭載されていたほか、モニターの解像度も高く(1,024ドット×768ドットのXGA)、そのため、米CADAMと川崎重工の合弁会社であるキャダムサービス社は84年からメインフレーム用ADであるCADAMのパソコン版のMicro CADAMの開発をすすめ、日本IBMが85年9月に販売を始め(90年6月OS/2版、UNIX版のEWS)、富士通も88年よりMicro CADAMのEWS版の販売を始める。当初はCADを導入していない中小企業などに市場を広げるものであったが、メインフレームCADを使用していた大企業においてもEWS化が一挙に進行することになりダウンサイジング化が進展する。
CPUの採算性
CPUは現在では寡占的な市場となっており採算性は高いと言えるが、80年代前半などは採算性が必ずしも高いとは言えなかった様である。セカンドソースの供与を各社とも行っており、またコピー品も多く、機種間の競争に加え、互換品との競争もあり高価格の維持は困難であった。例えば、i8080の場合、AMDなどにセカンドソースを供与していたほか、Zilogや日電が上位互換品を出すなど寡占的な価格維持は困難であった。パソコン用CPUとして、当初こそi8080は採用されたものの、市場の立ち上がり期には競合も出揃い価格対応できず、且つ性能的にも劣りほとんどパソコン市場ではプレゼンスを得ることができなかった。然しながら、Z80が有ったからこそ、IBM PCの立ち上がりは順調だったのかもしれない。Z80用のパッケージソフトのIBM PCへの移植は比較的容易だったようである*1。
i8088/80286系のCPUにおいてはIntelのほかAMDと日電が主要なメーカーだった。AMDはセカンドソースとしてIBMの需要の30%を確保していた。日電は独自開発のVシリーズを自社のPC9801に搭載していたほか、IBM PC互換機メーカーへの供給(85年当時、互換機を含むIBM PCに搭載されているCPUシェアではIntelと日電はそれぞれ4割のシェアでほぼ拮抗していた)もあり、売上ではIntelに次ぐ大手だった。Dataquestによると:―
Intelが16ビットで供与したのは著作権をベースとしたセカンドソース契約であるが、この場合はIntelが提供するMaskに依存することになる。その際、Intelがプロセスを確立してからMaskが提供されるが、当然のこと入手は遅れることになり、またセカンドソーサーはIntelとプロセスが異なり量産化に手間取ることになる。そのためIntelが新版を出荷しているのに対して旧版で対応せざるを得ず競争は不利となる。またIntel自身でさえシリコンバレーやオレゴンの試作工場から量産工場へ移管する際に製造装置の違いなどにより立ち上げに手間取り90年代に入ってもトラブル続きで試行錯誤を続けていたほどで*2、まして大きく異なるプロセスを使うセカンドソーサーにとってはハンディが有った。後発でありハンディを抱え量産性に劣り原価は高く、且つIntelより低価格でないと売れないような状況であり、Intelはセカンドソーサーに対し優位性を持っていたが、Intel自体も採算性がそれほど高かった訳ではなかった。83~84年は半導体にとって好景気の時期であり、81年から84年の3年間でIntelの売上は倍増したが、85~86年の半導体不況の影響、および日本勢の躍進もあり、Intelは86年には創業当初を除けば初めての欠損を計上する。
*1 それに対し、MotorolaのMC68000はMCS6502(MC6800とも)とはほとんど互換性がなかったこともあり、それを搭載した83年1月に発売されたAppleのLisaにはパッケージソフトウエアがほとんど揃わず、且つ9,995ドルと価格が高かったこともあり大量に売れ残り、またMC68020を搭載した84年4月に発売されたMacintosh(2,495ドは大々的な宣伝の効果もあり発売当初こそ売れたもののなかなかパッケージソフトが揃わず直に売り上げは落ち込んでしまう。それでも徐々にMacintoshの性能の高さを生かしたソフトが売り出されたこともあり売上は比較的順調に伸びていく。85年のデスクトップパブリッシングのAldasのPagemakerや90年のAdobeのPhotoshopなどネイティブなMac向けのソフトの販売が進んだ。Appleは互換性より性能を重視して発展してきた企業であるが、それが成功に導いた大きな要因であると言えそうである。
*2 Intelに於いて、試作工場から量産工場への製造移管がやっとスムーズに行なえるようになったのは93年末に操業を開始したアイルランドのDublinの西郊外に新設したLeixlip(FAB10)へのi486とPentiumの製造移管においてであった。この際にCopy Exactlyと称される手法が使われた。
コンピュータ技術の1 Chip CPUへのimplantation
74年に開発されたi8080のTR数は4,800個であった。それに対し10年後の84年に開発されたMC68020のTR数は20万個であった。10年度40倍であるが、半導体の集積度の向上は衰えることなく、ほぼこのペースで現在でも続いている。
70年代中頃の大型コンピュータのCPUのTR数は50万個程度であった。並列的な機構が増えたため80年代末にはかなり増えるがそれでも1,000万個程度であった。BIPのECL回路が使われ、ECLは高速ではあるが発熱が高く集積が困難だった。微細化の進展によるCMOSの高速化によりECLは優位性を失っていき、90年代半ば頃には大型コンピュータのCPUもCMOS化されていく。BIPの高速化技術は過去の遺物となってしまう。当初こそ、大型コンピュータのCPUのCMOS化はMulti-chip構成であったが、直にOne-chip化され、それも汎用のRISCをベースにしたものに移行し、パソコン用CPUなどと特に差異はなくなっていく。違いと言えば、並列化(クラスター化)により性能を高める方式のためピン数(バンプ数)がパソコン用CPUの場合は数百本程度なのに対し、数倍多かった点、その為の実装が特殊となる点、および水冷などの冷却を要したこと、及び価格がけた違いに高かったことなどを除けば、パソコン用CPUと基本的には差異は少ない。
ミニコンの1 Chip CPU化
ミニコンの1chip化の動きは既に60年代末より始まっていた。70年にはi4004に先立ちGarrett AiResearchが20ビットCPUのCADC(MP944)の開発に至っている。1 chipとは行かないまでも小型・軽量化が求められる航空宇宙関連ではICを使い幾つかのコンピュータが製作されていたようだが、それらも製造技術の進歩により必然的に1 chip CPUに至るものだったようである。民間でも、69年のFour-Phase Systems社の8ビット×3のビットスライスの24ビットCPU(8ビット単体でも機能する)を搭載したAL-1があった。
Intelではi4004に若干遅れて、Computer TerminalCorporation(CTC)のDatapoint 2200用に8ビットCPUのchipセット(i8008)の開発を進めるが、TIはIntelより早く完成させることになる。但し、速度面で劣っておりDatapoint2200には採用されなかった。1 chip CPU開発の難点は性能的に劣ることに加え、数量の少なさであった様だ。開発負荷が大きい割にはほとんど数量が出ないため、半導体メーカーにとっては航空・宇宙関連を別にすればあまり旨みは無かった様だ。
これに対し、ミニコンのアーキテクチャーをベース*1にした汎用のCPUが70年代半ばに開発されていく。DECのPDP-8 (65年)を1 chip化した12ビットのIntersil IM6100(75年)、TIのミニコンTI990(75年)を1 chip化した16ビットのTMS9900*2(76年)、 Data General(DG)の Nova(69年)を1 chipしたFairchildの16ビットF9440(77年)などが代表的と言えそうである。但し、速度の面で劣っておりDECのPDP 11/03(Western Digitalの汎用の16ビットのMCP-1600搭載)など下位機種のミニコンに汎用のCPUが採用されることがあった程度である。
一方、日本では75年のパナファコムの16ビットのPFL-16((MN1610)などの1 chip CPUが開発されていたが、米国と異なり、オフコン(ミニコン)メーカーが半導体メーカーでもあり、ほとんどが社内ユースであり、一般に販売されたものは少なかったが、自社製オフコンなどに搭載するために開発されていた。商用計算や帳票処理などが主体であり高速性はそれほど求められなかった。代表的なのは富士通のCMOS 10,000ゲート(4万TR程度)の16ビットCPU MB8830で、これは79年に発売されたVシリーズに搭載されていた。
80年代に入るとLSIの集積度が向上、CMOS(電力速度積がNMOSに比し著しく低い)による高速化により、同世代のミニコンを1chip化することが可能なレベルまで達っし、更に半導体の集積度(速度)向上はミニコンの性能向上を上回るペースで続いて行く。いずれはメインフレームの中型クラス、更には大型クラスさえ上回ることが予想されていた。90年代中頃には大型メインフレームもCMOS CPUベースとなって行く。また、CPUのアーキテクチャーは70年代半ば頃よりコンピュータ技術からの影響を強く受けるようになり、開発もコンピュータに対しては素人的な半導体技術者から、コンピュータサイエンス系の技術者が中心になって行く。
83年1月にはAppleがMC68000搭載のLisaを発売しパソコンの32ビット時代が直に到来するかと思われた。DECなどのミニコンメーカーや、Intel、Motorola、Zilogなどの半導体メーカーも高性能CPUの開発をめざした。また、大型コンピュータ―のCPUの1 chip化を目指す動きが早くも70年代後半には出てくる。75年にAmdallをスピンアウトしたFred BuelowやJohn ZasioらがMicrotechnology Corpを設立し、CMOS技術を使いOne Chip Mainframe Computerの開発を試みる。少し早すぎたのか上手くは行かずMicrotechnology Corpは79年に英STC(Standard Telephone & Cables)に買収される。Buelowと Zasioは90年代に入りHal Computerで64ビットRISC CPUのSPARK 64の開発を主導することになる。
*1 ミニコンの1chip化は半導体メーカーがミニコンメーカーの了解なしに開発したものであり、ミニコンメーカーに訴訟を起こされたりすることもあった。FairchildのF9440およびF9445(ミリタリー規格1750準拠)はDGから訴訟を起こされFairchildが52百万ドルをDGに支払うことで86年に和解している。
*2 TIのTMS9900は79年6月に発売されたTIの16ビットパソコンTI-99/4(価格1,150ドル)、その後継機種である81年6月に発売されたTI-99/4A(525ドル)に搭載されている。TI-90/4は16ビットパソコンとしては世界初である。99/4Aは81年6月に発売され84年3月までに280万台販売されており、81年8月に発売されたIBM PCを数量的には上回っており82年の世界シェアは99/4Aが13.9%に対してIBM PCは3.2%に過ぎず、特にコンシューマー市場では99/4AやCommodoreのVIC-20や64に圧倒されIBM PCはほとんど売れず、想定に反しビジネス用がほとんどであった(IBM PC売上台数81年35千台、82年240千台)。
99/4Aはほぼ同時に発売された8ビットのCommodore VIC-20(生涯250万台)、および後継の82年8月発売の8ビットのCommodore 64(1700万台)と激しい競争を行い一時は互角に戦っていた。TIは積極的な価格攻勢に出ている。価格推移を見ておくと:―
TIの99/4Aは81年6月 525ドルで発売、ほぼ同時期にCommodoreがVIC-20を299.95ドルで発売する。対抗のため99/4Aは年末には449.95ドルに引き下げられる。82年末に99/4AおよびVIC-20が共に200ドルまで下げられる。そして83年4月には共に100ドルまで引き下げるという激しい価格競争を行う。
共にいわゆるRazor & blade modelの商法であり、本体はロスでもアフターマーケットで回収できれば良いのだが、TIはそもそも16ビットであり本体の原価は高く、また周辺機やソフトの売上は思うようにはいかなかったようだ。83年は半導体の好況時であったにも関わらず、TIは第二四半期(4-6月)に▲119.2百万ドル、第三四半期にも▲110.8百万ドルの損失を計上し、10月にはパソコンビジネスからの撤退を発表する。83年にTIはパソコン事業で▲660百万ドルの損失を出したと云われる。83年は半導体が好景気で有ったものの、TIは結局、年間で▲145百万ドルのロスを計上することになる。TIはゲームソフトを自社開発品およびライセンス供与したサードパーティーを抱え込む方式を採っていたが、パソコンの設置台数がクリティカルマスを超えることが必須でありパソコンの拡販を積極的に行ったが、MCS6502系で開発されていたソフトのTMS9900ベースのパソコンへの移植はそもそも厄介であり、ソフトが少なすぎた上に、特にビジネス用のWardstarやVisiCalkなどの人気ソフトがほとんど移植されなかったため、ビジネス用の周辺機器であるプリンターなどの売上も期待外れであり、結局はゲーム市場の崩壊もあって多額のロスを出し撤退に追い込まれる。
一方、Commodoreは82年(6月が決算期であるが比較の為暦年に組み替え)の売上459.9百万ドル、純利益67.4百万ドルから、83年には売上1,042.3百万ドル、純利益126.1百万ドルと売上利益とも倍増するなど絶好調だった。
Atariを崩壊させ、TIのパソコン事業を破綻に追い込み1人勝のCommodoreであったが、翌84年末頃から業績は変調をきたす。ゲーム専用機におけるソフトの価格崩壊がパソコン用ゲームソフトにも波及したためと思われる。
Intel i80286と Motorola MC680x0
83年3月にIBM PC XTが発売される。その際にXT/370と言うPC XTとしても使え、且つ、メインフレームコンピュータの端末、および、メインフレームから中・小規模のアプリケーションソフトならXT/370のメモリーにロードし、エミュレーションして使うことができる機種が発売された。XT/370にはPC XTに対し2個のMC68000が搭載された基板などが追加されていた。価格は12千ドル程度だった。DRAMを追加で512kバイト搭載していたが、これはIBMの74年に発売された小型機370/125の主記憶は96k~128kバイトでありそれを超えていた。処理スピードはかなり劣るとは言え、XT/370はクライアント機としては十分な機能を備えていた。後のSAAの前駆と言えそうである。
そして、Sun Microsystemsが83年11月にMC68010*1、DRAM 4Ⅿバイトを搭載したSun-2/120(価格29,300ドル)、DRAM 8BのSun-2/160(48,800ドル)などSun-2シリーズ*2を発売する。8Ⅿバイトのメモリー容量と言うのは、IBMが75年に発売したフラッグシップとも言える大型機370/168のメモリー容量に匹敵した。Sun-2はメインフレームによる集中処理から分散処理への移行、およびUNIXシステムによるクライアント・サーバーへの移行が進みだす。
MC68000は24ビットアドレッシングによって最大16Mバイトのメモリー(ROMやVideo RAMを併せ)を使える。8ビットのi8080などが最大64kバイト*3であったのに対し512倍の容量だった。桁違いに大きかったものの、DRAMのビット価格の級数的な低下により、MC68000の膨大なメモリー容量を使いこなすEWS*4が誕生する。CPUの性能向上のみではなく、DRAM価格の級数的な下落(2年で半額)やHDDなどの下落がもたらしたものであった。HDDは標準で42Ⅿバイトであったが、380Mバイトまで拡張できた(IBM370/168のHDDの基本構成は317.5Mバイト)。
MC68000は32ビットCPU*5として79年9月に開発された(発表79/9、サンプルXC68000の出荷80/2、量産MC68000の出荷80/11)。8ビットのMC6800との互換性は無いが、その後開発されるMC68020などはMC68000との互換性が強く意識されて開発されている。MC6800と同様にDECのPDP-11のアーキテクチャーの影響を受けていると云われ、命令セットアーキテクチャなどPDP-11と同様にUNIXとの親和性が高かったと云われる。
一方、Intelはi8086/88に続き82年2月にi80286(TR数134,000個とi8086/88の29,000個の4倍超)を開発するが、パイプラインや仮想記憶などを取り入れ16ビットCPUとは言えかなり高度なものであった。然しながら、IBM PC/ATやその互換機で使われる限りはMS-DOSがi8086/88用でありi80286の能力を使い切れていなかったため、MC68000搭載機の方が性能を大きく上回っていた。また、85年10月に開発されたi80386(TR数275,000個)は32ビットとはいえ、16ビット版のMS-DOSやWindowsが使われる限りは単に16ビットCPUの高速版と言う以上の機能は無かった。その為か、MicrosoftのExcelでさえ85年9月にはMac版(MC68000搭載)が発売されるが、IBM PC(及び互換機)に移植されるのは87年10月に発表されたWindows 2.0まで待つことになる。Intelの32ビットCPUがその機能を十分に発揮*6できるようになるのは、93年7月のWindows NT3.1(EWS用)および95年のWindows 95(PC用)まで待たねばならなかった。
*1 MC68010はMC68000に対して仮想記憶やエミュレーション機能等を強化(仮想マシーン)したもの。
*2 Sun Microsystemsが82年5月にMC68000を搭載したSun-1を発売する。販売台数は200台弱に過ぎなかったと云われる。性能的にDECのVAXに比べるとかなり見劣りした。256kバイトのメモリーを搭載(最大4Mバイトまで拡張)し価格は8,900ドルだった。
MC68000搭載機種は第一世代(80年~)のEWSと言われ、当時、性能の基準とされたVAX 11/750に対し0.2~0.3程度に過ぎなかった。
MC68010搭載機種(専用グラフィックプロセッサーも搭載)が第二世代(83年~)、VAX 11/750に対し0.3~1.0程度の性能を持ち、そしてフルの32ビットCPUであるMC68020搭載機種は第三世代(85年~)と云われ、VAX 11/750に対し1~3程度に達し、大抵のCAD/CAM/CAE業務をカバーできる能力に達していた。部品点数の多い航空機や自動車などのDigital Assemblyなどの機械系CAM/CAEを除けばたいていのCADによる設計開発業務は遜色の無いレベルに達してきていた。但し、CADは更に進歩していき第三世代EWSでは直ぐに能力的に不十分なものとなってしまうが。第三世代EWSの時代はDECのVAXに対してLow endからMiddle endと言う位置づけに置かれており、且つ、市場の拡大もありDECの業績も相変わらず好調だった。
*3 i8088は最大1Mバイトメモリー容量を持てた。但し、ROMやVideo RAMで400kバイト程度を占有してるのでRAMとしては最大640kバイト搭載可能。81年のIBM PCに実際に搭載されていたのは16k~256kバイト。
Altairに標準搭載されていたRAMは256バイト、AppleⅡが4kバイト(4kバイト単位で48kバイト程度まで増設可)であった。
*4 EWSはMotorolaのMC680x0と共に急速に進化を遂げて行く。EWSの主要なユースとしては80年代後半においては4~5割がCAD(CAD/CAM/CAE)であったが、CADの場合、EWS以前にはDECやData Generalのミニコンに搭載され、CADソフトベンダーがターンキーシステムとして販売するケースが多かった。80年代始め頃はDECのVAXシリーズが代表的であった。一方で、CADAMやCATIA(両方とも主にIBMが販売)などのメインフレームCADがあった。
*5 厳密な意味での32ビットCPUの定義としては、内部処理32ビット、32ビットアドレッシング、32ビット外部データバスを持つものであるが、MC68000はそれぞれ32ビット、24ビット、16ビットであるので、32ビットCPUとしてはかなり不完全なものであり、16ビットCPUとも言えそうである。84年に開発されたMC68020になって、内部処理32ビット、32ビットアドレッシング、32ビット外部データバスとなり完全な32ビットCPUとなる。尚、TR数はMC68000が約7万個(68,000個と言われるが実際には7万個程度あった)に対しMC68020は20万個である。
*6 MS-DOSベースのi80386(DX)搭載パソコンの機能は限定的であったが、UNIX系のOSを搭載したi80386ベースのEWSはコストパフォーマンスが高くSun MicrosystemsのSUN386i などに搭載されていた。だが本格的なUNIXが搭載されるのは寧ろ少数派であり、大抵はSanta Cruz OperationのSOC UNIXなど機能を絞ったPC版のUNIXが搭載されていたが、その為かlow endのWS/EWSと言った位置づけに置かれi80386の機能は十分には引き出されてはいなかった。i80386は本来ならMC68020に対抗するものであったが、逆に外部バスを16ビットに落としたi80386SX( MC68000相当)を88年6月に発売され、これが主流となる。
尚、Compaqが86年9月にPC/AT互換機のDesk Pro386(8,000ドル)を発売しているが、外部バス幅の違いを解消するのにかなり苦労したようである。FLEX Architectureという新バスアーキテクチャを開発し、chipセットも独自に開発するなど、騙し騙しであるが、i80386DXを搭載したPC/AT互換機を開発する。当時としては大してi80286と性能差は無かったようだが、翌87年12月発売されるWindows 2.0や90年5月のWindows 3.0によりグラフィカル処理などCPUの内部処理能力の高さが生かされてくると、i80386(SXで十分だが)を搭載する価値が出てくる。
DECミニコンの1 Chip CPU
DECは70年に発売された16ビット機のPDP-11で急成長した。広範なユーザーに使われ、PDP-11のOSはVAXのDOS-11は分化し、それぞれ特定業種向けに細分化され互換性が欠如してしまう。その為、業種を超えて超えて販売されるソフトウェアはそれぞれのOSに移植する必要が有り流通を妨げるという弊害が生じた。75年よりDECはStar(ハード)/Sterlet(OS)プロジェクトが開始される。
78年にDECは32ビット機のVAXシリーズのVAX 11/780を発売する。PDP-11の互換モードを備え、PDP-11からのソフトウェア資産の継承を図った。価格レンジで1000対1に及ぶ大型からデスクトップまでのシリーズ全体に対し、唯一のOSであるVMSで対応し、単一アーキテクチャーによるネットワークと分散処理の構築を可能とした。
そしてDECは半導体製造*1に乗り出す。84年2月に32ビット1 chip CPUのMicroVAXⅡ(125千TR、chip面積82㎟) が製造され、翌年これを使ったミニコンMicroVAXⅡは2万ドル弱で売られヒットする。更に87年2月には同じくMicroVAXⅡ CPUを使ってMicroVAX 2000を4,600ドル(最小構成)で販売する。これは生涯に6万台出荷された。MicroVAXⅡ CPUは外販されなかったものの汎用的なCPUとして十分な条件を満たしていた。その後、DECは87年に2.5MIPS(VAX-11/780の2.5倍の能力)のCVAX(180千TR、94㎣)、更に89年に7MIPSのRigel(320千TR、146㎟、35~43ⅯHz)、90年には11MIPSのMariah(Rigelを改版、55~71MHz)、91年には50MIPSのNVAX(1,300千TR、237㎣、62.5~83.3MHz)を開発する。
そして86年よりVAXの後継システムとしてPrismプロジェクトがDave Cutlerをリーダーとして開始される。CPUはRISC 64ビットのMicro Prism、OSはMICAと名付けられた。しかしRISCプロセッサーの独自開発からMIPS Computer SystemsのMIPSプロセッサー採用に方針を転換する。Dave Cutlerは88年10月にMicrosoftに移りWindows NT*2開発の責任者となる。93年7月にWindows NT3.1として発売される。一方、Micro Prismは後にHudsonの半導体グループが開発を再開し、92年にRISCのAlpha21064(1,680千TR、234㎣)として完成される。
*1 DECの半導体工場はマサチューセッツ州Hudsonに建設された。81年末より操業が開始され、92年には4億ドルをかけ拡張された。DECがIntelを訴えた特許訴訟の和解条件として97年にIntelに7億ドルで売却され、IntelのFAB17として2014年まで稼働。
尚、Mostekの創業者であるRobert Palmerが85年にDECに移り半導体部門のトップとなり、92年にはDECのCEOとなる。
*2 Windows NT、略してWNTはVMSのそれぞれの文字を1文字づつずらすとW→V、M→N、S→Tとなり、VMSの後継を意識して名付けられたようである。
DECの凋落(ミニコンからEWS、更にはパソコンへ)
DECの業績(6月期決算)を見ると、90年頃に失速してしまう。それは、DECの1 chip CPUの開発の進展と軌を一にするかのように業績が悪化していく。
一方、DECに替わるかのように、80年代初期に創立されたUNIX系のEWSメーカーが急成長して来る。
コンピュータ産業史の観点でDECを見るなら、ミニコンピュータを半導体技術、ソフトウエア、通信技術の進歩と歩調を合わせ高度化させ、対話型計算システム、ネットワーキング、分散処理というパラダイムを打ち立て、メインフレームコンピュータに対し破壊的なイノベーションと言う技術水準まで高めることに成功したといえそうである。コンピュータサイエンスの最先端、例えばBell研やMIT、StanfordやUCBerkleyなどの研究機関などでデファクトとして利用されていたコンピュータはIBMのメインフレームではなく、DECのミニコンであった。
69年にBell研のKenneth ThompsonとDennis RitchieによりUNIXが開発されるが、それはDECのPDP-11(当初はDP-7)の為のproprietaryなOSとさえ言え、PDP-11に対するハード依存性が極めて高かった。UNIXの改良・拡張が続き、ハード依存性の高いアセンブリー言語からC言語に書き換えられるなど、徐々にPDP-11への依存性を低下させ、78年にはInterdata社*1のミニコンへ移植されるなど、新たな展開が始まる。
MotorolaのMC680ⅹ0(更にはRISCプロセッサー)とUNIXの組み合わせはEWSへの参入をかなり容易にした。日本でもコンピュータ系の6社に加え、松下、ソニー、シャープ、更に住友電工はMIPS Computer SystemsとスーパーワークステーションSシリーズの共同開発を行い参入する。それらに加え、直接参入ではないが、久保田鉄工はMIPS Computer Systemsの筆頭株主(2位はDEC)であり、且つ、Ardent Computerを傘下に持っていた。また日本鉱業がGouldのコンピュータ部門を 11億ドルで買収している。その他、新日本製鐵がConcurrent Computer(旧Interdata)と合弁の販売会社コンカレント日本を設立、川崎製鉄がCharles River Systemsのコンピュータを輸入販売、旭化成工業が旭テクノコンピュータを設立しStellarの販売代理店となるなど、80年代後半には様々な企業がEWSにビジネスチャンスを見出す。そうした中、DECは築き上げてきた優位性の多くを喪失し始める。
そして93年7月のWindows NT3.1(EWS用)、94年9月にはWindows NT3.5、および95年8月にWindows 95(PC用)が出荷される。ほぼNT3.1/3.5から95の出荷に至るまでの時期に一斉にUNIX(EWS)版のアプリ、特にCADソフトなどはNTおよび(未出荷)の95に移植されている。NTと95の共通機能を使い両OSに対応させるというのが一般であったと思われる。95の出荷される半年ほど前から95対応のアプリ(95 Ready*2)が既に出回っていた。それも当初は”とりあえず動く”程度で移植されたものも多かったようで、UNIX版に比べると処理速度が極端に低下するものも多かった。この低速と言う問題は単にアプリ側の作り込みの問題が主であったようだ。
これらのCADソフトもUNIX版では大した差異が無かったと思われるものがWindows NT版では大きな差異が生じていた。富士通のICAD/SXにしても高速のUNIX版に慣れたユーザーから見ればどうにか使える程度だったと思われる。当時,富士通のICAD/SXは富士通製のEWSでは速度が十分では無かった様で、Sun MicrosystemsのEWSに全面的に切り替えられターンキーシステムとして販売されていたが、かなりの処理速度が求められていたようだ。95が販売されるようになるとICAD/SXは急速にEWSからパソコンに切り替わっていた。Windows95が95年8月、そして95年11月にはi486(89年4月発売)に比べクロック周波数が3倍近いPentium Pro(150~200MHz)がリリースされており、ICAD/SXの場合にはPentium Pro 搭載版ならEWSと比べて特には遜色の無いレベルに達したものと思われる。これにより、主記憶やHDDの増設等をすると200万円程度のUNIX EWSから主記憶やHDDを増設しても数十万円程度のパソコンがCADのプラットフォームとなって行く。このEWSからパソコンへの移行によるハード価格の低下は同時にCADソフトの価格低下を引き起こしている。当時、UNIX版のCADソフトの場合、200万円程度が中心価格帯だったと思われるが、パソコン版の場合は当初100万円程度に価格設定がなされている。ハードとのセットでUNIX版が400万円程度だったのがパソコン版は150万円程度に下がり、価格弾力性の高い新規市場*3が大きく広がり、且つAuto CAD等の既存のパソコンCADとの競合もあり、そうした価格設定がなされたようだ。
初期的にはCADソフトにおいては、ICAD/SXなど一部のみがWindowsへの対応(Windows ǹative)ができたのみでであろうが、数年で特にクライアントに関してはパソコンへの移行がかなり進んでいく。Sun Microsystemsも90年代末までは好調を維持Sじていた。
*1 Interdata社は1966設立。73年に半導体露光装置メーカーのPerkinElmerに買収される、そのコンピュータ部門となるが、85年にConcurrent Computer として分社・独立し、86年にNASDAQに上場される。
IBM System 360に似たマイクロコードアーキテクチャーを採用しており、アーキテクチャー的にはDECのミニコンの対極に位置している。74年に世界初の32ビットミニコンであるInterdata 7/32をDECに先駆けて発売する。翌75年には7/32を発売するが、77年にオーストラリアのWollongong大学(7/32)やBell研(8/32)によってこれらにV6 UNIXが移植され、DECのPDP以外で初めてUNIXが稼働することになる。直に、同系統のアーキテクチャーであるIBMメインフレームやその互換機であるAmdahlや富士通のメインフレームへも移植されUNIXは一挙に大型メインフレームコンピュータからミニコンに至る共通OSへと進化を遂げることになる。また、Bell研はUNIXのソースプログラムを公開しており、またUC BerkleyのBSD版は無償でライセンスされUNIXはOpen且つFreeなOSとして流通・発展していく。
*2 リストに挙げられた6種のCADの内、ICAD/SXはWindows 95に先立って開発(95年1月と思われる)されるが、既に95年8月にリリースされるWindows 95に対応していた。他の5種のWindows95への対応に関しては不明だが、そもそもWindows NT3.5にさえ十分に対応しているとは言い難い様なレベルのものが多い。
*3 パソコンCADの新規市場としては、それまで導入が限定的であった中堅中小企業への裾野の広がりに加え、既存の大企業等のユーザーにおいても、部門で共有化されていたものが価格低下によりパーソナル化が進んでゆく。また、既に設置されているのパソコン(Windows 95以降)などにもCADソフトがインストールされるが、これらは一般に使用頻度の低いため、料金体系の異なるネットワークライセンス(接続端末数や同時使用数の制限による料金体系)などの比率が増えたりしており、販売数の数え方自体が曖昧化したりする。
CADソフトの場合、図面資産(過去に作成されたづ面を基に流用設計されるケースが多い)の蓄積が進み、これを継承することが必須であるが、ハードやOSが変わっても同一のCADソフトなら特には問題無く、メインフレームやミニコンからEWSへの移行、更にはパソコンへの移行はスムーズであったようだ。但し、他のCADソフトへの移行に関しては、大抵の図面資産は容易に変換できるとは言え、様々なオプション機能や業種毎の特殊機能、更にCAMやCAE機能などもリンクしており、他のCADシステムへの移行は簡単では無いようであり継続性が強いと言える。
それに比べると、OSやCPUなどに対する異存はほとんどないとさえ言えるのかもしれない。ICAD/SXを見ると、敢えて自社製(富士通)のEWSを捨て、ライバルとも言えるSun MicrosystemsのEWSに切り替えているが、CPUも異なり、OSもUNIX系とは言えSolarisに切り替える(最適化しフルに性能を引き出している)のはそれほど容易では無かったと思えるが。そして、Windows 95には実質的には一番乗りの様である。CADソフトのプラットフォーム(ハード・OS)の動向を見ると、コンピュータ産業における継続性重視と言うのはほとんど意味をなしていない様にさえ思えるほどである。そんな拘りはそもそも皆無であり、性能が十分であるなら、コストパフォーマンスの良いライバルメーカーのハードでさえ、敢えて多大な開発費をかけてでも移行してしまう様である。MC680ⅹ0とともに発展を続けてきたEWSは、より優れたMIPSやSPARCの登場により、あっけなくMC680X0を見捨ててしまう。そして、MIPSやSPARCも直に見捨てられてしまうことになる。80年代後半から90年代末までの間にコンピュータ業界は大きな変革の時代を迎えるが、CADの動向を見ると理解し易い様である。
尚、ICAD/SXは2020年11月にiCAD SX V8を販売開始しているが、これは300万部品の大規模な機械装置の3次元データを0.2秒で処理する性能を実現するなど、世界最高速の様であり、相変わらず高速な様である。
CISCとRISC
RISC (Reduced Instruction Set Computer)はIBMのJohn Cockeによって74年に考案された。これは多くの命令のうち実際に高い頻度で使われているのは限られた命令に過ぎないことに着目したものである。一般に20/80ルール(いわゆるパレートの法則)と云われるもので20%の数の命令が80%の処理に使われ、数多くの追加された命令はかなり限界効率の悪いものであり、よって、命令セットを使用頻度の高い20%の命令に制限し、それをhardwired logicで実装し高速処理を行い、他の80%の命令は実装した命令を組み合わせて実行することによって、全体としての処理速度は向上*1するというものである。
一方、microcode方式を採るCISC (Complex Instruction Set Computer)はアセンブラーレベルの命令セットを持ち、1命令のアセンブリコードで高度な処理を行えるが、その分プロセッサ内の回路が複雑になり、当初、回路の単純化の為に採用されたマイクロプログラム方式は逆効果となって来ていた。また命令を実行するために必要なサイクル数(クロック数)が増加するほか、microcodeを解釈・実行するための負荷も大きい。しかしアセンブリ言語で記述する場合*2、高機能命令は一つの処理を記述するのに必要な命令数が少なくソフト開発の高率が高まる。またCPU開発において回路設計とmicrocode作成を分離でき、それぞれ独立に作業を進められ、ハードのバグ修正もmicrocode変更というソフトの修正(ハードのバグにソフトによってパッチをあてる)のみで済むため柔軟に対応できる。そのためもあって、互換性を維持しながらの機能拡張が容易であるなどメリットがある。
現在では純粋なCISCはほとんど無く、93年に発売されたIntelのPentiumにしてもx86命令を直接実行するのではなくRISC風の単純な命令に分解してから実行する方式となっており、x86アーキテクチャーを継承しながらハード性能を高めRISCに対抗できる性能を実現している。
*1 特にIBM system 360以降(60年代半ば以降)は、マイクロコード(プログラム)方式が大型機からミニコン、更にはマイクロプロセッサーにまで主流となってきていた。命令をマイクロシーケンサで逐次解釈・実行する為、コンピュータの中にさらにナノコンピュータがあるような構造(プログラマから見える命令セットとCPUの間に中間的な処理の層が介在)となっている。
マイクロコードをROM等に追加することによって、比較的容易に新規の命令を実装できたこともあり、命令数は増加の一途をたどっていた。命令数を増やすことにより、1つの処理のために必要な命令数が減少し、ソフトウェアー開発は容易になると考えられていたが、一方で、マイクロコード方式のコンピュータでは追加的な処理を要し高速化の妨げにもなっていた。
一方、命令を使用頻度の高い20%のものに限定し、代わりにhardwired logic(布線論理)で命令を実装することで、命令を高速に実行できるRISCが誕生した。残りの80%の命令に関しては複数の命令を組み合わせて実行するが、これによる追加的な処理時間はそれほど多くなく、むしろ固定長命令や固定的な実行サイクルなどの採用によりパイプライン処理などが円滑化されることもあり高速化が可能になっている。高速化の要因は実際のところ固定長命令によるパイプライン処理の円滑化によるところが大きい。
尚、パイプライン自体は83年に発売されたCISCであるi80286でも既に採用されており、更に93年発売のPentiumではパイプラインの強化と共に、hard wiredでの処理の命令をかなり増やすなどRISC風になって来ていた。半導体の集積度が現代に比べ低かった90年代にはRISCの優位性が顕著であったが、その後はCISCもRISC風になるなどもあり差は無くなっていると言えそうである。一方、RISCはARM(Acorn RISC Machine/Advanced RISC Machines)に引き継がれていると言え、現在ではARM系CPUがIntel/AMD系を凌いでいるとも言えそうである。尚、ARM社はイギリスの電卓メーカーSinclairを起源とする会社であり、Appleに見いだされ発展のチャンスを掴んでいる。現在はソフトバンクグループHDの傘下にある。
パソコンの32ビット化の遅れ
MC68000(内部処理32ビット、外部データバス16 ビット)が79年に開発されると、それらは先ずAppolo ComputerやSun MicrosystemsなどのEWSに搭載される。続いて83年1月発売のAppleのLisa、84年1月発売のApple Macintosh(84年MC68000→89年にはフルの32ビットのMC68030)、同じくTandy TRS-80 Model 12(83年3月)、Atari ST(85年6月MC68000→90年MC68030) 、Commodole Amiga 1000(85年7月)など主要なパソコンメーカーは80年代半ばには32ビット機を発売する。
そしてMotorolaは84年にMC68020(内部処理32ビット、外部データバス32 ビット)が開発し、一方、Intelも85年には32ビットCPUのi80386(内部処理32ビット、外部データバス32 ビット)を開発する。半導体製造技術の進歩は80年代半ばには既に70年代半ば頃の大型メインフレームコンピュータのCPUを処理速度は遅いとは言え回路的には1 chip化ができる水準にまで達していた。32ビットパソコンの時代が本格化することは、かなり明らかなことであったと思われる。あとは、IBMから32ビット機がリリースされるのを待つだけとも言えた。
IBMは81年8月にi8088搭載のIBM PCを発売する。オープンアーキテクチャーであったため、OSのBIOSの著作権さえクリアできれば容易に互換機を開発できた。Columbia Data Products(82年6月MPC1600)やCompaq(82年11月Compaq Portable)がクリーンルーム方式を使いBIOSを開発しPC互換機市場に参入したのを皮切りに参入が続く。Phoenix Technologiesの様にBIOSを開発し外販*1する会社もあり互換機参入は更に容易になっている。PC/AT(84年8月)の互換BIOSではPhoenixの他にAward Software、AMI、Quadtelなどの参入もあり、互換BIOSの開発・販売競争自体が激しかった様である。
そしてIBMは87年4月にi80386DXを搭載した32ビットパソコンのPS/2 Model 80(9,000ドル)を発売する*2。しかし、これはクローズドアーチテクチャーであり、基本的にIBMのプロプライアタリーシステムであり、既に大きく成長していたPC/ATに対する互換性*3より、寧ろIBMのメインフレームコンピュータからパソコンまでを一貫したアーキテクチャー(SAA: Systems Application Architecture)のもとで統合化を図ったものであった。その為もあって、32ビットコンピューティングの普及は実質IBMが単独で進めることになるが、32ビットOSであるOS/2 2.0の出荷が92年4月と遅かったこともあり、機能を十分に発揮できなかったことや、互換機メーカーが追随できなかったこともあり普及は限定的なものとなり、結局、32ビットコンピューティングはWindows 95が発売されるまで待つことになる。
パソコンの場合、Windows 95以前は基本的には16ビットである。32ビットCPUのi80386が搭載されていても、それは16ビットの高速版(Intel互換CPUメーカーはi80286の高速化で対抗していた)として使われていたに過ぎないと言える。蓄積されたユーザー資産の継承のためハード・ソフトの両面における互換性が求められ、おいそれとは移行できなかったようだ。
*1 Phoenix Technologiesが81年8月発売のIBM PC用の BIOSを開発し外販するのは84年5月とかなり遅れていた。一方、84年8月発売のPC/AT用のBIOSに関しては半年遅れ程度で販売されることになり、AT互換機への参入が早期に始まることになる。
*2 IBMは87年4月に32ビットパソコンPS/2 Model 80の発売時に、16ビット機のModel30(i8086搭載)、Model 50(i80286搭載)なども同時に発売している。但し、OSは16ビットのOS/2 1.0を87年12月、更に32ビットのOS/2 2.0は5年後の92年4月と遅れて出荷される。
*3 PS/2はソフトウェア的にはPC/ATとの互換性を考慮したとはいえ、MCA(Micro channel Architecture)という新しい16/32ビットバスのアーキテクチャを採用したこともあり、既に大きく発展していたPC/AT市場では;―
・PC/ATとハードウェア的な互換性が乏しいこと、
・PS/2はIBMからライセンスを受けざるを得なかったこと、
・PS/2にはIBMが開発したカスタムICなど入手困難な部品(およびモジュール)が多用されており部材調達が困難なこと、
・32ビットコンピューティングの能力を十分に引き出すための32ビットOSであるOS/2 2.0の出荷が92年4月と5年も後であったこと、
・16ビットのi80286搭載のModel 60でディスプレイを込むと約7,000ドル、32ビットのi80386搭載のModel 80で約9,000ドルと価格が高かったこと、
・コンシューマー市場で求められていたのは1000~2000ドル程度の価格帯であり、また、高性能が要求されるようなソフトはほとんど無く、表計算やワープロソフトが快適に動けば十分であり、
・PS/2が対象とする市場はIBMのメインフレームを導入している企業向け市場が主体と言え、互換機メーカーにとっては参入しにくいこと、
・既に市場はEWSやPCなどでの分散処理時代に入りつつあり、メインフレーム離れが進んできており、メインフレームコンピュータを中心に据えたとも言えるSAA構想自体が時代にそぐわなくなってきていたこと、
等々、要因を挙げたらキリがないが、PC/AT機からPS/2機への移行は限定的であり、IBMでさえPC/ATへの回帰を進めることになる。
PS/2に対し、互換機メーカー9社(Compaq、Zenith Data Systems、Tandy、HP、Olivetti、日電、AST Research、エプソン、WYSE)により”Gang of Nine”が結成され、PS/2で採用されたMCA規格に対抗してEISA(Extended Industry Standard Architecture)規格が作成される。ただし、これはMCA同様に(以上に)普及するに至らず、ATバスが使われ続けられることになる。
*
掲記のpdfファイルが正式版です。
下記にしたものは表がアップできませんでした。
第5章 電卓用LSIからマイクロプロセッサーへ
電卓の進化
MOS-LSI電卓の誕生
60年代後半、FairchildやTIなどが標準TL-ICをシリーズ化する。このシリーズは70年代半ばころまで活発に製品化され毎週のように新製品が出され数百種類に及ぶシリーズとなって行く。これら標準TTL-ICによりロジックが組みやすくなったことで、小型化、省電力化、多機能化などをターゲットにして電卓の開発競争が活発化し開発期間の短縮と機能の向上が競争のポイントとなっていた。
70年2月にシャープは4個のRockwell製のMOS-LSI*1と1個のMOS-MSI、および1個のBIP-ICを搭載した8桁電卓Micro COMPET QT-8Dを発売する。
*1 Micro COMPET QT-8Dに搭載されたそれぞれのMOS-LSIのTR数は633個、740個、900個、940個、MSIは240個。尚、コンデンサーや抵抗を加えると4つのICの素子数は優に1,000を超えLSIに分類された。LSIの定義は素子数1,000個以上、MSIが100~999個、SSIは100未満。超LSIは100,000個以上と定義されていた。現代ではNAND Flash memoryは1,000億個を優に超え、ロジックでも1,000億個に迫っている。
尚、価格はLSIの4個のセットで40ドル、発注は25万セットで10百万ドルだった。
プログラマブル電卓
62年にカシオ計算機から科学技術用のリレー式計算機AL-1が発売されている。プログラム計算が可能で複雑な技術計算を迅速にこなすことができた。樹脂製歯車6枚(歯数60)のユニットを使いユーザー自身が最大58ステップのプログラム(1語6ビット)を組み、そのセットされた計算手順に従って計算を行えた。ユニットは取り外し可能で、ユニット交換によりプログラムを組み替える方式だった。電卓としての基本的な機能は四則演算に加え開平演算(平方根)があった。また、プログラムミングではジャンプ命令は無かった。リレー516個搭載した本体のサイズはかなり大きく卓上計算機と言えるものではないが。尚、価格は995,000円だった。
1960年にFagginは、Olivettiが64年に発表し翌65年に発売するProgramma101(P101)の試作機を作成している。P101は10cm×20cmのプラスチック製磁気カードにプログラム120ステップ(1語8ビット)の命令を記録することができた。価格は3,200ドルで米国を中心に44,000台が販売されている。電卓としての基本的な機能は四則演算に加え平方根があった。また、プログラムミングではジャンプ命令もあった。重量は32.5㎏で610 mm×465 mm×275 mm、消費電力350Wで、64年発売のシャープのCS-10Aの重量25kg、42㎝×44㎝×25㎝、消費電力90Wと比べると容積は7割、重量は3割、消費電力は4倍であるが、卓上に置くことはできた。
*1 歯車の歯の有無で0:1を表現する仕組みなので、プログラムするには6枚の樹脂製の歯車の歯を命令に併せて切断する必要が有ったと思われる。それに比べOlivettiのP101は磁気カード方式なのでプログラム作成は容易だった。
ビジコンの課題
機械式計算器メーカーだったビジコン(日本計算器製造)は66年に磁気コアメモリーを搭載したTR式電卓ビジコン160を30万円弱の価格で発売しヒットさせる。これにより価格競争の激化が始まったといわれる。ビジコンは自社ブランドでの販売に加え、OEMとしてRCAや伊IMEなど欧米企業に供給していた。その際に、メモリー*1の有無・方式の差異・容量の差異、レジスターの個数・容量の差異、キーの入力順序・配列・機能さによるキーの数の違い、表示やプリントアウトなど出力の違いを始めとして各社のアーキテクチャーなどの差異による開発負荷の増大に悩まされていた。まだ、汎用性の高いTRやDIの個別半導体素子の場合にはそれなりに対応できていたとしても、IC化、更にはLSI化し汎用性に欠けてくると、個別にLSIの設計をせざるを得なくなり、そのLSI開発のために半導体メーカーへ支払う開発費や生産面における部材調達の厄介さなど数々の問題に直面する。それらの課題を解決するため、OEM各社の電卓用に共通のLSIを開発しプログラム(ファームウェア)により様々な差異を吸収することを試みる*2。
ビジコンは68年に島正利らによりプログラム内蔵方式電卓Busicom 162P(販売はされなかった)の試作をおこなっている。ビジコンはBusicom 162Pの開発を機に、カスタムLSIによってプログラム内蔵方式電卓の多機種展開および低価格化することを決定する。ビジコンはこの時点までに、汎用的な機能である中央演算ユニット(CPU)、命令格納用ROM、シフトレジスタ、データ格納用シフトレジスタ―と、機種毎の個別対応となるI/O部のキーボード制御、表示制御、プリンター制御、データ格納(バッファー)との切り分けを行っている。そして、I/O部の変更のみで多様な機種、それも単に電卓にとどまらず、キャッシュレジスターなど他の製品への応用も視野に入れていたようである。
この時、ビジコンはNational Semiconductor(NS)の提案したROM(MASK ROM)の内容を変更し自由に仕様を変えられる方式や、Fairchildの提案したIC製造のバルク工程を共通化(Standard Gate Cell)し配線のみの変更による方式も検討している。NSの場合の難点は方式の異なる各社の仕様をLSIに織り込むと命令(マクロ的)の種類が増加してしまい回路規模が拡大しchipサイズを抑えることができずコスト高になる。また、新しいOEMを獲得する毎に回路が拡大し設計変更を要してしまう。Fairchildの提案はCADシステム(IC設計用論理シミュレーション)のFAIRSIM*3を持っており設計期間の短縮、開発費の削減など大きな効果が期待されるものの、配線領域が大きく増えやはりchipサイズを抑えることができずコスト高になってしまう。
ビジコンは結局設立して間もないIntelに委託することになるが、NS案に沿ったものというより、ビジコン案と言うべきもので委託する。然しIntelが検討を進める内に開発費が膨れ上がることや、chipコストが当初の想定をかなり上回ってしまうなどの問題が判明していく。これに対しIntelは対案としてマクロ的な命令レベルをミクロ的な汎用性の高い命令にブレークダウンしてそれを組み合わせることによりマクロ的な命令を実行することで回路を単純化することや、10進法から2進法への変更、開発chip数の削減(ビジコン案8種10個使い→Intel案5種9個使い)、chipセットの価格の270ドルから195ドルへの引き下げなどを提案してくる。IBMがSystem 360シリーズの設計において使ったマイクロ命令方式*5と似たところがある。
*1 70年頃、電卓に使われていたメモリーとしては、磁気コアメモリーや磁歪遅延線メモリー(例:ソニーが67年発売したSOBAX ICC-500)が主に使われていた。
*2 ビジコンは69年4月にIntelと仮契約を行い、6月には8種類のカスタムLSIの論理設計(マクロ命令方式)をIntelに渡している。以降はIntelがそれを基に回路設計を行いMASK製作などchipに落とし込みを行い、LSIを製造するという手順で、年末頃までには完成するはずであった。
*3 FAIRSIMはFairchildが開発したIC設計用のCAD(EDA)システム。通常はIBM360/67などのタイムシェアリング機能を持つメインフレーム上で使われた。Fairchildは電卓メーカーなどのFairchildの顧客に頒布(無償)していた。顧客はFAIRSIMを使って論理設計を行い、それをFairchildではなくAMEやTIなどに発注していた。
IBMは50年代末にはEDAを使っていたが、IBM在勤中にEDAの使用経験のあったJames KofordがFairchildでIC設計用のEDAであるFAIRSIMを67年に開発している。
*4 Intelの設立は68年7月、ビジコンとの仮契約は69年4月。尚、Intelの製品出荷は69年の8月から始まっている。Intelの最初の製品はBIP-ICであった。年末にはSi-gateテクノロジーを使った256ビットのMOS-SRAM(i1101)を出荷している。69年12月期の売上は37万ドル、損益は191万ドルの赤字だった。
*5 IBM System360シリーズでは、同一の命令セット・アーキテクチャ(ISA)を上位機種から下位機種まで共通して使っている。上位機種では(可能な限り)ハードウェアで直接的に実装し高速処理できるものの回路規模は大きくなるのに対して、下位機種ではマイクロプログラム方式の活用により低速だが回路規模を小さくしている。尚、このマイクロ命令による方式は後にCISC(Complex Instruction Set Computer)と言われる命令セット・アーキテクチャでIntelの32bit-CPUであるi80386(85年10月発売)まで踏襲されることになる。当初は回路規模を削減の効果があったものの命令数が大きく増え逆に回路も複雑化してしまうことになる。
ビジコンとIntel
69年4月にビジコンはIntelと‟プリンター付き電卓用LSI”開発の仮契約を結ぶ。当時のIntelは製品出荷さえ未だ始まっていない設立1年(68年7月設立、製品の初出荷は69年7月に256ビットSRAMを出荷)にも満たない会社だった。1k-DRAMで注目を浴びることになるのは、翌70年からであり、また、Si-Gateテクノロジー*1を持っていたとはいえ、その優位性が認識されるのも1k-DRAMの成功によってである。Intelに有ったのは、NoyceやMooreの名声くらいのものだったかも知れない。
*1 FairchildのR&D部門の責任者のGordon MooreはÌntel設立の1か月前の68年6月にFagginに対し10月にワシントンで開かれるIEDM( IEEE International Electron Device Meeting :国際電子デバイス会議)でSi-Gateに関する論文発表をするよう指示している。これによって、Fairchildが特許申請をすることは封じられた。MooreらはSi-Gateを使った最初の素子であるFagginによるFairchild 3708(Al-gateのFC3705のSi-gate版)の完成後、Intelを設立している。MooreらはSi-Gateに大きなビジネスチャンスを見出したのであろう。Si-Gateを使った最初の製品であるFairchild 3708(8-bit analog multiplexer )がFagginによって4月に完成していた。ビジネスチャンスを見出すと集団でスピンアウトするというのがFairchildの伝統かもしれないが、Si-Gateテクノロジーは遂にトップであるNoyceとMooreをもスピンアウトさせることになった様だ。これにより、Fairchildの設立者である8人は全員Fairchildを去ったことになる。
尚、Fagginは68年2月にイタリアのSGS-FairchildからFairchildに出向してきたばかりであった。ほんの2~3か月でSi-Gate技術やそれに関連したBuried Contact技術(FC3708で既に使用)などを開発している。
i4004の意義
i4004はMarcian Hoff、Stanley Mazor、Federico Faggin、嶋正利の4人*1によって開発されたと云われる。これが世界初のCPUと云われることもある*2。
ただ、実際のところとしては、例えば点接触型TRが発明されると真っ先に爆撃機搭載用のコンピュータTRADICが開発されたが、小型・高性能化を求める航空宇宙関連では、その延長として1 chip CPUへの流れは必然であり、70年にはi4004に先立ちGarrett AiResearchが20ビットCPUのCADC(MP944)*2の開発に至っている。1 chipとは行かないまでも航空宇宙関連では複数個のICを使い幾つかのコンピュータが製作されていたようだが、それらも製造技術の進歩により必然的に1 chip CPUに至るものだったようである。民間でも、69年のFour-Phase Systems社(Fairchildからスピンアウト)のAL-1*5があるが、NoyceはFour Phase System社の出資者でもあり役員を務めており、当然のことAL-1について知っていたであろうし、Noyceから見れば24ビット(8ビット×3のビットスライス、8ビット単体でも機能する)のAL-1に比べ4ビットのi4004は単なる電卓用のカスタムLSI以上のものには見えなかったかもしれない。
1 chip CPU開発の難点は数量の少なさであった様だ*6。開発負荷が大きい割にはほとんど数量が出ないため、半導体メーカーにとっては航空・宇宙関連を別にすればあまり旨みは無かった様だ。Intelではi4004に若干遅れて、Computer Terminal Corporation(CTC:68年7月設立、後にDatapointと改称)のDatapoint 2200用に8ビットCPUのchipセット(i8008)の開発を進めるが、CTCは70年5月にBIP-TTLベースでDatapoint2200を完成させ出荷する。そのためもあってかIntelは余り真剣に取り組んではいなかった様で開発は一時中断される。またCTCはそれをTIにも発注し、TIはIntelより早く完成させることになる。このTIのものが世界で初めて公開された1 chip CPU TMX1795*3である。
ただ、i4004がそれらと大きく異なるのは、ビジコンはそれを電卓はもとよりキャッシュレジスターや帳票発行機など、そしてOEM生産を通して多くの会社の製品に広く適用することを意図して設計された汎用性の高いというところかもしれない。そして完成に至ったi4004*4は個別対応を要すと見做されていたI/O部分も取り込み汎用性を更に高めビジコンの思惑を超えるものとなっていた。
*1 HoffはStanford大学のコンピュータ研究所の研究員から68年にIntelが設立されるとほぼ同時期に入社。Mazorは69年9月にFairchildから。Fagginは70年4月に同じくFairchildから。嶋は東北大学で化学を専攻し67年にビジコンに入社し、70年4月よりIntelに派遣される。尚、FagginはSi-Gateの開発者であり、このCPU chipセット開発においてSi-gateの持つポテンシャルの高さを実証することになる。
*2 CADC(MP944)は70年にGarrett AiResearchとAmerican Semiconductorsによって開発されている。F-14戦闘機のCentral Air Data Computer(CADC)に搭載されたが、71年にGarrett AiResearchが雑誌Computer Design Magazineに投稿しようとした際、軍事機密として軍の検閲により差し止められ、存在が知られたのは98年に機密指定解除となってからであり一般には知られることさえ無かった。
*3 TIのTMX1795(24ピンパッケージ)は71年3月のBusiness Week誌で紹介されている。これが最初に一般に公開されたCPUであるが(Intelのi8008は70年10月にElectronic Design誌で簡単にだが紹介されているのだが)、これは、CTCがIntelに委託していたi8008(18ピンパーケージ)同等品でインテルが仕様を作成し、CTCがその仕様を基にTIに依頼したものと言われている。そもそも、CTCはMOS 1 chip化に積極的であったわけではなく、i4004の仕様作成の経験を生かしたMazorらの提案を受け入れたまでの事であった。TIは70年4月ごろ情報をキャッチしCTCにアプローチしている。結局CTCはTI製もIntel製も採用しなかった。CTCは結局80年に至るまで速度でMOSに大きく勝るBIP-ICを使い続けることになる。
尚、TIのTMX1795のchip面積は31㎟(TR数3,078個)とIntelのi8008の15㎟(TR数3,098個)に対して2倍であった。且つ、TMX1795が24ピンパッケージであったのに対しi8008は安い18ピンであった。単純計算ではchipサイズが倍になると2インチ(69年から導入されだしている。3インチの導入は72年から始まる)程度のウェハーなら有効数は4割程度に落ち、且つ歩留まりはi8008が30%程度とするとMX1795は10%程度に過ぎず、i8008に比べコストは数倍かかったものと推定される。TIが鳴り物入りで宣伝したものの販売を諦めたのはコスト高の要因もあったものと思われる。
Chip sizeの大きさはTIのchipレイアウトの未熟さもさることながら、IntelはSi-Gateを使ったのに対してTIはAl-Gateであったことがより大きな要因であったようだ。TIのTMX1795は結局販売されることは無かったが、IntelはCTCから権利を買い取りTIの発表から1年遅れの72年4月に発売することになる。
Intelでのi8008の開発は当初混乱を極めたようで一時中断してしまい、結局Fagginがi4004の完成後に責任者として開発を完了させているが、当初の仕様とはかなり異なっていると思われる。i8008はi4004と同一の命令セット(45種)を持ったi4004のup-grade版となっている。嶋は日本に帰国しておりi8008の開発には関与していない。
尚、i4004のChipにはFederico Fagginの頭文字F.F.が焼き付けられている。嶋家の家紋(丸に三本線)入りのchipはi8080。このi8080が多くの半導体メーカーにコピーされ本格的に普及する最初のCPUとなり、後のx86アーキテクチャーの起点となる。
*4 i4004のchipサイズは3㎜×4㎜でTR2,237個を集積、10ミクロンのPMOS-Si-Gateプロセスによって6枚のマスクを使って製造されている。2kビットのMask-ROM(i4001)、320ビットのリフレッシュ回路内蔵のDRAM(i4002)、I/O(シフトレジスタ―、i4003)からなる計4種のLSIで構成されている。これら3種はマスク5枚である。いずれも16ピン・パッケージに納められている。ビジコン141-PFには、メタルパッケージのi4004が1個、プラスティックパッケージのi4001が4個、i4002が2個、i4003が1個の計8個が搭載されている。i4003とi4004は本来なら24ピンとなるはずだがマルチプレクスして16ピンに抑え、コスト削減に努めたようだ。また、リフレッシュ回路内蔵のDRAMは一種のSRAM(疑似SRAM)であり、SRAMとすべきところをコスト削減のために敢えて開発したものと思われる。本来なら高価なSRAMを使うところを安いDRAMで代替することに成功している。加えて、ROM容量の節減のための工夫、例えば2進法から10進法への変換をROMに依存するのではなく10進補正命令を使うなど、コスト削減のための創意工夫が満載といったところである。
これら4種で構成されるMCS-4 Micro Computer Set(MCS-4)は、基本の4種4個使いなら価格は47.65ドル、これに追加のROM数×16ドルを加えることになるが、かなり低価格であり、市場に受け入れられやすい価格であり、成功の大きな要因となったと思われる。徹底的な低価格化を主導したのは、50ドルの積りが300ドルを吹っ掛けられてしまったビジコンサイドの嶋であったと思われる。
*5 TIはTMX1795やone chip電卓などの開発などを通じ ❝a single-chip processor❞特許などを持っていた。80年代後半にそれによって大きな特許収入を得ることになる。 Dellが90年にTI特許の無効を求め、93年に勝訴するが、その際にDellが特許無効の為の先行事例として持ち出したのがFour-Phase Systems AL-1だった。8ビット1 chipでCPUとして機能することを実証した。90年のDellの売上は546百万ドル、利益5百万ドルで米国第6位のパソコンメーカーに育っていたとは言え、会社の存亡を賭けた提訴( "bet the company" lawsuit)であったと云われる。
*6 当時(60年代末)の小型コンピュータはFairchildやTIなどの標準BIP-TTLシリーズの8ビットALUであるFairchild 3800や4ビットスライスのTIのSN 74181を使って構築されるのが一般であった。これが標準BIP-SSIで構成されたCPUからMOS-1chip LSI-CPUへの進化の過程の中間に位置するものとも言えるかもしれない。75ゲート(TR数で約300個)程度を集積したもので、BIP-ICにとっては当時の集積の限界に近いものであるが、Fairchild 3800は67年に発売され、TIのSN 74181は70年3月(68年頃に販売され、74シリーズに加えられたのが70年3月と思われる)に発売されている。特にSN 74181は70年に発売されたDatageneralのヒット商品である16ビットミニコンSuperNOVAに搭載されている。SN 74181は改版され高速化されながら90年代初期まで使われることになる。単に、ALUのみではなくCPUとしてMOSで1 chip化することも可能であるが、量的な問題からそれを試みることは少なく、また試みたとしても性能面からほとんど成功したものはなかったと思われる。その失敗例がTIのTMS1795やIntelのi8008(但し汎用CPUとしては成功する)なのかもしれない。MOSで1 chip CPUを作るという発想は特に新規性が有るというほどのものでは無かった。
日本では75年頃には東芝のTOSBAC-40Lやパナファコム(松下・富士通合弁)のPFU-100などのミニコンはCPUを2~3個のchipにまで集積化が進んでいた。更には富士通が79年にオフィスコンピュータV830で1万ゲートのCMOS 1 chip CPU(MB8830)を搭載していたが、その頃よりミニコンクラスのCPUのMOS 1 chipへの移行が始まり出すようだ。MB8830のchipサイズは100㎟だったが、当時としてはかなり大きなサイズであった。DECが80年に発売するVAX-11/750にNMOSの4 chip構成のV-11 chipセットが搭載され、また85年にはCMOS 1 chipのMicroVAX Ⅱ chipを搭載している。90年代にはCMOSがBIPを性能(速度)面でも凌駕するようになり、BIP-LSIを使ったメインフレームコンピュータの終焉(CMOSへの移行)が訪れることになる。
Fagginと嶋
ビジコンはchipセットの開発費として6万ドル(+ROMのマスクチャージ2,000ドル/枚)を支払っている。但し、開発分担は不明確であり混乱を招いていたようである。この頃は半導体メーカーとユーザーの開発分担が未だ曖昧な時期であったのかもしれないが、MSIレベルならいざ知らず、汎用的な造りとはいえLSIレベルの設計は製品に対する設計ノウハウを蓄積したユーザーが論理設計(及び試験パターン作成)までを行い、MASK設計以降を半導体メーカーと言う分担であるが、その間にある回路設計に関しては分担が曖昧だったようである。
69年4月の基本合意の後、ビジコンは6月に論理設計・回路設計をIntelに渡しているが、そこから紆余曲折が始まってしまう。Hoffはその複雑さに驚かされ、開発費用や製造コストが当初の想定を遥かに超えてしまうことに気づく。基本合意では、chipセットの価格が50ドル未満であったが、これが270ドル(Intelの当初の言い値は300ドル)にまで上がられてしまった。次にHoffはマイクロプログラム方式の採用(IBMのSystem360の上位機種的なハード設計を下位機種の設計に変更するのと同義)によりハードの単純化(8種10個→5種9個、最終的には4種8個)するとともにセット価格を195ドル(最終的には4種8個のセットで99.65ドルと思われる)への引き下げを提案し、それをビジコンが受け入れることになる。そして、FairchildからIntelに移ったばかりのMazorがビジコン側の要求も踏まえ仕様をまとめ上げ、ビジコンに受け入れられることになる。また回路設計もIntelが受け持つことになる。そして本契約が70年2月に結ばれる。然しながら、HoffもMazorも設計の経験が無かったため4月にFagginが採用されることになる。
70年4月に嶋がIntelへ進捗状況を確認のため訪れた。既に仕様決定から半年もたっていたのに設計は着手していなかった。訪問の僅か2日前にFagginは着任したばかりだった。かなり複雑なLSIでありCPUからROM/RAM、I/O関係までと広範なものだったが、HoffもMazorもその困難さに対する認識が欠けており、3か月(Intelの正式回答は6か月、ビジコンの推定では1年)もあれば開発できると考えていたと云われる。ともあれ、この時よりイタリア人と日本人のコンビにより開発が進められ71年3月に完成することになる。それが歴史的に如何に大きな意義を持つものであったにせよ、誰もそんなことを意識していたわけではなく単にビジコンの電卓用LSIを開発していただけの事であった。単に、MOS-ICの集積度の向上、ビジコンの電卓等に対する特異なニーズ、それらがコンピュータ技術と融合することによりi4004は生まれることになる。
電卓市場の競争激化と構造変化
ビジコンは71年1月に世界初の1 chip電卓であるビジコンLE-120Aを発売する。I chip LSIはMosteck製のMK6010L(40ピンmetal-sealパッケージ)である。開発開始から7か月での完成であった。価格は89,800円と低価格電卓のはしりであった*1。72年2月にはLE-120S(価格64,800円)を発売する。そして、72年8月にカシオが日立のLSI(および日電のMSI)を搭載したカシオミニを12,800円で発売する。
日本の電卓輸出は70年の730千台から、73年には6,366千台、76年には35,192千台へと跳ね上がる中、日系メーカーの攻勢により欧米メーカーは撤退ないしは独自仕様による開発・生産委託(OEM)から、単なるブランド張替のODM調達に切り替わっていく。ビジコンのLE-120AはNCRや英Broughtons、独Quelle InternationalなどへODM供給された。
ビジコンはこのMCS-4 Micro Computer Setを使い141-PF(価格159,800円)を71年10月に発売する。開発を始めてから2年半が経過していた。価格競争の激化(カシオミニは75年には4,800円)、日本企業の輸出攻勢は電卓市場を大きく変えてしまっていた。電卓用LSIの調達価格はカシオミニの様に1種のLSIで100万個を超える様なケースでは72年頃でも1個2,000円未満、75年には1,000円を割っていたと推定される。このi4004を搭載した141-PFは電卓として注目を浴びることはなかった。その後、ビジコンはドルショック、オイルショックを経て74年2月に破たん*2することになる。
*1 70年12月にシャープが発売した8桁のEL-8(価格84,800円)はRockwell製の4 chip(42ピンmetal-sealパッケージ)から成るもので、サイズは102mm×70mm×164mmであったが、その僅か1か月後にビジコンが発売した12桁のEL-120Aのサイズは64mm×22mm×123mmと容積的には僅か1/8で世界初のポケット電卓であった。消費電力はシャープが1Wに対し、0.36Wであった。
ビジコンのLE-120Aに搭載されたMostekのMK6010Lは4.6㎜角、chip面積21.2㎟、TR数2,100個。消費電力は通常なら0.5Wであるところを、拡散炉の代わりにIon Implantation装置を活用したことによって0.05wに引き下げることに成功し、Al-Gate PMOSでポータブル電卓を実現している。MostekはこれをベースにMK6011Pを開発し(MK6010Lとほとんど同じと思われる)、日本メーカーでは栄光のUnitorex1200(OEMで米国ではColex 1200LP、Privileg 1200)などに搭載される。そして、この成功によりHewlett Packardの関数電卓HP-35用chipセットの受託などによりMostekは事業基盤を確立する。
尚、Ion Implantation技術は出資者であるSprague Electricが抵抗の製造用に使用していたものをベースにしてSpragueの協力によって半導体製造用装置用に開発された。I.I.での先行がMostekの大きな強みとなる。
尚、TIはMostekのMK6010が71年2月(契約は70年5月、chip完成は70年11月)に発表されるやいなや、1 chip電卓用LSIの開発に取り掛かり71年9月にTMS1802を発表する。
MK6011P はi4004の陰に隠れてしまい余り注目されることは無いが、MK6010(およびTMS1802)はその後、組込型マイコン(マイクロ・コントローラ)として大きな発展をして行くものであり、こちらも大きな意義を持つものである。
尚、Mostekは69年6月にTIからスピンアウト(TIからのスピンアウトの第一号と云われる)したLeonce Sevinらにより、Sprague Electricの支援を受け設立されている。Intel同様に設立1年にも満たない時期にビジコンはMostekにアプローチしている。Intel、Mostekともその後は順調に成長し80年にはIntelは売上575百万ドル、Mostekは360百万ドルと米国でそれぞれ4位、7位の半導体メーカーに成長する。特にMOSメモリーにおいて両社は70年代後半にはトップを争っている。然し、日本勢の攻勢により、85年にIntelはDRAMからの撤退を余儀なくされ、またMostekも同年にこの実質的に破綻する。
*2 ビジコンの主力事業は電卓の他に三菱電機のコンピュータの販売・サポートが有ったが、三菱電機の提携先であった米TRW社のコンピュータ事業からの撤退により三菱電機のコンピュータ事業は大きな打撃を受けることになるが、ビジコンはそのあおりも受けてしまう。
米国では70年頃、IBM System 360の成功により、GE、RCA、TRWなどコンピュータ事業からの撤退が相次いでいた。
Computer On A Chip
TIは71年6月7日のElectronics誌に❝The Thrust in MOS/LSI”と題した全3ページの広告を打つ。
TIは212mils×224mils(5.4mm×5.7㎜)のchipにTR3,100個を集積した8ビットのCPU開発し、それによってComputer Terminal社のDatapoint 2200のCPUの1 chip化に成功したことを大々的に宣伝する。後にTMX1795と称されることになる8ビットCPUである。これは結局、Datapoint 2200に採用されることは無く、少々先走りし過ぎてしまったようだ*1。
ともあれMOSの級数的な集積度の向上により遂には”MOS can put a computer on a chip”に至るまでになったのは紛れもない事実である。
このTIの広告に若干先立って、Fagginがi4004のchipセットを電卓以外の用途へ販売することをNoyceらに提案することになる。そしてTIの広告がIntel幹部を刺激したのか、Fagginの提案が受け入れられ、TIの広告の直後の71年6月から8月にかけてIntelはビジコンと交渉し、開発費6万ドルの返却と若干のchipセット価格引き下げ、および電卓メーカー以外への販売という条件で外販権を獲得する。そして、Intelは71年11月にMCS-4 chipセットとして製品発表を行う。
*1 IntelのDatapoint 2200用8ビットCPU(後のi8008)は70年10月25日のElectronic Design誌で小さく紹介されているが、出荷時期を71年第一四半期とするなど、TIと同様に実際とはかなり異なった内容であった。
Vendor Lock-in
i4004を多様なユーザーニーズに応えさせるために、プログラマーズマニュアルなどのマニュアル類やデーターシートなどの技術資料、エヴァリュエーションボード(デバッキングツール)、更にはアセンブラーなどの言語やコンパイラー、顧客の用途に合わせたアプリケーションソフトのサポートなどの顧客サポートツールやサポート体制が整えられていく*1。この時に開発されたエヴァリュエーションボードであるSIM4-01 Microcomputer Boardが最初のPersonal computerであると云われることもある。
CPUは単なる部品というよりシステムに近い製品であり、単にデバイスを供給すれば良いと言うものではものではなく、こうしたサポーティングツールを必要とする。また、CPUベンダーが提供するだけではなく、多様なニーズに応えるため寧ろサードパーティーに依存する度合いが高くなっていく。こうした広範なサポーティングツールやユーザーの設計資産・ソフト資産やノウハウの蓄積が進んでいくことにより、ユーザーは囲い込まれていくことになる。
*1 CPU(マイコン)はシステムに近い製品であり単にデバイスだけを供給すれば良いというものでは無く、通常のICに比べ製造以外のところに多くのリソースを必要とするが、その割には顧客の所要数は少なく、そのためCPUの価格はかなり高めに設定されることになる。パソコンが登場し、所要数が2~3桁増えた時、Intelは既存市場の価格維持に努め、パソコン市場での価格対応に失敗することになる。
第二世代CPU
4ビットCPUに続いて8ビットのi8008がFagginやHarold Feeneyらにより72年4月に開発される。これは当初CTC(computer Terminal Corporation、後にDatapointと改称)のDatapoint3300の後継の2200用に向けに開発していたものだが、CTCがBIP-TTLベースで2200を別途開発し出荷したこともあり、一時開発が中断される。そこへ、精工舎*1からのアプローチがあり、更にそれにSycor*2が続いたこともあり開発が再開されることになる。i8008はKodakのコピー機のコントローラーなどある程度の量があるところもあるものの、寧ろ量の少ない広範な分野で使われることになる。しかしCTCに採用されることは無かった。
*1 精工舎は、68年5月にハイブリッドICベースのプリンター、紙カードリーダー内蔵でプログラム機能を持つ技術計算用電卓セイコーデスクトップコンピュータS-300を発表する(695,000円)。翌年にはその改良版でBIP-ICベースのS-301(795,000円)、そして、72年にはi8008を使ってS-500を発売する。且つ、CPUベースで回路設計に柔軟性が高いこともあってN20型(155万円)、N30型(170万円)、N40型(189万円)とシリーズ化する。主に土木建築業界に販売されていた。尚、精工舎のIntelへのアプローチはビジコンのi4004を搭載した141PFに影響されたもの。
尚、これら精工舎の製品は基本的にはOlivettiのP101の流れを汲むプログラマブル電卓である。
*2 SycorはHPからスピンアウトしたSamuel Irwinらにより66年に設立される。Sycorはスタンドアロンのインテリジェンス端末メーカー。78年にNorthern Telecom(Nortel)に買収されている。CTCのライバル企業でもある。
Intel i8080
嶋は141PFの開発が終わると、71年9月にビジコンを退社しリコーに転社する。72年春、Intelから誘いが来る。これはFagginの熱心な誘いによる。Noyceが直接リコーの役員と交渉したと言われる。11月にIntelに加わる。この時、リコーには結局戻ることは無かったが、リコーは嶋に5年内ならいつでも復帰できるという猶予を与えて送り出したという。
i8008はPMOSのため速度が300k㎐と遅すぎNMOS化を図ることになる。単にNMOS化するだけでも3倍近くの高速化が達成されるが、プロセスルールを10μから6μへと微細化したこともあり2MHzと大幅に高速化される。またi8008では18ピンパッケージに納めたため設計上の制約が課されていたが、一挙に40ピン*1に増やされアドレスバスとデータバスが分離され、命令セットの数の48種から65種への拡張、メモリー容量の4kバイトから64kバイトへの増大などを行っている。また、i8008とはアセンブリー言語(機械語)レベルでの互換性*2を維持しながら大幅に機能拡張がなされている。アーキテクチャー(仕様)の作成はFaggin、Hoff、嶋が行い、設計はほとんど嶋が単独で行っている。
74年4月に完成したi8080はROMに格納された特定のアプリケーションのみを対象とするシングルタスク用として設計されたものである。SRAMが小容量のデータを一時的に記憶するために使われた。DRAMが使われるようになるのは4k-DRAMが一般化した75~76年頃からであり、その頃開発されたZ80はDRAM refresh回路を内蔵しDRAMを前提に開発されていたが、i8080は小容量のSRAMが前提である。PCの様な汎用的な用途を意識して開発されたわけではなく、いわゆるEmbedded Application用に開発されたものであった。また絶対番地指定方式を使っており、ソフトウェアのバージョンアップなどの際には番地の修正を要すこともあった。電源電圧も+12V、+5V、-5Vの3電源を要した。Floppy Disk装置やDRAMが普及する前に開発が進んだためPC時代に向け大きく改良すべき点が幾つかあった。初期のAltairなどに搭載されるなど初期的にはリードするものの、Commodore PETやApple Ⅱなどに代表されるPC大衆化時代には適応できなかった。
*1 i8080のピン配置が少々歪である。この頃はまだ規則正しく配置することが難しかったようである。これに比べると日電の8ビットCPU μPD753(42ピン)は整然と並んでいた。μPD753は日電オリジナルでありi8080とソフトウェア的にも互換性はない。
日電はi8080を分析し技術的な問題が多々あることを見つける。そこで、NECではi8080と同じものではなくそれを改良したのがμPD753である。然し全く売れなかった様である。技術資料や開発サポートツールは不十分、セカンドソースは無い、i8080なら海外の技術者との話が通じるが、μPD753では説明のしようもない。広く売るには少々無理があった様である。
*2 i8080A(MCS-80)では周辺素子などの開発も進み、システムコントローラー/バスドライバーのi8228、割り込みコントローラー-Ì8259、DMAコントローラーのi8257/37、パラレルI/Oのi8255、シリアルI/Oのi8251、クロックジェネレータのi8224、タイマのi8253がある。これらはIBM PCても使われることになる。
互換CPU
Intel互換CPUとしてNSから4ビットのchipセットINS4001~4が出されている。また、カナダのMicrosystem International Limited(MIL)*1からもMF7114(CPU)、1601(ROM)、7115(RAM)が出されている。IntelはMILに対し70年に広範な製品のライセンス供与を行っていた。i8008ではMILからMF8008、SiemensからSAB8008が出されている。
i8080およびそのバグフィックス版のi8080Aでは互換CPUが激増する。Advanced Micro Devices(AMD)*2からi8080Aと電気的特性が異なるAM9080Aが先ず出され、直にほぼコンパチブルのAM8080Aが出された。AM8080AはIntelとセカンドソース契約が結ばれていた。その他、米国ではTI(TMS8080JL)、NS(NS8080AD)、Signetics(MP8080AI)、NTE(NTE8080A)などから出されている。日本企業では日電(µPÐ8080A)、東芝(TMP8090AP)、三菱(M5L8080AP)、沖(MSM8080A)、そして少々遅れて 富士通(MBL8080)*3からも出されている。その他、欧州ではSiemens(AB8008A)、更にはソ連(580BM80)、チェコ(Tesla MHB8080A)、ポーランド(MCY7880)など、日米欧、更には共産圏まで数多くの互換品が製造されている。
*1 MILはカナダ政府の要請もあってBell Canadaの製造子会社であるNorthern Electric(76年にNorthern Telecom、98年にNortelと改称)によって69年に設立された半導体メーカー。Intelとのセカンドソース契約によって、1k-DRAM(i2103)のFM1103やMF7114(i4004)、MF8008(i8008)などを製造している。
*2 AMDはIntelと同様にFairchildからスピンアウトしたJerry Sanders、John Carey等により69年5月に設立された。SandersはMotorolaで営業を担当し辣腕ぶりを発揮し、Fairchildに引き抜かれ国際営業を担当していた。AMDの創立以来2002年までCEOを務める。全従業員にストックオプションを与え、不況でも従業員を解雇しないなど、在職中はPeople first, products and profit will follow!を徹底して貫いた。
75年にIntelとCPUのセカンドソース契約を締結、以後i80286まで続くが、i80386以降は互換品の開発を行うが、現在ではIntelと相互に命令コードを共通化することによって互換性を維持した上で独自開発を行っており、Intelと対等な立場となっている。MicrosoftがIntelによるCPU独占を阻止するために、働きかけた結果であり、Intelの大きな失策と言える。隅谷・長島理論に従えばMicrosoftにとっては利益急増、Intelの利益は1/4に激減する恐れがあるが、そんな提案をIntelは受け入れてしまった。そのためか、以前はMicrosoftと拮抗していたIntelの株式の時価総額が現在では10倍の差がついてしまった。また、AMDの時価総額はIntelに拮抗するまでになっている。
半導体製造部門は2009年3月にGlobalFoundriesとして分社化。
*3 Intelが電卓から出発したのに対し、MotorolaはDECのミニコンPDP-11の1 chip化を目指したため、 i8080 に比べ MC6800 はアーキテクチャー的に優れ、且つすっきりとして判りやすく、またアドレッシングモードも i8080 に比べて豊富でプログラムし易く、そのため富士通や日立はMotorolaのMC6800の互換品に注力していた。
パソコンOSの誕生
CP/Ⅿ(Control Program for Microcomputer)の開発者Gary KildallはMonterey(Palo Altoの南方97km)にあるU.S.Naval Postgraduate School(NPS)でコンピュータサイエンスを教えるかたわら、i8080用にPL/1言語のコンパイラーPL/Mの開発や最初のパソコン用OSとなるCP/Mを開発している。IntelにPL/Mの開発を申し出て了承され、Intelに自由に出入りして開発を行ったり、NPSのDECのミニコンにi8080をエミュレートしたりして開発を進めた。
開発したPL/Mの試験の為にi8080ベースのコンピュータボードにFDD(Floppy Disk Drive)を繋ごうとする。そのためにFDDにインストールしたプログラムを読み出し実行させる管理プログラムを開発する。これはその後拡張されDECのミニコン用OSのTOPS-10などを模範として、同じような操作環境/コマンド体系を持つ8ビットマイコン用OSへと拡張されていく。このソフトウェアをCP/Mと名付けた。このような背景もあってCP/Mはタイムシェアリングシステムを小型化したようなものになったと云われる。
CP/Mは73年に完成し、KildallはIntelに買い取りを依頼するが、PL/M compilerはIntelが興味を示し買い取るものの、IntelはCP/Mの必要性を認識できず購入を見合わせてしまった*1。その為、Kildallは74年にIntergalactic Digital Research(後にDigital Researchに改称)を設立。75年と思われるが、雑誌に広告を出し通信販売*2に乗り出す。そして77年にIMSAI 8080*3(発売は75年12月)がCP/Mを採用(バンドルして販売)することになると、以降、i8080(その互換品)やZ80を搭載した多くの機種がそれに続くことになる。i8080やその上位互換品であるZ80搭載システムでFDD装置が接続されている装置なら若干の移植作業(BIOSの書き換え)を要するがCP/Mを使うことができる。
*1 Kildallからみるとi8080はコンピュータして十分なポテンシャルを持つと見えていたのに対し、Intelは当時におけるほとんど全ての用途である組込型マイクロプロセッサーと言う位置づけに置いていたようである。そもそもi8008でさえインテリジェントターミナルとは言えスタンドアロンのコンピュータとしても使われていたDCのDatapoint2200用に開発された1 chip CPUであり鈍速とはいえコンピュータとしてのポテンシャルを持つものであった。この時、IntelがCP/Mを購入(2万ドル)していたならば、IntelはCPUのみではなくOSも支配し後のパソコン関連業界は大きく異なったものとなっていたかも知れない。
*2 CP/Mは機種毎の依存性があり条件を満たす機種しか適応できないはずであり、通信販売で対象となりうるパソコンはAltair(発売74年12月)やその互換機に限られていたと思われる。CP/Mを通信販売で購入したAltairやその互換機のユーザーならマニュアルを見ながらBIOSを呼び出し、メモリー容量などの設定を変更するなど、若干の設定変更でCP/Mを使うことができたものと思われる。条件を満たす機種はi8080ベース(Z80も可)で、且つ、当時FDDの標準規格であったIBMおよびそれと互換性のあるFDDが必要である。CP/Mは直に、機種依存性の無い部分と依存性の有る部分に分離され、依存性の有る部分をBIOSとして切り分けるがBIOSの書き換えのみで、i8080ベースのパソコンなら移植できる仕組みとなっているが、BIOSの書き換え簡単ではなさそうである。
尚、i8080が発売されるのは74年5月頃(72年11月から開発着手)であるが、i8080用であるCP/Mはそれ以前に完成している。73年当時KildallはIntelのソフトウェアグループ(Kildallを含め3人)にコンサルタントとして所属し、嶋と密接な連携のもとでCP/Mなどの開発を進めていたようである。嶋はなにかにつけ、ソフトウェアグループの部屋を訪ねていたようで、73年末にi8080が初めて動いた時、嶋は真っ先にKildall達を呼びに行き、i8080が動くところを見せたという。
*3 IMSAI 8080はAltair8080の互換機。76年頃におけるシェアをみるとMITISのシェアが25%程度、IMSAIが15~20 %(IMSAI 8080、i8080ベース), Processor Technologyが10% 弱 (SOL-20, i8080ベース)とTop3を占めていたが、IMSAI-8080もSOL-20もAltairの互換機であり、これらが大きなシェアを占めていたこともあり、その後も多くのAltair互換機が生まれている。CP/MやMicrosoftのBasic、更にはアプリケーションソフトなども開発されてきており、互換機であることの優位性があった。特にソフトウエアの流通の場合、当時はコピーされることが多く、そのためにも互換性が求められた。一方、CP/M(ソフト・マニュアルセットで100ドル)などはコピーされることを前提にして、ソフトの販売とともにマニュアルで収益を上がられるよう、マニュアル(25ドル)を別売していたが、当初、通信販売に頼っていた頃はマニュアルの売上の方が多かったかも知れない。
とは言え、まだパソコンは草創期であり、売上台数も76年頃は精々2~3万台程度に過ぎず、販売も通信販売が主体であり、店舗販売があったとしてもローカルにほんの数店舗で販売されている程度であり、Altairの規格がデファクトになるほどではないが。
Motorola MC6800
i8080に半年ほど遅れて74年末(74年3月に発表)にMotorolaのMC6800が発売される。MⅭ6800は相対番地指定方式を使い、且つ電源は5V単一だった。TR数は4,000個、NMOSプロセスが使われた。Chuck PeddleとWilliam Menschによって開発され、DECのミニコンPDP-8のCPUを1 chip化する発想で開発されたという。MC6800の命令セットはDECのミニコンに似ており、後にDECからクレームがついたと云われる。優れたCPUであったが、米国ではこれを搭載したパソコンにはヒット商品は生まれなかった。
76年早々には富士通のMB8861*1(サンプル出荷は75年10月)や日立のHD46800が販売された。80年代に入ってからMotorolaは他のファミリーを含め富士通などとセカンドソース契約を結ぶことになる。このMotorolaの系統には自動車のエンジン制御に特化したMC6801、MC6805やパソコン用として機能強化されたMC6809*2がある。エンジン制御としては大きな成功を収めたものの、パソコン用としては、そのOSであるOS-9*3と共にMC6809を搭載するパソコンは少なかった。
*1 日本でMC6800のサンプルが入手できるようになったのは85年2月であるから、富士通は8か月ほどで互換品を開発したことになる。富士通は回路検証作業を5月に完了、レイアウト作業および4命令追加などの作業を8月に完了させ、10月にはサンプル出荷にこぎ付けている。70年代半ばにおける互換品の開発作業は他社もこのようなものだったと思わる。
尚、日立は75年にMotorolaとMC6800のセカンドソース契約を結んでいる。
*2 1980年頃、Z80は9ドル、MCS6502は6ドル程度だったのに対し、MC6809は37ドルとかなり割高だった。
*3 OS-9は77年に設立されたMicrowave Systems(Clive, Iowa)が80年に開発した。Microwave SystemsはMC6800用のBasicを開発していたが、MotorolaからMC6809用のBASIC09の開発依頼を受けて、それを開発するとともに、独自にOS-9の開発をおこなった。OS-9が搭載された代表的な機種としては、TandyのTRS90 Color computerやComodoleのSuper PET SP9000などがあるが、標準実装されていたのはBASIC09であった。
日本では富士通が81年発売したMC6809(MBⅯ6809)ベースのFM-8にもOS-9が搭載されていたものも有るが、標準装備されていたのはF-BASIC(MicroSoftのBasicをベースにしてカスタマイズ)であり、82年に発売されたFM-7、84年発売のFM-77にしてもOS-9が採用されたものは少なく、主にF-BASICであったようだ。80年代半ば頃まではFDDはそれほど一般的ではなく
スピンアウト
74年の夏、Ralph Ungerman*1がIntelを去る。続いて11月にはFagginも去る。そして、翌75年2月には嶋も去ってしまう。そして6月には石油会社のExxon*2(投資子会社のExxon Enterprises)からの50万ドルの資金提供を受けLos Altos(Palo Altoの南東8km)にZilogを設立する。当時はオイルショックの影響も受け半導体は不況に入っていた。株価も低迷し、ベンチャーキャピタルの投資額も底をついていた時期であった。Z80の開発は嶋の着任とともに開始され、75年1月にはほぼ完成に至っている*2。
ZilogはFablessも考慮していたようで、当初はSynertek*3へ生産委託をしていた。但し、Synertekは試作を担当した程度であり、量産初期にはMostekへの委託に切り替えている。Zilogは75年3月にZ80をExxonに披露するが、その後追加出資を受け6月よりCampbell(Palo Altoの南東23km)で工場建設を始め年末には完成する。
一方、Motorola MC6800を開発(場所はArizonaの開発センター)したPeddleはMenschら7人を引き連れは74年8月にMotorolaを去り、ペンシルバニアのMOS Technologies(Mostekと混同されやすい)へ転社する。PeddleがMC6800互換CPUの開発プロジェクトをMOS Technologiesに売り込んだようである。移るやいなやMenschを中心にMCS6801/6802の開発に取り組み75年9月にMCS6502を発表する。尚、Menschは77年3月にMOS Technologiesを退社し、78年5月にPeddleらの支援を受けFablessのWestern Digital Center(Western Digitalと混同し易いので注意)をアリゾナに設立し、MCS6502のCMOS版のW65C02や16ビットCPUのW65C816などを開発する。
*1 Ralph Ungermanはmicroprocessor groupを率いていて、嶋の上司にあたる。尚、Fagginは部長クラスで主にEPROMやSRAMなど幾つかのグループを率いていた。Zilogの設立はFagginがUngerman にスピンアウトを持ちかけたのが発端である。Ungermanは一も二もなく(just an immediate response) 賛成したという。また、嶋にはFagginがIntelを去る際に打ち明け、直ぐにでも行動を共にしようとする嶋に対し、Fagginは新会社設立の資金の目途が立つまでIntelに留まるよう嶋に頼んだという。
*2 75年1月にZ80の開発がほぼ完了するが、その時点でZilogの従業員数は11人だった。MASKパターン作成要因が2人いたが、作業がかなり遅れ気味だったようで、見かねたCEOのFagginが手伝い過半を仕上げたと云われる。
*3 SynertekはFairchildからスピンアウトしたRobert Schreiner(ソフト開発に従事していた)らによって73年に設立された。当初、ZilogからZ80の生産委託を受けていたが、試作を行った程度に過ぎない。尚、SynertekはMCS6502のセカンドソーサーである。
*4 Exxonは当時積極的にIT関連に投資をしていた。単なる投資ではなく、事業の多角化の意味合いもあった様であり、IBMへのチャレンジャーと自らを位置付けていたようである。Exxonの80年の純利益は5,650百万ドル(売上103,142億ドル)、一方、IBMは3,562百万ドル(売上26,213百万ドル)と、Exxonは利益で唯一IBMを上回る企業だった。
Exxonの投資先の主だったところでは、ワードプロセッサーのVidec、電子タイプライターのQuiz、ファクシミリのQuip、プリンターのQumeのほか、IT関連で20社ほどを傘下に抱えていた。Zilogもそれらの1社に数えられる。
Z80とMC6502
50年代からリレー制御などにより工場の自動化が進められていく。68年にPLC(Program Logic Controller)がGM とBedford Associatesによって開発され、リレーからTRやICに置き換わり、且つソフトウエアによる制御となり工程変更などが柔軟に対応できるようになる。そして、70年代半ば以降はマイコンが普及していき、PLCのCPUもマイコン*1(組込マイコンボード)に置き換わっていくほか、個々の装置においてもミニコンなどで制御されていたものがマイコン制御に置き換わっていく。これら産業機器の場合、CPUのコストに占める比重は小さく、且つ所要数も少ない為、i8080やMC6800などは高価格維持が可能であり、一方、従来のICとは異なる販売形態やユーザーサポートを要した。また、ユーザーにおけるノウハウ・ソフト資産は蓄積されて行きユーザーはrock-inされるため囲い込みがし易く、価格競争的には限定的なものであった。
74年11月にMotorolaはMC6800を360ドル(i8080と同一価格)で発売する。Chuck Peddleは、この硬直的な価格政策がCPUの市場を狭め、市場の発展を損なうとして営業部門と対立し、結果、発売前の8月にMotorolaを去ったと云われる。尚、75年4月に175ドルに引き下がられている。ほぼIntelに追随する価格政策を採っていた。
75年9月にMOS TechnologiesはMCS6501/6502*4を25ドルで発売する。i8080やMC6800に対して1桁近く異なる価格であった。
尚、Z80は発売当時200ドルで売られたが、MCS6502の発売、およびにパソコン市場の拡大と共に大きく値下げされ78年初頭には22ドル程度とMCS6502並の価格で売られるようになり、パソコン用CPUとしてはMCS6502とZ80の争いとなる。パッケージは共に高コストのメタルシールからプラスティックへと替わっていく。
尚、MotorolaのMC6800は3インチwaferで有効数140個、歩留まりは20%程度だったと云われる。またMotorolaはdepletion load技術*2を持たず、die sizeが大きく、そのため歩留まりは悪く、かなりの高コストであったようだ*3。また、MOSメモリーの大手は新鋭工場でDRAMの少品種大量生産を行い、古い工場では、ロジック品などの多品種少量生産を行うという住み分けをするのが一般であったが、それも低歩留の要因である。
*1 当初はi8080など一般のCPUが使われていたが、現在、PLCのCPUとして使われている組み込み用としては、96年に発売されたDECのSA-110(StrongARMファミリー)の流れを汲むIntelのATOMなどが代表的。
*2 depletion load技術はNMOSにおいてdie sizeを拡大させずに単一電源化する技術。CMOSでは不要。
*3 歩留は単純計算では、例えば1枚のウエハー上に224個の欠陥がランダムに有ったとして、それら欠陥を避けられたchipが幾つあるかという計算に単純化できる。MC6800の場合、有効数140個なら、(139/140)224≒20%と計算できる。一方、MCS6502の場合は有効数250個程度と推定されるので、(249/250)224≒40%となる。1枚のwaferからの良品数はMC6900が140個×20%=28個に対して、MCS6502は250個×40%=100個となる。また、MOS TechnologiesはParkinElmer製の等倍投影露光方式(Micarlign 100)を使っていたようであり、密着露光方式を使っていたMotorolaに比べ、更に歩留的に高かった様である。
Motorolaは75年9月にMOS TechnologiesがMCS6501/6502を20ドルで発売すると、MC6800の価格を69ドルに引き下げて対抗するとともに(Intelも同様に引き下げる)、MOS Technologiesを特許侵害で提訴している。
尚、MotorolaはIntelからdepletion load技術のライセンスを受け76年7月にはMC6800のDie sizeを16.5㎣にシュリンクさせるとともに価格を35ドルに引き下げている。
*4 MCS6502のダウングレード品としてMCS6507がある。これは77年9月に発売されたAtariのゲーム機Atari 2600に搭載された。Atari 2600は世界で累計3,000万台売られている。82年までに米国ではパソコンが累計で約470万台売られているが、それに対して同時期までにAtari 2600は累計で1,000万台が販売されており、MCS6502系は8ビットCPUとして圧倒的なシェアを持っていた。尚、83年にAtari shockと言われるゲーム専用機・アーケードゲーム市場の不況に見舞われる:―
・インヴェーダーゲーム(タイトーよりライセンス)やパックマン(ナムコ)により過熱したゲームブームの終焉
・CommodoreとTIのパソコン価格がゲーム専用機並価格で販売され、ゲーム専用機との競合化
・Atariのコントロールの利かないサードパーティーによるソフトの投げ売りで、Atariのゲームソフト売上が急減
特にゲームソフト(8kバイトのROMカートリッジ)のサードパーティーによる投げ売りが始まり、35ドル程度だったものが5ドル程度まで下がり、Atariのゲーム機器・ソフトの売上は激減し83年には▲5億ドル程度の営業損を出し、親会社であるWarner Comunicationを経営危機に陥らせる。
日本企業のCPU開発
日本による1 chip CPUの開発で最も早い時期に着手されたのは、フォードモータースのEEC(Electric Engine Control)プロジェクト*1に参画しCPU開発を担当した東芝と言えそうである。東芝はフォード車のエンジン制御向けに71年より12ビットCPU TLCS-12(マイクロプログラム制御方式)の開発に着手し、73年に完成させている。NMOS Si-gate 6μプロセス技術を使い32㎟(5.5mm×5.9mm)のchipに2,800個のTRを集積している。このフォードの1 chip CPUの車への搭載を皮切りに一斉に自動車メーカーによる1 chip CPUの搭載が始まることになる。
他の日本企業も早い時期からCPUの開発を進めていた。特に日電にいたっては70年代には世界で最も熱心にCPU開発に取り組んでいたのではないかと思われるほどである。シャープが72年に日本コカコーラ向けにポータブル型の端末機ビルペット*2を開発しているが、それに搭載されていたのが、シャープの依頼により日電が71年12月に完成させたμPÐ707/708の2 chip構成の4ビットCPUだった。シャープはこれをベースにガソリンスタンド向けのPOSシステムBL-3700なども開発している。日電はこの後、73年には1 chipの4ビットのμPÐ751*3(28ピンパッケージ、TR数2,500)を開発する。これはCPUとしては世界初のNMOS(7.5μプロセス).で作られたもので、そのためPMOSのIntelのi4004が108kHzだったのに対し、μPÐ751は1MHzと桁違いの高速性を持っていた。電卓やキャッシュレジスターなどに使われた。74年には8ビットのμPD753、同じく74年11月に16ビットのμPD755/756*4(2 chip構成)と立て続けに開発(発表)している。その他、73年10月に発売された日電のインテリジェントターミナルN6300には8ビットCPU DT-1(3chip構成)が搭載されるほか、IntelやZilogの互換品開発など、かなりの数のCPUの開発を行っている。
また日本では75年頃には東芝のTOSBAC-40Lやパナファコム(松下・富士通合弁)のPFU-100などのミニコンはCPUを2~3個のchipにまで集積化が進んでいた。そして富士通が79年にオフィスコンピュータV830で1万ゲートのCMOSの16ビット 1 chip CPU MB8830を搭載、また82年に発売された東芝のTOSBAC UX-300FⅡには16ビットのT-88000(Silicon On Sapphire技術)が搭載されるなど、LSIの集積度の向上により小型コンピュータのCPUのCMOS 1 chipへの移行が80年前後には一般化していく。但し汎用的なCPUの性能向上により、プロプライエタリなCPUの開発はゲーム機など一部を除き80年代半ばにはほぼ終息していくことになる。
*1 70年に米国で大気汚染防止法(マスキー法)が制定される。それをクリアするため自動車メーカーはエンジンの電子制御技術の開発を推進するが、東芝は71年にフォードのEECプロジェクトに参加する。当時の日本の半導体産業は政府の手厚い保護のもとにあり、ICの輸入もSSI/MSIレベルの100素子未満(TR数で60個程度)が輸入自由化されていた程度であった。そんな日本の半導体企業にフォードはプロジェクトの要とも言えるCPUの開発を委託する。尚、当時、1 chip CPUを搭載したのはフォードのみであった。フォードに続き76年にGMがMotorolaと共同開発を進め、78年にCadillacにMC6802が搭載される。
TLCS-12は周辺LSIも整い、また温度や湿度などの過酷な環境条件に耐える設計になっており、東芝のプロセス制御用や製造ライン制御用のデジタルコントローラーTOSDICなどにも搭載されている。そのほか、TLCS12Aマイコンキットとしても市販され、NEC のTK-80キットがそれに続くことになる。
尚、フォードと東芝は秘密裏に開発を進めており、トヨタがフォードのマイコン制御に1 chip CPUを搭載したのを知ったのは75年になってから。急遽TLCS-12を入手し試作をする。77年に東芝と共同開発を始め80年にクラウンに搭載(Motorola系の8ビット)した。尚、日産はトヨタの先を越し79年にセドリック・グロリアに1 chip CPU(Motorola系)搭載している。
*2 ビルペットは営業マンが客先で販売情報を入力するための端末機器で、その情報は持ち帰られホストコンピュータに取り込まれた。現在のハンデターミナルのオリジンと言えそうである。
*3 μPÐ751は、周辺chipであるμPD752:(8ビットI/Oポート)、μPD757:(キーボードおよびスクリーン・コントローラ)、μPD758:(プリンタ・コントローラ)とあわせ、µCOM-4を構成。これも日電オリジナルであり、Intelのi4004とは互換性はない。
*4 16ビットのμPD755/756は横河電機の計測器やカシオや日電のオフィスコンピュータや端末に搭載されていた。発表されたのは74年と早かったが発売は76年になってからと思われる。顧客を得るのにかなりの時間を要したのかもしれない。
尚、16ビット1 chip CPUでは75年にパナファコム(松下と富士通の合弁)がPFL-16((松下電子工業が製造MN1610)を開発している。75年5月にトロントで開催されたIEEEや9月にサンフランシスコで開催されたWESCONに出品されているが、これが実質世界初の16ビットCPUと言えそうである。同年11月にはTIがTMS9900を発表しこれに続いている。PFL-16は富士通の77年発売されたL-Kit16や81年に発売されたインテリジェントターミナルF9450シリーズ(製造はパナファコム)などに搭載されたほか、パナファコムからのOEMで松下や日本ハネウェルからもF9450相当の機種が販売されている。尚、F9450はインテリジェントターミナルとして大きなヒット機種であった。
互換CPUの開発
70年代末までは集積度もさほど高くはなく、いわゆるリバースエンジニアリングの手法は単純なものであった。先ず、chipを取り出し、オリンパスなどの顕微鏡写真装置(ポラドイドフィルム)で数百枚撮り、それを張り合わせスチール机2個分ぐらいの大きさのchipの拡大写真を作成する。写真から回路解読しi8080やMC6800クラスのCPUなら2週間ほどで回路図が出来上がる。これに独自の命令を追加(あまり得策とは言えない)したりして上位互換CPUが完成するという次第である。70年代半ばにはIon Implantation(I.I.)装置が熱拡散装置を代替するものとして導入されてくるが、I.I.を使われるとかなり回路が読みにくくなってくる。Z80の場合、嶋はI.I.で敢えてダミー的なTRを作り、解読を混乱させ時間稼ぎをしていた。ただし、この手法が通用したのは8ビットじだいまでの様である。
ここで問題となるのがバグの扱いである。日電はi8080Aの上位互換品µPD8080Aを開発した際にバグの扱いにかなりてこずっていた。µPD8080Aは割り込みの機能強化を行っており、AltairのユーザーなどはIntel製を取り外し日電製に置き換える者もいたと云われるが、i8080Aのバグ修正を施したために逆に混乱を招いてしまったといわれる。ユーザーはソフトウェア作成の際にバグに気づき回避策をとっていた。バグを修正すると逆にエラーが生じてしまうことになる。日電はバグを戻しµPD8080AFとして改版をおこなっている。バグすら互換の一つと言うべきものだった。動作的に明らかに意味が無い回路も、動作を解析した上でしっかりコピーし、バグも再現することが必須であった。
後に日電が16ビット版のIntel CPUやMicrosoft の8ビット版BASIC互換の16ビット版BASICをクリーンルーム方式により開発した際にはバグがきちんと再現されていたといわれる。そのため、妙な憶測をされたりするが、そこまで徹底することが必要であった。新規にBASICを開発することはさほど厄介なことではない。マニアが趣味で作る程度のものである。いったい何種のBASICが当時パソコン用に作られていたかは数えきれないほどであろう。外部仕様を頼りに他人の作ったソフトのバグまで互換化する方が遥かに困難である。マイクロソフトのMS-BASICではメモリ容量を押さえ機能を無理やり詰め込んだためその場しのぎ的な荒業が使われていたのは良いとして、Microsoft自身が混乱してしまっていたと云われる。メモリー1バイトを節約する為に、分岐命令のディスプレースメントの1バイトを命令として活用するといったコーディングが随所にあった。結局、8ビット版MS-BASICが多数の非互換バージョンに分岐してしまったこともあり、Microsoft自身が16ビット版を新規に作り直し(GW BASIC)、8ビット版との互換化は図られなかった。日電は徹底した互換化によってパソコンの8ビットから16ビットへの上方互換を維持した。PC98が日本市場を制覇した大きな要因となった様である。
互換CPUの開発において、日電はセカンドソース契約をほとんど行っていない.その為、幾度となく裁判沙汰に巻き込まれるが、大抵は勝っている。一方、他社はセカンドソース契約を行ったり、場合によっては事後的に契約したりしている。例えば富士通の場合を見ると、75年にMotorola MC6800の互換品MB8861の開発を行い76年から販売を始めるが、これに対し8年後の83年にセカンドソース契約を締結している。また78年にはIntelのi8048の互換品MBL8048を開発し、翌79年にはi8086の開発に着手している。ただ、i8086の開発中にIntelからセカンドソース契約の話がもたらされ設計資料を貰うが、それらは確認に止め、当初の予定通り開発を進め、81年にこのリバース品をセカンドソース品として契約を結んでいる。またこの際、i8089(I/Oプロセッサー)の高速版(既存品の4MHz→8MHz)の開発を受託することになるがかなり手こずった様である。一からやるより寧ろ困難だったようで、結局、200個所余りの変更を必要とし、完成までに2年近くを要してしまうことになる。富士通は逆にIntelに対してマスクデータを供給する立場になっている。ただ、プロセスの違いなどでIntelは上手く製造できなかったのか、後には富士通が世界で唯一のi8089の供給者となっている*1。
80年代初頭における日本企業のセカンドソース契約の状況を見ると、
Intel:東芝、三菱、富士通、沖、(事後的に日電*2)
Motorola:日立、富士通
Zilog:日立、東芝、シャープ、ローム、(日電も事後的にライセンスを受けている*3)
Mos Technologies:リコー(Rockwellのサブライセンス)
*1 Intelはかなり不誠実であったようで、例えばi80286の場合、Intelは5回ほどバグ対策で改版を行うが、改版マスクの提供を意図的に遅らせ、最終の5回目の改版(E-version)は遂に提供さえしなかったという。 また、富士通はCMOS版のi8086を85年早々に開発し、Intelに承認を求めるが拒否されたりする。高速(10MHz)・低消費電力であり市場のニーズは高いが、悠長にセカンドソース交渉してから開発するのでは市場の要求について行けないような状況であった。尚、IntelはHarris(Intersill)と沖とCMOS版の共同開発を行っていたようであるが、それとの競合があったためのようである。加えて、現行の8086の市場を奪われるのを恐れたのかもしれない。尚、沖やHarrisはCMOS版開発に手こずったようで、かなり遅れて87年頃に沖からCMOS版Ⅿ86C86が出荷されるが、遅れた上に5MHzと低速だった。当時、主流であったi8086-2は8MHzであり、i8086並の5Hzでは市場性に乏しく、ほとんど売れなかったと思われる。また、M86C86にはIntelの著作権表示が無いなど、Intelの著作権管理は不徹底だったようで、後にIntelと日電の裁判で日電を救うことになる。但し、日電や富士通などのIntel互換品はそもそもセカンドソースではなく独自開発したクローンもありIntelの著作権が及ばないものも多い。
尚、CMOS版の開発においてはIntelもMotrolaも他社との共同開発を行うケースが多い様だ。例えば、Motorolaは16ビットCPUのMC68000のCMOSの開発を85年から日立と共同で行っている。
*2 日電のV20(i8088)/V30(i8086)はOlivetti PCS86などIBM PC互換機に搭載されている。日電は80年代半ば頃には、CPU+MCUのマイコン関連の金額シェア(86年:Dataquest)では17.8%のシェアを持つIntelに次ぐ13.9%のシェアを持っていた。Intelの最大のライバルであった。i8086/88の互換品であるµPD8086/88は事後的にIntelからライセンスを受けている。
*3 日電はi8080/Zilog80の上位互換の16ビット版であるV20(μPD70108)/V30(μPD70116)を逆にZilogにライセンス提供している。この提供はZilogとの訴訟合戦(83年6月にZilogが日電を提訴)の和解(84年3月)の際の条件であったようだ。ZilogはそれをZ70108/70116として販売している。Zilogの他にもソニーCXQ70108/70116、シャープLH70108/70116は日電のセカンドソース品である。
Zirogが著作権侵害で10百万ドルの賠償を求めて日電をを訴えると、それに対して日電は特許侵害で29百万ドルを求めてZilogを訴えたが、Zilogにとっては極めて分が悪い裁判であった。日電は負けても失うものは僅かであるのに対し、Zilogは全てを失う恐れさえあった。おまけに、Zilogは日電による著作権侵害を5年間も放置しておいて、今更何を訴えるているのかという、ほとんど意味をなさないものであった。然し、このような、既成概念では到底有り得ないような裁判が起こされたこと自体、大きな転換期を迎えつつあったのかもしれない。
Operation Crash
Intelはi8080で先行し当初こそAltairなど主要なパソコンに搭載されたものの、価格が高かったうえに性能的にも見劣りし(特に3電源)、Z80やMCS6502が発売されるとパソコン市場でのプレゼンスを失ってしまう。75年には179ドルとかなり高い価格だったが、ただ数量次第の様でありMITISは75年にAltair用に小売りでは300ドル程度で売られていたi8080Aを75ドル(発注数は200個と思われる)で入手し、Altairを397ドル(最小構成のキット価格、出荷時には439ドルに値上げ)という価格設定を行った。Altairは市販される世界初のパソコンであるとともに、その低価格で一層の話題を誘うことになる*1。一方、Appleは76年4月に発売したApple Ⅰ(価格$666.66)用にMC6800を入手しようとしたさいは175ドル(小売価格)だった。そのためAppleはMOS Technologiesから25ドルで発売されたばかりのMCS6502(セカンドソースのSynertek製)を採用することになる。
i8080Aはかなり広範なユーザーに使われ、ワープロ(76年6月発売のWang WPSなど)などに大量に使わるものも有るが、例えば製造装置の制御用など少量生産*2の製品に使われる方が寧ろ多かったと思われる。ROMもMASK-ROMが使われることは例外的で、多くはÌntelの得意とするEPROM(紫外線消去、電気的に書き換え可)が使われ、ソフトの変更に柔軟に対応が必要な分野などでは特にi8080Aは有用性を発揮していた。価格を下げてもたいして数量が増加するようなものではなく、価格弾力性の低い市場を対象としていた。i8008に対して上位互換性(バイナリーレベルでの互換性は無い)もあり、Intelアーキテクチャーに対するソフト資産やノウハウの蓄積の形成が始まりつつあった。こうしたキャプティブに近い市場を抱え、それがある程度ながら成長していたこともあり、パソコンの黎明期はともかくとして、急速に市場が立ち上がって行く時期においてさえ、失うものが大きかったせいか柔軟な価格対応ができずパソコン用CPUにおいてはマイナーな存在となってしまう。i8080の価格は当初360ドルで発売され、75年には179ドル、その秋には69.95ドルとOEMの基準的な価格は下げられていくが(MC6800はほぼ追随)、特にMOS TechnologiesのMCS6502に比べ価格的に大きな隔たりがあった。
*1 Altairは当時電子関連の雑誌では最大の発行部数(30~40万部)を持つPopular Electronics誌の75年1月号(発行日74年11月29日)の表紙を飾り、且つカバーストーリー(P.33-38)が掲載された。表紙には”World’s First Minicomputer Kit to Rival Commercial Models, Altair8800― Save over $1000”と書かれ、一方、カバーストーリーの方には”Altair 8800 The most powerful mini computer project ever presented - can be built for under $400”と題されていた。また、カバーストーリーでは、”made by Popular Electronics/MITS”となっており、共同プロジェクトであるかのように紹介されている。 「個人でも所有できるコンピュータが欲しい」という読者の投稿を受け、編集者のLeslie Solomonが以前会ったことがあったEdward Robertsに話を持ち掛けたのが発端だったとも云われる。またAltairと名付けたのはSolomonの幼い娘だった。
部品リストの詳細が記載されているが、それらを個別に個人が揃えようとするなら、$1,400(Save over $1,000)程度は掛かるものが僅か$400で提供されるというのが最もセンセーショナルだったかもしれない。
尚、Altairをパソコンとして使うには入出力装置としてテレタイプが必要でBASICが紙テープで提供されていたが、毎回BASICをテレタイプで読ませるところから作業を始める必要が有った。
*2 民生用機器、例えば電子レンジなど量が大きく低機能で十分な用途に搭載するのはTIが2~3ドルで販売していたTI1000の様なMASK-ROMやRAMを内蔵した1 chipのマイクロコントローラが使われた。
それに対し、72年頃よりスタンドアロン型のFDD内蔵のワープロ専用機(価格は当初2万ドル弱)がLexitron(Raytheon)、Linolex、Vydec(Exxon)、WangやDECなどから発売されるが、初期的にはi4004などが搭載(MASK ROMのi4001はEPROMのi1702などに置き換え)され、70年代半ば以降はi8080など8ビットCPUにアップグレード(DECは12ビットのIntersill 6100)されCPUの主要なユーザーとなっていた。尚、米国ではワープロ専用機のピークは81年で、価格が高かったこともあり(81年頃WangのWangwriterは6,400ドルまで下がっていたが)、以後はパソコンベースのワープロソフト(Word StarやWord Perfect)への移行が進み、この移行はパソコンの特にビジネスユースの市場拡大に寄与する。
一方、日本ではパソコンとほぼ同じ時期にワープロが誕生するが、寡占的な市場になったパソコンに対して、ワープロ市場は競争的であったこともあって価格が急速に下がったこともあり、83年の販売台数はパソコン885千台、ワープロ96千台であったものが、3年後の86年にはパソコン1,235千台に対しワープロは2,047千台と急増し、90年代に入ってもワープロの出荷台数がパソコンを上回ることになる。またゲーム専用機の急成長もあって、日本でのパソコンの普及は妨げれれることになる。尚、ワープロの価格は79年2月発売の東芝W-10が630万円、80年5月の富士通OASYS100が300万円だったのが、84年8月の富士通OASYS Liteは22万円、85年7月の東芝ルポJW-R10は99,800円と80年代半ばには普及価格帯に到達した。
産業用と家庭用
コンシューマー用パソコン市場は価格弾力性の高い市場であり、パソコンメーカーは売れ筋の価格帯に価格を押さえこみ、且つ機能強化を図るためにコスト削減が必須であり安いCPUを必要としていた。またMCS6502はパイプライン的な機能を持ち画像処理能力に優れ8ビットアプリに多いゲームに適していた。パソコンの世界シェアを見ると、80年にはTandy(Z80)が23.1%、英Sinclair*1(Z80互換の日電製µPD780)が14.7%、Apple(MCS6502)13.6%、コモドール13.0%(MCS6502)とこの4社で約世界シェアの2/3近くを占めていたが、上位のほとんどはZ80やMCS6502であり、主要機種でIntel系が使われたものはほとんど無かった。また、用途別にみると、Tandy、SinclairやAppleはビジネス系にも強く、一方Commodoreは家庭用と言えたが、ビジネス系は81年のIBM PCの発売、およびその互換機メーカーの躍進とと共にシェアを失っていく*2。一方、コモドールやアタリ(MCS6502)など家庭用はIBM PCの影響はほとんど受けずシェアを伸ばして行ったものの、83年7月(米国発売85年10月)に発売され大ヒットした任天堂ファミコン(リコー製のMCS6502系であるRP2A03搭載)や同じく88年10月(に米国89年8月)発売されたセガのメガドライブ(MC68000搭載)との競争でゲームユースにおいて敗退し勢いを失っていく*1。パソコン出荷台数は96年には世界で900万台に達するが、任天堂のファミコンだけで同年には390万台を売り、ゲームユースの大きかったCommodore64(MCS6510搭載)などに打撃を与えることになる。
尚、80年代には日電や東芝、エプソンなどの日本勢が健闘しているが、日電は主に日本市場で圧倒的なシェアを持っていたこと、東芝はフラットディスプレイを搭載したラップトップ/ノートパソコン(DynaBook)で世界トップシェアを持っていたことによる。
パソコン世界シェア
*1 初期のCPUの大きなユーザーとしては、家庭用ゲーム専用機があげられる。76年11月にFairchild Camera and InsturumentsからFairchildの8ビットCPU F-8(独Olimpia Welkeが開発したCPUがベース) を搭載した家庭用ゲーム専用機Fairchild Channel F(169.95ドル)を販売する。年に10万台程度売れている。翌77年にはAtariがMCS6502を搭載したAtari VCSを発売し初年度に40万台、翌年は55万台(25万台ほど売れ残りAtariは経営危機に陥る)ほど売れている。当時、家庭用ゲーム専用機への参入が相次ぎ、BallyのArcade(Z80ベース、299ドル)、更にはGIの16ビットCPUであるCP1610(75年にHonewellの制御システム用に開発)を搭載したMattelのIntellivision(299ドル)など第二世代の家庭用ゲーム専用機がパソコンに先立ちCPU市場をリードしていた。米国では83年頃までに累計で1,500万台のコンソールタイプの家庭用ゲーム専用機が普及していたと云われる。そして突如、83年にゲーム専用機市場が崩壊してしまう。いわゆるAtariショックと称されるものであるが、Atariの親会社であるWarner Comunications(映画会社のWarner Brothersなどを傘下に持つ)の経営さえ揺るがすことになる。Warner Comunicationsは83年12月期に▲418百万ドル、84年12月期に▲586百万ドルの損出を計上し、Atariは解体され家庭用ゲーム部門は84年にCommodoreを追われたJack Tramielに売却され、アーケードゲーム部門は85年にナムコへ売却されたが、共に昔の勢いを取り戻すことはできなかった。
一方、Fairchildは77年にはF-8ベースのパソコンVideoBrain Family Computerを発売し、パソコンに進出する、同じくAtariも79年11月にMCS6502ベースのパソコンAtari400を発売する。この際、MOS TechnologiesはAtariに対してMCS5602とI/O Chipのセットを12ドルで販売している。
Apple II、コモドールPET、TRS-80によるホームコンピューター革命とも言える現象が始まっており、ゲーム専用機からパソコンへの移行が進む様に見えた。任天堂の成功はこの流れを逆流させてしまったようだ。初期のゲーム機の売上台数を見ると;―
任天堂
83年07月発売 ファミコン 6,191万台(米国85年10月、3,400万台)・・MCS6502系(RP2A03)
90年11月発売 スーパーファミコン 4,910万台(米国91年08月、2,335万台)・・MCS6502系(MCS65C816)
96年06月発売 NINTENDO 64 3,293万台(米国96年09月、2,063万台)・・MIPS R4300
セガ
88年10月発売 メガドライブ 3,075万台(米国89年08月、2,000万台)・・MC68000+Z80
94年11月発売 サターン 926万台(米国95年05月、 126万台)・・SH-2
ソニー
94年12月発売 Play Station(初代) 12,240万台(米国95年09月、3,967万台)・・MIPS R3000
(Play Station初代から5までで21年末までに47,890万台)
90年代に入る頃には、ゲーム主体の家庭用パソコンはほとんど淘汰されてしまい、IBM PCおよびその互換機がパソコン市場の9割を占めることになる。
Intelの凋落
Z80はi8080と同じく40ピン・パッケージであったがピン・コンパチブルではなかったため単純には置き換えられないが、バイナリーレベルでのソフトウェアの上位互換性がありIntelの資産を継承できる強みがあった。Digital Research(DRI)のCP/MやMicrosoftのBASICなどi8080用に書かれたソフトウェアはZ80でそのまま使えた。IntelはZ80対抗の為i8085(単一5V)を開発するが、これはあまり成功しなかった。日本では日電が76年8月にトレーニングキットTK-80にi8080をしたものの、日本初のパソコンである79年9月に発売されたPC-8001などにおいては日電もZ80(日電製互換品)を採用することとなる。パソコン用としてはi8080やMC6800はZ80やMCS6502用に書かれた流通ソフトの移植はけっこう厄介だったと思われる。Z80には多くの追加された命令が有り、且つ、i8080の絶対番地方式に対し相対番地方式の違いもある。またMCS6502は画像処理の高速化の為にアセンブリー言語を使ってMCS6502にハード依存性のあるソフトの作りになっていたものが多いと思われ、且つ、MC6800がbig eggに対してMCS6502パソコンにはlittle eggであるという違いもあり、i8080やMC6800を搭載しようにも、単に価格面のみではなく、そもそも既に搭載は困難だったようだ。
また、Motorolaは70年代末にはMC6800を自動車産業向けにカスタマイズしたMC6801/2やMC6805やモジュール化した、例えばGMCM(General Motors Control Module)の形で自動車産業に強みを発揮していた。またMC6800系の命令セットはDECのミニコンに似ており、それに慣れた技術者たちにとっては使いやすかったこともありenbededの分野でIntelを凌いでいく。i8080は販売数量こそ増加傾向にあっただろうが、パソコンの成長と共にシェアを大きく落として行くことになる。
*1 SinclairはClive Sinclair によって61年に設立されたSinclair Radionicsにその起源を持つ。75年にはTIの電卓用TMS0803 chipセットを搭載した電卓Sinclair Scientificを世界的にヒットさせている。80年にZX80を£99.95(約52,000円、米国では$199.95)で販売し、初めて100ポンド/200ドルを切ったパソコンとなった(キットとしても£79.95で販売)。翌81年にはZX81を£69.95(約31,000円)、キットで£49.95で販売するなど更に価格を引き下げている。
尚、これら8ビットパソコンの後継として16ビット版を開発するために83年末から開発が始まり85年に完成したのがARM 1 (Acorn RISC Machine 1)である。シンプルな構造でその為消費電が少なかったが性能は高かった。翌86年に最初の製品となるARM2が完成する。80年代末、Appleと共同開発に取り組んだが、その際に、分社化してAppleの出資(43%)も受けAdvanced RISC Machinesを設立、91年にはARM6が開発され、AppleはこれをベースにARM610を開発しNewtonに搭載する。これを足掛かりにARMは飛躍することとなる。93年にリリースされたARM7 Core familyはAppleのiPod、任天堂やセガの携帯ゲーム機、HPの電卓や多くの携帯電話などモバイル機器分野を中心に広く使われることとなる。現在、ARM Coreとして広くライセンスされ、多くの企業によってARM CoreをベースとしたCPUやMCU(マイクロコントローラー)が開発されている。現在ではIntel・/AMDに対し十分に対抗できるところまで来ていると言っても過言ではないかも。
飛び出した茹でガエル
茹でガエルの譬えがあるが、実際に実験してみると、カエルは耐えられなくなる前に飛び出してしまう様である。
70年代末にはZilogとMOS Technologiesが勃興してきたパソコン市場のほとんどを獲得し、一方、Motorolaは自動車のエンジン制御などの産業分野を切り開きつつあった。
これに対し、70年代末にIntelはOperation Crushと称された積極的な拡販策に乗り出す。価格を大幅に下げ、例えばi8080Aの価格は80年には5ドルまで低下する。16ビットのi8086に関してもかなりの低価格を提示していた。この頃からntelはi80186やi80286へのRoad Mapや将来の価格へのコミットをするようになる。それもNoyceが率先してユーザーに出向きトップセールスを展開する。その為、CPUやⅯCUの価格は下落し採算性はしばらく低い状態が続くことになる。この積極的な低価格に加えサポートの良さやi8080(更にはZ80)などによって築かれたソフトウェア資産やユーザーに形成されたノウハウ、それに加え8086は性能的に見劣りしたが出荷時期が比較的早かったこともあって、一応は産業用などの市場においてはプレゼンスを獲得していたようであるが、パソコン市場には受け入れられるほどのものでは無かった様だ。
パソコン市場が立ち上げりつつあった78年におけるCPUのシェア(Dataquest)を見ると、8ビット市場においてはIntelはトップを維持しており、その互換品がほぼ4割程度を占め、金額的には更に高いシェアを占めていたと思われるが、低価格が求められた第二世代ゲーム機や立ち上げり出したパソコン市場では主要機種においてはほとんど採用されることは無かったようだ。4ビットにおいてはほとんど敗退し、8ビットにおいては市場の伸びによって数量的には増加するものの、Z80やMCS6502に対しては後塵を拝することになる。パソコン市場が立ち上がり出した78年の8ビットCPUのメーカー別の出荷個数を見ると;―
IBM PCのi8088採用
Operation Crashの最大の成果がIBM PCのi8088*1採用であった。IBMとIntelのIBMとIntelの関係は既にIBM Displaywriter(ワープロ)にi8086を採用した実績があったほか、80年頃に提携を結びIBMはバブリメモリ技術と交換にIntelのCPUに関するライセンスを得ている*2。
i8088の内部処理は16ビットであるのに対してバスは8ビットであり8ビットと16ビットの中間的と言っての良い様なCPUであり、実質は8ビットCPUの高速版と言う位置づけである。バスが8ビット幅のため8ビットCPU用の安価な周辺回路(周辺LSI)がそのまま使えるほか、当時のDRAMは1ビット構成だったので、16ビットバスなら最低16個必要なところが8個で済ますことができるなど、低コストを志向したものと思われる*3。また、i8086/88は8080と流石にバイナリーレベルの互換性はないのでユーザーが保有している8ビット機用のパッケージソフトなどは使えないものの、ソフトウェアハウスにとってはi8080用に開発されたソフト(アセンブラ)に一切の手を加えることなく再アセンブルするだけで、i8086/88用のバイナリを生成する事も出来、移植がし易かった(アプリケーションソフトから見て64kバイトのメモリー空間などi8080と同じ環境を設定することができた)。
IBM PCのCPU採用に関しては、ZilogはExon(Exxon Enterprise)の子会社であったことが不利だったと云われる。当時、An Affiliate of Exxon Enterprise,Inc.として、Exxonの関係会社であることを前面に出した新興企業群がワープロ、ファクシミリ、電子タイプライター、レーザープリンター、OMRシステム、カラーグラフィカルディスプレイ、データ通信など新分野でプレゼンスを確立しつつありZilogもその一つであり、新規分野においてはExxonとIBMとの競合が始まっていた。また、Z8000はハードワイヤド方式を採っており、そのバグ修正に手間取り出遅れてしまったことに加え、周辺LSIではほとんど使えるものは無く、おまけにZ80に対して互換性が低い*4というより別物と言うべきものであった。その為、築き上げられたZ80の資産はi8086/88の方に継承されることになる。Z8000はAmdahlでCPU装置のアーキテクチャーグループにいたフランス人のBernard Peutoが開発の中心であり、コンピュータ技術者が開発をリードするようになり本格的なコンピュータ技術が取り込まれていく。その為、8ビットCPUに対し大きなアーキテクチャーの差異があった。
一方、80年に発売されたMotorolaのMC68000は内部処理が32ビット、バス幅は16ビットでi8088(内部処理が16ビット、バス幅8ビット)に比し一世代上のCPUであり高性能すぎた*5。本来は完全な32ビットCPU(84年発売のMC68020)として開発されるはずのものであったが、半導体の集積技術がまだ十分なレベルまで達しておらずバスを16ビットとした。こうした高性能CPUの場合、機器ベンダーが周辺回路を設計し独自色を出すのが一般であり、その為、周辺回路用LSIがそろっていなかった。
*1 i8088の出荷数、平均単価(互換品含む)の推移を見ると(Dataquest):―
81年 470千個 平均単価7.00ドル
82年 900千個 平均単価 4.50ドル
83年 2,400千個 平均単価 3.25ドル
*2 Intelが多くの企業に供与したセカンドソース契約とは異なる。後に、CyrixなどFablessのIntel互換CPUメーカーはIBMに製造委託することによりIntelとの特許問題等を回避することができた。IBMの他にはⅯostek(STMicroelectronicsがMostek買収により継承)、HPなどともIntelは包括的なoyalty-freeのライセンス契約を結んでおり、互換機メーカーはIBMやSTMicroelectronicsをファンドリーとして利用している。それら企業とライセンス契約を締結した当時はFablessを想定していなかった。それに対しIntelが後に、例えばサンヨーと結んだ契約では”Sanyo-desiged and Sanyo-manufactured products”と言う制約を設けている。
*3 IBM PCはビジネス用のイメージが強いが、当初は家庭用の位置づけであったようで、AtariからOEM供給を受けたり、またAtariの買収も検討したこともあったようだ。また、販売チャネルとしてはシアーズ・ローバック(当時最大の小売りチェーン)や、全米に200店近い店舗を持つコンピュータランドでの販売を決めていた。
*4 Z8000の失敗の要因としてZ80との互換性の低さがあげられるが、それ以上に半導体製造技術の弱さも大きな弱点であったようだ。70年代末期にはIntelもMotrolaもDRAMの大手として設備投資競争をリードし、ウェハーの大口径化(75年頃より4インチ化が始まる)、そしてフォトではGCAのDSWの導入が始まり、蒸着では真空蒸着からスパッター、拡散ではIon Inplantationが更に普及し、エッチングもウェットからドライへの移行が始まり、超LSIの玄関口とも言える64k‐RAM量産化への対応が進展していた時期であった。Z8000とMC68000を比較するとZ8000は1世代の遅れが有った様である。MC68000のTR数はZ68000の4倍に対し、chipサイズは1割程度の増加に留まっている。i8086に対してもかなりの製造技術の遅れが目立っていた。実質、Zilogは先端LSIを3インチ16k‐DRAMレベルの工場で、IntelやMotorolaの4インチ64K-DRAMレベルの工場と戦いを強いられていたようなもので、TR数も制限され、それなのにChipサイズも大きく、そもそも勝ち目は無かったと思われる。
*5 MⅭ68000(8ビットのMC6800とはほとんど互換性は無い)を搭載したシステムはOSとしてUNIXを採用するケースが多かった。UNIXというマルチユーザOSを採用した為にEngineering Work Station(EWS)として、シングルユーザ・シングルタスクのPC-DOS (MS-DOS)を採用したIBM PCとは別の発展を遂げ、10年後にはIBMのメインフレーム事業を大きく揺るがし、IBMは91年から93年にかけ3年連続の赤字に追い込まれ大胆な構造改革を迫られることになる。
IBM業績(単位:10憶ドル)
売上 純損益 売上 純損益 売上 純損益
1988 59.68 5.80 1991 64.79 -2.82 1994 62.67 3.02
1989 62.71 3.70 1992 64.52 -4.96 1995 71.94 4.17
1990 69.02 6.02 1993 62.72 -8.10 1996 73.42 5.42
32ビット版(但しBUSは16ビット)であるMC68000を搭載した83年1月発売のAppleのLisa、84年1月発売のApple Macintosh(84年MC68000→89年にはフルの32ビットのMC68030)、Commodole Amiga(85年)、Atari ST(85年MC68000→90年MC68030)の3機種のみでも91年には約350万台とPC市場1,880万台の約19%を占めるまでに成長する。またMC68000系のCPUはパソコン市場での成功に加え、Apollo Computer(80年設立)のDN 100 Work Station、Sun Microsystems(82年設立)のSun-3 Work Station、NEXT(Steve Jobsが創立)のNEXTcubeやHPの㏋9000などEWSにも広く採用され高性能CPU市場が大きく拡大していきRISCアーキテクチャーへと繋がることになる。また、MC680x0系はゲーム機器(88年10月発売のセガメガドライブにはMC68000が搭載され、累計で3,075万台売られた)やレーザープリンター制御、グラフィックやサウンドのコントロール、産業機器の制御用など広く使われていた。
尚、MC680x0はBig endianであり、本来ならばBig endianであるIBMのコンピュータシステムと相性が良い。それに対し、IntelはLittle endianであり、当時であればこのendianness変換はかなり困難であり(Data通信ができない)、それがIBMにとっては逆に製品構成上のメリットだったかも知れない。メインフレームなどに接続されるとインテリジェント端末などを置き換えてしまうどころか、MC680x0ならメインフレームコンピュータ用のアプリケーションソフトがパソコンに移植される恐れさえ生じてしまう。
然しながら、直にそうした危惧は現実のものとなってしまう。例えば、82年末にAuto CADがリリースされる。i8088ベースでOSはCP/M-86のVictor Technologies(Chuck Peddleが1980年に設立したSirius System Technologyが前身)のVictor9000 (Display 800x400)向けに先ず販売された。かなりローエンドのCADであるが、その動きは直にハイエンドのCADにも波及することになる。例えば、日本におけるIBM PC(5550)には日本語処理の負荷の大きさもあってi8088ではなくi8086が搭載されていたほか、モニターの解像度も高く(1,024ドット×768ドットのXGA)、そのため、米CADAMと川崎重工の合弁会社であるキャダムサービス社は84年からメインフレーム用ADであるCADAMのパソコン版のMicro CADAMの開発をすすめ、日本IBMが85年9月に販売を始め(90年6月OS/2版、UNIX版のEWS)、富士通も88年よりMicro CADAMのEWS版の販売を始める。当初はCADを導入していない中小企業などに市場を広げるものであったが、メインフレームCADを使用していた大企業においてもEWS化が一挙に進行することになりダウンサイジング化が進展する。
CPUの採算性
CPUは現在では寡占的な市場となっており採算性は高いと言えるが、80年代前半などは採算性が必ずしも高いとは言えなかった様である。セカンドソースの供与を各社とも行っており、またコピー品も多く、機種間の競争に加え、互換品との競争もあり高価格の維持は困難であった。例えば、i8080の場合、AMDなどにセカンドソースを供与していたほか、Zilogや日電が上位互換品を出すなど寡占的な価格維持は困難であった。パソコン用CPUとして、当初こそi8080は採用されたものの、市場の立ち上がり期には競合も出揃い価格対応できず、且つ性能的にも劣りほとんどパソコン市場ではプレゼンスを得ることができなかった。然しながら、Z80が有ったからこそ、IBM PCの立ち上がりは順調だったのかもしれない。Z80用のパッケージソフトのIBM PCへの移植は比較的容易だったようである*1。
i8088/80286系のCPUにおいてはIntelのほかAMDと日電が主要なメーカーだった。AMDはセカンドソースとしてIBMの需要の30%を確保していた。日電は独自開発のVシリーズを自社のPC9801に搭載していたほか、IBM PC互換機メーカーへの供給(85年当時、互換機を含むIBM PCに搭載されているCPUシェアではIntelと日電はそれぞれ4割のシェアでほぼ拮抗していた)もあり、売上ではIntelに次ぐ大手だった。Dataquestによると:―
Intelが16ビットで供与したのは著作権をベースとしたセカンドソース契約であるが、この場合はIntelが提供するMaskに依存することになる。その際、Intelがプロセスを確立してからMaskが提供されるが、当然のこと入手は遅れることになり、またセカンドソーサーはIntelとプロセスが異なり量産化に手間取ることになる。そのためIntelが新版を出荷しているのに対して旧版で対応せざるを得ず競争は不利となる。またIntel自身でさえシリコンバレーやオレゴンの試作工場から量産工場へ移管する際に製造装置の違いなどにより立ち上げに手間取り90年代に入ってもトラブル続きで試行錯誤を続けていたほどで*2、まして大きく異なるプロセスを使うセカンドソーサーにとってはハンディが有った。後発でありハンディを抱え量産性に劣り原価は高く、且つIntelより低価格でないと売れないような状況であり、Intelはセカンドソーサーに対し優位性を持っていたが、Intel自体も採算性がそれほど高かった訳ではなかった。83~84年は半導体にとって好景気の時期であり、81年から84年の3年間でIntelの売上は倍増したが、85~86年の半導体不況の影響、および日本勢の躍進もあり、Intelは86年には創業当初を除けば初めての欠損を計上する。
*1 それに対し、MotorolaのMC68000はMCS6502(MC6800とも)とはほとんど互換性がなかったこともあり、それを搭載した83年1月に発売されたAppleのLisaにはパッケージソフトウエアがほとんど揃わず、且つ9,995ドルと価格が高かったこともあり大量に売れ残り、またMC68020を搭載した84年4月に発売されたMacintosh(2,495ドは大々的な宣伝の効果もあり発売当初こそ売れたもののなかなかパッケージソフトが揃わず直に売り上げは落ち込んでしまう。それでも徐々にMacintoshの性能の高さを生かしたソフトが売り出されたこともあり売上は比較的順調に伸びていく。85年のデスクトップパブリッシングのAldasのPagemakerや90年のAdobeのPhotoshopなどネイティブなMac向けのソフトの販売が進んだ。Appleは互換性より性能を重視して発展してきた企業であるが、それが成功に導いた大きな要因であると言えそうである。
*2 Intelに於いて、試作工場から量産工場への製造移管がやっとスムーズに行なえるようになったのは93年末に操業を開始したアイルランドのDublinの西郊外に新設したLeixlip(FAB10)へのi486とPentiumの製造移管においてであった。この際にCopy Exactlyと称される手法が使われた。
コンピュータ技術の1 Chip CPUへのimplantation
74年に開発されたi8080のTR数は4,800個であった。それに対し10年後の84年に開発されたMC68020のTR数は20万個であった。10年度40倍であるが、半導体の集積度の向上は衰えることなく、ほぼこのペースで現在でも続いている。
70年代中頃の大型コンピュータのCPUのTR数は50万個程度であった。並列的な機構が増えたため80年代末にはかなり増えるがそれでも1,000万個程度であった。BIPのECL回路が使われ、ECLは高速ではあるが発熱が高く集積が困難だった。微細化の進展によるCMOSの高速化によりECLは優位性を失っていき、90年代半ば頃には大型コンピュータのCPUもCMOS化されていく。BIPの高速化技術は過去の遺物となってしまう。当初こそ、大型コンピュータのCPUのCMOS化はMulti-chip構成であったが、直にOne-chip化され、それも汎用のRISCをベースにしたものに移行し、パソコン用CPUなどと特に差異はなくなっていく。違いと言えば、並列化(クラスター化)により性能を高める方式のためピン数(バンプ数)がパソコン用CPUの場合は数百本程度なのに対し、数倍多かった点、その為の実装が特殊となる点、および水冷などの冷却を要したこと、及び価格がけた違いに高かったことなどを除けば、パソコン用CPUと基本的には差異は少ない。
ミニコンの1 Chip CPU化
ミニコンの1chip化の動きは既に60年代末より始まっていた。70年にはi4004に先立ちGarrett AiResearchが20ビットCPUのCADC(MP944)の開発に至っている。1 chipとは行かないまでも小型・軽量化が求められる航空宇宙関連ではICを使い幾つかのコンピュータが製作されていたようだが、それらも製造技術の進歩により必然的に1 chip CPUに至るものだったようである。民間でも、69年のFour-Phase Systems社の8ビット×3のビットスライスの24ビットCPU(8ビット単体でも機能する)を搭載したAL-1があった。
Intelではi4004に若干遅れて、Computer TerminalCorporation(CTC)のDatapoint 2200用に8ビットCPUのchipセット(i8008)の開発を進めるが、TIはIntelより早く完成させることになる。但し、速度面で劣っておりDatapoint2200には採用されなかった。1 chip CPU開発の難点は性能的に劣ることに加え、数量の少なさであった様だ。開発負荷が大きい割にはほとんど数量が出ないため、半導体メーカーにとっては航空・宇宙関連を別にすればあまり旨みは無かった様だ。
これに対し、ミニコンのアーキテクチャーをベース*1にした汎用のCPUが70年代半ばに開発されていく。DECのPDP-8 (65年)を1 chip化した12ビットのIntersil IM6100(75年)、TIのミニコンTI990(75年)を1 chip化した16ビットのTMS9900*2(76年)、 Data General(DG)の Nova(69年)を1 chipしたFairchildの16ビットF9440(77年)などが代表的と言えそうである。但し、速度の面で劣っておりDECのPDP 11/03(Western Digitalの汎用の16ビットのMCP-1600搭載)など下位機種のミニコンに汎用のCPUが採用されることがあった程度である。
一方、日本では75年のパナファコムの16ビットのPFL-16((MN1610)などの1 chip CPUが開発されていたが、米国と異なり、オフコン(ミニコン)メーカーが半導体メーカーでもあり、ほとんどが社内ユースであり、一般に販売されたものは少なかったが、自社製オフコンなどに搭載するために開発されていた。商用計算や帳票処理などが主体であり高速性はそれほど求められなかった。代表的なのは富士通のCMOS 10,000ゲート(4万TR程度)の16ビットCPU MB8830で、これは79年に発売されたVシリーズに搭載されていた。
80年代に入るとLSIの集積度が向上、CMOS(電力速度積がNMOSに比し著しく低い)による高速化により、同世代のミニコンを1chip化することが可能なレベルまで達っし、更に半導体の集積度(速度)向上はミニコンの性能向上を上回るペースで続いて行く。いずれはメインフレームの中型クラス、更には大型クラスさえ上回ることが予想されていた。90年代中頃には大型メインフレームもCMOS CPUベースとなって行く。また、CPUのアーキテクチャーは70年代半ば頃よりコンピュータ技術からの影響を強く受けるようになり、開発もコンピュータに対しては素人的な半導体技術者から、コンピュータサイエンス系の技術者が中心になって行く。
83年1月にはAppleがMC68000搭載のLisaを発売しパソコンの32ビット時代が直に到来するかと思われた。DECなどのミニコンメーカーや、Intel、Motorola、Zilogなどの半導体メーカーも高性能CPUの開発をめざした。また、大型コンピュータ―のCPUの1 chip化を目指す動きが早くも70年代後半には出てくる。75年にAmdallをスピンアウトしたFred BuelowやJohn ZasioらがMicrotechnology Corpを設立し、CMOS技術を使いOne Chip Mainframe Computerの開発を試みる。少し早すぎたのか上手くは行かずMicrotechnology Corpは79年に英STC(Standard Telephone & Cables)に買収される。Buelowと Zasioは90年代に入りHal Computerで64ビットRISC CPUのSPARK 64の開発を主導することになる。
*1 ミニコンの1chip化は半導体メーカーがミニコンメーカーの了解なしに開発したものであり、ミニコンメーカーに訴訟を起こされたりすることもあった。FairchildのF9440およびF9445(ミリタリー規格1750準拠)はDGから訴訟を起こされFairchildが52百万ドルをDGに支払うことで86年に和解している。
*2 TIのTMS9900は79年6月に発売されたTIの16ビットパソコンTI-99/4(価格1,150ドル)、その後継機種である81年6月に発売されたTI-99/4A(525ドル)に搭載されている。TI-90/4は16ビットパソコンとしては世界初である。99/4Aは81年6月に発売され84年3月までに280万台販売されており、81年8月に発売されたIBM PCを数量的には上回っており82年の世界シェアは99/4Aが13.9%に対してIBM PCは3.2%に過ぎず、特にコンシューマー市場では99/4AやCommodoreのVIC-20や64に圧倒されIBM PCはほとんど売れず、想定に反しビジネス用がほとんどであった(IBM PC売上台数81年35千台、82年240千台)。
99/4Aはほぼ同時に発売された8ビットのCommodore VIC-20(生涯250万台)、および後継の82年8月発売の8ビットのCommodore 64(1700万台)と激しい競争を行い一時は互角に戦っていた。TIは積極的な価格攻勢に出ている。価格推移を見ておくと:―
TIの99/4Aは81年6月 525ドルで発売、ほぼ同時期にCommodoreがVIC-20を299.95ドルで発売する。対抗のため99/4Aは年末には449.95ドルに引き下げられる。82年末に99/4AおよびVIC-20が共に200ドルまで下げられる。そして83年4月には共に100ドルまで引き下げるという激しい価格競争を行う。
共にいわゆるRazor & blade modelの商法であり、本体はロスでもアフターマーケットで回収できれば良いのだが、TIはそもそも16ビットであり本体の原価は高く、また周辺機やソフトの売上は思うようにはいかなかったようだ。83年は半導体の好況時であったにも関わらず、TIは第二四半期(4-6月)に▲119.2百万ドル、第三四半期にも▲110.8百万ドルの損失を計上し、10月にはパソコンビジネスからの撤退を発表する。83年にTIはパソコン事業で▲660百万ドルの損失を出したと云われる。83年は半導体が好景気で有ったものの、TIは結局、年間で▲145百万ドルのロスを計上することになる。TIはゲームソフトを自社開発品およびライセンス供与したサードパーティーを抱え込む方式を採っていたが、パソコンの設置台数がクリティカルマスを超えることが必須でありパソコンの拡販を積極的に行ったが、MCS6502系で開発されていたソフトのTMS9900ベースのパソコンへの移植はそもそも厄介であり、ソフトが少なすぎた上に、特にビジネス用のWardstarやVisiCalkなどの人気ソフトがほとんど移植されなかったため、ビジネス用の周辺機器であるプリンターなどの売上も期待外れであり、結局はゲーム市場の崩壊もあって多額のロスを出し撤退に追い込まれる。
一方、Commodoreは82年(6月が決算期であるが比較の為暦年に組み替え)の売上459.9百万ドル、純利益67.4百万ドルから、83年には売上1,042.3百万ドル、純利益126.1百万ドルと売上利益とも倍増するなど絶好調だった。
Atariを崩壊させ、TIのパソコン事業を破綻に追い込み1人勝のCommodoreであったが、翌84年末頃から業績は変調をきたす。ゲーム専用機におけるソフトの価格崩壊がパソコン用ゲームソフトにも波及したためと思われる。
Intel i80286と Motorola MC680x0
83年3月にIBM PC XTが発売される。その際にXT/370と言うPC XTとしても使え、且つ、メインフレームコンピュータの端末、および、メインフレームから中・小規模のアプリケーションソフトならXT/370のメモリーにロードし、エミュレーションして使うことができる機種が発売された。XT/370にはPC XTに対し2個のMC68000が搭載された基板などが追加されていた。価格は12千ドル程度だった。DRAMを追加で512kバイト搭載していたが、これはIBMの74年に発売された小型機370/125の主記憶は96k~128kバイトでありそれを超えていた。処理スピードはかなり劣るとは言え、XT/370はクライアント機としては十分な機能を備えていた。後のSAAの前駆と言えそうである。
そして、Sun Microsystemsが83年11月にMC68010*1、DRAM 4Ⅿバイトを搭載したSun-2/120(価格29,300ドル)、DRAM 8BのSun-2/160(48,800ドル)などSun-2シリーズ*2を発売する。8Ⅿバイトのメモリー容量と言うのは、IBMが75年に発売したフラッグシップとも言える大型機370/168のメモリー容量に匹敵した。Sun-2はメインフレームによる集中処理から分散処理への移行、およびUNIXシステムによるクライアント・サーバーへの移行が進みだす。
MC68000は24ビットアドレッシングによって最大16Mバイトのメモリー(ROMやVideo RAMを併せ)を使える。8ビットのi8080などが最大64kバイト*3であったのに対し512倍の容量だった。桁違いに大きかったものの、DRAMのビット価格の級数的な低下により、MC68000の膨大なメモリー容量を使いこなすEWS*4が誕生する。CPUの性能向上のみではなく、DRAM価格の級数的な下落(2年で半額)やHDDなどの下落がもたらしたものであった。HDDは標準で42Ⅿバイトであったが、380Mバイトまで拡張できた(IBM370/168のHDDの基本構成は317.5Mバイト)。
MC68000は32ビットCPU*5として79年9月に開発された(発表79/9、サンプルXC68000の出荷80/2、量産MC68000の出荷80/11)。8ビットのMC6800との互換性は無いが、その後開発されるMC68020などはMC68000との互換性が強く意識されて開発されている。MC6800と同様にDECのPDP-11のアーキテクチャーの影響を受けていると云われ、命令セットアーキテクチャなどPDP-11と同様にUNIXとの親和性が高かったと云われる。
一方、Intelはi8086/88に続き82年2月にi80286(TR数134,000個とi8086/88の29,000個の4倍超)を開発するが、パイプラインや仮想記憶などを取り入れ16ビットCPUとは言えかなり高度なものであった。然しながら、IBM PC/ATやその互換機で使われる限りはMS-DOSがi8086/88用でありi80286の能力を使い切れていなかったため、MC68000搭載機の方が性能を大きく上回っていた。また、85年10月に開発されたi80386(TR数275,000個)は32ビットとはいえ、16ビット版のMS-DOSやWindowsが使われる限りは単に16ビットCPUの高速版と言う以上の機能は無かった。その為か、MicrosoftのExcelでさえ85年9月にはMac版(MC68000搭載)が発売されるが、IBM PC(及び互換機)に移植されるのは87年10月に発表されたWindows 2.0まで待つことになる。Intelの32ビットCPUがその機能を十分に発揮*6できるようになるのは、93年7月のWindows NT3.1(EWS用)および95年のWindows 95(PC用)まで待たねばならなかった。
*1 MC68010はMC68000に対して仮想記憶やエミュレーション機能等を強化(仮想マシーン)したもの。
*2 Sun Microsystemsが82年5月にMC68000を搭載したSun-1を発売する。販売台数は200台弱に過ぎなかったと云われる。性能的にDECのVAXに比べるとかなり見劣りした。256kバイトのメモリーを搭載(最大4Mバイトまで拡張)し価格は8,900ドルだった。
MC68000搭載機種は第一世代(80年~)のEWSと言われ、当時、性能の基準とされたVAX 11/750に対し0.2~0.3程度に過ぎなかった。
MC68010搭載機種(専用グラフィックプロセッサーも搭載)が第二世代(83年~)、VAX 11/750に対し0.3~1.0程度の性能を持ち、そしてフルの32ビットCPUであるMC68020搭載機種は第三世代(85年~)と云われ、VAX 11/750に対し1~3程度に達し、大抵のCAD/CAM/CAE業務をカバーできる能力に達していた。部品点数の多い航空機や自動車などのDigital Assemblyなどの機械系CAM/CAEを除けばたいていのCADによる設計開発業務は遜色の無いレベルに達してきていた。但し、CADは更に進歩していき第三世代EWSでは直ぐに能力的に不十分なものとなってしまうが。第三世代EWSの時代はDECのVAXに対してLow endからMiddle endと言う位置づけに置かれており、且つ、市場の拡大もありDECの業績も相変わらず好調だった。
*3 i8088は最大1Mバイトメモリー容量を持てた。但し、ROMやVideo RAMで400kバイト程度を占有してるのでRAMとしては最大640kバイト搭載可能。81年のIBM PCに実際に搭載されていたのは16k~256kバイト。
Altairに標準搭載されていたRAMは256バイト、AppleⅡが4kバイト(4kバイト単位で48kバイト程度まで増設可)であった。
*4 EWSはMotorolaのMC680x0と共に急速に進化を遂げて行く。EWSの主要なユースとしては80年代後半においては4~5割がCAD(CAD/CAM/CAE)であったが、CADの場合、EWS以前にはDECやData Generalのミニコンに搭載され、CADソフトベンダーがターンキーシステムとして販売するケースが多かった。80年代始め頃はDECのVAXシリーズが代表的であった。一方で、CADAMやCATIA(両方とも主にIBMが販売)などのメインフレームCADがあった。
*5 厳密な意味での32ビットCPUの定義としては、内部処理32ビット、32ビットアドレッシング、32ビット外部データバスを持つものであるが、MC68000はそれぞれ32ビット、24ビット、16ビットであるので、32ビットCPUとしてはかなり不完全なものであり、16ビットCPUとも言えそうである。84年に開発されたMC68020になって、内部処理32ビット、32ビットアドレッシング、32ビット外部データバスとなり完全な32ビットCPUとなる。尚、TR数はMC68000が約7万個(68,000個と言われるが実際には7万個程度あった)に対しMC68020は20万個である。
*6 MS-DOSベースのi80386(DX)搭載パソコンの機能は限定的であったが、UNIX系のOSを搭載したi80386ベースのEWSはコストパフォーマンスが高くSun MicrosystemsのSUN386i などに搭載されていた。だが本格的なUNIXが搭載されるのは寧ろ少数派であり、大抵はSanta Cruz OperationのSOC UNIXなど機能を絞ったPC版のUNIXが搭載されていたが、その為かlow endのWS/EWSと言った位置づけに置かれi80386の機能は十分には引き出されてはいなかった。i80386は本来ならMC68020に対抗するものであったが、逆に外部バスを16ビットに落としたi80386SX( MC68000相当)を88年6月に発売され、これが主流となる。
尚、Compaqが86年9月にPC/AT互換機のDesk Pro386(8,000ドル)を発売しているが、外部バス幅の違いを解消するのにかなり苦労したようである。FLEX Architectureという新バスアーキテクチャを開発し、chipセットも独自に開発するなど、騙し騙しであるが、i80386DXを搭載したPC/AT互換機を開発する。当時としては大してi80286と性能差は無かったようだが、翌87年12月発売されるWindows 2.0や90年5月のWindows 3.0によりグラフィカル処理などCPUの内部処理能力の高さが生かされてくると、i80386(SXで十分だが)を搭載する価値が出てくる。
DECミニコンの1 Chip CPU
DECは70年に発売された16ビット機のPDP-11で急成長した。広範なユーザーに使われ、PDP-11のOSはVAXのDOS-11は分化し、それぞれ特定業種向けに細分化され互換性が欠如してしまう。その為、業種を超えて超えて販売されるソフトウェアはそれぞれのOSに移植する必要が有り流通を妨げるという弊害が生じた。75年よりDECはStar(ハード)/Sterlet(OS)プロジェクトが開始される。
78年にDECは32ビット機のVAXシリーズのVAX 11/780を発売する。PDP-11の互換モードを備え、PDP-11からのソフトウェア資産の継承を図った。価格レンジで1000対1に及ぶ大型からデスクトップまでのシリーズ全体に対し、唯一のOSであるVMSで対応し、単一アーキテクチャーによるネットワークと分散処理の構築を可能とした。
そしてDECは半導体製造*1に乗り出す。84年2月に32ビット1 chip CPUのMicroVAXⅡ(125千TR、chip面積82㎟) が製造され、翌年これを使ったミニコンMicroVAXⅡは2万ドル弱で売られヒットする。更に87年2月には同じくMicroVAXⅡ CPUを使ってMicroVAX 2000を4,600ドル(最小構成)で販売する。これは生涯に6万台出荷された。MicroVAXⅡ CPUは外販されなかったものの汎用的なCPUとして十分な条件を満たしていた。その後、DECは87年に2.5MIPS(VAX-11/780の2.5倍の能力)のCVAX(180千TR、94㎣)、更に89年に7MIPSのRigel(320千TR、146㎟、35~43ⅯHz)、90年には11MIPSのMariah(Rigelを改版、55~71MHz)、91年には50MIPSのNVAX(1,300千TR、237㎣、62.5~83.3MHz)を開発する。
そして86年よりVAXの後継システムとしてPrismプロジェクトがDave Cutlerをリーダーとして開始される。CPUはRISC 64ビットのMicro Prism、OSはMICAと名付けられた。しかしRISCプロセッサーの独自開発からMIPS Computer SystemsのMIPSプロセッサー採用に方針を転換する。Dave Cutlerは88年10月にMicrosoftに移りWindows NT*2開発の責任者となる。93年7月にWindows NT3.1として発売される。一方、Micro Prismは後にHudsonの半導体グループが開発を再開し、92年にRISCのAlpha21064(1,680千TR、234㎣)として完成される。
*1 DECの半導体工場はマサチューセッツ州Hudsonに建設された。81年末より操業が開始され、92年には4億ドルをかけ拡張された。DECがIntelを訴えた特許訴訟の和解条件として97年にIntelに7億ドルで売却され、IntelのFAB17として2014年まで稼働。
尚、Mostekの創業者であるRobert Palmerが85年にDECに移り半導体部門のトップとなり、92年にはDECのCEOとなる。
*2 Windows NT、略してWNTはVMSのそれぞれの文字を1文字づつずらすとW→V、M→N、S→Tとなり、VMSの後継を意識して名付けられたようである。
DECの凋落(ミニコンからEWS、更にはパソコンへ)
DECの業績(6月期決算)を見ると、90年頃に失速してしまう。それは、DECの1 chip CPUの開発の進展と軌を一にするかのように業績が悪化していく。
一方、DECに替わるかのように、80年代初期に創立されたUNIX系のEWSメーカーが急成長して来る。
コンピュータ産業史の観点でDECを見るなら、ミニコンピュータを半導体技術、ソフトウエア、通信技術の進歩と歩調を合わせ高度化させ、対話型計算システム、ネットワーキング、分散処理というパラダイムを打ち立て、メインフレームコンピュータに対し破壊的なイノベーションと言う技術水準まで高めることに成功したといえそうである。コンピュータサイエンスの最先端、例えばBell研やMIT、StanfordやUCBerkleyなどの研究機関などでデファクトとして利用されていたコンピュータはIBMのメインフレームではなく、DECのミニコンであった。
69年にBell研のKenneth ThompsonとDennis RitchieによりUNIXが開発されるが、それはDECのPDP-11(当初はDP-7)の為のproprietaryなOSとさえ言え、PDP-11に対するハード依存性が極めて高かった。UNIXの改良・拡張が続き、ハード依存性の高いアセンブリー言語からC言語に書き換えられるなど、徐々にPDP-11への依存性を低下させ、78年にはInterdata社*1のミニコンへ移植されるなど、新たな展開が始まる。
MotorolaのMC680ⅹ0(更にはRISCプロセッサー)とUNIXの組み合わせはEWSへの参入をかなり容易にした。日本でもコンピュータ系の6社に加え、松下、ソニー、シャープ、更に住友電工はMIPS Computer SystemsとスーパーワークステーションSシリーズの共同開発を行い参入する。それらに加え、直接参入ではないが、久保田鉄工はMIPS Computer Systemsの筆頭株主(2位はDEC)であり、且つ、Ardent Computerを傘下に持っていた。また日本鉱業がGouldのコンピュータ部門を 11億ドルで買収している。その他、新日本製鐵がConcurrent Computer(旧Interdata)と合弁の販売会社コンカレント日本を設立、川崎製鉄がCharles River Systemsのコンピュータを輸入販売、旭化成工業が旭テクノコンピュータを設立しStellarの販売代理店となるなど、80年代後半には様々な企業がEWSにビジネスチャンスを見出す。そうした中、DECは築き上げてきた優位性の多くを喪失し始める。
そして93年7月のWindows NT3.1(EWS用)、94年9月にはWindows NT3.5、および95年8月にWindows 95(PC用)が出荷される。ほぼNT3.1/3.5から95の出荷に至るまでの時期に一斉にUNIX(EWS)版のアプリ、特にCADソフトなどはNTおよび(未出荷)の95に移植されている。NTと95の共通機能を使い両OSに対応させるというのが一般であったと思われる。95の出荷される半年ほど前から95対応のアプリ(95 Ready*2)が既に出回っていた。それも当初は”とりあえず動く”程度で移植されたものも多かったようで、UNIX版に比べると処理速度が極端に低下するものも多かった。この低速と言う問題は単にアプリ側の作り込みの問題が主であったようだ。
これらのCADソフトもUNIX版では大した差異が無かったと思われるものがWindows NT版では大きな差異が生じていた。富士通のICAD/SXにしても高速のUNIX版に慣れたユーザーから見ればどうにか使える程度だったと思われる。当時,富士通のICAD/SXは富士通製のEWSでは速度が十分では無かった様で、Sun MicrosystemsのEWSに全面的に切り替えられターンキーシステムとして販売されていたが、かなりの処理速度が求められていたようだ。95が販売されるようになるとICAD/SXは急速にEWSからパソコンに切り替わっていた。Windows95が95年8月、そして95年11月にはi486(89年4月発売)に比べクロック周波数が3倍近いPentium Pro(150~200MHz)がリリースされており、ICAD/SXの場合にはPentium Pro 搭載版ならEWSと比べて特には遜色の無いレベルに達したものと思われる。これにより、主記憶やHDDの増設等をすると200万円程度のUNIX EWSから主記憶やHDDを増設しても数十万円程度のパソコンがCADのプラットフォームとなって行く。このEWSからパソコンへの移行によるハード価格の低下は同時にCADソフトの価格低下を引き起こしている。当時、UNIX版のCADソフトの場合、200万円程度が中心価格帯だったと思われるが、パソコン版の場合は当初100万円程度に価格設定がなされている。ハードとのセットでUNIX版が400万円程度だったのがパソコン版は150万円程度に下がり、価格弾力性の高い新規市場*3が大きく広がり、且つAuto CAD等の既存のパソコンCADとの競合もあり、そうした価格設定がなされたようだ。
初期的にはCADソフトにおいては、ICAD/SXなど一部のみがWindowsへの対応(Windows ǹative)ができたのみでであろうが、数年で特にクライアントに関してはパソコンへの移行がかなり進んでいく。Sun Microsystemsも90年代末までは好調を維持Sじていた。
*1 Interdata社は1966設立。73年に半導体露光装置メーカーのPerkinElmerに買収される、そのコンピュータ部門となるが、85年にConcurrent Computer として分社・独立し、86年にNASDAQに上場される。
IBM System 360に似たマイクロコードアーキテクチャーを採用しており、アーキテクチャー的にはDECのミニコンの対極に位置している。74年に世界初の32ビットミニコンであるInterdata 7/32をDECに先駆けて発売する。翌75年には7/32を発売するが、77年にオーストラリアのWollongong大学(7/32)やBell研(8/32)によってこれらにV6 UNIXが移植され、DECのPDP以外で初めてUNIXが稼働することになる。直に、同系統のアーキテクチャーであるIBMメインフレームやその互換機であるAmdahlや富士通のメインフレームへも移植されUNIXは一挙に大型メインフレームコンピュータからミニコンに至る共通OSへと進化を遂げることになる。また、Bell研はUNIXのソースプログラムを公開しており、またUC BerkleyのBSD版は無償でライセンスされUNIXはOpen且つFreeなOSとして流通・発展していく。
*2 リストに挙げられた6種のCADの内、ICAD/SXはWindows 95に先立って開発(95年1月と思われる)されるが、既に95年8月にリリースされるWindows 95に対応していた。他の5種のWindows95への対応に関しては不明だが、そもそもWindows NT3.5にさえ十分に対応しているとは言い難い様なレベルのものが多い。
*3 パソコンCADの新規市場としては、それまで導入が限定的であった中堅中小企業への裾野の広がりに加え、既存の大企業等のユーザーにおいても、部門で共有化されていたものが価格低下によりパーソナル化が進んでゆく。また、既に設置されているのパソコン(Windows 95以降)などにもCADソフトがインストールされるが、これらは一般に使用頻度の低いため、料金体系の異なるネットワークライセンス(接続端末数や同時使用数の制限による料金体系)などの比率が増えたりしており、販売数の数え方自体が曖昧化したりする。
CADソフトの場合、図面資産(過去に作成されたづ面を基に流用設計されるケースが多い)の蓄積が進み、これを継承することが必須であるが、ハードやOSが変わっても同一のCADソフトなら特には問題無く、メインフレームやミニコンからEWSへの移行、更にはパソコンへの移行はスムーズであったようだ。但し、他のCADソフトへの移行に関しては、大抵の図面資産は容易に変換できるとは言え、様々なオプション機能や業種毎の特殊機能、更にCAMやCAE機能などもリンクしており、他のCADシステムへの移行は簡単では無いようであり継続性が強いと言える。
それに比べると、OSやCPUなどに対する異存はほとんどないとさえ言えるのかもしれない。ICAD/SXを見ると、敢えて自社製(富士通)のEWSを捨て、ライバルとも言えるSun MicrosystemsのEWSに切り替えているが、CPUも異なり、OSもUNIX系とは言えSolarisに切り替える(最適化しフルに性能を引き出している)のはそれほど容易では無かったと思えるが。そして、Windows 95には実質的には一番乗りの様である。CADソフトのプラットフォーム(ハード・OS)の動向を見ると、コンピュータ産業における継続性重視と言うのはほとんど意味をなしていない様にさえ思えるほどである。そんな拘りはそもそも皆無であり、性能が十分であるなら、コストパフォーマンスの良いライバルメーカーのハードでさえ、敢えて多大な開発費をかけてでも移行してしまう様である。MC680ⅹ0とともに発展を続けてきたEWSは、より優れたMIPSやSPARCの登場により、あっけなくMC680X0を見捨ててしまう。そして、MIPSやSPARCも直に見捨てられてしまうことになる。80年代後半から90年代末までの間にコンピュータ業界は大きな変革の時代を迎えるが、CADの動向を見ると理解し易い様である。
尚、ICAD/SXは2020年11月にiCAD SX V8を販売開始しているが、これは300万部品の大規模な機械装置の3次元データを0.2秒で処理する性能を実現するなど、世界最高速の様であり、相変わらず高速な様である。
CISCとRISC
RISC (Reduced Instruction Set Computer)はIBMのJohn Cockeによって74年に考案された。これは多くの命令のうち実際に高い頻度で使われているのは限られた命令に過ぎないことに着目したものである。一般に20/80ルール(いわゆるパレートの法則)と云われるもので20%の数の命令が80%の処理に使われ、数多くの追加された命令はかなり限界効率の悪いものであり、よって、命令セットを使用頻度の高い20%の命令に制限し、それをhardwired logicで実装し高速処理を行い、他の80%の命令は実装した命令を組み合わせて実行することによって、全体としての処理速度は向上*1するというものである。
一方、microcode方式を採るCISC (Complex Instruction Set Computer)はアセンブラーレベルの命令セットを持ち、1命令のアセンブリコードで高度な処理を行えるが、その分プロセッサ内の回路が複雑になり、当初、回路の単純化の為に採用されたマイクロプログラム方式は逆効果となって来ていた。また命令を実行するために必要なサイクル数(クロック数)が増加するほか、microcodeを解釈・実行するための負荷も大きい。しかしアセンブリ言語で記述する場合*2、高機能命令は一つの処理を記述するのに必要な命令数が少なくソフト開発の高率が高まる。またCPU開発において回路設計とmicrocode作成を分離でき、それぞれ独立に作業を進められ、ハードのバグ修正もmicrocode変更というソフトの修正(ハードのバグにソフトによってパッチをあてる)のみで済むため柔軟に対応できる。そのためもあって、互換性を維持しながらの機能拡張が容易であるなどメリットがある。
現在では純粋なCISCはほとんど無く、93年に発売されたIntelのPentiumにしてもx86命令を直接実行するのではなくRISC風の単純な命令に分解してから実行する方式となっており、x86アーキテクチャーを継承しながらハード性能を高めRISCに対抗できる性能を実現している。
*1 特にIBM system 360以降(60年代半ば以降)は、マイクロコード(プログラム)方式が大型機からミニコン、更にはマイクロプロセッサーにまで主流となってきていた。命令をマイクロシーケンサで逐次解釈・実行する為、コンピュータの中にさらにナノコンピュータがあるような構造(プログラマから見える命令セットとCPUの間に中間的な処理の層が介在)となっている。
マイクロコードをROM等に追加することによって、比較的容易に新規の命令を実装できたこともあり、命令数は増加の一途をたどっていた。命令数を増やすことにより、1つの処理のために必要な命令数が減少し、ソフトウェアー開発は容易になると考えられていたが、一方で、マイクロコード方式のコンピュータでは追加的な処理を要し高速化の妨げにもなっていた。
一方、命令を使用頻度の高い20%のものに限定し、代わりにhardwired logic(布線論理)で命令を実装することで、命令を高速に実行できるRISCが誕生した。残りの80%の命令に関しては複数の命令を組み合わせて実行するが、これによる追加的な処理時間はそれほど多くなく、むしろ固定長命令や固定的な実行サイクルなどの採用によりパイプライン処理などが円滑化されることもあり高速化が可能になっている。高速化の要因は実際のところ固定長命令によるパイプライン処理の円滑化によるところが大きい。
尚、パイプライン自体は83年に発売されたCISCであるi80286でも既に採用されており、更に93年発売のPentiumではパイプラインの強化と共に、hard wiredでの処理の命令をかなり増やすなどRISC風になって来ていた。半導体の集積度が現代に比べ低かった90年代にはRISCの優位性が顕著であったが、その後はCISCもRISC風になるなどもあり差は無くなっていると言えそうである。一方、RISCはARM(Acorn RISC Machine/Advanced RISC Machines)に引き継がれていると言え、現在ではARM系CPUがIntel/AMD系を凌いでいるとも言えそうである。尚、ARM社はイギリスの電卓メーカーSinclairを起源とする会社であり、Appleに見いだされ発展のチャンスを掴んでいる。現在はソフトバンクグループHDの傘下にある。
パソコンの32ビット化の遅れ
MC68000(内部処理32ビット、外部データバス16 ビット)が79年に開発されると、それらは先ずAppolo ComputerやSun MicrosystemsなどのEWSに搭載される。続いて83年1月発売のAppleのLisa、84年1月発売のApple Macintosh(84年MC68000→89年にはフルの32ビットのMC68030)、同じくTandy TRS-80 Model 12(83年3月)、Atari ST(85年6月MC68000→90年MC68030) 、Commodole Amiga 1000(85年7月)など主要なパソコンメーカーは80年代半ばには32ビット機を発売する。
そしてMotorolaは84年にMC68020(内部処理32ビット、外部データバス32 ビット)が開発し、一方、Intelも85年には32ビットCPUのi80386(内部処理32ビット、外部データバス32 ビット)を開発する。半導体製造技術の進歩は80年代半ばには既に70年代半ば頃の大型メインフレームコンピュータのCPUを処理速度は遅いとは言え回路的には1 chip化ができる水準にまで達していた。32ビットパソコンの時代が本格化することは、かなり明らかなことであったと思われる。あとは、IBMから32ビット機がリリースされるのを待つだけとも言えた。
IBMは81年8月にi8088搭載のIBM PCを発売する。オープンアーキテクチャーであったため、OSのBIOSの著作権さえクリアできれば容易に互換機を開発できた。Columbia Data Products(82年6月MPC1600)やCompaq(82年11月Compaq Portable)がクリーンルーム方式を使いBIOSを開発しPC互換機市場に参入したのを皮切りに参入が続く。Phoenix Technologiesの様にBIOSを開発し外販*1する会社もあり互換機参入は更に容易になっている。PC/AT(84年8月)の互換BIOSではPhoenixの他にAward Software、AMI、Quadtelなどの参入もあり、互換BIOSの開発・販売競争自体が激しかった様である。
そしてIBMは87年4月にi80386DXを搭載した32ビットパソコンのPS/2 Model 80(9,000ドル)を発売する*2。しかし、これはクローズドアーチテクチャーであり、基本的にIBMのプロプライアタリーシステムであり、既に大きく成長していたPC/ATに対する互換性*3より、寧ろIBMのメインフレームコンピュータからパソコンまでを一貫したアーキテクチャー(SAA: Systems Application Architecture)のもとで統合化を図ったものであった。その為もあって、32ビットコンピューティングの普及は実質IBMが単独で進めることになるが、32ビットOSであるOS/2 2.0の出荷が92年4月と遅かったこともあり、機能を十分に発揮できなかったことや、互換機メーカーが追随できなかったこともあり普及は限定的なものとなり、結局、32ビットコンピューティングはWindows 95が発売されるまで待つことになる。
パソコンの場合、Windows 95以前は基本的には16ビットである。32ビットCPUのi80386が搭載されていても、それは16ビットの高速版(Intel互換CPUメーカーはi80286の高速化で対抗していた)として使われていたに過ぎないと言える。蓄積されたユーザー資産の継承のためハード・ソフトの両面における互換性が求められ、おいそれとは移行できなかったようだ。
*1 Phoenix Technologiesが81年8月発売のIBM PC用の BIOSを開発し外販するのは84年5月とかなり遅れていた。一方、84年8月発売のPC/AT用のBIOSに関しては半年遅れ程度で販売されることになり、AT互換機への参入が早期に始まることになる。
*2 IBMは87年4月に32ビットパソコンPS/2 Model 80の発売時に、16ビット機のModel30(i8086搭載)、Model 50(i80286搭載)なども同時に発売している。但し、OSは16ビットのOS/2 1.0を87年12月、更に32ビットのOS/2 2.0は5年後の92年4月と遅れて出荷される。
*3 PS/2はソフトウェア的にはPC/ATとの互換性を考慮したとはいえ、MCA(Micro channel Architecture)という新しい16/32ビットバスのアーキテクチャを採用したこともあり、既に大きく発展していたPC/AT市場では;―
・PC/ATとハードウェア的な互換性が乏しいこと、
・PS/2はIBMからライセンスを受けざるを得なかったこと、
・PS/2にはIBMが開発したカスタムICなど入手困難な部品(およびモジュール)が多用されており部材調達が困難なこと、
・32ビットコンピューティングの能力を十分に引き出すための32ビットOSであるOS/2 2.0の出荷が92年4月と5年も後であったこと、
・16ビットのi80286搭載のModel 60でディスプレイを込むと約7,000ドル、32ビットのi80386搭載のModel 80で約9,000ドルと価格が高かったこと、
・コンシューマー市場で求められていたのは1000~2000ドル程度の価格帯であり、また、高性能が要求されるようなソフトはほとんど無く、表計算やワープロソフトが快適に動けば十分であり、
・PS/2が対象とする市場はIBMのメインフレームを導入している企業向け市場が主体と言え、互換機メーカーにとっては参入しにくいこと、
・既に市場はEWSやPCなどでの分散処理時代に入りつつあり、メインフレーム離れが進んできており、メインフレームコンピュータを中心に据えたとも言えるSAA構想自体が時代にそぐわなくなってきていたこと、
等々、要因を挙げたらキリがないが、PC/AT機からPS/2機への移行は限定的であり、IBMでさえPC/ATへの回帰を進めることになる。
PS/2に対し、互換機メーカー9社(Compaq、Zenith Data Systems、Tandy、HP、Olivetti、日電、AST Research、エプソン、WYSE)により”Gang of Nine”が結成され、PS/2で採用されたMCA規格に対抗してEISA(Extended Industry Standard Architecture)規格が作成される。ただし、これはMCA同様に(以上に)普及するに至らず、ATバスが使われ続けられることになる。
*